- 2010/09/26 加害行為の熾烈さと解決のための法整備についての考察
- 2010/09/26 フランソワ・トリュフォー監督「華氏451」
- 2010/09/21 加害行為における防犯技術の悪用について
- 2010/09/18 被害者の会での吐露による被害感の軽減について
- 2010/09/15 柳田という男
- 2010/09/12 セルフヘルプグループと宗教
- 2010/09/09 この問題への公的機関と専門領域の対処とは (2)
- 2010/09/07 この問題を乗り越えるに当たって「家族」とは何か
- 2010/09/06 グスタフ・マーラー 交響曲第2番 「復活」
- 2010/09/06 東ドイツの文化と歴史を再評価する
加害行為の熾烈さと解決のための法整備についての考察
~自分の被害記録から~
-最終更新日:2010年9月26日(日)-

【写真は電磁波を計測するためのトリフィールドメーター】
【被害者の方の証拠動画。このトリフィールドメーターを使って計測、公開】
これまで、被害がどのようなものかをご説明してきましたが、まだよく分からないという方も多いのではないかと思います。NPOテクノロジー犯罪被害ネットワークによると、被害は「テクノロジー被害」と「人による嫌がらせ被害」に分かれると申し上げました。ここではどのようにこのような被害を可能にしているかを考えてみたいと思います。
まず、自分が受けた被害や同じ被害者の訴えを元に、テクノロジーによってこのようなことが確実に可能なのだということを列挙してみたいと思います。
テクノロジー被害
(音波や電磁波、エネルギー波を指向的に送信する技術による被害)
・音が聞こえる
・声が聞こえる
・針やシャープペンシルで刺したような痛み
(体中のあらゆる部位。自分のケースは眼球にもあった。)
・頭が締め付けられる
・くすぐったくなる
・部屋の一部が音がパチンと鳴る
・心臓に痛み、締め付け感を感じる
・強制的に発汗する
・被害者の会でなければ言えない恥ずかしい性的嫌がらせ
また、これに加えて人的な嫌がらせによる加害行為によって、さらに被害者を追い詰めることを可能にしています。
人による嫌がらせ被害
(付きまといをはじめとする恐怖感や圧迫感を感じる嫌がらせ)
・人による付きまとい
・車による付きまとい
・ほのめかし
(被害者に直接言わない犯罪構成要件を設立させにくい方法で行われる)
・緊急車両によるサイレンや拡声器による威圧
・ヘリコプターの低空旋回での威圧
・車が高速でスレスレまで幅寄せしてくる。または直前でブレーキをかける。
・車で通行中に隣の車から顔を乗り出してのにらみつけ
・かなりの数の人が携帯を毎日向けてくる
・店に入ると必ず大きなクラクションが鳴る
これらによって、不特定多数が特定個人を追い込む被害です。加害行為のバリエーションはもっとあります。また、この被害にはマインドコントロール性が強く含まれています。これらによるたたみ掛けは、人間が自由意志を持って行動することを阻害するように行われます。このような人権をここまで侵害してしまう犯罪が行われて野放しになっていることが、前ブログで申し上げた民主主義の腐敗を象徴していると自分は考えています。
ではこの被害において何が悪いかという話になるかと思います。
今の社会は、テクノロジーや高度に情報化された社会的なインフラを応用して、使いようによっては誰でも加害行為を行える社会になってしまいました。したがって、これらの被害をできるだけ少ない社会にするには、やはりこの被害の認知と、加害行為をエスカレートさせ被害を重くする電磁波技術などの規制、ストーカー規正法などの改正などしか考えられないと思います。ご存知のように、現在のストーカー規正法は、単独の恋愛感情を持つ個人しか罰することができません。
民主主義社会での解決のためには、これらの加害行為が刑法で罰せられる状態にならないと歯止めがかからないと個人的に思っています。例えば、加害行為による苦しみで自殺してしまったら、法的に加害行為と自殺の因果関係が認められ、刑法によって殺人と同様の犯罪として裁かれる社会にならなければならないということです。
何の落ち度もない通常に暮らしていた善良な市民が、ある日ターゲットにされ、終身的な拷問のターゲットになるような性質をこの被害はもっています。現状では、この被害を受けてしまったら解決は困難であり、自殺を含めた重いリスクを抱えることになります。このようなリスクヘッジがきかない被害の横行を、日本という民主主義先進社会では想定していなかったでしょう。野放しになってきた結果、このような社会になってしまいました。残念でなりません。
被害を受けたことがない読者の皆様にも、これらの深刻な加害行為がこの日本で蔓延している状況を、ぜひ深くお考えになってください。
以上の記事は、前ブログから大幅に変更しています。具体的には、電磁波兵器の内容を削除し、加害行為について詳述を深めました。ご了解願います。
(上記の加害内容の列挙は自分が経験したメモをもとに書いています。詳しくは下の▼続きを読む▼を押して読んで下さい。2010年7月中旬から一ヶ月間の、集中的に受けたテクノロジー被害のまとめが書いてあります。これをもとに掲載しようとした記事です。一般の方には私が精神疾患でないという論理的な積み重ねがないと信じてもらえないと思い、今まで公開しませんでした。それでも、一般の方には信じがたい内容ですので、できるだけ被害者の方だけ読んで下さい。なお、加害行為は今現在も続いています。記事を掲載したら加害行為がたたみ掛けられるのではないかという恐怖感で記事を書いています。)
-最終更新日:2010年9月26日(日)-

【写真は電磁波を計測するためのトリフィールドメーター】
【被害者の方の証拠動画。このトリフィールドメーターを使って計測、公開】
これまで、被害がどのようなものかをご説明してきましたが、まだよく分からないという方も多いのではないかと思います。NPOテクノロジー犯罪被害ネットワークによると、被害は「テクノロジー被害」と「人による嫌がらせ被害」に分かれると申し上げました。ここではどのようにこのような被害を可能にしているかを考えてみたいと思います。
まず、自分が受けた被害や同じ被害者の訴えを元に、テクノロジーによってこのようなことが確実に可能なのだということを列挙してみたいと思います。
テクノロジー被害
(音波や電磁波、エネルギー波を指向的に送信する技術による被害)
・音が聞こえる
・声が聞こえる
・針やシャープペンシルで刺したような痛み
(体中のあらゆる部位。自分のケースは眼球にもあった。)
・頭が締め付けられる
・くすぐったくなる
・部屋の一部が音がパチンと鳴る
・心臓に痛み、締め付け感を感じる
・強制的に発汗する
・被害者の会でなければ言えない恥ずかしい性的嫌がらせ
また、これに加えて人的な嫌がらせによる加害行為によって、さらに被害者を追い詰めることを可能にしています。
人による嫌がらせ被害
(付きまといをはじめとする恐怖感や圧迫感を感じる嫌がらせ)
・人による付きまとい
・車による付きまとい
・ほのめかし
(被害者に直接言わない犯罪構成要件を設立させにくい方法で行われる)
・緊急車両によるサイレンや拡声器による威圧
・ヘリコプターの低空旋回での威圧
・車が高速でスレスレまで幅寄せしてくる。または直前でブレーキをかける。
・車で通行中に隣の車から顔を乗り出してのにらみつけ
・かなりの数の人が携帯を毎日向けてくる
・店に入ると必ず大きなクラクションが鳴る
これらによって、不特定多数が特定個人を追い込む被害です。加害行為のバリエーションはもっとあります。また、この被害にはマインドコントロール性が強く含まれています。これらによるたたみ掛けは、人間が自由意志を持って行動することを阻害するように行われます。このような人権をここまで侵害してしまう犯罪が行われて野放しになっていることが、前ブログで申し上げた民主主義の腐敗を象徴していると自分は考えています。
ではこの被害において何が悪いかという話になるかと思います。
今の社会は、テクノロジーや高度に情報化された社会的なインフラを応用して、使いようによっては誰でも加害行為を行える社会になってしまいました。したがって、これらの被害をできるだけ少ない社会にするには、やはりこの被害の認知と、加害行為をエスカレートさせ被害を重くする電磁波技術などの規制、ストーカー規正法などの改正などしか考えられないと思います。ご存知のように、現在のストーカー規正法は、単独の恋愛感情を持つ個人しか罰することができません。
民主主義社会での解決のためには、これらの加害行為が刑法で罰せられる状態にならないと歯止めがかからないと個人的に思っています。例えば、加害行為による苦しみで自殺してしまったら、法的に加害行為と自殺の因果関係が認められ、刑法によって殺人と同様の犯罪として裁かれる社会にならなければならないということです。
何の落ち度もない通常に暮らしていた善良な市民が、ある日ターゲットにされ、終身的な拷問のターゲットになるような性質をこの被害はもっています。現状では、この被害を受けてしまったら解決は困難であり、自殺を含めた重いリスクを抱えることになります。このようなリスクヘッジがきかない被害の横行を、日本という民主主義先進社会では想定していなかったでしょう。野放しになってきた結果、このような社会になってしまいました。残念でなりません。
被害を受けたことがない読者の皆様にも、これらの深刻な加害行為がこの日本で蔓延している状況を、ぜひ深くお考えになってください。
以上の記事は、前ブログから大幅に変更しています。具体的には、電磁波兵器の内容を削除し、加害行為について詳述を深めました。ご了解願います。
(上記の加害内容の列挙は自分が経験したメモをもとに書いています。詳しくは下の▼続きを読む▼を押して読んで下さい。2010年7月中旬から一ヶ月間の、集中的に受けたテクノロジー被害のまとめが書いてあります。これをもとに掲載しようとした記事です。一般の方には私が精神疾患でないという論理的な積み重ねがないと信じてもらえないと思い、今まで公開しませんでした。それでも、一般の方には信じがたい内容ですので、できるだけ被害者の方だけ読んで下さい。なお、加害行為は今現在も続いています。記事を掲載したら加害行為がたたみ掛けられるのではないかという恐怖感で記事を書いています。)
フランソワ・トリュフォー監督「華氏451」
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:オスカー・ウェルナー ジュリー・クリスティ (1966年 英国)
-最終更新日:2010年9月26日(日)-
最初にこのコーナーの説明ですが、カテゴリを複数設けて、世界の映画を紹介していきます。世界の映画文化を万遍なくとりあげることが目標になると思います。文章は短めの予定です。
