サッチャー レーガン フラット化する社会
~新自由主義の再考の手掛かりとして~
-最終更新日:2010年12月12日(日)-
下記は2010年7月に旧ブログに掲載した記事です。端的に申し上げると、この問題を考えるにあたって原因となる思潮を考察した際、新自由主義について再考したものです。読者の皆さんもこの考え方について歴史的にもう一度お考えになっていただけたら幸いです。
【グローバリズムの起爆剤となった「フラット化する世界」】
サッチャー政権における自由主義政策と小さな国家の成功
マーガレット・サッチャー氏は1925年、リンカンシャー州グランサムに生まれました。実家が質素倹約や自己責任・自助努力を旨とする風潮であり、その精神がサッチャー氏に受け継がれたといわれています。また、強い精神力で「鉄の女」と呼ばれ、サッチャー氏の代名詞となりました。
サッチャー氏は1979年に首相に就任し、財政再建が必要といわれたイギリスにおいて、小さな政府と自由主義経済政策で建て直しを図りました。そのときの主な政策として、電話会社・ガス会社など各種国有企業の民営化や規制緩和、法人税の引き下げなどが挙げられます。
この政治スタイルはサッチャリズムと呼ばれ、他の国で財政再建が必要な状態になったときに、行政コストを削減して国家を建てなおす手法として模倣されることになります。1980年に米大統領に就任したロナルド・レーガン氏や、1984年にカナダ大統領に就任したカナダのマルルーニー首相などがこれに続くことになります。日本においても、1982年に中曽根康弘氏が首相に就任した後に行政改革や国鉄分割民営化などが進められています。中曽根氏は、2003年まで86歳という最高齢まで議員を勤められています。
この「行政コストの削減」という課題は、財政再建が叫ばれている現在の日本に強く共通します。
グローバリズムにおける新自由主義と小泉首相
小泉純一郎氏は、横浜権横須賀市に1942に生まれです。慶応技術大学卒業後、福田赳夫氏の書生を経て1972年に衆議院議員として初当選し、以降は連続当選しています。小泉氏は、総理大臣就任までに三期厚生大臣を勤め、郵政大臣も勤めています。その後、小泉氏は2001年4月に総理大臣に就任しますが、1980日という在任期間は歴代3位であり、就任当初の86.4%という支持率は歴代最高となります。個人的には現在の選挙制度でこの支持率は超えられないのではないかと思っています。
このとき、世界はグローバリズムへと強く舵を切っていました。小泉首相の政治スタンスも新自由主義と呼ばれる自由主義経済を志向するもので、世界全体が同一の方向へと向かい、強い競争が行われることになります。
このときのグローバル化は、このような現象それ自体が人類始めての動きのようなもので、世界的に大きな変化が様々な分野で生じました。そのときの動きを大きく表した書籍として、トマス・フリードマンの「フラット化する世界」が挙げられます。この書籍によると、グローバリズムとは国境を越えて資本の流動が可塑的に行われる現象で、社会にも大きな変化をもたらします。例えば、このように財の流通が頻繁に行われることによって、国境の概念が希薄化します。また、そのために、国家が経済に果たす役割も小さくなります。したがって、この時代はもっとも国家という概念が小さいものとして国境がボーダレスになった時代といえます。
この書籍は、グローバル化を非常に理論的に表現した書籍として世界的に販売され、ニューヨークタイムズ紙でベストセラーとなりました。このグローバリズムと新自由主義は世界的な傾向であり、前にも申し上げましたが、これに遅れることは国際競争に負けることでもありました。言ってみれば、この流れは世界的なものであり、歴史の必然であったといえると思います。
このように、簡単に自由主義経済とは何かを追ってきましたが、現在の日本でも先進諸国としては群を抜いた赤字国債発行額となっており、財政再建が急務といわれています。そのためには、経済成長を前提とした財政再建計画が必要であり、そのためには経済の自由主義的な考え方が必須となります。前述しました社会基盤の回復と同時に、このような経済の発展を考慮してバランスをとることが、日本の未来にとって重要ではないでしょうか。
ロナルド・レーガン大統領主演の映画「勝利への潜航」
レーガン大統領が元映画俳優だと聞いて、検索してみたらいとも簡単にこのようなDVDが表示される時代が来たものです。前々から気になっていたのと安価なので思わず筆者も購入しています。それにしても、アメリカは映画俳優を大統領にしてしまうというなんというアメリカンドリームに満ちた国なのでしょうか。その大統領が歴代大統領としても小さな国家を目指して相当な業績をあげた大統領と愛されている訳で、アメリカの恰幅の良さが表れているDVDでしょう。
池田信夫氏による新自由主義の巨匠、ハイエクの入門書
マーガレット・サッチャーはじめ新自由主義の政治家の理論的支柱となっているハイエク。池田信夫氏のこの書籍は経済学入門として非常に読みやすかったのを覚えています。ケインズ主義が隆盛している中で、ハイエクが孤独に自由主義経済の理論を貫いて現代に認められる過程がわかりやすく記載されています。現在でもわかりやすい色褪せない入門書です。
(以上、2010/12/12追記分)
-最終更新日:2010年12月12日(日)-
下記は2010年7月に旧ブログに掲載した記事です。端的に申し上げると、この問題を考えるにあたって原因となる思潮を考察した際、新自由主義について再考したものです。読者の皆さんもこの考え方について歴史的にもう一度お考えになっていただけたら幸いです。
【グローバリズムの起爆剤となった「フラット化する世界」】
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サッチャー政権における自由主義政策と小さな国家の成功
マーガレット・サッチャー氏は1925年、リンカンシャー州グランサムに生まれました。実家が質素倹約や自己責任・自助努力を旨とする風潮であり、その精神がサッチャー氏に受け継がれたといわれています。また、強い精神力で「鉄の女」と呼ばれ、サッチャー氏の代名詞となりました。
サッチャー氏は1979年に首相に就任し、財政再建が必要といわれたイギリスにおいて、小さな政府と自由主義経済政策で建て直しを図りました。そのときの主な政策として、電話会社・ガス会社など各種国有企業の民営化や規制緩和、法人税の引き下げなどが挙げられます。
この政治スタイルはサッチャリズムと呼ばれ、他の国で財政再建が必要な状態になったときに、行政コストを削減して国家を建てなおす手法として模倣されることになります。1980年に米大統領に就任したロナルド・レーガン氏や、1984年にカナダ大統領に就任したカナダのマルルーニー首相などがこれに続くことになります。日本においても、1982年に中曽根康弘氏が首相に就任した後に行政改革や国鉄分割民営化などが進められています。中曽根氏は、2003年まで86歳という最高齢まで議員を勤められています。
この「行政コストの削減」という課題は、財政再建が叫ばれている現在の日本に強く共通します。
グローバリズムにおける新自由主義と小泉首相
小泉純一郎氏は、横浜権横須賀市に1942に生まれです。慶応技術大学卒業後、福田赳夫氏の書生を経て1972年に衆議院議員として初当選し、以降は連続当選しています。小泉氏は、総理大臣就任までに三期厚生大臣を勤め、郵政大臣も勤めています。その後、小泉氏は2001年4月に総理大臣に就任しますが、1980日という在任期間は歴代3位であり、就任当初の86.4%という支持率は歴代最高となります。個人的には現在の選挙制度でこの支持率は超えられないのではないかと思っています。
このとき、世界はグローバリズムへと強く舵を切っていました。小泉首相の政治スタンスも新自由主義と呼ばれる自由主義経済を志向するもので、世界全体が同一の方向へと向かい、強い競争が行われることになります。
このときのグローバル化は、このような現象それ自体が人類始めての動きのようなもので、世界的に大きな変化が様々な分野で生じました。そのときの動きを大きく表した書籍として、トマス・フリードマンの「フラット化する世界」が挙げられます。この書籍によると、グローバリズムとは国境を越えて資本の流動が可塑的に行われる現象で、社会にも大きな変化をもたらします。例えば、このように財の流通が頻繁に行われることによって、国境の概念が希薄化します。また、そのために、国家が経済に果たす役割も小さくなります。したがって、この時代はもっとも国家という概念が小さいものとして国境がボーダレスになった時代といえます。
この書籍は、グローバル化を非常に理論的に表現した書籍として世界的に販売され、ニューヨークタイムズ紙でベストセラーとなりました。このグローバリズムと新自由主義は世界的な傾向であり、前にも申し上げましたが、これに遅れることは国際競争に負けることでもありました。言ってみれば、この流れは世界的なものであり、歴史の必然であったといえると思います。
このように、簡単に自由主義経済とは何かを追ってきましたが、現在の日本でも先進諸国としては群を抜いた赤字国債発行額となっており、財政再建が急務といわれています。そのためには、経済成長を前提とした財政再建計画が必要であり、そのためには経済の自由主義的な考え方が必須となります。前述しました社会基盤の回復と同時に、このような経済の発展を考慮してバランスをとることが、日本の未来にとって重要ではないでしょうか。
ロナルド・レーガン大統領主演の映画「勝利への潜航」
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レーガン大統領が元映画俳優だと聞いて、検索してみたらいとも簡単にこのようなDVDが表示される時代が来たものです。前々から気になっていたのと安価なので思わず筆者も購入しています。それにしても、アメリカは映画俳優を大統領にしてしまうというなんというアメリカンドリームに満ちた国なのでしょうか。その大統領が歴代大統領としても小さな国家を目指して相当な業績をあげた大統領と愛されている訳で、アメリカの恰幅の良さが表れているDVDでしょう。
池田信夫氏による新自由主義の巨匠、ハイエクの入門書
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マーガレット・サッチャーはじめ新自由主義の政治家の理論的支柱となっているハイエク。池田信夫氏のこの書籍は経済学入門として非常に読みやすかったのを覚えています。ケインズ主義が隆盛している中で、ハイエクが孤独に自由主義経済の理論を貫いて現代に認められる過程がわかりやすく記載されています。現在でもわかりやすい色褪せない入門書です。
(以上、2010/12/12追記分)
東ドイツの文化と歴史を再評価する
~東ドイツが輩出した名指揮者と近年の東への郷愁という事態から考察する~
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
