- 2010/08/30 当事者の連帯によって問題解決をはかるセルフヘルプグループについて
- 2010/08/29 この問題への公的機関と専門領域の対処とは (1)
- 2010/08/25 日本の伝統文化と融合・調和の美
- 2010/08/23 日本における自殺問題の深刻さと自殺に向き合う専門労働家たち
- 2010/08/17 加害行為の残忍性について
- 2010/08/09 被害のまとめ、書籍・NPO法人の紹介
- 2010/08/05 思いやりと自発性で経済を支える社会
- 2010/08/04 和と絆、この対話が日本人にもたらすもの
- 2010/08/03 技術とイノベーションによる社会の円滑推進について
- 2010/08/03 集団ストーカー問題とひきこもりの類似点
当事者の連帯によって問題解決をはかるセルフヘルプグループについて
-最終更新日:2010年8月30日(月)-
ひとつ前の記事で、この問題を日本社会が本気で解決しようと思ったら、公的機関や専門家が早急に広範な領域で取り組まなければならないということを述べました。このような取り組みが全くされてこなかったことによって、被害者は長い間、差別と抑圧の中に閉じ込められていました。
それでも、すべてが述べきれたわけではありません。考察するにあたって、人に対する援助を全体的にコーディネートして実践するという社会福祉学がとっつきやすかっただけです。
今回は、題名の通り、前回で少し触れた「セルフヘルプグループ」という観点から述べようと思います。専門用語で申し訳ありませんが、「難病の子どもの親の会」や「アルコール依存症当事者の会」など、当事者の集まりの会だと思ってください。
例えば、私が、厚生労働省が「難病」と指定する病気にかかったとします。筋萎縮性側索硬化症やベーチェット病など、130の疾患にわたります。もしその病気にかかってしまったら、患者やその家族は、思い精神的負担と経済的負担を強いられます。
このような難病にかかったとき、一番辛いのは、同じ難病を克服する仲間が近くにいないことです。患者数が多くて患者会が全国にある難病もありますが、患者数が数百人以下の難病は仲間を見つけることに困難を伴います。基本的に、難病を治療するのは医師です。しかし、患者同士が当事者としての生の声を共有することによって、精神的な負担の軽減を大きくはかることができます。お互いを励ましながら乗り越えるというのは、どの世界でも同じです。近年では、インターネットの技術などによって遠隔通信が成功している事例もあるようです。
ここで、以前取り上げた自殺問題を取り上げます。厚生労働省が調査した日本の自殺の原因は、「健康問題」がトップで、「生活経済問題」が2位です。この二つで90%以上を占めます。それ以降は、「家庭問題」、「勤務問題」、「男女問題」、「学校問題」と続きます。トップの「健康問題」とは病苦のことです。社会の表には出てきませんが、病苦による、経済難を伴った自殺は多いものと思われます。自殺というものは、このように、複合的にさまざまな原因が重なって選択されるケースがほとんどです。単一の困難では、人間はなかなか死に至りません。それだけ、自殺の危険性がある個人やその周辺の家族は、貧困などさまざまな生活的な困難に瀕しています。
話がそれましたが、人間が社会の中においてたったひとりで抱え込むには重すぎる問題は、当事者同士の語り合いがなければ乗り越えられません。阪神大震災でも、現地の人が協力し合って困難を乗り越えました。今でも1月17日には、神戸では追悼式典が開かれます。これは、人間が生きるにあたってごく自然な現象ではないでしょうか。
もう少し、このセルフヘルプグループについて掘り下げてみたいと思います。前回お話した、地域包括支援センターの取り組みのなかで、ひとりの高齢者をさまざまな立場の人が支援する図式を載せました。このなかで、医師、看護師、ソーシャルワーカー、ケアマネジャー、訪問介護員は、いわゆる「専門家」です。病気は医師や看護師でないと医療行為はできませんし、介護のケアプランは法律的にケアマネジャーでしか作成できません。彼らは、給料をもらう代わりに、身につけた専門知識で人助けをします。失敗は許されないなかで、強い緊張感をもって仕事に望んでいます。
しかし、人助けのプロだけでは、治療効果が十分に発揮できないケースもあります。上記の難病の場合、患者数が少ないことによる孤独感は想像を絶するものがあるでしょう。
それだけではありません。例えば、社会生活の中で病気固有の困難さがあるとします。被害者は自分の生活上の知恵で、これらの上手な克服法を編み出します。専門家が顔負けするほど自分で工夫する方もいらっしゃいます。しかし、患者一人ひとりが孤独な状況だと、せっかくのその知恵も共有されません。難しい病気の患者同士はつながってはじめていきいきと暮らすことができるのです。ソーシャルワーキングの世界でも、この「わかちあい」の効果が認められ、援助計画に積極的に導入される時代となりました。
このセルフヘルプグループは、さまざまな学術領域に示唆を与えています。例えば教育学の言葉をかりてみましょう。教育学の命題のひとつである「他からの支配や制約などを受けずに、自らの規範や道徳心に従って行動する人間形成を目指すという観点」から、このセルフヘルプグループへの参与は、問題の深刻さによって自律性を失ってしまった人たちの回復をもたらす効果があるということができるはずです。つまり、セルフヘルプグループのなかでのさまざまな助け合いの経験が、社会のなかで再び生き直すきっかけになるということです。
これは、以前に取り上げたDV問題からだと分かりやすいと思います。被虐待の家族構成員は、ただ暴力に耐えて苦しみながら生きているわけではありません。そこには虐待する側への決して報われない献身が含まれます。これは、親に暴力を振るわれながら、多くの子どもがまじめに勉強しようとすることから分かっていただけると思います。子どもが食事を作ったり家事をするケースも多いかもしれません。このような状態をダブルバインド(二重拘束)といいます。親が暴力を振るいながら子どもを必要としているからです。肯定と否定のメタメッセージを同時に送りつけているということに他なりません。
この状態は、虐待を受けている側にとって、健全とは全くいえない状態です。命に危険があるかもしれませんし、情緒的な成長にも非常に悪影響を及ぼすといわれています。したがって、このようなときにはその関係を引き離す必要があります。被虐待の家族は、毎日を極度に張り詰めた状態で生活を送らざるを得なくなっています。そのような中では、自分で物事を判断して主体的に生きるという生活ができる筈がありません。失ってしまった自分を、同質性の問題を抱えた人との協働や連帯によって回復させる必要があります。ここに、セルフヘルプグループの役割の重要性があります。ただ単純にグループの維持や存続ために人が集まっているのではありません。参加者がお互いの回復を探る上で、グループのなかで良好な連帯関係が成立しているからです。
このように特定の目的のために人為的に形成された組織を、社会学ではアソシエーション(Association)といいます。所与の組織の場合をコミュニティ(Community)といいます。地域共同体のなかでの包括的な福祉の援助技術をコミュニティワークというのはそのためです。どの地域にもある社会福祉協議会などがこれらの地域福祉計画を推進させています。
話がわき道にそれましたが、あらゆる解決が困難な問題において、歴史的に当事者の会であるセルフヘルプグループは重要な役割を果たしてきました。この問題においても例外はないでしょう。利益ばかりを追求するような極めて悪質な組織への参加は学術的に何の価値もありません。しかし、このような危機に立たされた人間が倫理的なつながりにおいて手を取り合う組織への参加というのは、極めて学術的に真正な人間関係が行われているものとして大きくピックアップされます。それゆえ、多くの学術領域が、近年、セルフヘルプグループに注目しているのです。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
ひとつ前の記事で、この問題を日本社会が本気で解決しようと思ったら、公的機関や専門家が早急に広範な領域で取り組まなければならないということを述べました。このような取り組みが全くされてこなかったことによって、被害者は長い間、差別と抑圧の中に閉じ込められていました。
それでも、すべてが述べきれたわけではありません。考察するにあたって、人に対する援助を全体的にコーディネートして実践するという社会福祉学がとっつきやすかっただけです。
今回は、題名の通り、前回で少し触れた「セルフヘルプグループ」という観点から述べようと思います。専門用語で申し訳ありませんが、「難病の子どもの親の会」や「アルコール依存症当事者の会」など、当事者の集まりの会だと思ってください。
例えば、私が、厚生労働省が「難病」と指定する病気にかかったとします。筋萎縮性側索硬化症やベーチェット病など、130の疾患にわたります。もしその病気にかかってしまったら、患者やその家族は、思い精神的負担と経済的負担を強いられます。
このような難病にかかったとき、一番辛いのは、同じ難病を克服する仲間が近くにいないことです。患者数が多くて患者会が全国にある難病もありますが、患者数が数百人以下の難病は仲間を見つけることに困難を伴います。基本的に、難病を治療するのは医師です。しかし、患者同士が当事者としての生の声を共有することによって、精神的な負担の軽減を大きくはかることができます。お互いを励ましながら乗り越えるというのは、どの世界でも同じです。近年では、インターネットの技術などによって遠隔通信が成功している事例もあるようです。
ここで、以前取り上げた自殺問題を取り上げます。厚生労働省が調査した日本の自殺の原因は、「健康問題」がトップで、「生活経済問題」が2位です。この二つで90%以上を占めます。それ以降は、「家庭問題」、「勤務問題」、「男女問題」、「学校問題」と続きます。トップの「健康問題」とは病苦のことです。社会の表には出てきませんが、病苦による、経済難を伴った自殺は多いものと思われます。自殺というものは、このように、複合的にさまざまな原因が重なって選択されるケースがほとんどです。単一の困難では、人間はなかなか死に至りません。それだけ、自殺の危険性がある個人やその周辺の家族は、貧困などさまざまな生活的な困難に瀕しています。
話がそれましたが、人間が社会の中においてたったひとりで抱え込むには重すぎる問題は、当事者同士の語り合いがなければ乗り越えられません。阪神大震災でも、現地の人が協力し合って困難を乗り越えました。今でも1月17日には、神戸では追悼式典が開かれます。これは、人間が生きるにあたってごく自然な現象ではないでしょうか。
もう少し、このセルフヘルプグループについて掘り下げてみたいと思います。前回お話した、地域包括支援センターの取り組みのなかで、ひとりの高齢者をさまざまな立場の人が支援する図式を載せました。このなかで、医師、看護師、ソーシャルワーカー、ケアマネジャー、訪問介護員は、いわゆる「専門家」です。病気は医師や看護師でないと医療行為はできませんし、介護のケアプランは法律的にケアマネジャーでしか作成できません。彼らは、給料をもらう代わりに、身につけた専門知識で人助けをします。失敗は許されないなかで、強い緊張感をもって仕事に望んでいます。
しかし、人助けのプロだけでは、治療効果が十分に発揮できないケースもあります。上記の難病の場合、患者数が少ないことによる孤独感は想像を絶するものがあるでしょう。
それだけではありません。例えば、社会生活の中で病気固有の困難さがあるとします。被害者は自分の生活上の知恵で、これらの上手な克服法を編み出します。専門家が顔負けするほど自分で工夫する方もいらっしゃいます。しかし、患者一人ひとりが孤独な状況だと、せっかくのその知恵も共有されません。難しい病気の患者同士はつながってはじめていきいきと暮らすことができるのです。ソーシャルワーキングの世界でも、この「わかちあい」の効果が認められ、援助計画に積極的に導入される時代となりました。
このセルフヘルプグループは、さまざまな学術領域に示唆を与えています。例えば教育学の言葉をかりてみましょう。教育学の命題のひとつである「他からの支配や制約などを受けずに、自らの規範や道徳心に従って行動する人間形成を目指すという観点」から、このセルフヘルプグループへの参与は、問題の深刻さによって自律性を失ってしまった人たちの回復をもたらす効果があるということができるはずです。つまり、セルフヘルプグループのなかでのさまざまな助け合いの経験が、社会のなかで再び生き直すきっかけになるということです。
これは、以前に取り上げたDV問題からだと分かりやすいと思います。被虐待の家族構成員は、ただ暴力に耐えて苦しみながら生きているわけではありません。そこには虐待する側への決して報われない献身が含まれます。これは、親に暴力を振るわれながら、多くの子どもがまじめに勉強しようとすることから分かっていただけると思います。子どもが食事を作ったり家事をするケースも多いかもしれません。このような状態をダブルバインド(二重拘束)といいます。親が暴力を振るいながら子どもを必要としているからです。肯定と否定のメタメッセージを同時に送りつけているということに他なりません。
この状態は、虐待を受けている側にとって、健全とは全くいえない状態です。命に危険があるかもしれませんし、情緒的な成長にも非常に悪影響を及ぼすといわれています。したがって、このようなときにはその関係を引き離す必要があります。被虐待の家族は、毎日を極度に張り詰めた状態で生活を送らざるを得なくなっています。そのような中では、自分で物事を判断して主体的に生きるという生活ができる筈がありません。失ってしまった自分を、同質性の問題を抱えた人との協働や連帯によって回復させる必要があります。ここに、セルフヘルプグループの役割の重要性があります。ただ単純にグループの維持や存続ために人が集まっているのではありません。参加者がお互いの回復を探る上で、グループのなかで良好な連帯関係が成立しているからです。