一番最初に紹介するのが、フランスの映画監督、フランソワ・トリュフォーの「華氏451」です。1966年に英国で撮影されました。トリュフォー氏の映画としては唯一イギリスで撮影されたものです。一般的に言われるストーリーとしては「国家によって焚書が行われる恐怖社会」を描いたものです。本を所持した人間はそれだけで密告され、罪とされてしまう社会です。その怖さを昨日の朝日新聞、天声人語が指摘しています。
この映画にはもう一つ意味合いがあります。このような焚書という言論弾圧が行われる社会では、テレビやラジオなど、感覚的な文化だけが栄えることになります。そのため、国民が衝動的なものに走り、記憶力や思考力が欠如して民主主義を担保する能力が低減してしまいます。結果、短絡な相互監視社会が形成されるといった内容を含んでいます。従って、原作「華氏451」の原作者であるレイ・ブラッドベリは、「国家の検閲」ではなく、「テレビによる文化の破壊」と述べています。
どちらの意味合いもありますが、怖い社会です。
人間は「言語」を話して他の人間とコミュニケーションをとり、書いて記録を残す存在です。従って、「記憶」という概念には人間しかありません。動物は高度な「言語」を駆使できず、時系列で物事を考える術を持たない存在です。子どもも大人も本を読まなければ知能が衰退します。当時はテレビの勃興による批判だったのでしょうが、現代社会でも同じようなことがいえそうです。現代人は、本を読むのが面倒な分、短絡で衝動的な動画像に走りがちだからです。
話を昨日の天声人語に戻すと、「多様性の内にこそ、私たちの明日は宿る」。とあります。本を禁じる社会も、人間の一つの生き方を奪うものです。しかも、本にはさまざまな情報を埋め込むことができます。相互に対立する考えを含んだ本などいくらでもありますし、二項対立を「論理的」に調和させることができるのは文章がもっとも優れています。現代人は、時間をかけてじっくり理論を構築する能力を鍛える必要がありそうです。
読者の方はどのように考えられますでしょうか。このコーナーでは、広く現代社会に示唆を与えるようなとりあげ方をしていきたいと思います。
次回はアメリカの映画から記事を書こうと思っています。「祭り」だけでなく、こちらのコーナーもご期待いただけますと幸いです。
【2010年10月1日追記】
筆者は大学でフランス語を学びましたが、今はほとんど覚えていません。しかし、フランス語は独特で、特に鼻母音が日本人に発生できません。その代り、フランス人は無音のアッシュといって、逆にハ行の"h"が発音できません。従って"hero"(ヒーロー)は、「エロ」と発声します。筆者はフランスに強い思い入れがあります。
出演:オスカー・ウェルナー ジュリー・クリスティ (1966年 英国)
-最終更新日:2010年9月26日(日)-
![]() | 華氏451 [DVD] (2006/04/19) オスカー・ウェルナージュリー・クリスティ 商品詳細を見る |
最初にこのコーナーの説明ですが、カテゴリを複数設けて、世界の映画を紹介していきます。世界の映画文化を万遍なくとりあげることが目標になると思います。文章は短めの予定です。
一番最初に紹介するのが、フランスの映画監督、フランソワ・トリュフォーの「華氏451」です。1966年に英国で撮影されました。トリュフォー氏の映画としては唯一イギリスで撮影されたものです。一般的に言われるストーリーとしては「国家によって焚書が行われる恐怖社会」を描いたものです。本を所持した人間はそれだけで密告され、罪とされてしまう社会です。その怖さを昨日の朝日新聞、天声人語が指摘しています。
この映画にはもう一つ意味合いがあります。このような焚書という言論弾圧が行われる社会では、テレビやラジオなど、感覚的な文化だけが栄えることになります。そのため、国民が衝動的なものに走り、記憶力や思考力が欠如して民主主義を担保する能力が低減してしまいます。結果、短絡な相互監視社会が形成されるといった内容を含んでいます。従って、原作「華氏451」の原作者であるレイ・ブラッドベリは、「国家の検閲」ではなく、「テレビによる文化の破壊」と述べています。
どちらの意味合いもありますが、怖い社会です。
人間は「言語」を話して他の人間とコミュニケーションをとり、書いて記録を残す存在です。従って、「記憶」という概念には人間しかありません。動物は高度な「言語」を駆使できず、時系列で物事を考える術を持たない存在です。子どもも大人も本を読まなければ知能が衰退します。当時はテレビの勃興による批判だったのでしょうが、現代社会でも同じようなことがいえそうです。現代人は、本を読むのが面倒な分、短絡で衝動的な動画像に走りがちだからです。
話を昨日の天声人語に戻すと、「多様性の内にこそ、私たちの明日は宿る」。とあります。本を禁じる社会も、人間の一つの生き方を奪うものです。しかも、本にはさまざまな情報を埋め込むことができます。相互に対立する考えを含んだ本などいくらでもありますし、二項対立を「論理的」に調和させることができるのは文章がもっとも優れています。現代人は、時間をかけてじっくり理論を構築する能力を鍛える必要がありそうです。
読者の方はどのように考えられますでしょうか。このコーナーでは、広く現代社会に示唆を与えるようなとりあげ方をしていきたいと思います。
次回はアメリカの映画から記事を書こうと思っています。「祭り」だけでなく、こちらのコーナーもご期待いただけますと幸いです。
【2010年10月1日追記】
筆者は大学でフランス語を学びましたが、今はほとんど覚えていません。しかし、フランス語は独特で、特に鼻母音が日本人に発生できません。その代り、フランス人は無音のアッシュといって、逆にハ行の"h"が発音できません。従って"hero"(ヒーロー)は、「エロ」と発声します。筆者はフランスに強い思い入れがあります。
加害行為における防犯技術の悪用について
-最終更新日:2010年9月21日(火)-

【沖縄・月明かりに照らされた首里城】
本年の政治の大きな動向として、沖縄の基地問題は誰もがご存知でしょう。筆者はどのスタンスでもありませんが、沖縄住民の方々は長い間、飛行機事故の危険と騒音に悩まされました。問題解決のために、地方にリスクを分散する知事会が開かれ、大阪の橋本知事などが基地訓練の分担を考慮する考えを示しましたが、以降先に進んでいません。沖縄の住民の方々に多大な負担をかけられた状態が長年続いたことを、本土の住民は深く考えなければなりません。
この問題と同じように考えてはならないかもしれませんが、「集団ストーカー」の被害者も「騒音」に悩まされます。場合によっては、多くの人が「ヘリコプター」の低空旋廻による騒音に悩まされています。筆者も、昨年の秋ごろまで、時期によってはほぼ毎日続いていました。最寄の駅から家までずっとヘリコプターが頭上にいたこともありました。上空を飛ぶ飛行機やヘリコプターの騒音は尋常でなく、低空で飛ばれたときのデシベル値は並大抵ではありません。自分の場合も、常にエアコンがなっているような耳鳴りがしばらく消えなかったのを覚えています。それだけでなく、人間の心理として強い圧迫感を感じ、場合によっては恐怖感すら感じます。
この「集団ストーカー」のヘリコプターの被害は、NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークで多数報告されているようです。私一人だけではありません。下記のリンクの講演会の音声内容をご試聴いただければお分かりになっていただけると思います。
⇒ 【リンク】NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワーク
(「人的嫌がらせ被害の説明 その3」の部分にヘリコプターの被害について石橋理事長が述べられています。ヘリコプターの騒音が、実際には飛行しておらず「音声送信」によるものだというケースも報告されています。筆者の場合は実際のヘリコプターの飛行を目で確認しています。この「人的嫌がらせ被害の説明 その1~その3」は、集団ストーカー被害のなかでも比較的分かりやすい内容であり、統計的にどのような被害が報告されているかを把握されるのに、非常に分かりやすいと思います。)
このブログでは、今後一般の方々が常識的に考えられない被害内容についても、被害の認知と被害者の救済のために述べていかなければなりません。お見苦しい点もあるかと思いますが、できるだけ客観的な資料を添えて、分かりやすくご説明していこうと思っています。
前置きが長くなりましたが、今回は旧ブログに掲載された「被害への取り組み(2)」を掲載致します。「音声送信」について触れたものです。ぜひご覧になってください。
【記事本文】
これまでの記事で、特に「集団ストーカー」という問題の歴史的・社会的背景を考察してきましたが、分かりにくかった方も多いのではないでしょうか。
ここでは、「NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワーク」で受け付けている被害のうち、テクノロジー犯罪がどのようなものかを例を挙げてご説明したいと思います。
NPOテクノロジー犯罪被害ネットワークの統計によりますと、テクノロジー犯罪の中で、「音が聞こえる」「声が聞こえる」といった被害が、それぞれ3位、4位に来ています。これがどのようなものなのかをご説明します。
まず自分の体験を説明します。私がこの被害を受けたのは2年以上前のある時期に集中していますが、ある場所に行ったときに、頭の中に音が鳴り響くようなことが多数起こりました。あるときは頭の中で「わっ!!!」という人が威嚇するような声が頭の中で鳴り響きました。そのとき、3m隣くらいに男性二人がいました。通常なら、このような声がしたら、びっくりして当惑するくらいの大きな声です。しかし、その二人には聞こえていないようでした。自分だけに聞こえていたのです。
被害者はこれを「音声送信」と呼んでいます。このようなことをはじめて聞かれる方は何のことかよく分からないかと思いますが、テクノロジー犯罪を受けている人の多くは、いたる場所で他の人には聞こえない「音」や「声」を耳にします。被害者によっては、脅迫と取れる内容の恫喝を「音声送信」で行われるケースもあります。
では、これはどのような技術によって可能なのでしょうか。
通常の人は、音というものは空気中で拡散することを知っています。したがって、ある人にだけ音が聞こえてその近くにいる人に音が聞こえないといったことはあり得ないと考えます。しかし、近年はこのように指向性スピーカーといって、音波を直進させる技術が開発されています。この写真の製品は、海上での防災や連絡等に主に用いられるものです。これは業務用で非常に大きなサイズですが、「集団ストーカー」の「音声送信」に用いられている技術もこのようなものだと考えられます。
ここで、このような音声送信技術によって、本人だけに聞こえるように恫喝が行われている被害者の心境を想像してください。被害者はこれだけでなく、異常なまでの付きまといや他の嫌がらせ、またテクノロジーによる攻撃を受けています。これらを集中的に1年365日、しかも被害者によっては寝ている時間帯にまで行われるというのが、「集団ストーカー」の被害者の置かれた状況なのです。