今回の記事も旧ブログからの修正なしの掲載です。東ドイツの負の側面を取りあげましたが、人間の存在など否定できるわけがありません。それは新たな負のスパイラルを生みます。その観点から、東ドイツの誇る文化などを前記事の延長線上にとりあげたいと思います。
集団ストーカー問題を書籍から考える(2)
このコーナーは、この問題を出版されている書籍から考えようというものでした。しかし、考えているうちに、映画や音楽から考えても面白いと思うようになりました。今回は個人的に好きな下記の指揮者をあげてみたいと思います。
ヘルベルト・ケーゲル(Herbert Kegel, 1920年7月29日 - 1990年11月20日)は、ドイツのオーケストラ・合唱指揮者。
ケーゲルも、テンシュテットも東ドイツの指揮者です。ケーゲルは、1989年10月というベルリンの壁崩壊1ヶ月前にドレスデンフィルハーモニーの指揮者として日本に来日し、NHKのコンサートホールで公演しています。曲目はベートーヴェン・エグモント序曲、交響曲第六番、交響曲第五番、バッハ・アリアです。
この演奏会は、当時はラジオで放送され、演奏会に来た人を含めて、口づてでその噂が広まりました。私もクラシックはよく聞きますが、おおむねネットで買っています。検索でこのCDを調べてみると、評判だったので思わず買ってみました。聞いてみると、「伝説の講演会」というのが分かるくらい、素晴らしい演奏でした。
私はクラシックはそこそこCDを持っていますが、他の名指揮者の演奏と比べてもトップクラスの演奏ではないかと感じています。クラシックは、歴史の大事件が起きたときに、名演奏が行われることが多いと言われています。日本でおなじみのベートーヴェン第九で非常に売れているフルトヴェングラー指揮のバイロイト音楽祭の演奏も伝説的な名演です。
クラウス・テンシュテット(Klaus Tennstedt, 1926年6月6日 - 1998年1月11日)は、ドイツの指揮者。
私は音楽をはじめとする文芸評論は得意ではありません。ただ、いいと思った音楽を聞くだけです。今一番聞く頻度が高いのが、テンシュテットのマーラー交響曲第6番です。
マーラーの交響曲第6番は、同指揮者の最高傑作とわれています。また、「意志を持った人間が世界、運命という動かしがたい障害と闘い、最終的に打ち倒される悲劇を描いた作品」などと呼ばれています。
私はこの曲を自らが置かれた状況を重ね合わせて聞きます。聞く頻度は部分部分ですが1週間に数回ですから、のめり込んでしまっています。この6番は他の指揮者の名演もありますが、私は必ずテンシュテットの演奏を聴きます。マーラーはテンシュテットのライブを聞けば間違いないというくらい、他の交響曲も素晴らしいです。テンシュテットといえば、ロンドンフィルハーモニーでの指揮ですが、楽団との強い信頼関係が結ばれていたと言われ、オーケストラの力を限界以上に発揮していたと言われています。それゆえ、非常に迫力のあるダイナミックなマーラーが多いです。
近年、東ドイツの指揮者の演奏が見直されています。聞いてみるとこんな素晴らしい名演があったのかと驚くくらいの演奏が多いです。皆さんも聞かれてみてはいかがでしょうか。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(補2)
「集団ストーカー」は難しい問題だと思います。というのもこれまで述べてきたように、この問題に関して明確にこれが悪いのだと言えるようなイデオロギーみたいなものがない問題だからです。したがって、先の新自由主義やグローバリズムで補足したように、あることに対して批判したら補足して修正するといった作業が重要になってくるのではないかと思います。
ここで、もう一つ修正したいことができました。東ドイツについて取り上げてきたことです。これを、先ほどは、「集団ストーカー」とよく似た事例として取り上げました。解決には市民の声の突き上げが必要であるとも述べました。ベルリンの壁崩壊は冷戦の中での民主主義の勝利として歴史上に強く残っていますが、ここだけにスポットを当てるのは、逆に誤解を生じさせてしまいかねません。ここでは、「オスタルギー」という現象を取り上げることによって、これまで取り上げてきた東ドイツの事例を修正したいと思います。
「オスタルギー」とは、ドイツ語で「東」を表す”Ost”と、「郷愁」を表す“Nostalgie”の合成語です。ひとことで説明したら、東ドイツが存在した時代や当時の事物への郷愁のことです。
これを表す一つの象徴的な出来事は2009年9月27日のドイツ総選挙です。ドイツは伝統的な二大政党制の国です。この2009年ドイツ総選挙の結果は、二大政党以外の政党の躍進という結果に終わりました。このとき、第四政党である「左派党」“Die Linke”が議席数を54から76に伸ばしました。この「左翼党」はWASG(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)と左翼党-民主社会党”Die Linkspartei.PDS)が2007年に合併したものです。このうち、左翼党-民主社会党は旧東ドイツの政権与党です。この政党が日本でまさに政権交代が行われた直後のドイツの選挙で躍進したのです。
これは、なぜでしょうか。
ドイツは、2005年に行われた総選挙以降、日本と同じように「新自由主義政策」を推し進めてきました。ドイツにおいても、例外なくグローバリズムの波に飲み込まれ、アメリカや日本と同じような市場原理主義の道を選択しました。しかし、これは、「雇用」「年金」「医療」「福祉」などの分野を大きく衰退させることになりました。日本とまったく同じです。これに対して強い怒りを国民が感じた結果が2009年総選挙の結果でした。
これについて、私も日本のニュースで、若者層が「左派党」を支持していることや、東ドイツの地域で貧困層のための低価格の賞味期限切れに近い食料品分配サービスが支持を得ているといったことが報道されていたのを記憶しています。
このように、行き過ぎた市場原理主義が国家の社会的な基盤を疲弊させ、これらの復活を国民が希望するといった流れは世界的なものでした。これは、(補1)において指摘したように、民主主義の衰退という事態をはらむものでした。そして、そのような衰退した民主主義の中で、世界的に「集団ストーカー」が蔓延した。これが、私が現在世界で蔓延している「集団ストーカー」にイデオロギーは関係ないと述べた理由です。「集団ストーカー」を「民主主義の勝利」というパラダイムを内包する東ドイツの事例でとりあげたことが、部分的に間違っていたことになります。これが、修正を必要とする点でした。
最後に付言します。「書籍で考える(2)」において書きましたが、私はクラシックが大好きです。芸術作品に国境やイデオロギーの壁はありません。いいものはいいものです。例えば、テンシュテットのマーラーが強烈な力強さを持っているのが自分は大好きです。テンシュテットのマーラー6番第4楽章を聞いた後に、同指揮者のマーラー第2番5楽章を聞くのが私の癖です。「悲劇的」から「復活」するからです。私が「集団ストーカー」を乗り越えるのに、この音楽は間違いなく強い勇気を与えてくれたと思っています。(車の中で大音量で聴くのが癖です。)
ここからは過去の記事ではありません。2010年9月8日(水)に追記するものです。
上のケーゲルのエグモント序曲は、自分が聴いた同曲の中でずば抜けて一番です。他のどの演奏家よりも上だと感じています。たった10分程度の曲ですが、これだけのために買う価値があるくらいだと思っています。「苛烈」という表現しかできません。
また、マーラー6番「悲劇的」第4楽章には、「ハンマー」という打楽器が使用されます。これは「運命の打撃」と呼ばれています。その名の通り、とてつもない大きな音がします。指揮者の解釈によって、どれだけ強く打撃するか違うようです。
なぜ「運命の打撃」かというと、マーラーの生涯で重要な局面を表現しているからだといわれています。その打撃の回数は、通常2回ですが、奥さんの恣意的な判断によって後世に変えられたりしているようです。初めて聴かれた方は「ドカン」という音がいきなりするので、驚かれると思います。自分はまだ4種類くらいしか聞いていませんが、2004年ベルリンフィル演奏によるアバドの打撃が自分が聞いた中で一番大きいです。
クラシックは、祭典の際に大砲(もちろん空砲ですが)を撃ったり、何百人で演奏したりするものもあります。壮大という意味においては、歴史的にかなうことがない芸術かもしれません。
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
今回の記事も旧ブログからの修正なしの掲載です。東ドイツの負の側面を取りあげましたが、人間の存在など否定できるわけがありません。それは新たな負のスパイラルを生みます。その観点から、東ドイツの誇る文化などを前記事の延長線上にとりあげたいと思います。
集団ストーカー問題を書籍から考える(2)
このコーナーは、この問題を出版されている書籍から考えようというものでした。しかし、考えているうちに、映画や音楽から考えても面白いと思うようになりました。今回は個人的に好きな下記の指揮者をあげてみたいと思います。
ヘルベルト・ケーゲル(Herbert Kegel, 1920年7月29日 - 1990年11月20日)は、ドイツのオーケストラ・合唱指揮者。
ケーゲルも、テンシュテットも東ドイツの指揮者です。ケーゲルは、1989年10月というベルリンの壁崩壊1ヶ月前にドレスデンフィルハーモニーの指揮者として日本に来日し、NHKのコンサートホールで公演しています。曲目はベートーヴェン・エグモント序曲、交響曲第六番、交響曲第五番、バッハ・アリアです。
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この演奏会は、当時はラジオで放送され、演奏会に来た人を含めて、口づてでその噂が広まりました。私もクラシックはよく聞きますが、おおむねネットで買っています。検索でこのCDを調べてみると、評判だったので思わず買ってみました。聞いてみると、「伝説の講演会」というのが分かるくらい、素晴らしい演奏でした。
私はクラシックはそこそこCDを持っていますが、他の名指揮者の演奏と比べてもトップクラスの演奏ではないかと感じています。クラシックは、歴史の大事件が起きたときに、名演奏が行われることが多いと言われています。日本でおなじみのベートーヴェン第九で非常に売れているフルトヴェングラー指揮のバイロイト音楽祭の演奏も伝説的な名演です。
クラウス・テンシュテット(Klaus Tennstedt, 1926年6月6日 - 1998年1月11日)は、ドイツの指揮者。
私は音楽をはじめとする文芸評論は得意ではありません。ただ、いいと思った音楽を聞くだけです。今一番聞く頻度が高いのが、テンシュテットのマーラー交響曲第6番です。
マーラーの交響曲第6番は、同指揮者の最高傑作とわれています。また、「意志を持った人間が世界、運命という動かしがたい障害と闘い、最終的に打ち倒される悲劇を描いた作品」などと呼ばれています。