このように特定の目的のために人為的に形成された組織を、社会学ではアソシエーション(Association)といいます。所与の組織の場合をコミュニティ(Community)といいます。地域共同体のなかでの包括的な福祉の援助技術をコミュニティワークというのはそのためです。どの地域にもある社会福祉協議会などがこれらの地域福祉計画を推進させています。
話がわき道にそれましたが、あらゆる解決が困難な問題において、歴史的に当事者の会であるセルフヘルプグループは重要な役割を果たしてきました。この問題においても例外はないでしょう。利益ばかりを追求するような極めて悪質な組織への参加は学術的に何の価値もありません。しかし、このような危機に立たされた人間が倫理的なつながりにおいて手を取り合う組織への参加というのは、極めて学術的に真正な人間関係が行われているものとして大きくピックアップされます。それゆえ、多くの学術領域が、近年、セルフヘルプグループに注目しているのです。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
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この問題への公的機関と専門領域の対処とは (1)
~社会福祉援助技術の視点から~
-最終更新日:2010年8月29日(日)-
題名の通り、以前掲載した公的機関と専門領域の被害者に対する援助について考えを進めてみたいと思います。ただし、これらを扱う領域は広大であるために、一度の掲載ではすべてを論述できません。今回は、社会福祉学のなかでも「社会福祉援助技術」という領域で考察してみたいと思います。
社会福祉学を学んだことがない方は、「社会福祉援助技術」っていったい何だろう、と思われるかもしれません。端的にいえば、受験の科目のなかに「国語」があるのと同じように、人を援助する仕事の資格試験の受験科目のひとつです。例えば、社会福祉士や介護福祉士などです。
内容はといえば、文字通り、「社会福祉学の観点で人を援助する専門技術」ということになります。ただし、社会福祉学固有の内容というわけではなく、人を助けるさまざまな学術領域と範疇がかさなります。例をあげるなら、教育学、精神医学、心理学、看護学などです。何が違うのかといえば、人を助けることにおいて何を重視するかです。例えば心理学は、人の心の働きにおいて困難を抱えている人を助ける学術モデルです。一方で社会福祉学は、社会と人のかかわりを重視します。社会の中でどのように自立して充実した生活を送れるかなどを追求します。だからといって、それぞれの学術領域がお互いのことを排除しあうのではありません。どの領域でも人を助けるためにはさまざまな方法が用いられます。腕のいい心療内科が、薬物療法だけでなく生活のアドバイスや心理カウンセリングなどさまざまな方法でクライアントを回復させようとするのと同じです。社会福祉学では、人を助けるにあたっては、「ジェネラリスト・アプローチ」と呼ばれるように、狭い専門性に閉じこもるのではなく、さまざまなアプローチを駆使して人を援助する専門家がよいとされます。
ここでは、その人と社会の関係を重視する学術領域である「社会福祉援助技術」において、この問題を抱えた被害者に対して何ができるかを考察してみたいと思います。
高齢者介護における地域包括支援センターの取り組み
「地域包括支援センター」という言葉は、この記事をご覧のみなさんも聞いたことがあるかもしれません。高齢者の方を介護されているご家庭ならなおさらでしょう。この高齢者介護を例に考えてみたいと思います。
私の家庭には、この「地域包括支援センター」のお世話になっている祖母がいます。具体的には、月に一度程度「地域包括支援センター」のスタッフの方が来られて、父と祖母を交えて話をします。祖母は要介護認定です。これは、通常の社会生活を自分ひとりで送ることが困難であるために、国から支援を受けているということです。
高齢者の方は、円滑な社会生活を行うための身体能力などが失われてしまっているケースが多い現状があります。その程度は人それぞれで、元気な高齢者もいれば、歩くことが困難な高齢者もいます。一人で社会生活が行うことが困難で、しかも一人暮らしの高齢者は、重点的なケアが必要です。このように、暮らしにくさを抱えた程度によって、どのように支援するかを「地域包括支援センター」のソーシャルワーカーがヒアリングしながら決定して、ケアスタッフがチームになって必要なサービスを提供します。
この「地域包括支援センター」は、前身は「在宅介護支援センター」です。2005年2月に制度が施行されました。高齢者が自立して生活できないことによる病気の悪化を防ぐための、「予防介護」という考え方に基づいたものです。これは、以前に申し上げた遠隔予防医療と同じで、社会保障費や医療費を削減するといった目的のものです。
例えば、私の家の祖母は、父が健康で十分介護することができているので、行政による介入の必要はあまりありません。それでも、孤独になりがちであることや、歩行が困難であることなどから、月に数回デイケアに行っています。どの程度利用する必要があるかは人それぞれです。
では、必要なサービスはどのように決定されるのでしょうか。話が長くなりましたが、ここで「社会福祉援助技術」という考え方を持ち出してみたいと思います。
これらの援助は、単純にワーカーの恣意によって決定されるわけではありません。根本的な理念として、高齢者が自立(自律)した生活が行われること、人間らしい生活ができることなどがまず中心に存在します。そして、そのためには何が必要かを計画的に考えます。クライアントの社会環境を調査するアセスメントから始まり、具体的な介入が計画的に行われます。長期にわたるものも存在します。
以下は、架空の事例ですが、ワーカーが当事者をアセスメントして作成するエコマップと呼ばれるものです。

【エコマップ(社会福祉援助技術の教科書から作成)】
このように、家族関係の調査から、当事者だけでなく家族の誰に支援が必要か、またどのインフラが利用できるかをマッピングして、援助計画を作成します。支援に効果があるものはあらゆるものを利用するのが社会福祉援助技術の基本です。援助の方法論は、伝統的に、①ケースワーク、②グループワーク、③コミュニティワークという区分がされますが、これらをすべて駆使するということです。
このエコマップにもある「地域包括支援センター」は、現在では高齢者だけでなく、DV問題を抱えた家庭に対する介入なども行っています。地域の福祉の総合拠点のという位置づけです。
このように、社会福祉学を学んだことのない方はなかなか知らない世界ですが、アセスメントを行って援助計画を立てるだけでも、経験がかなり必要な高度な作業です。この方法論が、このブログで扱っている問題の被害者にも応用できないかというのが、今回の記事のねらいです。
この問題の架空の事例から考察
では、この問題の被害者の架空の事例を作ってみます。自分の被害の経験から作成するという要素が強いですが、このようなものだと思ってください。
太郎さん(仮名) 37歳・男性
【加害の状況】
数年前から、人による付きまといやほのめかしが始まった。当初にたたみ掛けるように行われたせいで、強い心的外傷を受ける。以後、外出時に必ず加害行為が行われることから、外出が困難になる。
そのような中でも何とか正社員として働いてきたが、職場での加害行為も含めたストレスの過多のために3ヵ月後に退職。閉じこもりがちな生活になる。
このままではいけないと思い、精神的に持ち直したあとに就職活動を再開。しかし、就職妨害を受け、どの面接も通過しない。何とか日雇いの仕事に就いている。年収は100万円程度。家族を養っていける状態ではないため、結婚を諦めている。
加害行為が始まってから数年後、テクノロジーによる加害行為が被害の中心になる。ここで再び精神的な危機が訪れる。これを境に、身体的な不調も顕著になってきた。しかし、現段階では加害行為をやめさせる法的手段が存在しないため、状況の改善はありえないと考え、ほとんど外出することもなく暮らしている。
【家族の状況】
自宅での家族構成は、父(62)、母(64)、祖母(83)である。親戚が近隣に住んでいるが、この件では相談したことがない。両親には何度も説明したが、ようやく少し理解されるまで1年を要した。その間、父親には、就業が無理な状態で何とか働きに出ろと急かされる。理解がないため、誤解が生じて、家庭内が不和となる。自分以外の家族は加害行為をほとんど受けていない。
【加害までの生育暦】
少年時代、青年時代は何のトラブルもなく平凡にすごしてきた。周囲と協調的な性格という評判で、成績も上位であった。何の苦もなく私立上位大学に合格。エンジニアを志して、企業研究職に内定。企業での働きぶりも周囲に評されるほどであった。
ところが、何の前触れもなく加害行為が発生。その後、企業での成績は大きく落ち込む。周囲には誤解されてはならないために相談していない。むしろ、企業のなかのだれが加害者であるか猜疑心におちいる。それまで親しかった同僚が加害行為に及んだためである。結果、精神的に破綻を来たしたために退職を余儀なくされる。
これはあくまで架空の事例です。(自分のケースでもありません)被害者によっては子どもの頃から被害を受けていたり、高齢者になって受けたり、さまざまです。また、人による嫌がらせが中心であるか、テクノロジーによる加害が中心であるかも個人差があるようです。
これを、この問題の専門援助職がアセスメントをしたと仮定します。その結果、下記のような社会生活上の困難が抽出されたとしましょう。
カテゴライズされた被害者の社会生活上の困難(あくまで架空の事例です)
【身体的影響】
1-1 睡眠妨害による不眠
1-2 身体への痛みの送信など、苦痛と不快感
1-3 数年にわたる電磁波の集中的な照射で右ひざが弱体化
1-4 常時の電磁波の照射で、知的能力や記憶力が低下
1-5 皮膚に赤い斑点や小さな傷が発生
【心理的影響】
2-1 外出時に強いストレスがかかるために外出が困難
2-2 携帯を向けてくる人間に恐怖感を感じる
2-3 クラクションが鳴ったら恐怖感を感じる
2-4 ぞろ目のナンバーの車を見ると恐怖感を感じる
2-5 誰が加害者かわからないことによる人間不信
2-6 他の人には聞こえない音が聞こえても、平静を装わなければならないつらさ
【仕事に対する妨害】
3-1 意識への介入で仕事に対するやりがいが失われる
3-2 PCに対する介入で作業妨害
3-3 PCに対する介入でデータを失う
3-4 仕事中に外部からの罵声で妨害される
【人間関係の操作】
4-1 親しかった人が急に疎遠になる
4-2 旧友からの手紙が届かなくなった
4-3 近所の目がなぜかすべて自分に対する不審者扱いへと変化
4-4 数少ない友人と会話しているときに威圧的な妨害がある
【社会資源のアクセシビリティからの疎外】
5-1 就職妨害による就業困難 それによる経済的困窮
5-2 図書館での加害行為が激しいため、行けない
5-3 公共交通機関は逃れ場所がないので乗れない
5-4 加害行為をたたみ掛けられたときの避難場所がない
【差別などの社会的抑圧】
6-1 同級生の和からの疎外
6-2 公的機関が被害についてまともに聞いてくれないどころか、加害行為を行ってくる
6-3 両親以外の理解者がまったくない
【家族への影響】
7-1 両親の精神的負荷の増大
7-2 家族内の不和
7-3 兄弟の結婚に悪影響が生じる
7-4 両親の社会的地位の低下
7-5 母親の鬱
思いつくままに羅列してみました。被害者の置かれた状況がこのようなものであると考えると、相当の苦痛のなかで社会生活を行っていることが想像していただけると思います。この上に、加害行為がエスカレートしたときは、主観的に拷問を受けているかのような感覚におちいります。このような被害事例に、専門領域や公的機関は何ができるのでしょうか。
上記の介護高齢者に対するエコマップを見てください。医師、看護師、リハビリを担当するPT、ケア・マネジャー、訪問介護員、近隣の住民、セルフヘルプグループの当事者たちが、一人の高齢者のために支援を提供しています。ここで、ソーシャルワーカーがこれらの総合的なバランスをコーディネートする役割を担います。あらゆる方法を駆使してというのはこういうことです。注)
このブログの問題も同様です。必要なのは、被害者一人に対してさまざまな立場の人が支援を行わなければ、解決も社会生活への復帰もありえません。ここで、表にしてどのような対処が可能かを考えてみます。

これはあくまでも自分が試しに作ってみたものにしか過ぎません。当事者や専門家の協働によって、さらによい被害者の救済のための計画が作成される時代が来ることを願ってやみません。
注) PTとは理学療法士(Physical Therapist)。また、OTと呼ばれる作業療法士(Occupational Therapist)も高齢者の社会生活上の機能維持のために欠かせません。
また、セルフヘルプグループ(self-help group)とは、「自助グループ」のことです。例をあげると、難病を抱えた子どもの親の会、アルコール依存症当事者の会、などが挙げられます。当事者が専門家にたよらず、自分たちで社会生活の改善を行うために(self-help:自ら助ける)と呼ばれています。
【記事に参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
(今回は社会福祉学をベースに考えてみましたが、今後さまざまな学術フィールドで、自分のできる範囲で集団ストーカー問題を考えてみたいと思います。長期掲載の予定です。)
-最終更新日:2010年8月29日(日)-
題名の通り、以前掲載した公的機関と専門領域の被害者に対する援助について考えを進めてみたいと思います。ただし、これらを扱う領域は広大であるために、一度の掲載ではすべてを論述できません。今回は、社会福祉学のなかでも「社会福祉援助技術」という領域で考察してみたいと思います。
社会福祉学を学んだことがない方は、「社会福祉援助技術」っていったい何だろう、と思われるかもしれません。端的にいえば、受験の科目のなかに「国語」があるのと同じように、人を援助する仕事の資格試験の受験科目のひとつです。例えば、社会福祉士や介護福祉士などです。