またここで、テクノロジー被害に触れておきたいと思います。この「音声送信」が指向性の音波によって本人にのみ音を聞かせる技術なら、テクノロジー被害は同じように指向性の電磁波やエネルギー波を本人だけに浴びせる技術と考えられています。どのような被害がもたらされるかというと、同じくNPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークの統計によると、睡眠妨害(1位)、頭の締め付け・痺れ・痛み(5位)、心臓等内臓の痛み(9位)、電気が体を走った感覚(10位)、体の筋肉が意識に反して動く(17位)… 以上のような被害が報告されています。多種多様であるために、被害者側にはどのような電磁波・エネルギーはであるかの解明が行われていません。
このように、「集団ストーカー」とは、これらの多数の被害が被害者本人に集中的に向けられますが、被害者本人に主観的にしか分からないものであり、この苦しみを多くの方は一人で抱えることになります。下手に他の人に話すと、当初にも述べましたように精神疾患への誤認を受けかねません。被害を受けている方の多くが就労など社会生活の困難に直面され、さらに行政などの対処も得られないとなると、経済的困窮や孤独が重なったら自殺の可能性が高いというのもお分かりいただけるかと思います。
最後にひとつだけこのような技術について申し上げさせていただきます。例えば上記の指向性スピーカーは防災や人命救助のために作られたものであり、例えば、地震や災害などでがれきや土砂の下に埋もれてしまった人にも使用されます。瓦礫や土砂の除去に時間がかかるようなケースは、極限に置かれた被災者を勇気づける非常に有効なコミュニケーション手段となります。このような技術が、防災・防犯などの尊い目的などに正しく使われることを願ってやみません。
【裁判員制度に関する一考 (2010/9/25追記)】
日本で裁判員制度が施行され、最初の公判が行われて1年少しが経ちました。裁判員制度は、当初は市民が司法に参加する日本では画期的な制度として導入されましたが、制度的な欠陥も目立つようになりました。具体的には、裁判員として選ばれた市民への強い負担と、裁判員の買収による司法の安全性の逆担保です。安易な制度運営では陥りやすいこのような状態を乗り越えて、はじめて民主主義を増進させる市民参加の裁判員制度が成り立つのではないでしょうか。冤罪がおびただしい数報道される昨今、同じような状況に置かれる集団ストーカー被害者として、他人事ではないと思いましたので追記します。
この裁判員制度の初公判は、2009年8月3日東京地方裁判所にて行われました。制度施行から5月末までに裁判員として選任された裁判員は3,369人、補充裁判員は1,298人。終局人数(判決を受けた人数)は601人。罪名は上位3つが、
①強盗致傷(156人)
②殺人(131人)
③覚せい剤取締法違反(58人)
④現住建造物等放火(45人)
⑤(準)強姦致死傷(42人)
であり、裁判員への負担も多くのしかかります。企業に勤めている人は、裁判員として裁判所に赴いた日は欠勤扱いされることがほとんどです。別に手当てを支給するケースも多いですが、民主主義制度を強く担保する制度として機能するには、裁判員として選ばれた方の負担軽減が重要なのではないかと思います。冤罪が少なくなる風潮になると、この集団ストーカー問題も激しさが軽減されてくるのではないかという思いから書きました。皆さんも深くお考えになっていただければ幸いです。
【リンク】
裁判員制度の詳しい情報はこちらへ ⇒ 最高裁判所内の裁判員制度のWebサイト

【沖縄・月明かりに照らされた首里城】
本年の政治の大きな動向として、沖縄の基地問題は誰もがご存知でしょう。筆者はどのスタンスでもありませんが、沖縄住民の方々は長い間、飛行機事故の危険と騒音に悩まされました。問題解決のために、地方にリスクを分散する知事会が開かれ、大阪の橋本知事などが基地訓練の分担を考慮する考えを示しましたが、以降先に進んでいません。沖縄の住民の方々に多大な負担をかけられた状態が長年続いたことを、本土の住民は深く考えなければなりません。
この問題と同じように考えてはならないかもしれませんが、「集団ストーカー」の被害者も「騒音」に悩まされます。場合によっては、多くの人が「ヘリコプター」の低空旋廻による騒音に悩まされています。筆者も、昨年の秋ごろまで、時期によってはほぼ毎日続いていました。最寄の駅から家までずっとヘリコプターが頭上にいたこともありました。上空を飛ぶ飛行機やヘリコプターの騒音は尋常でなく、低空で飛ばれたときのデシベル値は並大抵ではありません。自分の場合も、常にエアコンがなっているような耳鳴りがしばらく消えなかったのを覚えています。それだけでなく、人間の心理として強い圧迫感を感じ、場合によっては恐怖感すら感じます。
この「集団ストーカー」のヘリコプターの被害は、NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークで多数報告されているようです。私一人だけではありません。下記のリンクの講演会の音声内容をご試聴いただければお分かりになっていただけると思います。
⇒ 【リンク】NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワーク
(「人的嫌がらせ被害の説明 その3」の部分にヘリコプターの被害について石橋理事長が述べられています。ヘリコプターの騒音が、実際には飛行しておらず「音声送信」によるものだというケースも報告されています。筆者の場合は実際のヘリコプターの飛行を目で確認しています。この「人的嫌がらせ被害の説明 その1~その3」は、集団ストーカー被害のなかでも比較的分かりやすい内容であり、統計的にどのような被害が報告されているかを把握されるのに、非常に分かりやすいと思います。)
このブログでは、今後一般の方々が常識的に考えられない被害内容についても、被害の認知と被害者の救済のために述べていかなければなりません。お見苦しい点もあるかと思いますが、できるだけ客観的な資料を添えて、分かりやすくご説明していこうと思っています。
前置きが長くなりましたが、今回は旧ブログに掲載された「被害への取り組み(2)」を掲載致します。「音声送信」について触れたものです。ぜひご覧になってください。
【記事本文】
これまでの記事で、特に「集団ストーカー」という問題の歴史的・社会的背景を考察してきましたが、分かりにくかった方も多いのではないでしょうか。
ここでは、「NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワーク」で受け付けている被害のうち、テクノロジー犯罪がどのようなものかを例を挙げてご説明したいと思います。
NPOテクノロジー犯罪被害ネットワークの統計によりますと、テクノロジー犯罪の中で、「音が聞こえる」「声が聞こえる」といった被害が、それぞれ3位、4位に来ています。これがどのようなものなのかをご説明します。
まず自分の体験を説明します。私がこの被害を受けたのは2年以上前のある時期に集中していますが、ある場所に行ったときに、頭の中に音が鳴り響くようなことが多数起こりました。あるときは頭の中で「わっ!!!」という人が威嚇するような声が頭の中で鳴り響きました。そのとき、3m隣くらいに男性二人がいました。通常なら、このような声がしたら、びっくりして当惑するくらいの大きな声です。しかし、その二人には聞こえていないようでした。自分だけに聞こえていたのです。
被害者はこれを「音声送信」と呼んでいます。このようなことをはじめて聞かれる方は何のことかよく分からないかと思いますが、テクノロジー犯罪を受けている人の多くは、いたる場所で他の人には聞こえない「音」や「声」を耳にします。被害者によっては、脅迫と取れる内容の恫喝を「音声送信」で行われるケースもあります。
では、これはどのような技術によって可能なのでしょうか。
通常の人は、音というものは空気中で拡散することを知っています。したがって、ある人にだけ音が聞こえてその近くにいる人に音が聞こえないといったことはあり得ないと考えます。しかし、近年はこのように指向性スピーカーといって、音波を直進させる技術が開発されています。この写真の製品は、海上での防災や連絡等に主に用いられるものです。これは業務用で非常に大きなサイズですが、「集団ストーカー」の「音声送信」に用いられている技術もこのようなものだと考えられます。
ここで、このような音声送信技術によって、本人だけに聞こえるように恫喝が行われている被害者の心境を想像してください。被害者はこれだけでなく、異常なまでの付きまといや他の嫌がらせ、またテクノロジーによる攻撃を受けています。これらを集中的に1年365日、しかも被害者によっては寝ている時間帯にまで行われるというのが、「集団ストーカー」の被害者の置かれた状況なのです。
またここで、テクノロジー被害に触れておきたいと思います。この「音声送信」が指向性の音波によって本人にのみ音を聞かせる技術なら、テクノロジー被害は同じように指向性の電磁波やエネルギー波を本人だけに浴びせる技術と考えられています。どのような被害がもたらされるかというと、同じくNPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークの統計によると、睡眠妨害(1位)、頭の締め付け・痺れ・痛み(5位)、心臓等内臓の痛み(9位)、電気が体を走った感覚(10位)、体の筋肉が意識に反して動く(17位)… 以上のような被害が報告されています。多種多様であるために、被害者側にはどのような電磁波・エネルギーはであるかの解明が行われていません。
このように、「集団ストーカー」とは、これらの多数の被害が被害者本人に集中的に向けられますが、被害者本人に主観的にしか分からないものであり、この苦しみを多くの方は一人で抱えることになります。下手に他の人に話すと、当初にも述べましたように精神疾患への誤認を受けかねません。被害を受けている方の多くが就労など社会生活の困難に直面され、さらに行政などの対処も得られないとなると、経済的困窮や孤独が重なったら自殺の可能性が高いというのもお分かりいただけるかと思います。
最後にひとつだけこのような技術について申し上げさせていただきます。例えば上記の指向性スピーカーは防災や人命救助のために作られたものであり、例えば、地震や災害などでがれきや土砂の下に埋もれてしまった人にも使用されます。瓦礫や土砂の除去に時間がかかるようなケースは、極限に置かれた被災者を勇気づける非常に有効なコミュニケーション手段となります。このような技術が、防災・防犯などの尊い目的などに正しく使われることを願ってやみません。