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私はこの曲を自らが置かれた状況を重ね合わせて聞きます。聞く頻度は部分部分ですが1週間に数回ですから、のめり込んでしまっています。この6番は他の指揮者の名演もありますが、私は必ずテンシュテットの演奏を聴きます。マーラーはテンシュテットのライブを聞けば間違いないというくらい、他の交響曲も素晴らしいです。テンシュテットといえば、ロンドンフィルハーモニーでの指揮ですが、楽団との強い信頼関係が結ばれていたと言われ、オーケストラの力を限界以上に発揮していたと言われています。それゆえ、非常に迫力のあるダイナミックなマーラーが多いです。
近年、東ドイツの指揮者の演奏が見直されています。聞いてみるとこんな素晴らしい名演があったのかと驚くくらいの演奏が多いです。皆さんも聞かれてみてはいかがでしょうか。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(補2)
「集団ストーカー」は難しい問題だと思います。というのもこれまで述べてきたように、この問題に関して明確にこれが悪いのだと言えるようなイデオロギーみたいなものがない問題だからです。したがって、先の新自由主義やグローバリズムで補足したように、あることに対して批判したら補足して修正するといった作業が重要になってくるのではないかと思います。
ここで、もう一つ修正したいことができました。東ドイツについて取り上げてきたことです。これを、先ほどは、「集団ストーカー」とよく似た事例として取り上げました。解決には市民の声の突き上げが必要であるとも述べました。ベルリンの壁崩壊は冷戦の中での民主主義の勝利として歴史上に強く残っていますが、ここだけにスポットを当てるのは、逆に誤解を生じさせてしまいかねません。ここでは、「オスタルギー」という現象を取り上げることによって、これまで取り上げてきた東ドイツの事例を修正したいと思います。
「オスタルギー」とは、ドイツ語で「東」を表す”Ost”と、「郷愁」を表す“Nostalgie”の合成語です。ひとことで説明したら、東ドイツが存在した時代や当時の事物への郷愁のことです。
これを表す一つの象徴的な出来事は2009年9月27日のドイツ総選挙です。ドイツは伝統的な二大政党制の国です。この2009年ドイツ総選挙の結果は、二大政党以外の政党の躍進という結果に終わりました。このとき、第四政党である「左派党」“Die Linke”が議席数を54から76に伸ばしました。この「左翼党」はWASG(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)と左翼党-民主社会党”Die Linkspartei.PDS)が2007年に合併したものです。このうち、左翼党-民主社会党は旧東ドイツの政権与党です。この政党が日本でまさに政権交代が行われた直後のドイツの選挙で躍進したのです。
これは、なぜでしょうか。
ドイツは、2005年に行われた総選挙以降、日本と同じように「新自由主義政策」を推し進めてきました。ドイツにおいても、例外なくグローバリズムの波に飲み込まれ、アメリカや日本と同じような市場原理主義の道を選択しました。しかし、これは、「雇用」「年金」「医療」「福祉」などの分野を大きく衰退させることになりました。日本とまったく同じです。これに対して強い怒りを国民が感じた結果が2009年総選挙の結果でした。
これについて、私も日本のニュースで、若者層が「左派党」を支持していることや、東ドイツの地域で貧困層のための低価格の賞味期限切れに近い食料品分配サービスが支持を得ているといったことが報道されていたのを記憶しています。
このように、行き過ぎた市場原理主義が国家の社会的な基盤を疲弊させ、これらの復活を国民が希望するといった流れは世界的なものでした。これは、(補1)において指摘したように、民主主義の衰退という事態をはらむものでした。そして、そのような衰退した民主主義の中で、世界的に「集団ストーカー」が蔓延した。これが、私が現在世界で蔓延している「集団ストーカー」にイデオロギーは関係ないと述べた理由です。「集団ストーカー」を「民主主義の勝利」というパラダイムを内包する東ドイツの事例でとりあげたことが、部分的に間違っていたことになります。これが、修正を必要とする点でした。
最後に付言します。「書籍で考える(2)」において書きましたが、私はクラシックが大好きです。芸術作品に国境やイデオロギーの壁はありません。いいものはいいものです。例えば、テンシュテットのマーラーが強烈な力強さを持っているのが自分は大好きです。テンシュテットのマーラー6番第4楽章を聞いた後に、同指揮者のマーラー第2番5楽章を聞くのが私の癖です。「悲劇的」から「復活」するからです。私が「集団ストーカー」を乗り越えるのに、この音楽は間違いなく強い勇気を与えてくれたと思っています。(車の中で大音量で聴くのが癖です。)
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ここからは過去の記事ではありません。2010年9月8日(水)に追記するものです。
上のケーゲルのエグモント序曲は、自分が聴いた同曲の中でずば抜けて一番です。他のどの演奏家よりも上だと感じています。たった10分程度の曲ですが、これだけのために買う価値があるくらいだと思っています。「苛烈」という表現しかできません。
また、マーラー6番「悲劇的」第4楽章には、「ハンマー」という打楽器が使用されます。これは「運命の打撃」と呼ばれています。その名の通り、とてつもない大きな音がします。指揮者の解釈によって、どれだけ強く打撃するか違うようです。
なぜ「運命の打撃」かというと、マーラーの生涯で重要な局面を表現しているからだといわれています。その打撃の回数は、通常2回ですが、奥さんの恣意的な判断によって後世に変えられたりしているようです。初めて聴かれた方は「ドカン」という音がいきなりするので、驚かれると思います。自分はまだ4種類くらいしか聞いていませんが、2004年ベルリンフィル演奏によるアバドの打撃が自分が聞いた中で一番大きいです。
クラシックは、祭典の際に大砲(もちろん空砲ですが)を撃ったり、何百人で演奏したりするものもあります。壮大という意味においては、歴史的にかなうことがない芸術かもしれません。
歴史上に発生した忌むべき事例から考察する
~旧ブログでの「シュタージ問題」からの考察を再掲載~
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
これから掲載する記事は「集団ストーカー問題を克服する」の旧ブログ(http://bubblering111.blog69.fc2.com/)において取りあげた3つの記事です。旧東ドイツに存在した秘密警察であるシュタージの問題から「集団ストーカー問題」を考察しようという内容でした。お分かりのように、以前のブログは加害者による圧力で閉鎖せざるを得ませんでした。何とか復活しても、この記事を掲載することにはためらいを覚えました。しかし、一度アウトプットしたものを引っ込めてしまっては、加害者の思う壺です。自由な言論には勇気が必要です。最後のほうでも述べていますが、民主主義は誰かに勝手に守ってもらうのではなく、勇気を持った市民が不断の努力で守らなければいい状態を維持できません。このことを伝えたくて、原文そのまま、誤字があったとしてもそのまま掲載します。ブログとしては極めて長文の記事ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(1)
そもそも、人間が人間を監視するということは珍しいことではありません。例えば、企業で働いているときに、企業は従業員の生産活動について、企業の利益に反しない範囲で通常に業務を見守ります。また、街中で子どもが犯罪にあわないよう、通常の社会では子どもを当然のように見守ります。これらの見守りも言い方を変えれば監視といえないこともありません。ただし、そのような見守りに利用されるインフラや技術が非常に発達した社会であるとは言えます。ただし、誰しも強く監視されるのが好きだという人はいません。
しかし、人間の歴史では人間の尊厳を奪ってまで監視・弾圧するといったことは珍しいことではありません。例えば専制政治のような国家においてこのようなことが起きるのは疑いのないことだと思います。
例えば、戦時中の日本もそうでした。また、東ドイツ共和国ではベルリンの壁崩壊と共に、圧制の象徴であったシュタージという秘密警察問題が表面化しました。ドイツは民主主義国家となって以降、重点的にこのような問題に取り組みました。
この東ドイツでは、監視する者と監視される者、弾圧する者と弾圧される者、ベルリンの壁崩壊後に深刻な国民対立が生じました。このような問題は、事態発覚後にまさにその国に住む人を分断してしまうような結果をもたらします。被害者へのルポタージュは、国に大きな爪あとを残すこと、他の同様のことを行っている国についても体制崩壊後に深刻な対立が表面化することを示唆しています。注1)
通常、このようなことは民主主義社会においてはありえないというのが、民主主義国家に住む市民の一般的な通念です。それは一種の信仰のようなものに支えられています。
しかし、私のような集団ストーカーの被害者は、この民主主義社会に対する信頼を根底的に打ち壊されます。この被害が開始されたとたん、すべての自由が奪われます。社会生活上すべての行動に重い制約と苦痛が課せられます。死にたいと思ったことはどの被害者も一度や二度ではないでしょう。
私のケースでは、乗り越える秘訣は、「諦める」ことでした。例えばこの社会で暮らしている街中の元気に遊んでいる子供、ニュースに出てくる社会で活躍している若者、出世した旧友、彼らにはすべて民主主義の原則が適用されています。それを、この被害を受けている中で自分にも求めたら、強い葛藤が生じ、涙が出て、耐えられません。そのときは、「ああ、自分には民主主義の原則が適用されないのか」と思って死んだように生きれば苦痛が緩和されるのです。
上記の東ドイツのシュタージのルポタージュにはこのように書かれています。
「東ドイツの論理」を受け入れるのも、それを無視するのも等しく正常な精神を保つための条件の一つだった。「こうしたことを西側の人たちが考えるみたいに真剣にとらえてたら、わたしたちはみんな自殺してるわよ、きっと!」」・・・・・「気が変になっちゃうっていう意味よ。いつもそんなことばかり考えていたら。」(同著p.134)
当時の東ドイツの国民は、当時のいわゆる西側諸国のように自由に振舞えることを想像したら耐えられない。したがって、監視社会を受け入れて諦めたように暮らしていたことが想像できます。
集団ストーカー被害者も同じ状況に置かれます。私たちは民主主義社会で生まれてそれを信じて疑わずに生きてきました。しかし、この被害を受けると、自由に生きるという尊厳を根底から覆されてしまうのです。