内容はといえば、文字通り、「社会福祉学の観点で人を援助する専門技術」ということになります。ただし、社会福祉学固有の内容というわけではなく、人を助けるさまざまな学術領域と範疇がかさなります。例をあげるなら、教育学、精神医学、心理学、看護学などです。何が違うのかといえば、人を助けることにおいて何を重視するかです。例えば心理学は、人の心の働きにおいて困難を抱えている人を助ける学術モデルです。一方で社会福祉学は、社会と人のかかわりを重視します。社会の中でどのように自立して充実した生活を送れるかなどを追求します。だからといって、それぞれの学術領域がお互いのことを排除しあうのではありません。どの領域でも人を助けるためにはさまざまな方法が用いられます。腕のいい心療内科が、薬物療法だけでなく生活のアドバイスや心理カウンセリングなどさまざまな方法でクライアントを回復させようとするのと同じです。社会福祉学では、人を助けるにあたっては、「ジェネラリスト・アプローチ」と呼ばれるように、狭い専門性に閉じこもるのではなく、さまざまなアプローチを駆使して人を援助する専門家がよいとされます。
ここでは、その人と社会の関係を重視する学術領域である「社会福祉援助技術」において、この問題を抱えた被害者に対して何ができるかを考察してみたいと思います。
高齢者介護における地域包括支援センターの取り組み
「地域包括支援センター」という言葉は、この記事をご覧のみなさんも聞いたことがあるかもしれません。高齢者の方を介護されているご家庭ならなおさらでしょう。この高齢者介護を例に考えてみたいと思います。
私の家庭には、この「地域包括支援センター」のお世話になっている祖母がいます。具体的には、月に一度程度「地域包括支援センター」のスタッフの方が来られて、父と祖母を交えて話をします。祖母は要介護認定です。これは、通常の社会生活を自分ひとりで送ることが困難であるために、国から支援を受けているということです。
高齢者の方は、円滑な社会生活を行うための身体能力などが失われてしまっているケースが多い現状があります。その程度は人それぞれで、元気な高齢者もいれば、歩くことが困難な高齢者もいます。一人で社会生活が行うことが困難で、しかも一人暮らしの高齢者は、重点的なケアが必要です。このように、暮らしにくさを抱えた程度によって、どのように支援するかを「地域包括支援センター」のソーシャルワーカーがヒアリングしながら決定して、ケアスタッフがチームになって必要なサービスを提供します。
この「地域包括支援センター」は、前身は「在宅介護支援センター」です。2005年2月に制度が施行されました。高齢者が自立して生活できないことによる病気の悪化を防ぐための、「予防介護」という考え方に基づいたものです。これは、以前に申し上げた遠隔予防医療と同じで、社会保障費や医療費を削減するといった目的のものです。
例えば、私の家の祖母は、父が健康で十分介護することができているので、行政による介入の必要はあまりありません。それでも、孤独になりがちであることや、歩行が困難であることなどから、月に数回デイケアに行っています。どの程度利用する必要があるかは人それぞれです。
では、必要なサービスはどのように決定されるのでしょうか。話が長くなりましたが、ここで「社会福祉援助技術」という考え方を持ち出してみたいと思います。
これらの援助は、単純にワーカーの恣意によって決定されるわけではありません。根本的な理念として、高齢者が自立(自律)した生活が行われること、人間らしい生活ができることなどがまず中心に存在します。そして、そのためには何が必要かを計画的に考えます。クライアントの社会環境を調査するアセスメントから始まり、具体的な介入が計画的に行われます。長期にわたるものも存在します。
以下は、架空の事例ですが、ワーカーが当事者をアセスメントして作成するエコマップと呼ばれるものです。

【エコマップ(社会福祉援助技術の教科書から作成)】
このように、家族関係の調査から、当事者だけでなく家族の誰に支援が必要か、またどのインフラが利用できるかをマッピングして、援助計画を作成します。支援に効果があるものはあらゆるものを利用するのが社会福祉援助技術の基本です。援助の方法論は、伝統的に、①ケースワーク、②グループワーク、③コミュニティワークという区分がされますが、これらをすべて駆使するということです。
このエコマップにもある「地域包括支援センター」は、現在では高齢者だけでなく、DV問題を抱えた家庭に対する介入なども行っています。地域の福祉の総合拠点のという位置づけです。
このように、社会福祉学を学んだことのない方はなかなか知らない世界ですが、アセスメントを行って援助計画を立てるだけでも、経験がかなり必要な高度な作業です。この方法論が、このブログで扱っている問題の被害者にも応用できないかというのが、今回の記事のねらいです。
この問題の架空の事例から考察
では、この問題の被害者の架空の事例を作ってみます。自分の被害の経験から作成するという要素が強いですが、このようなものだと思ってください。
太郎さん(仮名) 37歳・男性
【加害の状況】
数年前から、人による付きまといやほのめかしが始まった。当初にたたみ掛けるように行われたせいで、強い心的外傷を受ける。以後、外出時に必ず加害行為が行われることから、外出が困難になる。
そのような中でも何とか正社員として働いてきたが、職場での加害行為も含めたストレスの過多のために3ヵ月後に退職。閉じこもりがちな生活になる。
このままではいけないと思い、精神的に持ち直したあとに就職活動を再開。しかし、就職妨害を受け、どの面接も通過しない。何とか日雇いの仕事に就いている。年収は100万円程度。家族を養っていける状態ではないため、結婚を諦めている。
加害行為が始まってから数年後、テクノロジーによる加害行為が被害の中心になる。ここで再び精神的な危機が訪れる。これを境に、身体的な不調も顕著になってきた。しかし、現段階では加害行為をやめさせる法的手段が存在しないため、状況の改善はありえないと考え、ほとんど外出することもなく暮らしている。
【家族の状況】
自宅での家族構成は、父(62)、母(64)、祖母(83)である。親戚が近隣に住んでいるが、この件では相談したことがない。両親には何度も説明したが、ようやく少し理解されるまで1年を要した。その間、父親には、就業が無理な状態で何とか働きに出ろと急かされる。理解がないため、誤解が生じて、家庭内が不和となる。自分以外の家族は加害行為をほとんど受けていない。
【加害までの生育暦】
少年時代、青年時代は何のトラブルもなく平凡にすごしてきた。周囲と協調的な性格という評判で、成績も上位であった。何の苦もなく私立上位大学に合格。エンジニアを志して、企業研究職に内定。企業での働きぶりも周囲に評されるほどであった。
ところが、何の前触れもなく加害行為が発生。その後、企業での成績は大きく落ち込む。周囲には誤解されてはならないために相談していない。むしろ、企業のなかのだれが加害者であるか猜疑心におちいる。それまで親しかった同僚が加害行為に及んだためである。結果、精神的に破綻を来たしたために退職を余儀なくされる。
これはあくまで架空の事例です。(自分のケースでもありません)被害者によっては子どもの頃から被害を受けていたり、高齢者になって受けたり、さまざまです。また、人による嫌がらせが中心であるか、テクノロジーによる加害が中心であるかも個人差があるようです。
これを、この問題の専門援助職がアセスメントをしたと仮定します。その結果、下記のような社会生活上の困難が抽出されたとしましょう。
カテゴライズされた被害者の社会生活上の困難(あくまで架空の事例です)
【身体的影響】
1-1 睡眠妨害による不眠
1-2 身体への痛みの送信など、苦痛と不快感
1-3 数年にわたる電磁波の集中的な照射で右ひざが弱体化
1-4 常時の電磁波の照射で、知的能力や記憶力が低下
1-5 皮膚に赤い斑点や小さな傷が発生
【心理的影響】
2-1 外出時に強いストレスがかかるために外出が困難
2-2 携帯を向けてくる人間に恐怖感を感じる
2-3 クラクションが鳴ったら恐怖感を感じる
2-4 ぞろ目のナンバーの車を見ると恐怖感を感じる
2-5 誰が加害者かわからないことによる人間不信
2-6 他の人には聞こえない音が聞こえても、平静を装わなければならないつらさ
【仕事に対する妨害】
3-1 意識への介入で仕事に対するやりがいが失われる
3-2 PCに対する介入で作業妨害
3-3 PCに対する介入でデータを失う
3-4 仕事中に外部からの罵声で妨害される
【人間関係の操作】
4-1 親しかった人が急に疎遠になる
4-2 旧友からの手紙が届かなくなった
4-3 近所の目がなぜかすべて自分に対する不審者扱いへと変化
4-4 数少ない友人と会話しているときに威圧的な妨害がある
【社会資源のアクセシビリティからの疎外】
5-1 就職妨害による就業困難 それによる経済的困窮
5-2 図書館での加害行為が激しいため、行けない
5-3 公共交通機関は逃れ場所がないので乗れない
5-4 加害行為をたたみ掛けられたときの避難場所がない
【差別などの社会的抑圧】
6-1 同級生の和からの疎外
6-2 公的機関が被害についてまともに聞いてくれないどころか、加害行為を行ってくる
6-3 両親以外の理解者がまったくない
【家族への影響】
7-1 両親の精神的負荷の増大
7-2 家族内の不和
7-3 兄弟の結婚に悪影響が生じる
7-4 両親の社会的地位の低下
7-5 母親の鬱
思いつくままに羅列してみました。被害者の置かれた状況がこのようなものであると考えると、相当の苦痛のなかで社会生活を行っていることが想像していただけると思います。この上に、加害行為がエスカレートしたときは、主観的に拷問を受けているかのような感覚におちいります。このような被害事例に、専門領域や公的機関は何ができるのでしょうか。
上記の介護高齢者に対するエコマップを見てください。医師、看護師、リハビリを担当するPT、ケア・マネジャー、訪問介護員、近隣の住民、セルフヘルプグループの当事者たちが、一人の高齢者のために支援を提供しています。ここで、ソーシャルワーカーがこれらの総合的なバランスをコーディネートする役割を担います。あらゆる方法を駆使してというのはこういうことです。注)
このブログの問題も同様です。必要なのは、被害者一人に対してさまざまな立場の人が支援を行わなければ、解決も社会生活への復帰もありえません。ここで、表にしてどのような対処が可能かを考えてみます。

これはあくまでも自分が試しに作ってみたものにしか過ぎません。当事者や専門家の協働によって、さらによい被害者の救済のための計画が作成される時代が来ることを願ってやみません。
注) PTとは理学療法士(Physical Therapist)。また、OTと呼ばれる作業療法士(Occupational Therapist)も高齢者の社会生活上の機能維持のために欠かせません。
また、セルフヘルプグループ(self-help group)とは、「自助グループ」のことです。例をあげると、難病を抱えた子どもの親の会、アルコール依存症当事者の会、などが挙げられます。当事者が専門家にたよらず、自分たちで社会生活の改善を行うために(self-help:自ら助ける)と呼ばれています。
【記事に参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
![]() | 社会福祉キーワード (有斐閣双書KEYWORD SERIES) (2002/03) 平岡 公一、 商品詳細を見る |
(今回は社会福祉学をベースに考えてみましたが、今後さまざまな学術フィールドで、自分のできる範囲で集団ストーカー問題を考えてみたいと思います。長期掲載の予定です。)
日本の伝統文化と融合・調和の美
-最終更新日:2010年8月25日(水)-
前回(旧ブログで)、この問題をクラシックという観点から取り上げてみましたが、今回も同じく音楽から取り上げてみたいと思います。
今回は、日本の作曲家の曲を挙げてみたいと思います。武満徹氏の「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」です。
武満徹氏といえば、黒澤明氏の映画音楽をはじめとして、西洋・東洋問わず様々な楽曲を作曲した日本を代表する作曲家です。自分のイメージとしては、ストラヴィンスキーなどと交流があり、同じ作曲家である細川俊夫氏に「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う」と評されるように、自分には難解すぎてあまり聴いていませんでした。
ところが、雅楽も一度聴いてみたいと思い、このCDを買ってみたところ、とたんに夢中になってしまいました。この「秋庭歌一具」は現代雅楽です。1970年代に、「古典雅楽だけでは雅楽の世界で存続できない、新作の現代雅楽が必要になる。」といわれたときに、武満氏が抜擢されて作曲したものです。現代音楽ということで、難解かとも思いましたが、秋の夜長に聞くと、心に染みわたって目の前に秋の日本庭園が浮かび上がるような気持ちにさせてくれます。(CDの論評には「武満(氏)がもっとも腐心したのが、たゆたう時間と空間を表現であった」とあります。)
この「秋庭歌一具」、2001年にサントリーホールで公演されたものですが、1979年に初演が行われ、以降も何度も再演されています。
武満氏は作曲に当たって「新雅楽を創るというような気負いを捨てて、ただ、音の中に身を置きそれを聴き出す事につとめた。」とあります。武満氏は、当初の西洋音楽の一次元的な構成から、次第に東洋音楽の多層的な構成に曲風が変化したと言われています。武満氏はまた、西洋音楽のオーケストレーションに、日本の楽器を入れた曲が多く、その入れ方は調和的に入れるというよりも、対立させて入れていたと言われています。
このような素晴らしい音楽をこの問題について取り上げることは、畏れ多いことです。ただ、ひとつ言えるのは、多元的な時間軸で構成されたこのような現代雅楽や武満氏の作曲スタイルが、この問題に与えてくれる示唆があるだろうということです。