【裁判員制度に関する一考 (2010/9/25追記)】
日本で裁判員制度が施行され、最初の公判が行われて1年少しが経ちました。裁判員制度は、当初は市民が司法に参加する日本では画期的な制度として導入されましたが、制度的な欠陥も目立つようになりました。具体的には、裁判員として選ばれた市民への強い負担と、裁判員の買収による司法の安全性の逆担保です。安易な制度運営では陥りやすいこのような状態を乗り越えて、はじめて民主主義を増進させる市民参加の裁判員制度が成り立つのではないでしょうか。冤罪がおびただしい数報道される昨今、同じような状況に置かれる集団ストーカー被害者として、他人事ではないと思いましたので追記します。
この裁判員制度の初公判は、2009年8月3日東京地方裁判所にて行われました。制度施行から5月末までに裁判員として選任された裁判員は3,369人、補充裁判員は1,298人。終局人数(判決を受けた人数)は601人。罪名は上位3つが、
①強盗致傷(156人)
②殺人(131人)
③覚せい剤取締法違反(58人)
④現住建造物等放火(45人)
⑤(準)強姦致死傷(42人)
であり、裁判員への負担も多くのしかかります。企業に勤めている人は、裁判員として裁判所に赴いた日は欠勤扱いされることがほとんどです。別に手当てを支給するケースも多いですが、民主主義制度を強く担保する制度として機能するには、裁判員として選ばれた方の負担軽減が重要なのではないかと思います。冤罪が少なくなる風潮になると、この集団ストーカー問題も激しさが軽減されてくるのではないかという思いから書きました。皆さんも深くお考えになっていただければ幸いです。
【リンク】
裁判員制度の詳しい情報はこちらへ ⇒ 最高裁判所内の裁判員制度のWebサイト
被害者の会での吐露による被害感の軽減について
-最終更新日:2010年9月18日(土)-
被害者の心理的負担の軽減や生活再建には自助という方法がいいのではと述べましたが、ここではこのことについて述べてみたいと思います。
被害者の方は必ずこのような経験をされたのではないかと思います。それは他人への説得の難しさです。
これは、親しい間柄の人であっても、被害者が主観的にしか分からない説明しにくい被害であるため、信じてもらえないというものです。自分の経験だと、家族ですら分かってもらうのに1回1時間以上の会話を10回以上根気良くしなければなりませんでした。
このように、被害者が主観的に辛いと思っているのだけど、ほかの人に理解されにくい問題のケースは、被害者同士がその辛さを話し合うのが一番治療効果あります。例を挙げるなら、アルコール依存症者の会や難病患者の会、うつ病患者の会、などの自助グループです。
NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークさんは、札幌・東京・名古屋・大阪ですでに被害者の会を開いておられます。私がこのようなことを申し上げるのは差し出がましいことですが、このような問題の心理的な解消のためには以下の方法が効果あります。
被害内容が似た被害者の方数名でグループを作ります。順番に、10分の時間で好きなようにこの被害に関する心境を吐露します。その際、グループのほかの方は一切口出しをしてはいけません。話し終わったら次の人が話します。こうやってすべての方が好きなように話して、他の人は黙って聞くだけです。これは、声の大きい人と小さい人の格差を発生させないためです。また、話したくないときはパスもできます。この方法は、「言いっぱなし、聞きっぱなし」と呼ばれています。
これは、被害者同士の共感と吐露が公平に行われ、連帯感も生むといわれます。例えば、他の自助グループでは、このような「言いっぱなし、聞きっぱなし」の後に、休憩時間などに被害の乗り越え方などの生の情報を共有したりして、インフォーマルな交友関係を他の被害者と結ぶこともできます。また、このような自助グループは参加者が主体的に参加するものであり、このことも被害者がいきいきと社会で暮らすのに失った人間性を回復するといわれています。
被害者によっては、被害が極めて厳しい時期は、外出すること自体が困難になります。そういった状況ですら、このような被害者同士のつながりをあえて強く持つことは、被害者自身の心の安定と不測の事態に備えることにつながります。この被害はともすれば加害者によって分断されてしまい、被害者同士がつながることは難しいのは多くの方が経験されてきたことではないでしょうか。それを克服するような強いネットワークが形成されると、この問題に対して被害者は大きな力を得ることにつながります。
最後に、このような様々な問題のNPO法人などは、行政が対応できない領域を市民の力でカバーする営みです。NPO法ができてから急速に日本に広まって今ではかなりの数になっています。その反面、運営は経営的な面をはじめとして難しいといわれています。今後のニーズの高まりは必至といわれ、NPO法人がより運営しやすい制度づくりも必要になってくるのではないかと思います。
追記掲載 9月18日(土)
上の書籍は、日本のセルフヘルプグループ研究者の第一人者の岡知史氏による、セルフヘルプグループ(自助グループ)の分かりやすい入門書です。岡氏は、アメリカで難病の子どもの親の会に関する博士論文(下の書籍)を出版するなど、セルフヘルプグループに関する本格的な研究をされています。そちらは難しいですが、上記に紹介させていただいた本はどなたにでも分かりやすい内容と思いますので、被害者の方も、被害を受けたことがない方も、よろしければご覧になってください。
この二つの書籍をとりあげるか迷いましたが、この際書きます。大学在学中の指導教官である岡田敬司氏の主要著書の2冊です。
以前、「自律」という概念をこのブログで使用しました。あまり現実にはなじみのない言葉ですが、人間が人間らしく生きるには重要な意味をもちます。自律とは辞書で「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。」とあります。一方、その対義語は「他律」であり、同じく辞書によると「 自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること。」(Yahoo辞書 大辞泉)とあります。
これは、重要な教育学における命題です。子どもは自分で自分の規範を持ちませんし、後天的に社会によって望ましい人間形成が行われなければなりません。そのためには、教師の導きを受ける「他律」の状態から、自分が立てた規範によって行動する「自律」の状態へと育まれなければなりません。現実の世界はもっと複雑ですが、教育における人間形成の原理はこのようなものです。これに関する哲学的な研究を行われてきた方です。
また、岡田敬司氏は、もっと普遍的な命題である、個人とはどのように自律的な主体たりえるか、という考察を広く人間形成の視点から考察されています。教育学に限らず、社会学、精神病理学、心理学などさまざまな観点からです。自分の理解しているところでは、完全に「自律」的な主体は存在せず、国家などの上位システムと、下にある横のつながりの支えによってかろうじて「自律」が可能になっているということです。社会が個人に要求する厳しい命題を、横のつながりによって人間性を維持するといった感じでしょうか。別に難しいものではなく、企業に勤めていたら、企業の外の旧友の絆やサークルの屈託のない輪が、社会で生き生きと暮らす人間性を担保するのと同じようなものです。しかし、企業の中だけで機械のように生産主体としてだけ働いていたら、それはもう「自律」的な主体ではなく、他人に動かされるままの「他律」的な主体ということになります。豊かな人間らしい生活とはかけ離れている状態です。だからといって、生産を放棄したら生活できないのと同様、人間はこの場合企業という上位システムを受け入れざるを得ません。このような一方の役割だけを負わされる厳しい状況に置かれた個人が、家庭内暴力やアルコール依存症などの社会的病理を生み出します。これは、個人的な弱さとは別の問題です。社会の脆さではないでしょうか。
この問題における被害者も同様です。加害者の恐ろしいテクノロジーによる加害行為によって、「自分の意思で行動する」ということが強く抑圧されてしまう状況におかれているからです。安易に岡田敬司先生の理論をこの問題に当てはめようということはできません。ただし、個人がさまざまなものと共軛的に生きていくには、このような考え方が必須です。特に、寛容な昭和時代に多くあった、上位システムの非人間性を中和する、個人との中間の遊びのような制度を社会に多く復活させてほしいというのが願いみたいなものでしょうか。過酷な状況におかれた被害者が人間的に回復するためには、同じような機能をもつセルフヘルプグループという場が必要であるという考え方は、その延長線上にあります。
最後に、岡田敬司先生や岡知史先生をはじめ、このブログで公的なお名前を使用させていただいた方、申し訳ありません。自分も大学卒業後は普通にサラリーマンとかで過ごしていくのかと思ったらこの被害を受けました。迷惑な話ですが、お考えを使わせていただき、申し訳ありません。
後は、このブログがどれだけこの問題に対して、浄化作用となってくれるか。ブログにお越しいただいている読者の皆様、深くお考えになっていただければ幸いです。
被害者の心理的負担の軽減や生活再建には自助という方法がいいのではと述べましたが、ここではこのことについて述べてみたいと思います。
被害者の方は必ずこのような経験をされたのではないかと思います。それは他人への説得の難しさです。
これは、親しい間柄の人であっても、被害者が主観的にしか分からない説明しにくい被害であるため、信じてもらえないというものです。自分の経験だと、家族ですら分かってもらうのに1回1時間以上の会話を10回以上根気良くしなければなりませんでした。
このように、被害者が主観的に辛いと思っているのだけど、ほかの人に理解されにくい問題のケースは、被害者同士がその辛さを話し合うのが一番治療効果あります。例を挙げるなら、アルコール依存症者の会や難病患者の会、うつ病患者の会、などの自助グループです。
NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークさんは、札幌・東京・名古屋・大阪ですでに被害者の会を開いておられます。私がこのようなことを申し上げるのは差し出がましいことですが、このような問題の心理的な解消のためには以下の方法が効果あります。
被害内容が似た被害者の方数名でグループを作ります。順番に、10分の時間で好きなようにこの被害に関する心境を吐露します。その際、グループのほかの方は一切口出しをしてはいけません。話し終わったら次の人が話します。こうやってすべての方が好きなように話して、他の人は黙って聞くだけです。これは、声の大きい人と小さい人の格差を発生させないためです。また、話したくないときはパスもできます。この方法は、「言いっぱなし、聞きっぱなし」と呼ばれています。