東ドイツではこのような監視体制が厳しく敷かれた結果、国民は自分の意見や感情を外部に出さないようになりました。自由な表現をすることができないという事実は、人間を社会に対する前向きな姿勢から逃避傾向にさせます。当時、これは「内面への逃避」と呼ばれました。東ドイツでのお酒の消費量は一般的な西側諸国の2倍でした。実を言うと、私も毎日お酒をあびるほど飲んでいました。まったく終わりのない不自由と、結婚も就職もできない、その見込みもない精神的苦痛でしたでしたから。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(3)
では、このような問題をどのようにして解決すればいいのでしょうか。それは今この日本で一番必要な、「市民が声をあげる」ということだと思います。この問題は、市民の声が政治に反映させるべき社会である民主主義社会で起きた、民主主義社会ではあってはならないことです。たとえ、このような問題が発生したとしても、政治は解決する責任があります。それが行われてこなかった。これは民主主義の衰退だけでなく、腐敗といえます。
このようなことは、残念ながら為政者に対するお任せの政治では解決できません。名もないネットの書き込みですが、このような核心を突いた言葉を目にしたことがあります。
「民主主義はひとりでに維持されるものではない。放っておいたら腐敗する。民主主義を守るためには、市民の不断の努力が必要である。」
先の東ドイツのシュタージ問題も、歴史をさかのぼればフランス革命も、解決したのは圧政に苦しむ庶民でした。海外では命がけで庶民が民主主義を勝ち取ったことに対して、日本ではそのような歴史がありません。少なくともこの問題は、国民や被害者が下から声を突き上げて実態解明を突きつける必要があるのではないかと感じます。
ここで、再度東ドイツのケースを例にあげてみます。(注1 東ドイツではベルリン崩壊のときに、国家機関であるシュタージのビルに大挙して市民が殺到しました。ベルリンの壁の崩壊と同時にシュタージの職員が国民の情報を集めた膨大なシュタージファイルを抹消し始めたからです。市民は、圧政の象徴であり、そして証拠であるシュタージファイルが歴史から消されることに強い危機を感じて押し寄せたのです。幸いなことに、シュタージは膨大すぎるファイルをシュレッダーで削除しましたが、ほぼ同じ袋に同じファイルの裁断された紙切れが入れられました。これは東西ドイツが統合して以降、国家プロジェクトとして、現在でも復元されています。
ドイツでは、今でもシュタージの被害者は、自分に関して集められた情報をいつでも閲覧することができます。集められた情報や加担した人間の情報の公開は、あまりにも生なましい現実を国民に突きつけて新しいドイツ社会をパニックに陥れました。しかし、民主主義を構築するためには必要不可欠なプロセスだったといえるでしょう。これは間違いなく市民の力によるものです。
しかし、問題の解決には時間がかかるものです。この項で最初にも述べましたように、このような問題は、実態把握後国内の加害者と被害者を分断する事態になりかねません。ルポタージュではベルリンの壁崩壊後何年経っても被害者が加害者に対して解消されない葛藤の感情に苛まれている有様が記されていますし、現在までの当時のシュタージ被害の訴訟が行われてるといわれています。
私のケースですと、これまでの文章、私はかなり冷静に書きました。しかし、被害を受けているときにはそのようにいきません。なぜなら、加害-被害関係には、極めて加害者側の感情的な優越感と被害者側の劣等感・屈辱感が存在するからです。被害者はこれを非常に長期間行われるわけで、加害者に対して強い葛藤と相容れなさを感じるようになり、それは年を追うごとに積み重なっていきます。
これは後に国としてこのような問題をどのように乗り越えるかということにも深くかかわってきますが、この感情的な問題を乗り越えるのが一番難点であると考えます。被害者によっては、取り返しのつかないダメージを受けられた方も多くおられると思います。そういったものはそう簡単に解決できるものではありません。解決は長く地道に行っていかなければならないことであると感じています。また、国がこのようなことで長い間分断されてしまうことも避けなければなりません。
負のスパイラルは、国益という観点だけでなく、その国に住むすべての人々の感情に大きなマイナスの影響を及ぼします。民主主義としてこの問題を乗り越えるということは、このようなことだと思っています。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
集団ストーカー問題を書籍から考える(1-1)
今回取り上げる書籍
「監視国家 東ドイツシュタージ(秘密警察)に引き裂かれた絆」 アナ・ファンダー 伊達淳訳 船橋洋一解説 松岳社 2005
普通にこの民主主義国家に住まれている方からすれば、これがどのような被害なのか、良く分からない部分もあるかと思います。「集団ストーカー」問題は実態解明がまだ行われておらず、確定的なことは申し上げられません。しかし、少なくともこれまで述べてきたように東ドイツでは同じようなことをその国の国民が経験してきました。ここでは、このルポタージュに記載されているシュタージ被害者の生の声を掲載したいと思います。
(下記の斜線は、同著p118-158から引用) ⇒新しいこのブログでは、 「明朝体」の部分です。
ユリアは16歳のとき、休暇を利用してライプチヒ見本市の案内役としてアルバイトをしていた。…彼女がイタリア人ボーイフレンドと出会ったのはそのときのことだった。
ここで取りあげるのは、ルポタージュに掲載されているユリアという方の経験です。彼女は1966年生まれで、23歳のときにベルリンの壁崩壊を経験したことになります。ここでは、本に沿って彼女の体験を追っていきたいと思います。
ユリアは、このイタリア人ボーイフレンドと街中でデートしているときは必ず監視下に置かれていました。身元の確認や検問所での確認が意図的に彼女に絶えず行われていました。イタリア人ボーイフレンドは恐怖で震えていましが、ユリアはそういった国の状態を受け入れていたようでした。
「わたしはこうした監視も現実として受け止めて暮らしてたわけだし、好きではなかったけど、ここは独裁国家なんだ、だからこういうもんなんだって思うようにしていたわ。東ドイツの論理に基づいた単純なことだって分かってたもの。…」
この、イタリア人ボーイフレンドとの付き合いが、その後の彼女の人生を大きく狂わせることになります。
ユリアは中等学校で学年トップの成績を収め、言語教育で有名な高等学校に進学することを希望していた。だけど当局は、決してその理由を明らかにしないままに、彼女を有名でもなんでもない遠くの寄宿学校に追いやった。
1985年、ユリアはオールAという成績で大学に入学した。彼女はライプチィヒに行き、大学の翻訳・通訳コースへの入試試験を受ける。結果は不合格だった。
このように、彼女はどちらかと言えば優秀な成績を修めていましたが、希望の進路に進めないといったことが続きます。この後、ユリアの父親はこのように言われます。
「ユリアさんの場合は来年もう一度受験しても同じことなんです。娘さんに他のことをするよう、どうぞよろしくお伝えください。職に就くんです。」
ユリアはこのように言われて、就職活動をしました。あらゆる職種にチャレンジしましたが、どの職業に就くこともできませんでした。
「それ以降、職にも就けなくなってたの。どんな仕事でもダメだった……」彼女は首に巻いたスカーフに手を当てる。「その頃からなのよ」
彼女は、どの会社も従業員を雇うときにシュタージに履歴書を見せなければならないからではないかと考えました。その後、彼女は職業安定所に足を運びます。そこでも、おかしなことに「お嬢さん、あなたは失業しているわけじゃないんです。わが国に失業者はいないんです!」と言われるだけでした。彼女は次第に言いようのない抑圧と失望に次第にあらゆることを諦めるような気持ちになっていきます。
ユリアは自らの状況を、何に挑戦しても失敗したのだと捉えることもできたし、連中のターゲットになってしまったと捉えることもできた。あるいは、全くなんとも考えないでいることもできた。「その頃から、私は何からも身を引くようになってしまったって言っていいのかも。」だんだんベッドから出る時間が遅くなっていった。「気が滅入っていたんだと思う。」
彼女はあきらめず夜間学校に登録しますが…
授業が終わると、「毎晩のように」地元のパブに顔を出した。「両親も見て見ぬフリをしてくれてたみたい。他にどうしようもなかっただろうし、私を哀れんでいたんだと思う。」
彼女は、最後の希望を振り絞ってイタリア人ボーイフレンドと駆け落ちしようとします。しかし…
休暇を利用して彼とハンガリーで落ち合うことになっていた。空港では別室に連れて行かれ、荷物を検査された。ヘアドライヤーを分解してまで調べられ… ハンガリーで、すべてが終わったのだと彼に告げた。「彼にしてみれば寝耳に水だったはずだし、不満そうだったわ。」そしてユリアはすべてから身を引き、自宅に引きこもり、希望を捨てた。「内面への逃避」なんていうものではない。流浪だ。
その後、彼女にとどめを刺すような出来事が発生します。当局から1枚のはがきが届き、行ってみると、国家保安省のN少佐からこのように言われます。
「ベーレントさん(ユリア)。」N少佐が切り出した。「あなたのように若くて魅力的で知的な方です、どうしてなのか、ご説明いただけますね。どうして働いていらっしゃらないんですか?」笑っている。
そういうことか。この瞬間まで、すべては自分の想像にすぎないと思おうと勤めてきた。寄宿学校も、校長の訪問も、町を歩いているだけで常に尾行されることも、試験の不合格も、「友人たち」の警告も、…そしてあり得ないくらい雇ってくれないことも。
ショックだった。ゆっくりと口を開いた。
「わたしがどうして働いていないか、それはあなたの方がよくご存知なんじゃないんですか?」
男の声は優しかった。笑顔も絶やさない。「どうしてわたしが知っているのですか?ベーレントさん。」
彼女は自制心を失った。……
このように、「ユリア」は海外に行った際にできたイタリア人ボーイフレンドとの付き合いによって、厳しい監視下に置かれることになりました。それだけでなく、人生のあらゆる局面で、シュタージの意図的な介入によって人生を狂わされました。例えば、彼女は20代前半でお酒におぼれることになり、家族はそれを彼女の気持ちを斟酌するかのように黙って見過ごしました。これは彼女が、若くして人生を無茶苦茶にされて、言いようのない葛藤に苛まれていたことを示すものだと思います。
また、被害者の方が読まれたら分かると思いますが、「集団ストーカー」の被害者の状況と共通点が多くあることがお分かりいただけると思います。「集団ストーカー」の被害も、一種の人生のぶち壊しです。被害の過程で様々な可能性や希望を失い、解消されない葛藤のなかで生きざるを得なくなります。
なお、私の経験は述べないといいましたが、ここで一つだけ言いたいと思います。私もこの被害を受けているこの数年間、家から出る機会が極めて減少して、それこそ毎日浴びるほどお酒を飲んでいました。最初は心配した両親が何とか止めようとしましたが、それも次第になくなりました。