雅楽は日本の伝統的な文化です。その文化も、時代とともに変化します。しかし、伝統的な文化として根本的に失われてはならないものは、失われてはならない。時代の変化とともに、大切な部分を守りながら変容していく。対立しながらも多元的にひとつの構成を作り上げる。それが、この武満氏による現代雅楽の挑戦だったのではないでしょうか。
少し話を変えますが、以前取り上げた限界集落や中産間地域などの伝統的な祭りなども、いま存続の危機が叫ばれています。このような祭りはその地域の神事であり、豊作を願ったりなど、さまざまな祭りの目的の過程で、その町や村の人を結びつけます。田舎ほど生活が厳しく、共同体としての人々のつながりが重要になるといわれています。
しかし、現在は過疎化などの問題でこのような祭りが危機に瀕しています。祭りによっては開催が何年も中止されたりするようなケースが続出しています。これでは、その地域に住む人たちにとって必要な連帯感醸成のきっかけが失われてしまいます。そうなると、人々のつながりが薄くなり、様々な社会的な問題が発生します。伝統的な祭りは、考え方が異なる住民が意識を一つにする限られた機会だからです。
私が申し上げているこの問題の被害も、このように人々のつながりが希薄化した社会において発生しやすいと思われます。その意味で、人の心情に根ざす変えられるべきでない伝統文化は、時代の変化とともに変化することはあっても、保持されていかなければならないと思います。
このような「祭り」はその地域でより長く生きられた経験深い方による伝承で受け継がれてきました。このような祭りは、そのような伝承によって文化やしきたりが後世に伝えられます。同じように、親子関係においても、父親が一定の権威的な役割において、子どもに様々な社会規範を教えます。近年はこのような家庭や地域の伝統的な教育役割も変化しているのではないかと思います。それも、社会の秩序に悪影響を及ぼしているのではないでしょうか。
(注 「秋庭歌」、「秋庭歌一具」は宮内庁楽部によって演奏されてきました。この2002年サントリーホールでの「秋庭歌一具」は、宮内庁の芝祐靖氏が、退官されてまで「秋庭歌」のより良い演奏のために1984年に結成された「伶楽舎」による演奏です。
芝祐靖氏はこのように述べている。
「演奏時間50分、指揮者を置かない29人の合奏は精神的にかなりハードですが、練習本番のたびに新しい発見があり、秋庭歌に内包された自然観と詩情の追及はこれからもまだまだ続きます。そしてこのエネルギーが今後の古典雅楽の継承、そして現代雅楽の創造に役立つことを願ってやみません。」
前回(旧ブログで)、この問題をクラシックという観点から取り上げてみましたが、今回も同じく音楽から取り上げてみたいと思います。
今回は、日本の作曲家の曲を挙げてみたいと思います。武満徹氏の「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」です。
![]() | 武満徹:秋庭歌一具 (2002/09/04) 伶楽舎 商品詳細を見る |
武満徹氏といえば、黒澤明氏の映画音楽をはじめとして、西洋・東洋問わず様々な楽曲を作曲した日本を代表する作曲家です。自分のイメージとしては、ストラヴィンスキーなどと交流があり、同じ作曲家である細川俊夫氏に「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う」と評されるように、自分には難解すぎてあまり聴いていませんでした。
ところが、雅楽も一度聴いてみたいと思い、このCDを買ってみたところ、とたんに夢中になってしまいました。この「秋庭歌一具」は現代雅楽です。1970年代に、「古典雅楽だけでは雅楽の世界で存続できない、新作の現代雅楽が必要になる。」といわれたときに、武満氏が抜擢されて作曲したものです。現代音楽ということで、難解かとも思いましたが、秋の夜長に聞くと、心に染みわたって目の前に秋の日本庭園が浮かび上がるような気持ちにさせてくれます。(CDの論評には「武満(氏)がもっとも腐心したのが、たゆたう時間と空間を表現であった」とあります。)
この「秋庭歌一具」、2001年にサントリーホールで公演されたものですが、1979年に初演が行われ、以降も何度も再演されています。
武満氏は作曲に当たって「新雅楽を創るというような気負いを捨てて、ただ、音の中に身を置きそれを聴き出す事につとめた。」とあります。武満氏は、当初の西洋音楽の一次元的な構成から、次第に東洋音楽の多層的な構成に曲風が変化したと言われています。武満氏はまた、西洋音楽のオーケストレーションに、日本の楽器を入れた曲が多く、その入れ方は調和的に入れるというよりも、対立させて入れていたと言われています。
このような素晴らしい音楽をこの問題について取り上げることは、畏れ多いことです。ただ、ひとつ言えるのは、多元的な時間軸で構成されたこのような現代雅楽や武満氏の作曲スタイルが、この問題に与えてくれる示唆があるだろうということです。
雅楽は日本の伝統的な文化です。その文化も、時代とともに変化します。しかし、伝統的な文化として根本的に失われてはならないものは、失われてはならない。時代の変化とともに、大切な部分を守りながら変容していく。対立しながらも多元的にひとつの構成を作り上げる。それが、この武満氏による現代雅楽の挑戦だったのではないでしょうか。
少し話を変えますが、以前取り上げた限界集落や中産間地域などの伝統的な祭りなども、いま存続の危機が叫ばれています。このような祭りはその地域の神事であり、豊作を願ったりなど、さまざまな祭りの目的の過程で、その町や村の人を結びつけます。田舎ほど生活が厳しく、共同体としての人々のつながりが重要になるといわれています。
しかし、現在は過疎化などの問題でこのような祭りが危機に瀕しています。祭りによっては開催が何年も中止されたりするようなケースが続出しています。これでは、その地域に住む人たちにとって必要な連帯感醸成のきっかけが失われてしまいます。そうなると、人々のつながりが薄くなり、様々な社会的な問題が発生します。伝統的な祭りは、考え方が異なる住民が意識を一つにする限られた機会だからです。
私が申し上げているこの問題の被害も、このように人々のつながりが希薄化した社会において発生しやすいと思われます。その意味で、人の心情に根ざす変えられるべきでない伝統文化は、時代の変化とともに変化することはあっても、保持されていかなければならないと思います。
このような「祭り」はその地域でより長く生きられた経験深い方による伝承で受け継がれてきました。このような祭りは、そのような伝承によって文化やしきたりが後世に伝えられます。同じように、親子関係においても、父親が一定の権威的な役割において、子どもに様々な社会規範を教えます。近年はこのような家庭や地域の伝統的な教育役割も変化しているのではないかと思います。それも、社会の秩序に悪影響を及ぼしているのではないでしょうか。
(注 「秋庭歌」、「秋庭歌一具」は宮内庁楽部によって演奏されてきました。この2002年サントリーホールでの「秋庭歌一具」は、宮内庁の芝祐靖氏が、退官されてまで「秋庭歌」のより良い演奏のために1984年に結成された「伶楽舎」による演奏です。
芝祐靖氏はこのように述べている。
「演奏時間50分、指揮者を置かない29人の合奏は精神的にかなりハードですが、練習本番のたびに新しい発見があり、秋庭歌に内包された自然観と詩情の追及はこれからもまだまだ続きます。そしてこのエネルギーが今後の古典雅楽の継承、そして現代雅楽の創造に役立つことを願ってやみません。」
日本における自殺問題の深刻さと自殺に向き合う専門労働家たち
~旧ブログ「自殺問題から考える」より~
-最終更新日:2010年8月25日(水)-
自分のこれまでの経験ですが、近親者を自殺でなくした方が知り合いにいます。このような出来事はその人の人生を大きく変えます。一般に流通している「トラウマ」という言葉ではくくれない、一種の大変な心の労働を強います。人によっては、この問題に深く関連する職業に強く取り組むことになります。
それは、親愛な人との自殺による離別が、場合によっては一生解消されない葛藤であるがゆえ、その人の人生で取り組み続けることでしか解決できない問題だからでしょう。小さなときにこのような悲劇を経験をしてしまったら、人間形成に大きな影響を及ぼすといわれています。
集団ストーカー被害者も、多くの人は自殺を考えます。私は、上記のような人と接する機会が多かったこともあるのか、自殺に強い関心があります。これだけで普通の人間とは言えませんが、自殺問題というものに一つの執念みたいながのがあります。
世の中には、自殺という問題に取り組む職業の人がいます。直接的に自殺の危険性がある人を支援するのは、精神科医・精神分析家や臨床心理士、ソーシャルワーカーといった仕事に従事されている方ではないでしょうか。個人的にこのような方とお話したことが沢山ありますが、予想以上に大変な仕事です。
これらの仕事には「転移」という概念があります。例えば、目の前に自殺願望を抱いている人と話をしたときに、その強い衝動みたいなものが自分の無意識と重なり合ってしまうような経験です。この現象には、時として重い精神的な負担が発生します。このような人を援助する仕事は、ともすれば自らの精神や心の健康に支障をきたしかねない厳しい仕事です。
日本は、自殺問題に関するタブー性が強いといわれています。自ら命を絶って亡くなられた方に対して、何があったのかを掘り起こすことが忌み嫌われる傾向にあります。これは一種の国民性や文化と言ってしまえばそうですが、例えば自殺者数を減らそうと思ったら弊害となります。近年、政治の中でも自殺者のバイオグラフィーを調査することによって、何が自殺の原因になっているかを社会的に考える風潮も高まってきており、これは世の中の一つの変化といえるでしょう。
2000年ごろから、日本の自殺者数は年間30,000人を超えました。民主主義先進国では国民一人当たりの自殺率としてはトップクラスであり、この国の何かがおかしくなってしまったのではないでしょうか。ある社会学者は、世の中が無秩序であることと自殺の増加に大きな因果関係があることを指摘しています。
このように、自殺問題は掘り下げていくと大きな問題です。このブログでは一つのカテゴリを設けて、自殺対策をはじめとして様々な自殺問題にまつわることを掲載していきたいと思います。(新ブログでは、自殺問題を取り上げる場合は、カテゴリをその都度考えます。)
(2010年7月11日追記、再掲載時に加筆修正)
「文化・書籍から考える」で取り上げようと思ったのですが、ここで紹介したほうがいいと思いましたので下記の書籍をご紹介します。
清水康之氏は、政権交代後内閣府で自殺問題に取り組まれています。清水氏はNPO法人自殺対策支援センター「ライフリンク」代表です。ご自身が、自殺遺児の番組作成を経験されたことから、NHKを退社してまで、子どもたちとかかわりあい、この問題に従事されています。自殺遺児は、小さい頃に親をなくして生きていかざるを得なくなった子どもたちです。
彼らは、自我が未成熟であることによる心の傷だけでなく、その後の就学や就労にまで影響が及ぶといわれています。このような親を早くに亡くしてしまった子どもたちは、社会生活を歩む上での自律性が大きく損なわれてしまいます。人間が、社会の中で他者との相克をのりこえて調節しながらバランスを保って生きるには、人間のコミュニケーション能力をはじめ、さまざまなものの全体的な立ち上がり、そして統合が必要です。それを育む学校共同体の衰退も叫ばれて久しい昨今です。
清水氏は、親の自殺という問題をかかえた子どもたちと直接対話するように向き合って、厳しい条件のなかでNPOの活動をされてきました。最近発売された上記の書籍で、冒頭に次のように述べています。
(「はじめに」より p.11)
「坂の上の雲」を抜けた先に、誰もが「何かおかしい」と感じずにはいられない自殺社会にたどり着いてしまった原因を、もし、この機に見つけることができたなら、「百年に一度の危機」は「百年に一度のチャンス」に変わる。自殺の問題を徹底して掘り下げた先に、この生きづらい社会の正体を明らかにすることができたなら、「自殺社会」は「生き心地の良い社会」へと踏み出す手がかりになる。
本書は、そんな淡い期待を込めて臨んだ対談集である。読み終えたとき、私が抱いた期待感が、皆さんの共感になっていたならば、これほどうれしいことはない。
このブログで清水氏のご活動を勝手に取りあげるのは非常に失礼な話ですが、重要な教訓を与えてくれるのではないかと思い、取り上げさせていただきました。皆さんも、お考えになってみていただけるとうれしいです。
-最終更新日:2010年8月25日(水)-
自分のこれまでの経験ですが、近親者を自殺でなくした方が知り合いにいます。このような出来事はその人の人生を大きく変えます。一般に流通している「トラウマ」という言葉ではくくれない、一種の大変な心の労働を強います。人によっては、この問題に深く関連する職業に強く取り組むことになります。
それは、親愛な人との自殺による離別が、場合によっては一生解消されない葛藤であるがゆえ、その人の人生で取り組み続けることでしか解決できない問題だからでしょう。小さなときにこのような悲劇を経験をしてしまったら、人間形成に大きな影響を及ぼすといわれています。
集団ストーカー被害者も、多くの人は自殺を考えます。私は、上記のような人と接する機会が多かったこともあるのか、自殺に強い関心があります。これだけで普通の人間とは言えませんが、自殺問題というものに一つの執念みたいながのがあります。
世の中には、自殺という問題に取り組む職業の人がいます。直接的に自殺の危険性がある人を支援するのは、精神科医・精神分析家や臨床心理士、ソーシャルワーカーといった仕事に従事されている方ではないでしょうか。個人的にこのような方とお話したことが沢山ありますが、予想以上に大変な仕事です。
これらの仕事には「転移」という概念があります。例えば、目の前に自殺願望を抱いている人と話をしたときに、その強い衝動みたいなものが自分の無意識と重なり合ってしまうような経験です。この現象には、時として重い精神的な負担が発生します。このような人を援助する仕事は、ともすれば自らの精神や心の健康に支障をきたしかねない厳しい仕事です。