これは、被害者同士の共感と吐露が公平に行われ、連帯感も生むといわれます。例えば、他の自助グループでは、このような「言いっぱなし、聞きっぱなし」の後に、休憩時間などに被害の乗り越え方などの生の情報を共有したりして、インフォーマルな交友関係を他の被害者と結ぶこともできます。また、このような自助グループは参加者が主体的に参加するものであり、このことも被害者がいきいきと社会で暮らすのに失った人間性を回復するといわれています。
被害者によっては、被害が極めて厳しい時期は、外出すること自体が困難になります。そういった状況ですら、このような被害者同士のつながりをあえて強く持つことは、被害者自身の心の安定と不測の事態に備えることにつながります。この被害はともすれば加害者によって分断されてしまい、被害者同士がつながることは難しいのは多くの方が経験されてきたことではないでしょうか。それを克服するような強いネットワークが形成されると、この問題に対して被害者は大きな力を得ることにつながります。
最後に、このような様々な問題のNPO法人などは、行政が対応できない領域を市民の力でカバーする営みです。NPO法ができてから急速に日本に広まって今ではかなりの数になっています。その反面、運営は経営的な面をはじめとして難しいといわれています。今後のニーズの高まりは必至といわれ、NPO法人がより運営しやすい制度づくりも必要になってくるのではないかと思います。
追記掲載 9月18日(土)
![]() | セルフヘルプグループ―わかちあい・ひとりだち・ときはなち (1999/02) 岡 知史 商品詳細を見る |
![]() | Self-Help Groups for Parents of Children With Intractable Diseases: A Qualitative Study of Their Organisational Problems (2003/10) Tomofumi Oka 商品詳細を見る |
上の書籍は、日本のセルフヘルプグループ研究者の第一人者の岡知史氏による、セルフヘルプグループ(自助グループ)の分かりやすい入門書です。岡氏は、アメリカで難病の子どもの親の会に関する博士論文(下の書籍)を出版するなど、セルフヘルプグループに関する本格的な研究をされています。そちらは難しいですが、上記に紹介させていただいた本はどなたにでも分かりやすい内容と思いますので、被害者の方も、被害を受けたことがない方も、よろしければご覧になってください。
![]() | 「自律」の復権―教育的かかわりと自律を育む共同体 (2004/08) 岡田 敬司 商品詳細を見る |
![]() | 人間形成にとって共同体とは何か―自律を育む他律の条件 (2009/02) 岡田 敬司 商品詳細を見る |
この二つの書籍をとりあげるか迷いましたが、この際書きます。大学在学中の指導教官である岡田敬司氏の主要著書の2冊です。
以前、「自律」という概念をこのブログで使用しました。あまり現実にはなじみのない言葉ですが、人間が人間らしく生きるには重要な意味をもちます。自律とは辞書で「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。」とあります。一方、その対義語は「他律」であり、同じく辞書によると「 自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること。」(Yahoo辞書 大辞泉)とあります。
これは、重要な教育学における命題です。子どもは自分で自分の規範を持ちませんし、後天的に社会によって望ましい人間形成が行われなければなりません。そのためには、教師の導きを受ける「他律」の状態から、自分が立てた規範によって行動する「自律」の状態へと育まれなければなりません。現実の世界はもっと複雑ですが、教育における人間形成の原理はこのようなものです。これに関する哲学的な研究を行われてきた方です。
また、岡田敬司氏は、もっと普遍的な命題である、個人とはどのように自律的な主体たりえるか、という考察を広く人間形成の視点から考察されています。教育学に限らず、社会学、精神病理学、心理学などさまざまな観点からです。自分の理解しているところでは、完全に「自律」的な主体は存在せず、国家などの上位システムと、下にある横のつながりの支えによってかろうじて「自律」が可能になっているということです。社会が個人に要求する厳しい命題を、横のつながりによって人間性を維持するといった感じでしょうか。別に難しいものではなく、企業に勤めていたら、企業の外の旧友の絆やサークルの屈託のない輪が、社会で生き生きと暮らす人間性を担保するのと同じようなものです。しかし、企業の中だけで機械のように生産主体としてだけ働いていたら、それはもう「自律」的な主体ではなく、他人に動かされるままの「他律」的な主体ということになります。豊かな人間らしい生活とはかけ離れている状態です。だからといって、生産を放棄したら生活できないのと同様、人間はこの場合企業という上位システムを受け入れざるを得ません。このような一方の役割だけを負わされる厳しい状況に置かれた個人が、家庭内暴力やアルコール依存症などの社会的病理を生み出します。これは、個人的な弱さとは別の問題です。社会の脆さではないでしょうか。
この問題における被害者も同様です。加害者の恐ろしいテクノロジーによる加害行為によって、「自分の意思で行動する」ということが強く抑圧されてしまう状況におかれているからです。安易に岡田敬司先生の理論をこの問題に当てはめようということはできません。ただし、個人がさまざまなものと共軛的に生きていくには、このような考え方が必須です。特に、寛容な昭和時代に多くあった、上位システムの非人間性を中和する、個人との中間の遊びのような制度を社会に多く復活させてほしいというのが願いみたいなものでしょうか。過酷な状況におかれた被害者が人間的に回復するためには、同じような機能をもつセルフヘルプグループという場が必要であるという考え方は、その延長線上にあります。
最後に、岡田敬司先生や岡知史先生をはじめ、このブログで公的なお名前を使用させていただいた方、申し訳ありません。自分も大学卒業後は普通にサラリーマンとかで過ごしていくのかと思ったらこの被害を受けました。迷惑な話ですが、お考えを使わせていただき、申し訳ありません。
後は、このブログがどれだけこの問題に対して、浄化作用となってくれるか。ブログにお越しいただいている読者の皆様、深くお考えになっていただければ幸いです。
柳田という男
日本人の「お笑い文化」に関する一考察
~松本人志氏復活一人コントMHKの放送前に~
-最終更新日:2010年9月15日(水)-
今回は、10月15日にNHKで2夜連続で放送される松本人志氏のコントとドキュメンタリーに先駆けて、個人的に好きな同氏の作品を挙げてみようというものです。
まずはこちらをご覧下さい。【松本人志自選集 「スーパー一人ごっつ」 Vol.1】に収録されている「教えよう ~車のマドからの手の出し方~ 」というコーナーです。
-Dear 松本さん-
暖かくなってきました。車の窓を開けてヒジを出しながら運転する季節の到来です。僕も明日から出すつもりですが、日頃から何かと期待されている僕が、皆と同じようにやる訳にも行きません。悩んでいます。松本さんの知っている方法を教えて下さい。
これに対して松本人志氏がさまざまな方法を伝授します。
【腕牧場になっている】
【ハンドクリームを延ばし忘れている】
【アルミホイルを巻いている】
これ以外にも「こぶ締めの柔道着をもっている」など、噴き出す部分は多数あります。よろしければご覧になってください。(著作権に抵触する可能性があるために画像を削除しました。2010年10月6日水曜日)
次に挙げるのが、伝説の一万円ライブ「寸止め海峡」です。
自分は、この作品に松本人志氏の天才性が凝縮されていると思います。お笑いの世界では一万円のライブなど通常存在しません。前回取りあげたクラシックでもなかなか一万円に達しません。しかも、アドリブが要求されるコントです。異常な緊張感に包まれている様子がまず当初に流れます。名作は、やりたくもないシチュエーションで無理やり自分を追い詰めた結果生まれることが多いと言われています。この作品も例外ではないでしょう。
そのようななかでのこのコントは秀逸という他ありません。特に「柳田という男」はあらゆるコントのなかで日本でもっとも個人的に好きです。若い頃に見たので影響に残っているのでしょう。松本人志氏は、トークに重みを置いたコントを志向し、それゆえ司会の天才・島田伸介氏をもっとも尊敬していると述べていたのを覚えています。
この「柳田という男」は、タバコを吸ったとされる生徒に対する生活指導がテーマですが、これほど頭の回転がキレているコントは見たことがありません。松ちゃんが教師役ですが、文章にしたら意味がつながらないと思います。この意味のつながらさ、可笑しさを観客が失笑するところから笑いが生まれます。これが日本のお笑いの特徴であり、理不尽性の笑いへの昇華は松本人志氏の最も得意とするところでしょう。文章を掲載しても雰囲気は伝わらないでしょうが、母親を交えた生活指導の様子をあえて少し挙げてみると……
「ここで柳田がトイレでタバコを吸っておったと。10分間の休憩時間に、14本吸っておったと。まぁ、私はこの倍と思ってますけれども。」
「柳田君はね、怖いです。くるくる回ってます。校庭を。これ見といてもう、びっくりしました。まぁ、これはもう抜本的な問題ですけれども。」
「本当はこんなことを言ってはならないんですけどね。言わんことに話にならんのでね。まぁ、水掛け論ですけれども。」
このビデオは、松本人志氏、今田耕司氏、板尾創路氏、東野幸治氏の4名によるコントです。もう10年以上前の作品であり、みんな若々しい姿をしています。学生時代にはダウンタウンのビデオはすべてレンタルで借りて見ていました。その中でも、この「寸止め海峡」だけは、自分のお笑いに関する見方を根底的に変えた作品でした。今でも忘れられなくて、DVDを探しましたが、当時のVHS版しか発売されていません。惜しいなと思います。
最後に、松本人志氏が初めて監督を務めた映画「大日本人」をご紹介させていただこうと思います。
内容は松ちゃん主演の大佐藤大(だいさとうまさる)が強大化して獣(じゅう)と戦うというものです。その巨大化した松ちゃんが大日本人という巨人というわけです。その大日本人も、日本の平和を守るための英雄として存在していました。しかし、今は社会の厄介者として家に石を投げ入れられる。そのようなシーンから映画は始まります。
とにかく、観客の娯楽性を度外視した内容で、物議を醸しだしたこの作品。自分は、娯楽性よりも、メッセージを強く投げ入れたのではないかと思っています。