私はこの本をもとに、集団ストーカーの被害について父と話し合いました。父はこのように言いました。「たとえどのような世の中であっても、希望をもってたくましく生きるしかない。自分にはそれしか言ってあげられない。」状況が分かるにしたがって、家族は次第にわたしが引きこもったり、お酒におぼれることに対して寛容になっていきました。これが私の置かれた実態でした。
(この書籍には、「集団ストーカー」問題を乗り越えるのに、様々な共通点と示唆が得られます。時期があったら、他の様々な部分も取りあげたいと思います。)
記事の改定はしないと申し上げましたので、ここに書籍の広告を追加します。ぜひご覧になって頂ければ幸いです。(2010年10月6日)
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
これから掲載する記事は「集団ストーカー問題を克服する」の旧ブログ(http://bubblering111.blog69.fc2.com/)において取りあげた3つの記事です。旧東ドイツに存在した秘密警察であるシュタージの問題から「集団ストーカー問題」を考察しようという内容でした。お分かりのように、以前のブログは加害者による圧力で閉鎖せざるを得ませんでした。何とか復活しても、この記事を掲載することにはためらいを覚えました。しかし、一度アウトプットしたものを引っ込めてしまっては、加害者の思う壺です。自由な言論には勇気が必要です。最後のほうでも述べていますが、民主主義は誰かに勝手に守ってもらうのではなく、勇気を持った市民が不断の努力で守らなければいい状態を維持できません。このことを伝えたくて、原文そのまま、誤字があったとしてもそのまま掲載します。ブログとしては極めて長文の記事ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(1)
そもそも、人間が人間を監視するということは珍しいことではありません。例えば、企業で働いているときに、企業は従業員の生産活動について、企業の利益に反しない範囲で通常に業務を見守ります。また、街中で子どもが犯罪にあわないよう、通常の社会では子どもを当然のように見守ります。これらの見守りも言い方を変えれば監視といえないこともありません。ただし、そのような見守りに利用されるインフラや技術が非常に発達した社会であるとは言えます。ただし、誰しも強く監視されるのが好きだという人はいません。
しかし、人間の歴史では人間の尊厳を奪ってまで監視・弾圧するといったことは珍しいことではありません。例えば専制政治のような国家においてこのようなことが起きるのは疑いのないことだと思います。
例えば、戦時中の日本もそうでした。また、東ドイツ共和国ではベルリンの壁崩壊と共に、圧制の象徴であったシュタージという秘密警察問題が表面化しました。ドイツは民主主義国家となって以降、重点的にこのような問題に取り組みました。
この東ドイツでは、監視する者と監視される者、弾圧する者と弾圧される者、ベルリンの壁崩壊後に深刻な国民対立が生じました。このような問題は、事態発覚後にまさにその国に住む人を分断してしまうような結果をもたらします。被害者へのルポタージュは、国に大きな爪あとを残すこと、他の同様のことを行っている国についても体制崩壊後に深刻な対立が表面化することを示唆しています。注1)
通常、このようなことは民主主義社会においてはありえないというのが、民主主義国家に住む市民の一般的な通念です。それは一種の信仰のようなものに支えられています。
しかし、私のような集団ストーカーの被害者は、この民主主義社会に対する信頼を根底的に打ち壊されます。この被害が開始されたとたん、すべての自由が奪われます。社会生活上すべての行動に重い制約と苦痛が課せられます。死にたいと思ったことはどの被害者も一度や二度ではないでしょう。
私のケースでは、乗り越える秘訣は、「諦める」ことでした。例えばこの社会で暮らしている街中の元気に遊んでいる子供、ニュースに出てくる社会で活躍している若者、出世した旧友、彼らにはすべて民主主義の原則が適用されています。それを、この被害を受けている中で自分にも求めたら、強い葛藤が生じ、涙が出て、耐えられません。そのときは、「ああ、自分には民主主義の原則が適用されないのか」と思って死んだように生きれば苦痛が緩和されるのです。
上記の東ドイツのシュタージのルポタージュにはこのように書かれています。
「東ドイツの論理」を受け入れるのも、それを無視するのも等しく正常な精神を保つための条件の一つだった。「こうしたことを西側の人たちが考えるみたいに真剣にとらえてたら、わたしたちはみんな自殺してるわよ、きっと!」」・・・・・「気が変になっちゃうっていう意味よ。いつもそんなことばかり考えていたら。」(同著p.134)
当時の東ドイツの国民は、当時のいわゆる西側諸国のように自由に振舞えることを想像したら耐えられない。したがって、監視社会を受け入れて諦めたように暮らしていたことが想像できます。
集団ストーカー被害者も同じ状況に置かれます。私たちは民主主義社会で生まれてそれを信じて疑わずに生きてきました。しかし、この被害を受けると、自由に生きるという尊厳を根底から覆されてしまうのです。
東ドイツではこのような監視体制が厳しく敷かれた結果、国民は自分の意見や感情を外部に出さないようになりました。自由な表現をすることができないという事実は、人間を社会に対する前向きな姿勢から逃避傾向にさせます。当時、これは「内面への逃避」と呼ばれました。東ドイツでのお酒の消費量は一般的な西側諸国の2倍でした。実を言うと、私も毎日お酒をあびるほど飲んでいました。まったく終わりのない不自由と、結婚も就職もできない、その見込みもない精神的苦痛でしたでしたから。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(3)
では、このような問題をどのようにして解決すればいいのでしょうか。それは今この日本で一番必要な、「市民が声をあげる」ということだと思います。この問題は、市民の声が政治に反映させるべき社会である民主主義社会で起きた、民主主義社会ではあってはならないことです。たとえ、このような問題が発生したとしても、政治は解決する責任があります。それが行われてこなかった。これは民主主義の衰退だけでなく、腐敗といえます。
このようなことは、残念ながら為政者に対するお任せの政治では解決できません。名もないネットの書き込みですが、このような核心を突いた言葉を目にしたことがあります。
「民主主義はひとりでに維持されるものではない。放っておいたら腐敗する。民主主義を守るためには、市民の不断の努力が必要である。」
先の東ドイツのシュタージ問題も、歴史をさかのぼればフランス革命も、解決したのは圧政に苦しむ庶民でした。海外では命がけで庶民が民主主義を勝ち取ったことに対して、日本ではそのような歴史がありません。少なくともこの問題は、国民や被害者が下から声を突き上げて実態解明を突きつける必要があるのではないかと感じます。
ここで、再度東ドイツのケースを例にあげてみます。(注1 東ドイツではベルリン崩壊のときに、国家機関であるシュタージのビルに大挙して市民が殺到しました。ベルリンの壁の崩壊と同時にシュタージの職員が国民の情報を集めた膨大なシュタージファイルを抹消し始めたからです。市民は、圧政の象徴であり、そして証拠であるシュタージファイルが歴史から消されることに強い危機を感じて押し寄せたのです。幸いなことに、シュタージは膨大すぎるファイルをシュレッダーで削除しましたが、ほぼ同じ袋に同じファイルの裁断された紙切れが入れられました。これは東西ドイツが統合して以降、国家プロジェクトとして、現在でも復元されています。
ドイツでは、今でもシュタージの被害者は、自分に関して集められた情報をいつでも閲覧することができます。集められた情報や加担した人間の情報の公開は、あまりにも生なましい現実を国民に突きつけて新しいドイツ社会をパニックに陥れました。しかし、民主主義を構築するためには必要不可欠なプロセスだったといえるでしょう。これは間違いなく市民の力によるものです。
しかし、問題の解決には時間がかかるものです。この項で最初にも述べましたように、このような問題は、実態把握後国内の加害者と被害者を分断する事態になりかねません。ルポタージュではベルリンの壁崩壊後何年経っても被害者が加害者に対して解消されない葛藤の感情に苛まれている有様が記されていますし、現在までの当時のシュタージ被害の訴訟が行われてるといわれています。
私のケースですと、これまでの文章、私はかなり冷静に書きました。しかし、被害を受けているときにはそのようにいきません。なぜなら、加害-被害関係には、極めて加害者側の感情的な優越感と被害者側の劣等感・屈辱感が存在するからです。被害者はこれを非常に長期間行われるわけで、加害者に対して強い葛藤と相容れなさを感じるようになり、それは年を追うごとに積み重なっていきます。
これは後に国としてこのような問題をどのように乗り越えるかということにも深くかかわってきますが、この感情的な問題を乗り越えるのが一番難点であると考えます。被害者によっては、取り返しのつかないダメージを受けられた方も多くおられると思います。そういったものはそう簡単に解決できるものではありません。解決は長く地道に行っていかなければならないことであると感じています。また、国がこのようなことで長い間分断されてしまうことも避けなければなりません。
負のスパイラルは、国益という観点だけでなく、その国に住むすべての人々の感情に大きなマイナスの影響を及ぼします。民主主義としてこの問題を乗り越えるということは、このようなことだと思っています。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
集団ストーカー問題を書籍から考える(1-1)
今回取り上げる書籍
「監視国家 東ドイツシュタージ(秘密警察)に引き裂かれた絆」 アナ・ファンダー 伊達淳訳 船橋洋一解説 松岳社 2005
普通にこの民主主義国家に住まれている方からすれば、これがどのような被害なのか、良く分からない部分もあるかと思います。「集団ストーカー」問題は実態解明がまだ行われておらず、確定的なことは申し上げられません。しかし、少なくともこれまで述べてきたように東ドイツでは同じようなことをその国の国民が経験してきました。ここでは、このルポタージュに記載されているシュタージ被害者の生の声を掲載したいと思います。
(下記の斜線は、同著p118-158から引用) ⇒新しいこのブログでは、 「明朝体」の部分です。
ユリアは16歳のとき、休暇を利用してライプチヒ見本市の案内役としてアルバイトをしていた。…彼女がイタリア人ボーイフレンドと出会ったのはそのときのことだった。
ここで取りあげるのは、ルポタージュに掲載されているユリアという方の経験です。彼女は1966年生まれで、23歳のときにベルリンの壁崩壊を経験したことになります。ここでは、本に沿って彼女の体験を追っていきたいと思います。