日本は、自殺問題に関するタブー性が強いといわれています。自ら命を絶って亡くなられた方に対して、何があったのかを掘り起こすことが忌み嫌われる傾向にあります。これは一種の国民性や文化と言ってしまえばそうですが、例えば自殺者数を減らそうと思ったら弊害となります。近年、政治の中でも自殺者のバイオグラフィーを調査することによって、何が自殺の原因になっているかを社会的に考える風潮も高まってきており、これは世の中の一つの変化といえるでしょう。
2000年ごろから、日本の自殺者数は年間30,000人を超えました。民主主義先進国では国民一人当たりの自殺率としてはトップクラスであり、この国の何かがおかしくなってしまったのではないでしょうか。ある社会学者は、世の中が無秩序であることと自殺の増加に大きな因果関係があることを指摘しています。
このように、自殺問題は掘り下げていくと大きな問題です。このブログでは一つのカテゴリを設けて、自殺対策をはじめとして様々な自殺問題にまつわることを掲載していきたいと思います。(新ブログでは、自殺問題を取り上げる場合は、カテゴリをその都度考えます。)
(2010年7月11日追記、再掲載時に加筆修正)
「文化・書籍から考える」で取り上げようと思ったのですが、ここで紹介したほうがいいと思いましたので下記の書籍をご紹介します。
![]() | 「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ (講談社文庫) (2010/03/12) 清水 康之上田 紀行 商品詳細を見る |
清水康之氏は、政権交代後内閣府で自殺問題に取り組まれています。清水氏はNPO法人自殺対策支援センター「ライフリンク」代表です。ご自身が、自殺遺児の番組作成を経験されたことから、NHKを退社してまで、子どもたちとかかわりあい、この問題に従事されています。自殺遺児は、小さい頃に親をなくして生きていかざるを得なくなった子どもたちです。
彼らは、自我が未成熟であることによる心の傷だけでなく、その後の就学や就労にまで影響が及ぶといわれています。このような親を早くに亡くしてしまった子どもたちは、社会生活を歩む上での自律性が大きく損なわれてしまいます。人間が、社会の中で他者との相克をのりこえて調節しながらバランスを保って生きるには、人間のコミュニケーション能力をはじめ、さまざまなものの全体的な立ち上がり、そして統合が必要です。それを育む学校共同体の衰退も叫ばれて久しい昨今です。
清水氏は、親の自殺という問題をかかえた子どもたちと直接対話するように向き合って、厳しい条件のなかでNPOの活動をされてきました。最近発売された上記の書籍で、冒頭に次のように述べています。
(「はじめに」より p.11)
「坂の上の雲」を抜けた先に、誰もが「何かおかしい」と感じずにはいられない自殺社会にたどり着いてしまった原因を、もし、この機に見つけることができたなら、「百年に一度の危機」は「百年に一度のチャンス」に変わる。自殺の問題を徹底して掘り下げた先に、この生きづらい社会の正体を明らかにすることができたなら、「自殺社会」は「生き心地の良い社会」へと踏み出す手がかりになる。
本書は、そんな淡い期待を込めて臨んだ対談集である。読み終えたとき、私が抱いた期待感が、皆さんの共感になっていたならば、これほどうれしいことはない。
このブログで清水氏のご活動を勝手に取りあげるのは非常に失礼な話ですが、重要な教訓を与えてくれるのではないかと思い、取り上げさせていただきました。皆さんも、お考えになってみていただけるとうれしいです。
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加害行為の残忍性について
-最終更新日:2010年8月17日(火)-
これまでの考察で、この問題は「恐ろしい技術と世の中の流れが悪い」という結論に達しました。民主主義社会でも、社会がこのような傾向に迎合してしまうと、考え方に関係なく暴走してしまうと申し上げました。
しかし、この点について、被害者の痛烈な感情としてこのように申し上げなければなりません。
前にも申し上げましたように、被害者は長年まともな社会生活が送れないという強い抑圧の中で生きてきました。そして、それは人間の悪意によって行われてきました。そこに特別な感情が発生しないかといえば、そんなはずは全くありません。歴史的な弾圧と同じように、加害者は強い残忍性と快楽性をもって加害行為を行い、被害者は一方的な忍従を強いられてきました。このような行為が悲劇を生まないはずはありません。職を失う程度ではすまなかった被害者も多数いらっしゃるものと推察します。命にかかわるケースも多数存在したのではないでしょうか。
このような悲劇に対して、社会は通常、秩序維持のために合理的な処理を行います。パニックになってしまう可能性があるからです。その過程で、加害者の残忍性がかなり隠匿されてしまいます。社会は、確かにこの問題を「技術と社会の流れが悪い」で済ませてしまうかもしれません。しかし、戦争被害者がその被害を真剣に訴えるのと同様に、どれだけ残酷なことを加害者が行ってきたかを、被害者は正しい形で訴えていかなければならないのではないかと思います。自分もそうですが、長年それだけ世の中の闇とされる部分に、被害者は否応なく接さざるを得ませんでした。しかし、それに飲み込まれてはならない。民主主義社会の正当な方法で訴えなければならないと自分自身で思っています。
ここで、私がこのテクノロジー被害を受けたメモを少し公開します。この1ヶ月近く、自分は4回しか外出していません。そのどれもが数分~数十分程度の短時間です。外出しても必ず何らかの形で「付きまとわれ」ました。したがって、家の内部に閉じこもった状態で、テクノロジー被害を中心にたたみ掛けるように行われてきました。まずは、ご覧ください。
昨日、8月16日(月)の21:00~22:30の被害です。
21:00ごろ
右手中指つめの近くに痛みの送信あり。通常程度の痛さ。
21:01
「君だけ生かすって訳にはいかなくなったから。君も殺すから。」といった内容の加害者による意識への介入あり。
21:04
左手の甲、親指の近くに痛みあり。通常の針を刺すような痛みではなく、つねられたような痛みだった。数秒持続して痛かった。
21:12
頭の左耳の上部裏の辺りにきわめて強い痛みが発生した。皮膚を刺すような痛みというだけでなく、締め付けられる感じもあった。10秒近く続き、頭をゴリゴリやられているような感覚だった。これは今までで一番痛いものの一つかもしれない。
これだけの感覚を引き起こすことができる武器を持ちながら摘発もされない世の中が恐ろしい。電磁波兵器が証拠の残らない拷問用に開発されたと言われていることを思い出した。また、頭蓋骨が変形したという人の話も本当かもしれない。
21:18
作業に集中していたが、体の各所に弱い痛み発生。気にしていては作業ができない。ひどいもの意外、メモをせずに続行。
21:35
加害者による「俺たちに逆らって生きていける奴はいない。」という意識への介入あり。
21:58
左手親指の付け根に痛みの送信あり。通常程度の痛み。
22:01
左手親指の先に痛みの送信あり。一瞬だがかなり強い痛みだった。
22:24
左胸板の辺りに痛みの送信あり。一瞬で通常程度の痛み。
22:30
右ひじに一瞬だがやや強い痛みの送信あり。
注1) 末尾に、加害行為の補足をします。
これを見ていただければ、他の被害者の方と私が同様の理解されにくい被害内容を主張していると感じられるでしょう。しかし、被害者の証言には驚くほど共通性があります。また、これまでに述べなかった加害行為について少し触れました。これについては、今後、本当に被害者がなぜ苦しいのかをご理解していただくために、時間をかけてご説明していかなければならないと思っています。これまで申し上げた方法では、被害者が拷問のような苦しみを感じるマインドコントロールは不可能だからです。
なお、被害者の証拠の取得の方法として、上記のようなメモが一番手軽です。それ以外にも、最近は電磁波計測器を使って何とか計測しようという試みをされている被害者の方もいらっしゃいます。どちらの方法も十分とは言えませんが、継続して根気よくやるしかないでしょう。
(これを書いている今この瞬間に、手のひらに痛みの送信がありました。こうやって妨害します。)
電磁波計測器ですが、具体的には、一般に販売されている「トリフィールドメーター」や、一般のPCに接続してグラフを表示する「脳波計測器」などです。しかし、加害に用いられる電磁波やエネルギー波がどのようなものであるかの知識が被害者側にありません。したがって、電磁波のない電磁暗室のような環境で、メーターがほんの少し触れるといった程度の計測のされ方しか現在は成功していないようです。

【一般に販売されているトリフィールドメーター】
ここでは申し上げることができませんが、ネットにはそのような試みを掲載したサイトやそれを映した動画があります。被害者も、年月をかけて何とか精度の高い証拠の残し方を工夫して、自分たちの被害が社会的に認知されるのを待っています。ただし、それ以前に人の尊厳、さらに命にかかわるものとして、公的機関などには一刻も早く動いてほしいというのが被害者の心境です。
(この記事を書いている間にも、頭への痛みの送信などさまざまな加害行為が行われています。また、このブログを掲載しようとしている、8月17日(火)起きてから~11:41現在まで、たたみ掛けるような妨害を受けていることを、被害者の皆さんはご理解いただけると思います。被害を受けたことがない方にも、そのような被害なのだということをご理解いただければ幸いです。)
注1)
「21:00ごろ」としているのは正確な被害を受けた時間より後に書いているためです。また、自分の被害の近況として、加害者が「筋肉をぴくぴく動かす」や「お腹を鳴らせる」などといったような軽めの加害ばかりではなく、痛みを中心に送信するなど、エスカレートしてきています。他にも、ブラウザの勝手なスクロールや、外でのクラクション、大きな声・罵声によるほのめかし、ブレーキ音、部屋の中でパチンとする音、PCを操作していると手首や指が自動的にピクッと動く、書いたらきりがありませんが、立て続けに加害行為が行われています。書くのがためらわれる恥ずかしい被害内容もあります。これだけの内容を今までブログに掲載してきたからと思われます。このように、今私はテクノロジー犯罪を中心に被害を受けています。以前は付きまといなどの人による嫌がらせが多数でした。これが「テクノロジー被害」と「人による嫌がらせ」、両者の激しいたたみ掛けなのかと強く感じています。
これまでの考察で、この問題は「恐ろしい技術と世の中の流れが悪い」という結論に達しました。民主主義社会でも、社会がこのような傾向に迎合してしまうと、考え方に関係なく暴走してしまうと申し上げました。
しかし、この点について、被害者の痛烈な感情としてこのように申し上げなければなりません。
前にも申し上げましたように、被害者は長年まともな社会生活が送れないという強い抑圧の中で生きてきました。そして、それは人間の悪意によって行われてきました。そこに特別な感情が発生しないかといえば、そんなはずは全くありません。歴史的な弾圧と同じように、加害者は強い残忍性と快楽性をもって加害行為を行い、被害者は一方的な忍従を強いられてきました。このような行為が悲劇を生まないはずはありません。職を失う程度ではすまなかった被害者も多数いらっしゃるものと推察します。命にかかわるケースも多数存在したのではないでしょうか。
このような悲劇に対して、社会は通常、秩序維持のために合理的な処理を行います。パニックになってしまう可能性があるからです。その過程で、加害者の残忍性がかなり隠匿されてしまいます。社会は、確かにこの問題を「技術と社会の流れが悪い」で済ませてしまうかもしれません。しかし、戦争被害者がその被害を真剣に訴えるのと同様に、どれだけ残酷なことを加害者が行ってきたかを、被害者は正しい形で訴えていかなければならないのではないかと思います。自分もそうですが、長年それだけ世の中の闇とされる部分に、被害者は否応なく接さざるを得ませんでした。しかし、それに飲み込まれてはならない。民主主義社会の正当な方法で訴えなければならないと自分自身で思っています。
ここで、私がこのテクノロジー被害を受けたメモを少し公開します。この1ヶ月近く、自分は4回しか外出していません。そのどれもが数分~数十分程度の短時間です。外出しても必ず何らかの形で「付きまとわれ」ました。したがって、家の内部に閉じこもった状態で、テクノロジー被害を中心にたたみ掛けるように行われてきました。まずは、ご覧ください。
昨日、8月16日(月)の21:00~22:30の被害です。
21:00ごろ
右手中指つめの近くに痛みの送信あり。通常程度の痛さ。
21:01
「君だけ生かすって訳にはいかなくなったから。君も殺すから。」といった内容の加害者による意識への介入あり。
21:04
左手の甲、親指の近くに痛みあり。通常の針を刺すような痛みではなく、つねられたような痛みだった。数秒持続して痛かった。
21:12
頭の左耳の上部裏の辺りにきわめて強い痛みが発生した。皮膚を刺すような痛みというだけでなく、締め付けられる感じもあった。10秒近く続き、頭をゴリゴリやられているような感覚だった。これは今までで一番痛いものの一つかもしれない。
これだけの感覚を引き起こすことができる武器を持ちながら摘発もされない世の中が恐ろしい。電磁波兵器が証拠の残らない拷問用に開発されたと言われていることを思い出した。また、頭蓋骨が変形したという人の話も本当かもしれない。
21:18
作業に集中していたが、体の各所に弱い痛み発生。気にしていては作業ができない。ひどいもの意外、メモをせずに続行。
21:35
加害者による「俺たちに逆らって生きていける奴はいない。」という意識への介入あり。
21:58
左手親指の付け根に痛みの送信あり。通常程度の痛み。
22:01
左手親指の先に痛みの送信あり。一瞬だがかなり強い痛みだった。
22:24
左胸板の辺りに痛みの送信あり。一瞬で通常程度の痛み。
22:30
右ひじに一瞬だがやや強い痛みの送信あり。