ヒーローものといえば、アニメにおける時代の変遷でよく言われるものに次のようなものがあります。かつて「鉄腕アトム」が流行った戦後、ヒーローものの主人公は強靭な精神力をもった経済発展を鼓舞する存在でした。それが、「ガンダム」の辺りから主人公像が変化します。戦争に対する苦悩と葛藤に苛まれる若者の姿が世間に支持されるようになります。「Zガンダム」ではさらにこの傾向が顕著となり、1996年の「新世紀エヴァンゲリオン」など、もはや主人公の少年の内面世界によって構成されています。しかも、そこには強靭な精神力などなく、逃避を繰り返すあまりにも脆い精神性の主人公が強調され、世の中の支持を得てしまいます。
そもそも、ヒーローが落ちぶれている映画など、特撮ものにはあり得なかったことです。映画「大日本人」のように、かつての英雄が社会に疎まれ、怪獣に敗れることの方が逆に視聴率を高める結果となり、海外のヒーローに怪獣退治の役割を奪われる。文脈として今の日本を代弁しているというわけです。自分は当時この映画を映画館で見ましたが、最後まで見てようやく物語の一貫性を感じられて「なるほどな」と思いました。このように物語の構造を理解できる方が少ないのが残念です。自分は、むしろ当時なかなか難しいこのような日本に対する辛辣なメッセージ性を作品に忍ばせたことに「凄いな」と思いました。
そういえば、現代において自由主義経済の分野の巨匠といえば、F.ハイエクやM.フリードマンの二人が有名です。ハイエクは、1920年代にケインズ主義がもっとも旺盛な時代に自由主義経済の理論を深化させて、つい近年ようやくその功績が認められた巨匠です。芸術作品や学術・文学などは、時代によって評価のされ方は全く異なります。しかし、天才が残した軌跡は、必ず失われることなく次世代に受け継がれます。今の社会は認められるスパンが短くなり、不条理さも和らいでいるとはいえ、時代を先駆した表現は痛みを伴います。松本人志氏の「寸止め海峡」がDVD化されていないあたり、まだ松本人志氏の功績は完全に認められていないと思います。残念でなりません。
その氏の一人コントが9年ぶりにNHKで10月15日に放送されます。
⇒ 記事リンク【松ちゃん初NHKコント番組「MHK」 サンケイスポーツ】
翌日には、3月にいったん休止していた同局の「プロフェッショナル 仕事の流儀」再開の特番が松本人志特集として放送されます。この番組は日本の若者に常に希望とチャレンジ精神を与えてきました。今度は松ちゃんが若者に希望を与える番だというNHKのメッセージが伝わってくるようです。
長文ですが、最後まで見ていただいてありがとうございました。被害者の方ために少しだけ文書を追記します。
「アルミホイル」を巻いているという表現に、被害者の方々はピンと来られるかもしれません。アルミホイルは電磁波遮断のためにかなり有効な金属だからです。中には部屋中に張り巡らす方もおられます。アメリカでは日本と同様のテクノロジー被害者がアルミホイルを内部に巻いた野球帽をかぶるという記事がワシントンポスト紙に掲載されています。ただし、これだけのことをしても加害行為に用いられる電磁波は透過性が強いために完全に防ぐことはできません。それでも人間が主観的に拷問と感じる被害に対して、防御するために自然とこのような方法が編み出されていくのです。
アメリカでは、向こうの言葉で"Organized Stalking"や"Electronic Harassment"の被害者がTIと呼ばれているようです。TIとは「標的にされた個人"Targetted Individual"」という意味でしょう。このワシントンポストの記事は、NPO法人テクノロジー被害ネットワークのホームページで被害者の方が邦訳されています。ぜひご覧になってください。
⇒ リンク 【NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークのワシントン・ポスト紙記事 邦訳】
そういえば、松本人志氏は、急に頭を丸めて世間の度肝を抜いたが、いわゆる禿ではなく坊主頭にしただけである。筆者の父は禿であるが、隔世遺伝と聞いていたのに最近頭頂部の薄さが気になり始めた。最近、薬用シャンプーを使っているが、効果は表れるのだろうか。松本人志氏のビジュアルバムを追加。久しぶりに見たがやはり面白い。(2010年10月1日)
記事や祭りの画像が気に入ったらぜひ押してください。アクセスアップに繋がります。この問題の認知と解決のためにご協力をお願い致します。

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~松本人志氏復活一人コントMHKの放送前に~
-最終更新日:2010年9月15日(水)-
今回は、10月15日にNHKで2夜連続で放送される松本人志氏のコントとドキュメンタリーに先駆けて、個人的に好きな同氏の作品を挙げてみようというものです。
まずはこちらをご覧下さい。【松本人志自選集 「スーパー一人ごっつ」 Vol.1】に収録されている「教えよう ~車のマドからの手の出し方~ 」というコーナーです。
![]() | 松本人志自選集 「スーパー一人ごっつ」 Vol.1 [DVD] (2002/09/26) 松本人志 商品詳細を見る |
-Dear 松本さん-
暖かくなってきました。車の窓を開けてヒジを出しながら運転する季節の到来です。僕も明日から出すつもりですが、日頃から何かと期待されている僕が、皆と同じようにやる訳にも行きません。悩んでいます。松本さんの知っている方法を教えて下さい。
これに対して松本人志氏がさまざまな方法を伝授します。
【腕牧場になっている】
【ハンドクリームを延ばし忘れている】
【アルミホイルを巻いている】
これ以外にも「こぶ締めの柔道着をもっている」など、噴き出す部分は多数あります。よろしければご覧になってください。(著作権に抵触する可能性があるために画像を削除しました。2010年10月6日水曜日)
![]() | 寸止め海峡(仮題)~松本人志ライブ~ [VHS] (1995/01/20) 松本人志 商品詳細を見る |
次に挙げるのが、伝説の一万円ライブ「寸止め海峡」です。
自分は、この作品に松本人志氏の天才性が凝縮されていると思います。お笑いの世界では一万円のライブなど通常存在しません。前回取りあげたクラシックでもなかなか一万円に達しません。しかも、アドリブが要求されるコントです。異常な緊張感に包まれている様子がまず当初に流れます。名作は、やりたくもないシチュエーションで無理やり自分を追い詰めた結果生まれることが多いと言われています。この作品も例外ではないでしょう。
そのようななかでのこのコントは秀逸という他ありません。特に「柳田という男」はあらゆるコントのなかで日本でもっとも個人的に好きです。若い頃に見たので影響に残っているのでしょう。松本人志氏は、トークに重みを置いたコントを志向し、それゆえ司会の天才・島田伸介氏をもっとも尊敬していると述べていたのを覚えています。
この「柳田という男」は、タバコを吸ったとされる生徒に対する生活指導がテーマですが、これほど頭の回転がキレているコントは見たことがありません。松ちゃんが教師役ですが、文章にしたら意味がつながらないと思います。この意味のつながらさ、可笑しさを観客が失笑するところから笑いが生まれます。これが日本のお笑いの特徴であり、理不尽性の笑いへの昇華は松本人志氏の最も得意とするところでしょう。文章を掲載しても雰囲気は伝わらないでしょうが、母親を交えた生活指導の様子をあえて少し挙げてみると……
「ここで柳田がトイレでタバコを吸っておったと。10分間の休憩時間に、14本吸っておったと。まぁ、私はこの倍と思ってますけれども。」
「柳田君はね、怖いです。くるくる回ってます。校庭を。これ見といてもう、びっくりしました。まぁ、これはもう抜本的な問題ですけれども。」
「本当はこんなことを言ってはならないんですけどね。言わんことに話にならんのでね。まぁ、水掛け論ですけれども。」
このビデオは、松本人志氏、今田耕司氏、板尾創路氏、東野幸治氏の4名によるコントです。もう10年以上前の作品であり、みんな若々しい姿をしています。学生時代にはダウンタウンのビデオはすべてレンタルで借りて見ていました。その中でも、この「寸止め海峡」だけは、自分のお笑いに関する見方を根底的に変えた作品でした。今でも忘れられなくて、DVDを探しましたが、当時のVHS版しか発売されていません。惜しいなと思います。
![]() | 大日本人 通常盤 [DVD] (2007/11/28) 松本人志神木隆之介 商品詳細を見る |
最後に、松本人志氏が初めて監督を務めた映画「大日本人」をご紹介させていただこうと思います。
内容は松ちゃん主演の大佐藤大(だいさとうまさる)が強大化して獣(じゅう)と戦うというものです。その巨大化した松ちゃんが大日本人という巨人というわけです。その大日本人も、日本の平和を守るための英雄として存在していました。しかし、今は社会の厄介者として家に石を投げ入れられる。そのようなシーンから映画は始まります。
とにかく、観客の娯楽性を度外視した内容で、物議を醸しだしたこの作品。自分は、娯楽性よりも、メッセージを強く投げ入れたのではないかと思っています。
ヒーローものといえば、アニメにおける時代の変遷でよく言われるものに次のようなものがあります。かつて「鉄腕アトム」が流行った戦後、ヒーローものの主人公は強靭な精神力をもった経済発展を鼓舞する存在でした。それが、「ガンダム」の辺りから主人公像が変化します。戦争に対する苦悩と葛藤に苛まれる若者の姿が世間に支持されるようになります。「Zガンダム」ではさらにこの傾向が顕著となり、1996年の「新世紀エヴァンゲリオン」など、もはや主人公の少年の内面世界によって構成されています。しかも、そこには強靭な精神力などなく、逃避を繰り返すあまりにも脆い精神性の主人公が強調され、世の中の支持を得てしまいます。
そもそも、ヒーローが落ちぶれている映画など、特撮ものにはあり得なかったことです。映画「大日本人」のように、かつての英雄が社会に疎まれ、怪獣に敗れることの方が逆に視聴率を高める結果となり、海外のヒーローに怪獣退治の役割を奪われる。文脈として今の日本を代弁しているというわけです。自分は当時この映画を映画館で見ましたが、最後まで見てようやく物語の一貫性を感じられて「なるほどな」と思いました。このように物語の構造を理解できる方が少ないのが残念です。自分は、むしろ当時なかなか難しいこのような日本に対する辛辣なメッセージ性を作品に忍ばせたことに「凄いな」と思いました。
そういえば、現代において自由主義経済の分野の巨匠といえば、F.ハイエクやM.フリードマンの二人が有名です。ハイエクは、1920年代にケインズ主義がもっとも旺盛な時代に自由主義経済の理論を深化させて、つい近年ようやくその功績が認められた巨匠です。芸術作品や学術・文学などは、時代によって評価のされ方は全く異なります。しかし、天才が残した軌跡は、必ず失われることなく次世代に受け継がれます。今の社会は認められるスパンが短くなり、不条理さも和らいでいるとはいえ、時代を先駆した表現は痛みを伴います。松本人志氏の「寸止め海峡」がDVD化されていないあたり、まだ松本人志氏の功績は完全に認められていないと思います。残念でなりません。