ユリアは、このイタリア人ボーイフレンドと街中でデートしているときは必ず監視下に置かれていました。身元の確認や検問所での確認が意図的に彼女に絶えず行われていました。イタリア人ボーイフレンドは恐怖で震えていましが、ユリアはそういった国の状態を受け入れていたようでした。
「わたしはこうした監視も現実として受け止めて暮らしてたわけだし、好きではなかったけど、ここは独裁国家なんだ、だからこういうもんなんだって思うようにしていたわ。東ドイツの論理に基づいた単純なことだって分かってたもの。…」
この、イタリア人ボーイフレンドとの付き合いが、その後の彼女の人生を大きく狂わせることになります。
ユリアは中等学校で学年トップの成績を収め、言語教育で有名な高等学校に進学することを希望していた。だけど当局は、決してその理由を明らかにしないままに、彼女を有名でもなんでもない遠くの寄宿学校に追いやった。
1985年、ユリアはオールAという成績で大学に入学した。彼女はライプチィヒに行き、大学の翻訳・通訳コースへの入試試験を受ける。結果は不合格だった。
このように、彼女はどちらかと言えば優秀な成績を修めていましたが、希望の進路に進めないといったことが続きます。この後、ユリアの父親はこのように言われます。
「ユリアさんの場合は来年もう一度受験しても同じことなんです。娘さんに他のことをするよう、どうぞよろしくお伝えください。職に就くんです。」
ユリアはこのように言われて、就職活動をしました。あらゆる職種にチャレンジしましたが、どの職業に就くこともできませんでした。
「それ以降、職にも就けなくなってたの。どんな仕事でもダメだった……」彼女は首に巻いたスカーフに手を当てる。「その頃からなのよ」
彼女は、どの会社も従業員を雇うときにシュタージに履歴書を見せなければならないからではないかと考えました。その後、彼女は職業安定所に足を運びます。そこでも、おかしなことに「お嬢さん、あなたは失業しているわけじゃないんです。わが国に失業者はいないんです!」と言われるだけでした。彼女は次第に言いようのない抑圧と失望に次第にあらゆることを諦めるような気持ちになっていきます。
ユリアは自らの状況を、何に挑戦しても失敗したのだと捉えることもできたし、連中のターゲットになってしまったと捉えることもできた。あるいは、全くなんとも考えないでいることもできた。「その頃から、私は何からも身を引くようになってしまったって言っていいのかも。」だんだんベッドから出る時間が遅くなっていった。「気が滅入っていたんだと思う。」
彼女はあきらめず夜間学校に登録しますが…
授業が終わると、「毎晩のように」地元のパブに顔を出した。「両親も見て見ぬフリをしてくれてたみたい。他にどうしようもなかっただろうし、私を哀れんでいたんだと思う。」
彼女は、最後の希望を振り絞ってイタリア人ボーイフレンドと駆け落ちしようとします。しかし…
休暇を利用して彼とハンガリーで落ち合うことになっていた。空港では別室に連れて行かれ、荷物を検査された。ヘアドライヤーを分解してまで調べられ… ハンガリーで、すべてが終わったのだと彼に告げた。「彼にしてみれば寝耳に水だったはずだし、不満そうだったわ。」そしてユリアはすべてから身を引き、自宅に引きこもり、希望を捨てた。「内面への逃避」なんていうものではない。流浪だ。
その後、彼女にとどめを刺すような出来事が発生します。当局から1枚のはがきが届き、行ってみると、国家保安省のN少佐からこのように言われます。
「ベーレントさん(ユリア)。」N少佐が切り出した。「あなたのように若くて魅力的で知的な方です、どうしてなのか、ご説明いただけますね。どうして働いていらっしゃらないんですか?」笑っている。
そういうことか。この瞬間まで、すべては自分の想像にすぎないと思おうと勤めてきた。寄宿学校も、校長の訪問も、町を歩いているだけで常に尾行されることも、試験の不合格も、「友人たち」の警告も、…そしてあり得ないくらい雇ってくれないことも。
ショックだった。ゆっくりと口を開いた。
「わたしがどうして働いていないか、それはあなたの方がよくご存知なんじゃないんですか?」
男の声は優しかった。笑顔も絶やさない。「どうしてわたしが知っているのですか?ベーレントさん。」
彼女は自制心を失った。……
このように、「ユリア」は海外に行った際にできたイタリア人ボーイフレンドとの付き合いによって、厳しい監視下に置かれることになりました。それだけでなく、人生のあらゆる局面で、シュタージの意図的な介入によって人生を狂わされました。例えば、彼女は20代前半でお酒におぼれることになり、家族はそれを彼女の気持ちを斟酌するかのように黙って見過ごしました。これは彼女が、若くして人生を無茶苦茶にされて、言いようのない葛藤に苛まれていたことを示すものだと思います。
また、被害者の方が読まれたら分かると思いますが、「集団ストーカー」の被害者の状況と共通点が多くあることがお分かりいただけると思います。「集団ストーカー」の被害も、一種の人生のぶち壊しです。被害の過程で様々な可能性や希望を失い、解消されない葛藤のなかで生きざるを得なくなります。
なお、私の経験は述べないといいましたが、ここで一つだけ言いたいと思います。私もこの被害を受けているこの数年間、家から出る機会が極めて減少して、それこそ毎日浴びるほどお酒を飲んでいました。最初は心配した両親が何とか止めようとしましたが、それも次第になくなりました。
私はこの本をもとに、集団ストーカーの被害について父と話し合いました。父はこのように言いました。「たとえどのような世の中であっても、希望をもってたくましく生きるしかない。自分にはそれしか言ってあげられない。」状況が分かるにしたがって、家族は次第にわたしが引きこもったり、お酒におぼれることに対して寛容になっていきました。これが私の置かれた実態でした。
(この書籍には、「集団ストーカー」問題を乗り越えるのに、様々な共通点と示唆が得られます。時期があったら、他の様々な部分も取りあげたいと思います。)
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日本の伝統文化と融合・調和の美
-最終更新日:2010年8月25日(水)-
前回(旧ブログで)、この問題をクラシックという観点から取り上げてみましたが、今回も同じく音楽から取り上げてみたいと思います。
今回は、日本の作曲家の曲を挙げてみたいと思います。武満徹氏の「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」です。
武満徹氏といえば、黒澤明氏の映画音楽をはじめとして、西洋・東洋問わず様々な楽曲を作曲した日本を代表する作曲家です。自分のイメージとしては、ストラヴィンスキーなどと交流があり、同じ作曲家である細川俊夫氏に「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う」と評されるように、自分には難解すぎてあまり聴いていませんでした。
ところが、雅楽も一度聴いてみたいと思い、このCDを買ってみたところ、とたんに夢中になってしまいました。この「秋庭歌一具」は現代雅楽です。1970年代に、「古典雅楽だけでは雅楽の世界で存続できない、新作の現代雅楽が必要になる。」といわれたときに、武満氏が抜擢されて作曲したものです。現代音楽ということで、難解かとも思いましたが、秋の夜長に聞くと、心に染みわたって目の前に秋の日本庭園が浮かび上がるような気持ちにさせてくれます。(CDの論評には「武満(氏)がもっとも腐心したのが、たゆたう時間と空間を表現であった」とあります。)
この「秋庭歌一具」、2001年にサントリーホールで公演されたものですが、1979年に初演が行われ、以降も何度も再演されています。
武満氏は作曲に当たって「新雅楽を創るというような気負いを捨てて、ただ、音の中に身を置きそれを聴き出す事につとめた。」とあります。武満氏は、当初の西洋音楽の一次元的な構成から、次第に東洋音楽の多層的な構成に曲風が変化したと言われています。武満氏はまた、西洋音楽のオーケストレーションに、日本の楽器を入れた曲が多く、その入れ方は調和的に入れるというよりも、対立させて入れていたと言われています。
このような素晴らしい音楽をこの問題について取り上げることは、畏れ多いことです。ただ、ひとつ言えるのは、多元的な時間軸で構成されたこのような現代雅楽や武満氏の作曲スタイルが、この問題に与えてくれる示唆があるだろうということです。
雅楽は日本の伝統的な文化です。その文化も、時代とともに変化します。しかし、伝統的な文化として根本的に失われてはならないものは、失われてはならない。時代の変化とともに、大切な部分を守りながら変容していく。対立しながらも多元的にひとつの構成を作り上げる。それが、この武満氏による現代雅楽の挑戦だったのではないでしょうか。
少し話を変えますが、以前取り上げた限界集落や中産間地域などの伝統的な祭りなども、いま存続の危機が叫ばれています。このような祭りはその地域の神事であり、豊作を願ったりなど、さまざまな祭りの目的の過程で、その町や村の人を結びつけます。田舎ほど生活が厳しく、共同体としての人々のつながりが重要になるといわれています。
しかし、現在は過疎化などの問題でこのような祭りが危機に瀕しています。祭りによっては開催が何年も中止されたりするようなケースが続出しています。これでは、その地域に住む人たちにとって必要な連帯感醸成のきっかけが失われてしまいます。そうなると、人々のつながりが薄くなり、様々な社会的な問題が発生します。伝統的な祭りは、考え方が異なる住民が意識を一つにする限られた機会だからです。
私が申し上げているこの問題の被害も、このように人々のつながりが希薄化した社会において発生しやすいと思われます。その意味で、人の心情に根ざす変えられるべきでない伝統文化は、時代の変化とともに変化することはあっても、保持されていかなければならないと思います。
このような「祭り」はその地域でより長く生きられた経験深い方による伝承で受け継がれてきました。このような祭りは、そのような伝承によって文化やしきたりが後世に伝えられます。同じように、親子関係においても、父親が一定の権威的な役割において、子どもに様々な社会規範を教えます。近年はこのような家庭や地域の伝統的な教育役割も変化しているのではないかと思います。それも、社会の秩序に悪影響を及ぼしているのではないでしょうか。
(注 「秋庭歌」、「秋庭歌一具」は宮内庁楽部によって演奏されてきました。この2002年サントリーホールでの「秋庭歌一具」は、宮内庁の芝祐靖氏が、退官されてまで「秋庭歌」のより良い演奏のために1984年に結成された「伶楽舎」による演奏です。
芝祐靖氏はこのように述べている。
「演奏時間50分、指揮者を置かない29人の合奏は精神的にかなりハードですが、練習本番のたびに新しい発見があり、秋庭歌に内包された自然観と詩情の追及はこれからもまだまだ続きます。そしてこのエネルギーが今後の古典雅楽の継承、そして現代雅楽の創造に役立つことを願ってやみません。」