注1) 末尾に、加害行為の補足をします。
これを見ていただければ、他の被害者の方と私が同様の理解されにくい被害内容を主張していると感じられるでしょう。しかし、被害者の証言には驚くほど共通性があります。また、これまでに述べなかった加害行為について少し触れました。これについては、今後、本当に被害者がなぜ苦しいのかをご理解していただくために、時間をかけてご説明していかなければならないと思っています。これまで申し上げた方法では、被害者が拷問のような苦しみを感じるマインドコントロールは不可能だからです。
なお、被害者の証拠の取得の方法として、上記のようなメモが一番手軽です。それ以外にも、最近は電磁波計測器を使って何とか計測しようという試みをされている被害者の方もいらっしゃいます。どちらの方法も十分とは言えませんが、継続して根気よくやるしかないでしょう。
(これを書いている今この瞬間に、手のひらに痛みの送信がありました。こうやって妨害します。)
電磁波計測器ですが、具体的には、一般に販売されている「トリフィールドメーター」や、一般のPCに接続してグラフを表示する「脳波計測器」などです。しかし、加害に用いられる電磁波やエネルギー波がどのようなものであるかの知識が被害者側にありません。したがって、電磁波のない電磁暗室のような環境で、メーターがほんの少し触れるといった程度の計測のされ方しか現在は成功していないようです。

【一般に販売されているトリフィールドメーター】
ここでは申し上げることができませんが、ネットにはそのような試みを掲載したサイトやそれを映した動画があります。被害者も、年月をかけて何とか精度の高い証拠の残し方を工夫して、自分たちの被害が社会的に認知されるのを待っています。ただし、それ以前に人の尊厳、さらに命にかかわるものとして、公的機関などには一刻も早く動いてほしいというのが被害者の心境です。
(この記事を書いている間にも、頭への痛みの送信などさまざまな加害行為が行われています。また、このブログを掲載しようとしている、8月17日(火)起きてから~11:41現在まで、たたみ掛けるような妨害を受けていることを、被害者の皆さんはご理解いただけると思います。被害を受けたことがない方にも、そのような被害なのだということをご理解いただければ幸いです。)
注1)
「21:00ごろ」としているのは正確な被害を受けた時間より後に書いているためです。また、自分の被害の近況として、加害者が「筋肉をぴくぴく動かす」や「お腹を鳴らせる」などといったような軽めの加害ばかりではなく、痛みを中心に送信するなど、エスカレートしてきています。他にも、ブラウザの勝手なスクロールや、外でのクラクション、大きな声・罵声によるほのめかし、ブレーキ音、部屋の中でパチンとする音、PCを操作していると手首や指が自動的にピクッと動く、書いたらきりがありませんが、立て続けに加害行為が行われています。書くのがためらわれる恥ずかしい被害内容もあります。これだけの内容を今までブログに掲載してきたからと思われます。このように、今私はテクノロジー犯罪を中心に被害を受けています。以前は付きまといなどの人による嫌がらせが多数でした。これが「テクノロジー被害」と「人による嫌がらせ」、両者の激しいたたみ掛けなのかと強く感じています。
被害のまとめ、書籍・NPO法人の紹介
-最終更新日:2010年8月24日(火)-
ブログ活動を再開しましたが、加害行為が立て続けに行われる状態となりました。他の被害者の皆さんと同じなのですが、加害行為をたたみ掛けられると、まともな社会生活が送れない状態になります。この被害をなんとかしたいという思いや意識があるゆえに、強い痛みを感じる結果となってしまっております。他の被害がひどい被害者の方々の状況、お察しいたします。
申し訳ありませんが、新規の記事を書くことがしばらくできないかもしれません。過去の記事を修正して掲載するかどうか、迷っております。
なお、被害については、すべてをご説明することができていませんが、下記のリンクの順で、大まかに触れることができていると思います。被害を受けたことがない方にも、ぜひご覧になっていただければ幸いです。
・ブログをはじめるにあたって
・被害の概説(前半)
・被害の概説(後半)
・集団ストーカー問題のマインドコントロール性について
・この問題への公的機関と専門領域の対処とは
被害のことをもっとお知りになられたい方は、ブログ左にある【読書カレンダー本棚ミニ】の二冊の書籍と、NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークのHPをおすすめします。

「テクノロジー犯罪被害者による被害報告集―遠隔技術悪用を告発する33名の被害者自身による被害実態報告」 NPOテクノロジー犯罪被害ネットワーク 内山治樹編 2010/5 講談社出版サービスセンター

「早すぎる?おはなし―テクノロジー犯罪被害者による被害報告日誌」 内山治樹著 2008/12 講談社出版サービスセンター
NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークHP
https://www.tekuhan.org/
(この被害を受け付けて被害者の相談や自助活動を行われているNPO法人)
【参考:上記書籍の広告】

⇒ このポスターの大きい画像 (ぜひご覧になってください)

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ブログ活動を再開しましたが、加害行為が立て続けに行われる状態となりました。他の被害者の皆さんと同じなのですが、加害行為をたたみ掛けられると、まともな社会生活が送れない状態になります。この被害をなんとかしたいという思いや意識があるゆえに、強い痛みを感じる結果となってしまっております。他の被害がひどい被害者の方々の状況、お察しいたします。
申し訳ありませんが、新規の記事を書くことがしばらくできないかもしれません。過去の記事を修正して掲載するかどうか、迷っております。
なお、被害については、すべてをご説明することができていませんが、下記のリンクの順で、大まかに触れることができていると思います。被害を受けたことがない方にも、ぜひご覧になっていただければ幸いです。
・ブログをはじめるにあたって
・被害の概説(前半)
・被害の概説(後半)
・集団ストーカー問題のマインドコントロール性について
・この問題への公的機関と専門領域の対処とは
被害のことをもっとお知りになられたい方は、ブログ左にある【読書カレンダー本棚ミニ】の二冊の書籍と、NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークのHPをおすすめします。

「テクノロジー犯罪被害者による被害報告集―遠隔技術悪用を告発する33名の被害者自身による被害実態報告」 NPOテクノロジー犯罪被害ネットワーク 内山治樹編 2010/5 講談社出版サービスセンター

「早すぎる?おはなし―テクノロジー犯罪被害者による被害報告日誌」 内山治樹著 2008/12 講談社出版サービスセンター
NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークHP
https://www.tekuhan.org/
(この被害を受け付けて被害者の相談や自助活動を行われているNPO法人)
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思いやりと自発性で経済を支える社会
-最終更新日:2010年8月7日(土)-
「人のつながり」もそうですが、今回は直接的に経済活動と関係のない人間の営みについて考えてみたいと思います。
例えば、近所の人との親密なつながりで、必要なときに「お醤油」を貸してあげたとします。そのときに、自分の家の醤油が10円分減ったとします。このとき、相手の家は、10円分の醤油の分だけ得をしたということになります。経済学的な考え方だと、財の移動という観点からこのように説明できます。このときの交換にかかるコストは、近所づきあいでの言葉や表情のやり取りという労力だけです。これは経済的に浪費がないものとして扱われます。
しかし、それだけでこの人間の行為が説明できるでしょうか。この過程で、人間の信頼関係の交換が行われています。まず、助けられたほうが、「助かった」という心情的な喜びを感じます。助けた方も、「助けてあげた」という達成感を報酬として感じているかもしれません。さらに、これが繰り返されて信頼関係が形成されると、相互に報酬を受ける関係が形成されます。困ったときに助け合うようになるからです。これを「互酬性」といいます。
現在の日本で問題なのは、このようなコミュニケーションに労力が割かれることに対して、個人が反発してしまうことです。モノが豊かなので、店で買えばすんでしまうからです。さすがにこの時代には、10円分の醤油を近所に借りるという行為は成立しないかもしれません。しかし、この信頼関係こそが、単純な経済学的な財の移動以上の人間の豊かさを生み出します。人間は、経済的に豊かになることも幸せの重要な指標の一つです。しかし、このような直接的に経済活動によらない信頼関係も、人間が忘れてはならない幸せの指標の一つです。
このように、経済活動の後ろに隠れた、さまざまな人間の営みというものがあります。そういったものが経済活動やその成長の下支えをしているということを忘れてはいけません。
「シャドウワーク(shadow work)」という呼び方をされることもあります。代表的なものは「勉強」や「家事」などです。
「勉強」は高い集中力と頭の労働が必要です。しかし、それ自体に報酬は一切ありません。しかも、専門的な勉強を行うとなると、相当時間がかかります。言い換えるなら、その時間だけ労働したら儲かる可能性があるのに、なぜ「勉強」をするか、です。それは、未来に対する報酬を勝ち取るためです。受験勉強に勝とうとするのも、資格試験に合格するのも、それが大きな目的の一つです。人間は、義務教育だけで9年間勉強します。それだけ勉強の時間を費やして、世の中の役に立ったり、世界的な技術を開発する専門家になれるのです。私が言いたいのは、経済的に報酬がない「勉強」を人間はお金を払ってまで本気になってやるということです。
「家事」もシャドウワークの代表的なものです。ある家族3人分の夕食の材料を850円で買ってきたとします。調理にかかった水道光熱費が50円とします。では、この食事は一人当たりいくらでしょうか。誰でもお分かりのように、(850+50)÷3=300 円です。人件費はありません。お母さんがどんなにプロ級のおいしい料理をつくったとしても、お給料が支払われるわけではありません。他にも、洗濯、アイロンがけ、掃除、布団干し… やろうと思ったらいくらでもあります。しかも、丁寧に行えば行うだけ、家族が充実してきます。この、家庭で行われる経済活動でない人間の営みが、働くお父さんの英気を養って、子どもの明日を育てます。
現在の厳しい財政状況の国にあって、何が国民を豊かにさせ、経済を下支えするかといえば、このような経済活動でない営みの充実です。それ自体報酬があるわけではありません。しかし、これらのことに労力をかければかけるだけ、人間が育ちますし、社会が底上げされます。地域とのコミュニケーションの深化も、これまで述べてきた「互酬性」という観点から、地域に住む住民に活力を与えることにつながります。
現代は、経済活動に直接関与しない無駄な行為をできるだけしないほうが格好いいという風潮さえあります。しかし、自分たちで最大限努力して栄光ある未来を勝ち取る、そのような意識をもった主体が自由主義経済にあるべき個人の本来の姿です。資本主義の勃興期に、このテーマの本が多く出版されています。また、「自助(self-help)」とは、その個人のあるべき意識を表現したものの一つです。この考え方を最初に考え出した本によると、「天は自ら助けるものを助く (God helps those who help themselves.)」と表現しています。すなわち、「努力をすれば必ず報われる」という考え方です。経済の自由主義を最初にとなえたアダム・スミスに強く影響されています。
最後に何度も言いますが、これらのものに報酬はありません。労力もそれなりにかかります。それでも、長期的な視野でこれらのものが充実した地域・社会・家庭を作れば、日本の未来は明るいといえます。これらのことに力を入れた人に栄誉が授けられる社会であってほしいなと思います。
【記事の参考図書の追加 2010年10月7日(木)】
「人のつながり」もそうですが、今回は直接的に経済活動と関係のない人間の営みについて考えてみたいと思います。
例えば、近所の人との親密なつながりで、必要なときに「お醤油」を貸してあげたとします。そのときに、自分の家の醤油が10円分減ったとします。このとき、相手の家は、10円分の醤油の分だけ得をしたということになります。経済学的な考え方だと、財の移動という観点からこのように説明できます。このときの交換にかかるコストは、近所づきあいでの言葉や表情のやり取りという労力だけです。これは経済的に浪費がないものとして扱われます。
しかし、それだけでこの人間の行為が説明できるでしょうか。この過程で、人間の信頼関係の交換が行われています。まず、助けられたほうが、「助かった」という心情的な喜びを感じます。助けた方も、「助けてあげた」という達成感を報酬として感じているかもしれません。さらに、これが繰り返されて信頼関係が形成されると、相互に報酬を受ける関係が形成されます。困ったときに助け合うようになるからです。これを「互酬性」といいます。
現在の日本で問題なのは、このようなコミュニケーションに労力が割かれることに対して、個人が反発してしまうことです。モノが豊かなので、店で買えばすんでしまうからです。さすがにこの時代には、10円分の醤油を近所に借りるという行為は成立しないかもしれません。しかし、この信頼関係こそが、単純な経済学的な財の移動以上の人間の豊かさを生み出します。人間は、経済的に豊かになることも幸せの重要な指標の一つです。しかし、このような直接的に経済活動によらない信頼関係も、人間が忘れてはならない幸せの指標の一つです。