その氏の一人コントが9年ぶりにNHKで10月15日に放送されます。
⇒ 記事リンク【松ちゃん初NHKコント番組「MHK」 サンケイスポーツ】
翌日には、3月にいったん休止していた同局の「プロフェッショナル 仕事の流儀」再開の特番が松本人志特集として放送されます。この番組は日本の若者に常に希望とチャレンジ精神を与えてきました。今度は松ちゃんが若者に希望を与える番だというNHKのメッセージが伝わってくるようです。
長文ですが、最後まで見ていただいてありがとうございました。被害者の方ために少しだけ文書を追記します。
「アルミホイル」を巻いているという表現に、被害者の方々はピンと来られるかもしれません。アルミホイルは電磁波遮断のためにかなり有効な金属だからです。中には部屋中に張り巡らす方もおられます。アメリカでは日本と同様のテクノロジー被害者がアルミホイルを内部に巻いた野球帽をかぶるという記事がワシントンポスト紙に掲載されています。ただし、これだけのことをしても加害行為に用いられる電磁波は透過性が強いために完全に防ぐことはできません。それでも人間が主観的に拷問と感じる被害に対して、防御するために自然とこのような方法が編み出されていくのです。
アメリカでは、向こうの言葉で"Organized Stalking"や"Electronic Harassment"の被害者がTIと呼ばれているようです。TIとは「標的にされた個人"Targetted Individual"」という意味でしょう。このワシントンポストの記事は、NPO法人テクノロジー被害ネットワークのホームページで被害者の方が邦訳されています。ぜひご覧になってください。
⇒ リンク 【NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークのワシントン・ポスト紙記事 邦訳】
![]() | HITOSHI MATSUMOTO VISUALBUM “完成” [DVD] (2003/03/26) 松本人志 商品詳細を見る |
そういえば、松本人志氏は、急に頭を丸めて世間の度肝を抜いたが、いわゆる禿ではなく坊主頭にしただけである。筆者の父は禿であるが、隔世遺伝と聞いていたのに最近頭頂部の薄さが気になり始めた。最近、薬用シャンプーを使っているが、効果は表れるのだろうか。松本人志氏のビジュアルバムを追加。久しぶりに見たがやはり面白い。(2010年10月1日)
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セルフヘルプグループと宗教
~アルコール依存症を克服するために必要な宗教装置について~
-最終更新日:2010年9月12日(日)-
前回、セルフヘルプグループが重要な社会問題や病気などを乗り越えるために、弱い立場におかれた人にとって極めて重要な克服の手段となってきたこと述べました。今回は、そのなかでも、耽溺・嗜癖に関するセルフヘルプグループについて述べてみたいと思います。この系統のセルフヘルプグループは、薬物依存、アルコール依存症、ギャンブルなどです。最近では煙草もこれに該当するかもしれません。
社会で人間が豊かに生活するためには、多少の逸脱は社会的にも個人的にも許容されます。しかし、それで社会生活が破綻してしまっては元も子もありません。お酒でも、泥酔した人は翌日にはしらふに戻って仕事に行きます。休日にギャンブルをしても、通常の人は経済的に破綻しない程度にとどめます。薬物依存に至っては、それ自体が法律違反です。これらの耽溺・嗜癖は、場合によってはのめりこんでしまって、通常の社会生活に戻ることができない状態に至ります。この個人の嗜癖・耽溺は、没入してしまっても、元の社会生活に復帰できるということを前提として制度設計されています。社会には為政者が馴致できるガス抜きが必要だということです。集合的にこれを合法的に解消できる代表的なものがこのブログで取りあげているお祭りです。お祭りのドンチャン騒ぎのあとに日常生活に立ち戻ることを、フランスの社会学者E・デュルケムは「聖から俗への帰還」などと表現していたと思います。トーテミズムなどの原始社会のお祭りも、現代のお祭りも、社会に果たす機能は同じというわけです。普段は壁があっても、祭りが社会を統合させるときに、個人は自我の壁を溶解させる体験をします。美しい芸術作品などへの没我・没入と一緒です。
話が脇道にそれましたが、これらの問題には、当然医学の分野で治療の対象とされるものもあります。アルコール依存症や薬物依存症です。しかし、医学にとって非常に迷惑で厄介な分野です。基本的には個人の「選択」によって没落してしまったからです。医師は自分で病気になるような悪い養生をした個人は助けたがらないものです。アルコールを「個人の選択」として多飲した結果のこのような迷惑な問題でも、医学での適切な処置が功を奏する以上、「病気」とし精神医学に位置づけられています。(この問題は、個人的に、「アルコールを飲む」という選択が個人主義制度下で功利的な選択のもとに行われたとする風潮も、アルコール依存症の方を苦しめていると思います。お酒に飲まされたというほうが、問題の性質上正しいと思います。本人の生理学上、多飲しないと満足できない体質が形成されているからです。また下にも述べますが、自分ではどうしようもない性格的気質も要因になっているからです。少なくとも、回復のためにはそのような視点が必要です。これらの点では、心理学でカウンセリングを行う専門家のほうが、個人のこのような性格的気質について詳しく、適切な対処がなされると思います。ただし、薬物依存に関しては違法であるため、個人主義制度の下で、使用を禁じる個人の強い意志が必要です。これだけは間違ってはなりませんので。)
そもそも、これらの問題のセルフヘルプグループが誕生したのも、厄介者扱いされて社会的に見捨てられた人々が集まったからでした。アルコール依存症になった人など、社会は救う気になれないのです。
しかし、例えばアルコール依存症のセルフヘルプグループとしてA・A(アルコホリック・アノニマス)というものがあります。なぜ「アノニマス」かというと、お互いにニックネームで呼び合うからです。重い問題を抱えた人が実名で参加する必要がないように配慮されているからです。このA・Aはキリスト教の教義から派生したもので、治療に実質的な効果があるために、またたく間に浸透して、現在では全世界に数百万人のメンバーがいます。キリスト教の教会などの施設で開催されることもあります。一方で、日本はキリスト教が浸透していませんので、「断酒会」のほうがメンバーが多いです。こちらは、同じようなグループ形態が仏教の教義にそうように作り直されたものと受け取っていただいたら話が早いかと思います。
なぜ、これらのグループが宗教のノウハウを使用しているかが、今回の記事の一番注目所です。A・Aでのミーティングの流れを説明しますと、まず最初にA・Aの「12のステップ」をメンバー全員で唱和します。その後、「言いっぱなし・聞きっぱなし」によってお互いの苦労話を共有します。休憩時間に談話をはさんで、最後の人が話し終わったらミーティングの終わりです。「言いっぱなし・聞きっぱなし」では自分が言いたいことを言って、他の人は黙って話を聞くだけです。おおむね一人10分くらいですが、これが分け隔てなく最後の人まで続けられます。
ここで、「12のステップ」を掲載します。読むのが面倒な方は、最初の3つくらい読んで、最後まで飛ばしてください。
1.われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことが
どうにもならなくなったことを認めた。
2.われわれは自分より偉大な力が、
われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。
3.われわれの意志と命の方向を変え、自分で理解している神、
ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした。
4.探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った。
5.神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、
自分の誤りの正確な本質を認めた。
6.これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを神にゆだねる心の準備が、
完全にできた。
7.自分の短所を変えてください、と謙虚に神に求めた。
8.われわれが傷つけたすべての人の表をつくり、
そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
9.その人たち、または他の人々を傷つけない限り、
機会あるたびに直接埋め合わせをした。
10.自分の生き方の棚卸しを実行し続け、謝ったときは直ちに認めた。
11.自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、
神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
12.これら音ステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコホーリクに伝え、
また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
(スポンサーシップ Q&A AA日本ゼネラルサービスオフィス発行 1999年 日本語翻訳改訂版より)
これを見ていただいたらお分かりになっていただけるように、A・Aの根本的な部分が「ハイヤー・パワー」という神を中心とした宗教的な教義となっていることにお気づきいただけるかと思います。今回の記事の狙いは、たとえ宗教であっても、正しい使い方をしたら重い問題を乗り越える強い武器になるということです。ここでは、この宗教の教義がなぜアルコール依存症を乗り越えるきっかけとなるのか、また実質的に有効な乗り越えの手段となっているかについてご説明します。
アルコール依存症の方々の耽溺の状態は、生理学的に、飲まなければ気がすまない状態です。本人の意思に反して、体が要求するということです。しかし、毎日朝から晩まで飲む生活を続けて、アルコールを中断したら、中毒症状が出ます。幻覚・妄想などです。しかも、強い苦痛を感じます。麻薬をやめるのと同じです。したがって、精神医療の分野での対処となります。しかし、やめるには本人の強い意志が必要です。中断したときの中毒症状にしばらく耐えなければなりません。医療分野は、せいぜいそれを薬の力などで緩和する程度しかできません。