前回(旧ブログで)、この問題をクラシックという観点から取り上げてみましたが、今回も同じく音楽から取り上げてみたいと思います。
今回は、日本の作曲家の曲を挙げてみたいと思います。武満徹氏の「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」です。
![]() | 武満徹:秋庭歌一具 (2002/09/04) 伶楽舎 商品詳細を見る |
武満徹氏といえば、黒澤明氏の映画音楽をはじめとして、西洋・東洋問わず様々な楽曲を作曲した日本を代表する作曲家です。自分のイメージとしては、ストラヴィンスキーなどと交流があり、同じ作曲家である細川俊夫氏に「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う」と評されるように、自分には難解すぎてあまり聴いていませんでした。
ところが、雅楽も一度聴いてみたいと思い、このCDを買ってみたところ、とたんに夢中になってしまいました。この「秋庭歌一具」は現代雅楽です。1970年代に、「古典雅楽だけでは雅楽の世界で存続できない、新作の現代雅楽が必要になる。」といわれたときに、武満氏が抜擢されて作曲したものです。現代音楽ということで、難解かとも思いましたが、秋の夜長に聞くと、心に染みわたって目の前に秋の日本庭園が浮かび上がるような気持ちにさせてくれます。(CDの論評には「武満(氏)がもっとも腐心したのが、たゆたう時間と空間を表現であった」とあります。)
この「秋庭歌一具」、2001年にサントリーホールで公演されたものですが、1979年に初演が行われ、以降も何度も再演されています。
武満氏は作曲に当たって「新雅楽を創るというような気負いを捨てて、ただ、音の中に身を置きそれを聴き出す事につとめた。」とあります。武満氏は、当初の西洋音楽の一次元的な構成から、次第に東洋音楽の多層的な構成に曲風が変化したと言われています。武満氏はまた、西洋音楽のオーケストレーションに、日本の楽器を入れた曲が多く、その入れ方は調和的に入れるというよりも、対立させて入れていたと言われています。
このような素晴らしい音楽をこの問題について取り上げることは、畏れ多いことです。ただ、ひとつ言えるのは、多元的な時間軸で構成されたこのような現代雅楽や武満氏の作曲スタイルが、この問題に与えてくれる示唆があるだろうということです。
雅楽は日本の伝統的な文化です。その文化も、時代とともに変化します。しかし、伝統的な文化として根本的に失われてはならないものは、失われてはならない。時代の変化とともに、大切な部分を守りながら変容していく。対立しながらも多元的にひとつの構成を作り上げる。それが、この武満氏による現代雅楽の挑戦だったのではないでしょうか。
少し話を変えますが、以前取り上げた限界集落や中産間地域などの伝統的な祭りなども、いま存続の危機が叫ばれています。このような祭りはその地域の神事であり、豊作を願ったりなど、さまざまな祭りの目的の過程で、その町や村の人を結びつけます。田舎ほど生活が厳しく、共同体としての人々のつながりが重要になるといわれています。
しかし、現在は過疎化などの問題でこのような祭りが危機に瀕しています。祭りによっては開催が何年も中止されたりするようなケースが続出しています。これでは、その地域に住む人たちにとって必要な連帯感醸成のきっかけが失われてしまいます。そうなると、人々のつながりが薄くなり、様々な社会的な問題が発生します。伝統的な祭りは、考え方が異なる住民が意識を一つにする限られた機会だからです。
私が申し上げているこの問題の被害も、このように人々のつながりが希薄化した社会において発生しやすいと思われます。その意味で、人の心情に根ざす変えられるべきでない伝統文化は、時代の変化とともに変化することはあっても、保持されていかなければならないと思います。
このような「祭り」はその地域でより長く生きられた経験深い方による伝承で受け継がれてきました。このような祭りは、そのような伝承によって文化やしきたりが後世に伝えられます。同じように、親子関係においても、父親が一定の権威的な役割において、子どもに様々な社会規範を教えます。近年はこのような家庭や地域の伝統的な教育役割も変化しているのではないかと思います。それも、社会の秩序に悪影響を及ぼしているのではないでしょうか。
(注 「秋庭歌」、「秋庭歌一具」は宮内庁楽部によって演奏されてきました。この2002年サントリーホールでの「秋庭歌一具」は、宮内庁の芝祐靖氏が、退官されてまで「秋庭歌」のより良い演奏のために1984年に結成された「伶楽舎」による演奏です。
芝祐靖氏はこのように述べている。
「演奏時間50分、指揮者を置かない29人の合奏は精神的にかなりハードですが、練習本番のたびに新しい発見があり、秋庭歌に内包された自然観と詩情の追及はこれからもまだまだ続きます。そしてこのエネルギーが今後の古典雅楽の継承、そして現代雅楽の創造に役立つことを願ってやみません。」
日本における自殺問題の深刻さと自殺に向き合う専門労働家たち
~旧ブログ「自殺問題から考える」より~
-最終更新日:2010年8月25日(水)-
自分のこれまでの経験ですが、近親者を自殺でなくした方が知り合いにいます。このような出来事はその人の人生を大きく変えます。一般に流通している「トラウマ」という言葉ではくくれない、一種の大変な心の労働を強います。人によっては、この問題に深く関連する職業に強く取り組むことになります。
それは、親愛な人との自殺による離別が、場合によっては一生解消されない葛藤であるがゆえ、その人の人生で取り組み続けることでしか解決できない問題だからでしょう。小さなときにこのような悲劇を経験をしてしまったら、人間形成に大きな影響を及ぼすといわれています。
集団ストーカー被害者も、多くの人は自殺を考えます。私は、上記のような人と接する機会が多かったこともあるのか、自殺に強い関心があります。これだけで普通の人間とは言えませんが、自殺問題というものに一つの執念みたいながのがあります。
世の中には、自殺という問題に取り組む職業の人がいます。直接的に自殺の危険性がある人を支援するのは、精神科医・精神分析家や臨床心理士、ソーシャルワーカーといった仕事に従事されている方ではないでしょうか。個人的にこのような方とお話したことが沢山ありますが、予想以上に大変な仕事です。
これらの仕事には「転移」という概念があります。例えば、目の前に自殺願望を抱いている人と話をしたときに、その強い衝動みたいなものが自分の無意識と重なり合ってしまうような経験です。この現象には、時として重い精神的な負担が発生します。このような人を援助する仕事は、ともすれば自らの精神や心の健康に支障をきたしかねない厳しい仕事です。
日本は、自殺問題に関するタブー性が強いといわれています。自ら命を絶って亡くなられた方に対して、何があったのかを掘り起こすことが忌み嫌われる傾向にあります。これは一種の国民性や文化と言ってしまえばそうですが、例えば自殺者数を減らそうと思ったら弊害となります。近年、政治の中でも自殺者のバイオグラフィーを調査することによって、何が自殺の原因になっているかを社会的に考える風潮も高まってきており、これは世の中の一つの変化といえるでしょう。
2000年ごろから、日本の自殺者数は年間30,000人を超えました。民主主義先進国では国民一人当たりの自殺率としてはトップクラスであり、この国の何かがおかしくなってしまったのではないでしょうか。ある社会学者は、世の中が無秩序であることと自殺の増加に大きな因果関係があることを指摘しています。
このように、自殺問題は掘り下げていくと大きな問題です。このブログでは一つのカテゴリを設けて、自殺対策をはじめとして様々な自殺問題にまつわることを掲載していきたいと思います。(新ブログでは、自殺問題を取り上げる場合は、カテゴリをその都度考えます。)
(2010年7月11日追記、再掲載時に加筆修正)
「文化・書籍から考える」で取り上げようと思ったのですが、ここで紹介したほうがいいと思いましたので下記の書籍をご紹介します。
清水康之氏は、政権交代後内閣府で自殺問題に取り組まれています。清水氏はNPO法人自殺対策支援センター「ライフリンク」代表です。ご自身が、自殺遺児の番組作成を経験されたことから、NHKを退社してまで、子どもたちとかかわりあい、この問題に従事されています。自殺遺児は、小さい頃に親をなくして生きていかざるを得なくなった子どもたちです。
彼らは、自我が未成熟であることによる心の傷だけでなく、その後の就学や就労にまで影響が及ぶといわれています。このような親を早くに亡くしてしまった子どもたちは、社会生活を歩む上での自律性が大きく損なわれてしまいます。人間が、社会の中で他者との相克をのりこえて調節しながらバランスを保って生きるには、人間のコミュニケーション能力をはじめ、さまざまなものの全体的な立ち上がり、そして統合が必要です。それを育む学校共同体の衰退も叫ばれて久しい昨今です。
清水氏は、親の自殺という問題をかかえた子どもたちと直接対話するように向き合って、厳しい条件のなかでNPOの活動をされてきました。最近発売された上記の書籍で、冒頭に次のように述べています。
(「はじめに」より p.11)
「坂の上の雲」を抜けた先に、誰もが「何かおかしい」と感じずにはいられない自殺社会にたどり着いてしまった原因を、もし、この機に見つけることができたなら、「百年に一度の危機」は「百年に一度のチャンス」に変わる。自殺の問題を徹底して掘り下げた先に、この生きづらい社会の正体を明らかにすることができたなら、「自殺社会」は「生き心地の良い社会」へと踏み出す手がかりになる。
本書は、そんな淡い期待を込めて臨んだ対談集である。読み終えたとき、私が抱いた期待感が、皆さんの共感になっていたならば、これほどうれしいことはない。
このブログで清水氏のご活動を勝手に取りあげるのは非常に失礼な話ですが、重要な教訓を与えてくれるのではないかと思い、取り上げさせていただきました。皆さんも、お考えになってみていただけるとうれしいです。
-最終更新日:2010年8月25日(水)-
自分のこれまでの経験ですが、近親者を自殺でなくした方が知り合いにいます。このような出来事はその人の人生を大きく変えます。一般に流通している「トラウマ」という言葉ではくくれない、一種の大変な心の労働を強います。人によっては、この問題に深く関連する職業に強く取り組むことになります。
それは、親愛な人との自殺による離別が、場合によっては一生解消されない葛藤であるがゆえ、その人の人生で取り組み続けることでしか解決できない問題だからでしょう。小さなときにこのような悲劇を経験をしてしまったら、人間形成に大きな影響を及ぼすといわれています。
集団ストーカー被害者も、多くの人は自殺を考えます。私は、上記のような人と接する機会が多かったこともあるのか、自殺に強い関心があります。これだけで普通の人間とは言えませんが、自殺問題というものに一つの執念みたいながのがあります。