このように、経済活動の後ろに隠れた、さまざまな人間の営みというものがあります。そういったものが経済活動やその成長の下支えをしているということを忘れてはいけません。
「シャドウワーク(shadow work)」という呼び方をされることもあります。代表的なものは「勉強」や「家事」などです。
「勉強」は高い集中力と頭の労働が必要です。しかし、それ自体に報酬は一切ありません。しかも、専門的な勉強を行うとなると、相当時間がかかります。言い換えるなら、その時間だけ労働したら儲かる可能性があるのに、なぜ「勉強」をするか、です。それは、未来に対する報酬を勝ち取るためです。受験勉強に勝とうとするのも、資格試験に合格するのも、それが大きな目的の一つです。人間は、義務教育だけで9年間勉強します。それだけ勉強の時間を費やして、世の中の役に立ったり、世界的な技術を開発する専門家になれるのです。私が言いたいのは、経済的に報酬がない「勉強」を人間はお金を払ってまで本気になってやるということです。
「家事」もシャドウワークの代表的なものです。ある家族3人分の夕食の材料を850円で買ってきたとします。調理にかかった水道光熱費が50円とします。では、この食事は一人当たりいくらでしょうか。誰でもお分かりのように、(850+50)÷3=300 円です。人件費はありません。お母さんがどんなにプロ級のおいしい料理をつくったとしても、お給料が支払われるわけではありません。他にも、洗濯、アイロンがけ、掃除、布団干し… やろうと思ったらいくらでもあります。しかも、丁寧に行えば行うだけ、家族が充実してきます。この、家庭で行われる経済活動でない人間の営みが、働くお父さんの英気を養って、子どもの明日を育てます。
現在の厳しい財政状況の国にあって、何が国民を豊かにさせ、経済を下支えするかといえば、このような経済活動でない営みの充実です。それ自体報酬があるわけではありません。しかし、これらのことに労力をかければかけるだけ、人間が育ちますし、社会が底上げされます。地域とのコミュニケーションの深化も、これまで述べてきた「互酬性」という観点から、地域に住む住民に活力を与えることにつながります。
現代は、経済活動に直接関与しない無駄な行為をできるだけしないほうが格好いいという風潮さえあります。しかし、自分たちで最大限努力して栄光ある未来を勝ち取る、そのような意識をもった主体が自由主義経済にあるべき個人の本来の姿です。資本主義の勃興期に、このテーマの本が多く出版されています。また、「自助(self-help)」とは、その個人のあるべき意識を表現したものの一つです。この考え方を最初に考え出した本によると、「天は自ら助けるものを助く (God helps those who help themselves.)」と表現しています。すなわち、「努力をすれば必ず報われる」という考え方です。経済の自由主義を最初にとなえたアダム・スミスに強く影響されています。
最後に何度も言いますが、これらのものに報酬はありません。労力もそれなりにかかります。それでも、長期的な視野でこれらのものが充実した地域・社会・家庭を作れば、日本の未来は明るいといえます。これらのことに力を入れた人に栄誉が授けられる社会であってほしいなと思います。
【記事の参考図書の追加 2010年10月7日(木)】
![]() | シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫) (2006/09) I. イリイチ 商品詳細を見る |
和と絆、この対話が日本人にもたらすもの
-最終更新日:2010年8月7日(土)-
今回は、この問題が日本人同士のコミュニケーションの異質化によって解決しにくくなっている問題だという認識から考えてみたいと思います。
コミュニケーションとは何でしょうか。辞書で調べると、
「人間が互いに意思・感情・思考を伝達し合うこと。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える身振り・表情・声などの手段によって行う。」(Yahoo日本語辞書 大辞林より)
とあります。ここでは、言葉でのコミュニケーションを考えてみたいと思います。言葉は、人間にしかないものだからです。人間は、言葉を話す存在であることによって、社会というものが形成されます。社会では、この言葉を使ってさまざまなコンフリクトを解消してきました。
しかし、今の日本においては、このコミュニケーションという言葉が偏った意味において用いられていると感じます。例えば、学生が就職試験でよく口にする「コミュニケーション能力」です。日本では、このコミュニケーション能力が、「周りの雰囲気に合わせる」という意味で使われることが多いと思います。入社試験で、突然、自分のこだわりの持論を展開したら、面接官にその場で不合格と判断される危険があるでしょう。誰もそんなこと言いません。そのような危うさをできるだけ避けるように、同年代との異質性をできるだけ少なくしようと自分を枠にはめるのが現代の若者です。
しかし、それでいいのでしょうか。少なくとも、あらゆる社会問題の解決には、雰囲気に安易に迎合する姿勢では解決できません。
ここで強く取りあげたいのが、「対話」という考え方です。対話とは、両者がお互いの相違点をそのまま受け止めて、お互いに真摯な応答をするということです。この場合、利害関係は度外視されます。ここのところの日本は、雰囲気に迎合させるようなコミュニケーション能力ばかり追求されてきたました。しかし、本当の意味で「他者性」を克服するような対話が行われなくなった社会ではないでしょうか。それは、問題解決を先延ばしにするだけで、何の解決にもつながりません。むしろ、実質的には対立状態が持続されます。
これを、近年多いとされる「住民トラブル」について考えてみましょう。住民トラブルは、ある一定の限度を超えると、我慢しているほうの住民が警察などに届け出ます。そして、警察がトラブルの原因となっている住民に注意をします。それが繰り返されても解消できない場合は、最悪の場合訴訟に発展します。そうなったら、お互いは感情的に収まりがつかなくなり、もう修復できません。近年では簡易化された紛争解決手段も存在しますが、そもそも、住民トラブルなどでそこまで訴訟を起こす必要があるでしょうか。
昔は、近所づきあいが頻繁にありました。しかし、現在では、相互的にコミュニケーションすらとらない地域もあります。隣近所が何をしているか分からない社会になりました。昔は、頻繁なコミュニケーションをとってお互いに安全か確認し合っていました。その中で、些細なトラブルはすぐに解決して深刻化の目を摘み取っていたのです。
このように、ここ数回で申し上げているつながりの希薄化は、社会問題のさまざまな解決を困難にして、対立を深めます。そもそも、解決の糸口となるコミュニケーションが行われなくなったからです。そこには、安易に付き合える人とだけ迎合的なコミュニケーションをとって満足するような個人主義的な風潮も追い討ちをかけていると思います。これは総じて、コミュニケーションの質、そしてコミュニケーションを行う能力の低下ということができます。本来なら、相違点を認めながら話し合って様々な問題を解決して生きていかなければなりません。面倒な作業ですが、それが人間社会で生きることだと思います。
「人とのつながり」というものを、これまでに一つの社会の円滑的な推進の理想モデルのように取りあげましたが、実際にはこの社会は考え方が違う人ばかりが住んでいます。それは、自分とは違う「他者」だということです。日本人でも、考え方に大きな多様性があります。コミュニケーションとは、その相克を乗り越えるために存在します。考えが違う人と言葉で論理的に解決を模索する「対話」は面倒なことです。しかし、あえて労力をかけて多くの人が行えば、いろんな社会問題が解決しやすい国になります。その繰り返しによって「強い絆」が発生することを望んでやみません。解決が困難な異質性を伴う問題も、共同で対策を練ることができます。日本がそのような社会になることを心底願っています。
このブログで取りあげている問題の根本も、このような日本の住民同士のコミュニケーションの異質化に起因していると思います。
皆さんはどうお考えでしょうか。
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今回は、この問題が日本人同士のコミュニケーションの異質化によって解決しにくくなっている問題だという認識から考えてみたいと思います。
コミュニケーションとは何でしょうか。辞書で調べると、
「人間が互いに意思・感情・思考を伝達し合うこと。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える身振り・表情・声などの手段によって行う。」(Yahoo日本語辞書 大辞林より)
とあります。ここでは、言葉でのコミュニケーションを考えてみたいと思います。言葉は、人間にしかないものだからです。人間は、言葉を話す存在であることによって、社会というものが形成されます。社会では、この言葉を使ってさまざまなコンフリクトを解消してきました。
しかし、今の日本においては、このコミュニケーションという言葉が偏った意味において用いられていると感じます。例えば、学生が就職試験でよく口にする「コミュニケーション能力」です。日本では、このコミュニケーション能力が、「周りの雰囲気に合わせる」という意味で使われることが多いと思います。入社試験で、突然、自分のこだわりの持論を展開したら、面接官にその場で不合格と判断される危険があるでしょう。誰もそんなこと言いません。そのような危うさをできるだけ避けるように、同年代との異質性をできるだけ少なくしようと自分を枠にはめるのが現代の若者です。
しかし、それでいいのでしょうか。少なくとも、あらゆる社会問題の解決には、雰囲気に安易に迎合する姿勢では解決できません。
ここで強く取りあげたいのが、「対話」という考え方です。対話とは、両者がお互いの相違点をそのまま受け止めて、お互いに真摯な応答をするということです。この場合、利害関係は度外視されます。ここのところの日本は、雰囲気に迎合させるようなコミュニケーション能力ばかり追求されてきたました。しかし、本当の意味で「他者性」を克服するような対話が行われなくなった社会ではないでしょうか。それは、問題解決を先延ばしにするだけで、何の解決にもつながりません。むしろ、実質的には対立状態が持続されます。
これを、近年多いとされる「住民トラブル」について考えてみましょう。住民トラブルは、ある一定の限度を超えると、我慢しているほうの住民が警察などに届け出ます。そして、警察がトラブルの原因となっている住民に注意をします。それが繰り返されても解消できない場合は、最悪の場合訴訟に発展します。そうなったら、お互いは感情的に収まりがつかなくなり、もう修復できません。近年では簡易化された紛争解決手段も存在しますが、そもそも、住民トラブルなどでそこまで訴訟を起こす必要があるでしょうか。
昔は、近所づきあいが頻繁にありました。しかし、現在では、相互的にコミュニケーションすらとらない地域もあります。隣近所が何をしているか分からない社会になりました。昔は、頻繁なコミュニケーションをとってお互いに安全か確認し合っていました。その中で、些細なトラブルはすぐに解決して深刻化の目を摘み取っていたのです。
このように、ここ数回で申し上げているつながりの希薄化は、社会問題のさまざまな解決を困難にして、対立を深めます。そもそも、解決の糸口となるコミュニケーションが行われなくなったからです。そこには、安易に付き合える人とだけ迎合的なコミュニケーションをとって満足するような個人主義的な風潮も追い討ちをかけていると思います。これは総じて、コミュニケーションの質、そしてコミュニケーションを行う能力の低下ということができます。本来なら、相違点を認めながら話し合って様々な問題を解決して生きていかなければなりません。面倒な作業ですが、それが人間社会で生きることだと思います。
「人とのつながり」というものを、これまでに一つの社会の円滑的な推進の理想モデルのように取りあげましたが、実際にはこの社会は考え方が違う人ばかりが住んでいます。それは、自分とは違う「他者」だということです。日本人でも、考え方に大きな多様性があります。コミュニケーションとは、その相克を乗り越えるために存在します。考えが違う人と言葉で論理的に解決を模索する「対話」は面倒なことです。しかし、あえて労力をかけて多くの人が行えば、いろんな社会問題が解決しやすい国になります。その繰り返しによって「強い絆」が発生することを望んでやみません。解決が困難な異質性を伴う問題も、共同で対策を練ることができます。日本がそのような社会になることを心底願っています。
このブログで取りあげている問題の根本も、このような日本の住民同士のコミュニケーションの異質化に起因していると思います。
皆さんはどうお考えでしょうか。
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- 関連記事
技術とイノベーションによる社会の円滑推進について
-最終更新日:2010年8月7日(土)-
技術というと、例えば「インターネット」は技術革新といえます。しかし、それ自体が本当に社会にとって有益になっているかは現段階では未知数です。少なくとも、社会を大きく変えたとだけは確実にいえるでしょう。
現代でも様々な「技術」が開発されていますが、それを社会にとってどのように有効活用するかについてはなかなか研究されません。ここでは、「技術」が使い方によっては大きく社会のあり方を変えたケースを紹介します。遠隔予防医療です。厚生労働省では、「遠隔医療の推進方策に関する懇談会」が何度も開かれているように、官民でインフラの開発が進んできました。
日本は都市国家と呼ばれています。都市に人口が集中するからです。一方で、山の奥には存続すら危ぶまれている集落がたくさんあります。「限界集落」や、「中産間地域」注1)と呼ばれています。このような集落のほとんどで高齢化が進み、次世代の担い手がいません。同様に、離島と呼ばれる地域も、都市に対してアクセスが非常に困難な場所にあるため、同様の問題を抱えます。
高齢者の方は、若い人以上に医療が必要であったり、また介護も必要です。山の奥の交通の不便な場所は、これらの施設に行くのすら困難を伴います。例えば、介護などは小さい集落でも何とかさまざまなケースに応じたケアが行われるよう、「小規模多機能ホーム」が建設されて、高齢者の介護を行っています。しかし、特に医療の担い手がありません。医師が不足しているからです。また、医師が集落の中に住み込んでも、負担が多いため長期間続かないという実態があります。
それを改善したのが、遠隔予防医療です。もともと遠隔地なので、医師は頻繁に往診にこれません。そこで、予防医療だけでも遠隔通信技術で行えば、重い病気になるのを防ぐことができるのではないかとはじめられたのが遠隔予防医療です。この技術には、遠隔で患者の問診や体の各種データを病院に送ることができます。それに、定期的に医師がアドバイスすることによって、重い病気になるのを防ぎます。これだけで、医師にかかる必要がグッと減ります。
この遠隔予防医療ですが、高齢化社会において、日本の財政は医療費でますます逼迫してます。この予防医療で重い病気になるのを防ぐだけで、医療費のコストダウンにつながります。
結果、この遠隔予防医療という通信技術は、①人のつながりを生み、②過疎地での生活を豊かにし、③ローコストでの運営によって、医療費を削減する。これらのことに成功しています。この通信技術は、さらに新しいものが開発されています。
技術は、それ自体ではなんの役に立たないどころか社会に悪影響を与えてしまうこともあります。しかし、一見目立たない技術でも、人とのつながりの充足のためにうまく用いられる方法が開発されると、絶大な効果を生みます。そして、この技術が高コストで運用される必然はどこにもありません。
技術の社会的な目的への使用というのは、開発が難しいという実態があります。大抵、技術は開発されたら終わりだからです。この遠隔通信医療技術も、度重なる実験によって開発されました。
人のつながりを技術が媒介することによって、ローコストで社会問題を解決できる。これが技術の本来の使われ方ではないかと思います。その結果、社会に非常によい影響を与えた。
これは、このブログの問題にも示唆を与えると思います。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
注1)
【参考】
「限界集落」
過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者となり、社会的共同生活が難しくなった集落のこと。
「中産間地域」
一般的に、「平地の周辺部から山間地に至る、まとまった平坦な耕地の少ない地域」とされる。農業・農村基本法第35条では、「山間地及びその周辺の地域その他の地勢等の地理的条件が悪く、農業の生産条件が不利な地域」とある。
技術というと、例えば「インターネット」は技術革新といえます。しかし、それ自体が本当に社会にとって有益になっているかは現段階では未知数です。少なくとも、社会を大きく変えたとだけは確実にいえるでしょう。
現代でも様々な「技術」が開発されていますが、それを社会にとってどのように有効活用するかについてはなかなか研究されません。ここでは、「技術」が使い方によっては大きく社会のあり方を変えたケースを紹介します。遠隔予防医療です。厚生労働省では、「遠隔医療の推進方策に関する懇談会」が何度も開かれているように、官民でインフラの開発が進んできました。
日本は都市国家と呼ばれています。都市に人口が集中するからです。一方で、山の奥には存続すら危ぶまれている集落がたくさんあります。「限界集落」や、「中産間地域」注1)と呼ばれています。このような集落のほとんどで高齢化が進み、次世代の担い手がいません。同様に、離島と呼ばれる地域も、都市に対してアクセスが非常に困難な場所にあるため、同様の問題を抱えます。
高齢者の方は、若い人以上に医療が必要であったり、また介護も必要です。山の奥の交通の不便な場所は、これらの施設に行くのすら困難を伴います。例えば、介護などは小さい集落でも何とかさまざまなケースに応じたケアが行われるよう、「小規模多機能ホーム」が建設されて、高齢者の介護を行っています。しかし、特に医療の担い手がありません。医師が不足しているからです。また、医師が集落の中に住み込んでも、負担が多いため長期間続かないという実態があります。
それを改善したのが、遠隔予防医療です。もともと遠隔地なので、医師は頻繁に往診にこれません。そこで、予防医療だけでも遠隔通信技術で行えば、重い病気になるのを防ぐことができるのではないかとはじめられたのが遠隔予防医療です。この技術には、遠隔で患者の問診や体の各種データを病院に送ることができます。それに、定期的に医師がアドバイスすることによって、重い病気になるのを防ぎます。これだけで、医師にかかる必要がグッと減ります。
この遠隔予防医療ですが、高齢化社会において、日本の財政は医療費でますます逼迫してます。この予防医療で重い病気になるのを防ぐだけで、医療費のコストダウンにつながります。
結果、この遠隔予防医療という通信技術は、①人のつながりを生み、②過疎地での生活を豊かにし、③ローコストでの運営によって、医療費を削減する。これらのことに成功しています。この通信技術は、さらに新しいものが開発されています。
技術は、それ自体ではなんの役に立たないどころか社会に悪影響を与えてしまうこともあります。しかし、一見目立たない技術でも、人とのつながりの充足のためにうまく用いられる方法が開発されると、絶大な効果を生みます。そして、この技術が高コストで運用される必然はどこにもありません。
技術の社会的な目的への使用というのは、開発が難しいという実態があります。大抵、技術は開発されたら終わりだからです。この遠隔通信医療技術も、度重なる実験によって開発されました。
人のつながりを技術が媒介することによって、ローコストで社会問題を解決できる。これが技術の本来の使われ方ではないかと思います。その結果、社会に非常によい影響を与えた。
これは、このブログの問題にも示唆を与えると思います。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
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注1)
【参考】
「限界集落」
過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者となり、社会的共同生活が難しくなった集落のこと。
「中産間地域」
一般的に、「平地の周辺部から山間地に至る、まとまった平坦な耕地の少ない地域」とされる。農業・農村基本法第35条では、「山間地及びその周辺の地域その他の地勢等の地理的条件が悪く、農業の生産条件が不利な地域」とある。
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集団ストーカー問題とひきこもりの類似点
-最終更新日:2010年8月21日(土)-
「ひきこもり70万人 予備軍も155万人 内閣府推計 30代が46%」
家や自室にとじこもって外に出ない若者の「ひきこもり」が全国で70万人に上ると推計されることが、内閣府が23日に発表した初めての全国実態調査の結果から分かった。また、将来ひきこもりになる可能性のある「ひきこもり親和群」は155万人と推計しており、「今後さらに増える可能性がある」と分析している。
〈ひきこもりになったきっかけ〉

【読売新聞 7月24日(土)朝刊 一面より】
この記事から、このブログの問題の被害者が閉じこもってしまう現象を考えようというものです。
この問題の被害者は、異常なまでの加害行為のたたみ掛けによって、外出することが困難になります。このような状態のときは、全く外出できないほどの威圧感・恐怖感を伴うものだと認識していただければと思います。加害行為には波がありますが、落ち着いているときでも外出するのをためらいます。自分の場合、被害が少なくなってようやく一日一度くらい外出できるようになりました。このように、外出に強いストレスを感じるようになり、家の中に閉じこもってしまうわけです。
この被害は、結果として被害者の社会的な孤立を狙うものです。上記のようなたたみかけで、家に閉じこもらせ、社会との接点を奪います。他の人とのコミュニケーションも嫌がらせで妨害します。親しい友人が加害行為をしたように錯覚させることも可能です。したがって、人間不信と猜疑心の塊になってしまう被害者の方もおられます。
しかし、家の中にいても逆にテクノロジー被害が集中してしまうケースもあります。テクノロジー被害によっては、集中的に行われると極めて苦痛な状態に置かれます。そのような場合には、家の中も安全でなくなります。結果、どこにも逃げ場がなくなります。驚かれるかもしれませんが、本当に押入れに閉じこもってしまいたくなるような心境になることもあります。
一方で、この記事を取りあげた以上、「ひきこもり問題」についても少しコメントしなければなりません。この問題の被害者も、ごく一部ですが「ひきこもり」の要件を該当させる存在になっていると思うからです。
「ひきこもり」問題は、日本ではなかなか光が当てられない問題です。しかも一度ひきこもってしまったらなかなか抜け出すことができません。そのため、ご両親のご苦労は深く察しなければならないものがあります。
この記事によりますと、「家庭・学校・地域が連携して支援をする必要がある」とあります。問題の性質は全く違いますが、前回の「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」でも申し上げました。これらの人のつながりの充実や連携は、「ひきこもり」の克服のために非常に重要なことだと思います。この問題と同じ「人とのつながり」によって解決する「社会問題」だからです。
どちらにせよ、社会の接点がなくなるわけです。昔は地域社会が家に閉じこもることを容認しませんでした。伝統行事や地域の催し物で外に引っ張り出されていました。今は、多少家から出なくても、社会が気付いてくれません。絆の薄い社会になってしまいました。
人は、分かりあえない他人のことを、厳密に「他者」と呼びます。現在は、近所同士でも見知らぬ人というケースがあります。このようなときに、深刻な近所トラブルが発生します。この「他者性」を克服するには、自分を引っ張り出してでも近所づきあいをする風潮が必要です。伝統的な祭がある地域を見てください。神輿や山車をはじめ祭具を毎年厳重に管理する連帯の強さを。
「ひきこもり70万人 予備軍も155万人 内閣府推計 30代が46%」
家や自室にとじこもって外に出ない若者の「ひきこもり」が全国で70万人に上ると推計されることが、内閣府が23日に発表した初めての全国実態調査の結果から分かった。また、将来ひきこもりになる可能性のある「ひきこもり親和群」は155万人と推計しており、「今後さらに増える可能性がある」と分析している。
〈ひきこもりになったきっかけ〉

【読売新聞 7月24日(土)朝刊 一面より】
この記事から、このブログの問題の被害者が閉じこもってしまう現象を考えようというものです。
この問題の被害者は、異常なまでの加害行為のたたみ掛けによって、外出することが困難になります。このような状態のときは、全く外出できないほどの威圧感・恐怖感を伴うものだと認識していただければと思います。加害行為には波がありますが、落ち着いているときでも外出するのをためらいます。自分の場合、被害が少なくなってようやく一日一度くらい外出できるようになりました。このように、外出に強いストレスを感じるようになり、家の中に閉じこもってしまうわけです。
この被害は、結果として被害者の社会的な孤立を狙うものです。上記のようなたたみかけで、家に閉じこもらせ、社会との接点を奪います。他の人とのコミュニケーションも嫌がらせで妨害します。親しい友人が加害行為をしたように錯覚させることも可能です。したがって、人間不信と猜疑心の塊になってしまう被害者の方もおられます。
しかし、家の中にいても逆にテクノロジー被害が集中してしまうケースもあります。テクノロジー被害によっては、集中的に行われると極めて苦痛な状態に置かれます。そのような場合には、家の中も安全でなくなります。結果、どこにも逃げ場がなくなります。驚かれるかもしれませんが、本当に押入れに閉じこもってしまいたくなるような心境になることもあります。
一方で、この記事を取りあげた以上、「ひきこもり問題」についても少しコメントしなければなりません。この問題の被害者も、ごく一部ですが「ひきこもり」の要件を該当させる存在になっていると思うからです。
「ひきこもり」問題は、日本ではなかなか光が当てられない問題です。しかも一度ひきこもってしまったらなかなか抜け出すことができません。そのため、ご両親のご苦労は深く察しなければならないものがあります。
この記事によりますと、「家庭・学校・地域が連携して支援をする必要がある」とあります。問題の性質は全く違いますが、前回の「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」でも申し上げました。これらの人のつながりの充実や連携は、「ひきこもり」の克服のために非常に重要なことだと思います。この問題と同じ「人とのつながり」によって解決する「社会問題」だからです。
どちらにせよ、社会の接点がなくなるわけです。昔は地域社会が家に閉じこもることを容認しませんでした。伝統行事や地域の催し物で外に引っ張り出されていました。今は、多少家から出なくても、社会が気付いてくれません。絆の薄い社会になってしまいました。
人は、分かりあえない他人のことを、厳密に「他者」と呼びます。現在は、近所同士でも見知らぬ人というケースがあります。このようなときに、深刻な近所トラブルが発生します。この「他者性」を克服するには、自分を引っ張り出してでも近所づきあいをする風潮が必要です。伝統的な祭がある地域を見てください。神輿や山車をはじめ祭具を毎年厳重に管理する連帯の強さを。
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