世の中には、自殺という問題に取り組む職業の人がいます。直接的に自殺の危険性がある人を支援するのは、精神科医・精神分析家や臨床心理士、ソーシャルワーカーといった仕事に従事されている方ではないでしょうか。個人的にこのような方とお話したことが沢山ありますが、予想以上に大変な仕事です。
これらの仕事には「転移」という概念があります。例えば、目の前に自殺願望を抱いている人と話をしたときに、その強い衝動みたいなものが自分の無意識と重なり合ってしまうような経験です。この現象には、時として重い精神的な負担が発生します。このような人を援助する仕事は、ともすれば自らの精神や心の健康に支障をきたしかねない厳しい仕事です。
日本は、自殺問題に関するタブー性が強いといわれています。自ら命を絶って亡くなられた方に対して、何があったのかを掘り起こすことが忌み嫌われる傾向にあります。これは一種の国民性や文化と言ってしまえばそうですが、例えば自殺者数を減らそうと思ったら弊害となります。近年、政治の中でも自殺者のバイオグラフィーを調査することによって、何が自殺の原因になっているかを社会的に考える風潮も高まってきており、これは世の中の一つの変化といえるでしょう。
2000年ごろから、日本の自殺者数は年間30,000人を超えました。民主主義先進国では国民一人当たりの自殺率としてはトップクラスであり、この国の何かがおかしくなってしまったのではないでしょうか。ある社会学者は、世の中が無秩序であることと自殺の増加に大きな因果関係があることを指摘しています。
このように、自殺問題は掘り下げていくと大きな問題です。このブログでは一つのカテゴリを設けて、自殺対策をはじめとして様々な自殺問題にまつわることを掲載していきたいと思います。(新ブログでは、自殺問題を取り上げる場合は、カテゴリをその都度考えます。)
(2010年7月11日追記、再掲載時に加筆修正)
「文化・書籍から考える」で取り上げようと思ったのですが、ここで紹介したほうがいいと思いましたので下記の書籍をご紹介します。
![]() | 「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ (講談社文庫) (2010/03/12) 清水 康之上田 紀行 商品詳細を見る |
清水康之氏は、政権交代後内閣府で自殺問題に取り組まれています。清水氏はNPO法人自殺対策支援センター「ライフリンク」代表です。ご自身が、自殺遺児の番組作成を経験されたことから、NHKを退社してまで、子どもたちとかかわりあい、この問題に従事されています。自殺遺児は、小さい頃に親をなくして生きていかざるを得なくなった子どもたちです。
彼らは、自我が未成熟であることによる心の傷だけでなく、その後の就学や就労にまで影響が及ぶといわれています。このような親を早くに亡くしてしまった子どもたちは、社会生活を歩む上での自律性が大きく損なわれてしまいます。人間が、社会の中で他者との相克をのりこえて調節しながらバランスを保って生きるには、人間のコミュニケーション能力をはじめ、さまざまなものの全体的な立ち上がり、そして統合が必要です。それを育む学校共同体の衰退も叫ばれて久しい昨今です。
清水氏は、親の自殺という問題をかかえた子どもたちと直接対話するように向き合って、厳しい条件のなかでNPOの活動をされてきました。最近発売された上記の書籍で、冒頭に次のように述べています。
(「はじめに」より p.11)
「坂の上の雲」を抜けた先に、誰もが「何かおかしい」と感じずにはいられない自殺社会にたどり着いてしまった原因を、もし、この機に見つけることができたなら、「百年に一度の危機」は「百年に一度のチャンス」に変わる。自殺の問題を徹底して掘り下げた先に、この生きづらい社会の正体を明らかにすることができたなら、「自殺社会」は「生き心地の良い社会」へと踏み出す手がかりになる。
本書は、そんな淡い期待を込めて臨んだ対談集である。読み終えたとき、私が抱いた期待感が、皆さんの共感になっていたならば、これほどうれしいことはない。
このブログで清水氏のご活動を勝手に取りあげるのは非常に失礼な話ですが、重要な教訓を与えてくれるのではないかと思い、取り上げさせていただきました。皆さんも、お考えになってみていただけるとうれしいです。
民主主義における自由とは何か
-最終更新日:2010年8月7日(土)-
民主主義社会でこのような被害が起きた。それを民主主義社会はどのように乗り越えなければならないかということを考える必要があります。それには、民主主義が内包する「自由」という考え方を確かめておく必要があります。ここでは、自由主義について考えてみたいと思います。
自由という概念が政治においてはじめて考えられたのが、17世紀、イギリスのジョン・ロックの思想といわれています。自由主義とは、当時の専制国家の権力を抑制して個人の権利を認めようという動きから始まった思想であり、例えば現在の日本であれば基本的人権の尊重などがこれにあたります。ジョン・ロックの思想は後の市民革命につながったといわれています。
その後、経済活動についても自由主義が持ち込まれました。18世紀のアダム・スミスです。これは産業革命のときの自由主義経済を支える考えを示したもので、現在に至るまで自由主義経済の考え方の基本となっています。
また、一方で国が経済にあまり介入しない自由主義経済に対して、大きく介入して経済を立て直すような場合を計画経済などと呼んでいます。歴史はこの繰り返しで、自由主義で経済がうまくいかないときは国家の経済介入のニーズが発生しますし、国家の計画性が失敗したときには経済の自由主義にニーズが発生します。
1929年の世界恐慌の後には、計画経済的な考え方(ケインズ主義)が主流になりました。また、計画経済的な政策によって財政危機に陥ったら、サッチャー政権やレーガン政権のように自由主義経済の考え方が主流となりました。考え方によっては、現在はこの二つの考え方の両方が必要な時代といえるかもしれません。
そして、最後にこの被害について述べるなら、世界的な競争がエスカレートしたという社会の流れ、そして何よりも恐ろしい技術がこの暴走に寄与してきたのではないでしょうか。そこには、特定の考え方は関係なかったのではないかと思います。
理論上ではどちらの傾向が強い民主主義社会でもこのような現象が生じる可能性を理論的に排除できません。ですから、考え方は関係ないという結論に達ました。
この問題と、その恐ろしいまでのマインドコントロールに打ち勝つには、民主主義を信じる強い精神が必要です。それをこのような方法によってコントロールすることは民主主義の理念に大きく反するものです。それによって、個人の人格や精神が破壊されてしまったり、人生が損なわれてしまってはなりません。この技術によってもたらされる被害は、個人と社会の自由を求める強い意志によって打破されなければなりません。
また、安易に社会や個人がこのような加害行為に迎合することも、再びこの被害を暴走させてしまうことになります。社会全体がこの問題に危機意識を持ち、再発と被害の深刻化を防ぐという意識を常に持つ必要があると思います。
この被害は、被害者の「自由」を大きく侵害するものであり、これを私は民主主義の衰退と表現しました。上記で考えた「自由」という権利を獲得して進化させるのに、人類がどれだけ苦労したかを改めて考えなければなりません。
再度申し上げますが、このように恐ろしい技術と加害行為を加速させる社会の流れが悪い。そこに考え方は関係ない。これを強調してブログを再開させていただきたいと思います。
【記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
民主主義社会でこのような被害が起きた。それを民主主義社会はどのように乗り越えなければならないかということを考える必要があります。それには、民主主義が内包する「自由」という考え方を確かめておく必要があります。ここでは、自由主義について考えてみたいと思います。
自由という概念が政治においてはじめて考えられたのが、17世紀、イギリスのジョン・ロックの思想といわれています。自由主義とは、当時の専制国家の権力を抑制して個人の権利を認めようという動きから始まった思想であり、例えば現在の日本であれば基本的人権の尊重などがこれにあたります。ジョン・ロックの思想は後の市民革命につながったといわれています。
その後、経済活動についても自由主義が持ち込まれました。18世紀のアダム・スミスです。これは産業革命のときの自由主義経済を支える考えを示したもので、現在に至るまで自由主義経済の考え方の基本となっています。
また、一方で国が経済にあまり介入しない自由主義経済に対して、大きく介入して経済を立て直すような場合を計画経済などと呼んでいます。歴史はこの繰り返しで、自由主義で経済がうまくいかないときは国家の経済介入のニーズが発生しますし、国家の計画性が失敗したときには経済の自由主義にニーズが発生します。
1929年の世界恐慌の後には、計画経済的な考え方(ケインズ主義)が主流になりました。また、計画経済的な政策によって財政危機に陥ったら、サッチャー政権やレーガン政権のように自由主義経済の考え方が主流となりました。考え方によっては、現在はこの二つの考え方の両方が必要な時代といえるかもしれません。
そして、最後にこの被害について述べるなら、世界的な競争がエスカレートしたという社会の流れ、そして何よりも恐ろしい技術がこの暴走に寄与してきたのではないでしょうか。そこには、特定の考え方は関係なかったのではないかと思います。
理論上ではどちらの傾向が強い民主主義社会でもこのような現象が生じる可能性を理論的に排除できません。ですから、考え方は関係ないという結論に達ました。
この問題と、その恐ろしいまでのマインドコントロールに打ち勝つには、民主主義を信じる強い精神が必要です。それをこのような方法によってコントロールすることは民主主義の理念に大きく反するものです。それによって、個人の人格や精神が破壊されてしまったり、人生が損なわれてしまってはなりません。この技術によってもたらされる被害は、個人と社会の自由を求める強い意志によって打破されなければなりません。
また、安易に社会や個人がこのような加害行為に迎合することも、再びこの被害を暴走させてしまうことになります。社会全体がこの問題に危機意識を持ち、再発と被害の深刻化を防ぐという意識を常に持つ必要があると思います。
この被害は、被害者の「自由」を大きく侵害するものであり、これを私は民主主義の衰退と表現しました。上記で考えた「自由」という権利を獲得して進化させるのに、人類がどれだけ苦労したかを改めて考えなければなりません。
再度申し上げますが、このように恐ろしい技術と加害行為を加速させる社会の流れが悪い。そこに考え方は関係ない。これを強調してブログを再開させていただきたいと思います。
【記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
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