しかし、厄介なことにアルコール依存症の人は一回お酒をやめることができても、また同じアルコール依存に陥ってしまう可能性が高いです。アルコール依存症になってしまったときの飲酒量を飲まなければ満足できない体になってしまっているからです。例えば、アルコール依存症になったときに一日にお酒を一升瓶ぜんぶ飲んでいたら、一合や二合では満足できない体になっているということです。したがって、アルコール依存症を乗り越えるということは、アルコールを断たねばなりません。日本で生まれた「断酒会」というセルフヘルプグループの名前は、そういった意味から由来しています。
さて、先ほどの医学による対処ではどうにもならないことがあります。それは、本人の「性格」です。なぜ本人の「性格」がアルコール依存症に寄与するかについては、おおむね解明されています。極度に几帳面であるとか、完ぺき主義であるとか、他人に弱みを見せることができない性格です。これらに競争性が加わったら、アルコール依存に陥るリスクをいっそう深めます。これらの人は、自分の性格の一部分、それもよい所だけを見せて生きていきます。実際はそうしなくてもいいのですが、本人がそうしないと気がすみません。一方で、これらの状態は、人間が精神的な不調になることを促進させます。羽目をはずすことができない状態ならなおさらです。エリートサラリーマンで、休むまもなく働いていてはけ口のない人が、いきなりアルコールに耽溺して立ち戻れなくなるようなものだと考えていただければと思います。
ここで、1971年にすでにこの個人の心のメカニズムに対して非常に鋭い指摘をした学者がいます。前回のべたダブルバインド(二重拘束)説を打ち立てたグレゴリー・ベイトソンです。これは「精神の生態学」という本に掲載されています。このメカニズムについて、自分が理解していることを述べてみようと思います。(論文自体はかなり難解ですので、取り上げ方には慎重を期しますが、間違いがあったらごめんなさい。)
アルコール依存症の人は、上記のような通常の人より極端な性格的な傾向が強いとされます。これは本人の「プライド」によって支えられています。しかし、他人の承認を元にした相補的な人間関係を体験したいという欲動は常に心の中にあります。それを満足させるためにお酒を飲みます。お酒を飲んだら敵対する相手とでも楽しく会話ができるからです。彼らはしかし、その完ぺき主義的な性格によって、これをすら理性のコントロール下に置くことをを強く望むようになります。彼らの性格では、例えば出世のためにライバルに弱みを見せるわけにいかないからです。人間は、張り詰めた状態とリラックスした状態両方を繰り返すことによって生産活動が可能な主体です。これらのどちらが欠けても人間として破綻に至ります。お酒を飲んだ酩酊状態ですら、理性のコントロール下に置こうという努力。これが、破綻の始まりです。(この場合、アルコールへの耽溺という結果に至らなくても、極度のこ完ぺき主義を求める努力は人格的な破綻を招きます。うつ病など、さまざまな精神疾患に至りやすいのは誰が見てもお分かりいただけると思います。)
ベイトソンは、これをアルコール依存症者の「プライド」と表現しています。それが、次第にお酒にのめりこむ理由になることをロジックで説明しています。酩酊という生理学的に人間がコントロールしにくいものを理性でコントロールするという不可能に近い命題が、耽溺を爆発化させる要因になるというわけです。したがって、A・Aではこれを直すこと、もしくはメンバー同士で乗り越えることが主眼になります。しかし、性格ですので、本人の努力によって乗り越えることは困難です。むしろ、その努力がアルコール依存症を重篤化させることをここまで読まれた方で勘の鋭い方はお気づきになっていただけるかと思います。このようなときには、それを万人訳隔てなく変える仕組みが必要です。
これを端的にあらわしたのが、A・Aの「12のステップ」です。読んでいただいたらお分かりになっていただけるかと思いますが、「自分の性格的な欠陥が自分にはどうしようもないから神様直してくださいと懇願する」内容になっています。人の考え方を社会とそこに住む個人にとってよい方向に変える、「宗教的な装置」の機能を果たしています。これをグループで共有するのがA・Aというセルフヘルプグループの本質なのです。
最後に、日本は宗教に対する社会的な信頼が低いといわれています。これが、敬虔なイスラム教の国家やキリスト教の国家だと、宗教に対する社会的信頼性が驚くほど高いという社会調査が出ます。そのような中で日本は他の国に比べて新聞やテレビなどのメディアの信頼性が比較的に高いという社会調査の結果が出ています。メディアが日本より国民に支持されない国は多いのです。これはすなわち、この日本においてはメディアが民主主義を強く担保してきたということです。
それはさておき、実質的には宗教の仕組みが、アルコール依存という正常な社会生活に立ち戻れない個人を助けています。利益は度外視です。なぜなら、ミーティングに参加する度に、寄付を入れる布袋をミーティング中に手渡していきますが、いくら入れてもOKだからです。自分の知っている人は、500円くらい入れているだけです。その人は他の人がいくら入れているか知りません。このように伝統のある正常な宗教は、人の心を間違いなく豊かにする拠り所となります。歴史的にもそうです。迫害された民族は、すべからく教会やモスクなどの宗教的な拠点がまずもって受け入れました。
これがこの問題に対して最後の示唆になってほしいです。でなければ身が持ちません。加害行為によって社会生活が破綻寸前の状態でこれだけ書いていますので。また、記事の掲載やコメントに対するレスポンスが遅れるかもしれません。ご容赦いただけますと幸いです。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
筆者の学生時代の専攻の指導教官の一人。学生時代にスパルタで英語の書籍を一章丸々訳すという講義はきつかった。一方で好きな芸能人に会ってインタビューするという面白い講義も。筆者は山崎まさよしに会いたいと言ったが、当然会えるはずもなく沈没。それでもレポートを出したら合格した。この著書は社会学が本当に楽しく感じられる入門書である。
ダブルバインド(二重拘束)説の原典となっている著書。かなり難解であるため、私はアルコール依存の下りしか読んで理解していない。20世紀の知の巨人による名著。
-最終更新日:2010年9月12日(日)-
前回、セルフヘルプグループが重要な社会問題や病気などを乗り越えるために、弱い立場におかれた人にとって極めて重要な克服の手段となってきたこと述べました。今回は、そのなかでも、耽溺・嗜癖に関するセルフヘルプグループについて述べてみたいと思います。この系統のセルフヘルプグループは、薬物依存、アルコール依存症、ギャンブルなどです。最近では煙草もこれに該当するかもしれません。
社会で人間が豊かに生活するためには、多少の逸脱は社会的にも個人的にも許容されます。しかし、それで社会生活が破綻してしまっては元も子もありません。お酒でも、泥酔した人は翌日にはしらふに戻って仕事に行きます。休日にギャンブルをしても、通常の人は経済的に破綻しない程度にとどめます。薬物依存に至っては、それ自体が法律違反です。これらの耽溺・嗜癖は、場合によってはのめりこんでしまって、通常の社会生活に戻ることができない状態に至ります。この個人の嗜癖・耽溺は、没入してしまっても、元の社会生活に復帰できるということを前提として制度設計されています。社会には為政者が馴致できるガス抜きが必要だということです。集合的にこれを合法的に解消できる代表的なものがこのブログで取りあげているお祭りです。お祭りのドンチャン騒ぎのあとに日常生活に立ち戻ることを、フランスの社会学者E・デュルケムは「聖から俗への帰還」などと表現していたと思います。トーテミズムなどの原始社会のお祭りも、現代のお祭りも、社会に果たす機能は同じというわけです。普段は壁があっても、祭りが社会を統合させるときに、個人は自我の壁を溶解させる体験をします。美しい芸術作品などへの没我・没入と一緒です。
話が脇道にそれましたが、これらの問題には、当然医学の分野で治療の対象とされるものもあります。アルコール依存症や薬物依存症です。しかし、医学にとって非常に迷惑で厄介な分野です。基本的には個人の「選択」によって没落してしまったからです。医師は自分で病気になるような悪い養生をした個人は助けたがらないものです。アルコールを「個人の選択」として多飲した結果のこのような迷惑な問題でも、医学での適切な処置が功を奏する以上、「病気」とし精神医学に位置づけられています。(この問題は、個人的に、「アルコールを飲む」という選択が個人主義制度下で功利的な選択のもとに行われたとする風潮も、アルコール依存症の方を苦しめていると思います。お酒に飲まされたというほうが、問題の性質上正しいと思います。本人の生理学上、多飲しないと満足できない体質が形成されているからです。また下にも述べますが、自分ではどうしようもない性格的気質も要因になっているからです。少なくとも、回復のためにはそのような視点が必要です。これらの点では、心理学でカウンセリングを行う専門家のほうが、個人のこのような性格的気質について詳しく、適切な対処がなされると思います。ただし、薬物依存に関しては違法であるため、個人主義制度の下で、使用を禁じる個人の強い意志が必要です。これだけは間違ってはなりませんので。)
そもそも、これらの問題のセルフヘルプグループが誕生したのも、厄介者扱いされて社会的に見捨てられた人々が集まったからでした。アルコール依存症になった人など、社会は救う気になれないのです。
しかし、例えばアルコール依存症のセルフヘルプグループとしてA・A(アルコホリック・アノニマス)というものがあります。なぜ「アノニマス」かというと、お互いにニックネームで呼び合うからです。重い問題を抱えた人が実名で参加する必要がないように配慮されているからです。このA・Aはキリスト教の教義から派生したもので、治療に実質的な効果があるために、またたく間に浸透して、現在では全世界に数百万人のメンバーがいます。キリスト教の教会などの施設で開催されることもあります。一方で、日本はキリスト教が浸透していませんので、「断酒会」のほうがメンバーが多いです。こちらは、同じようなグループ形態が仏教の教義にそうように作り直されたものと受け取っていただいたら話が早いかと思います。
なぜ、これらのグループが宗教のノウハウを使用しているかが、今回の記事の一番注目所です。A・Aでのミーティングの流れを説明しますと、まず最初にA・Aの「12のステップ」をメンバー全員で唱和します。その後、「言いっぱなし・聞きっぱなし」によってお互いの苦労話を共有します。休憩時間に談話をはさんで、最後の人が話し終わったらミーティングの終わりです。「言いっぱなし・聞きっぱなし」では自分が言いたいことを言って、他の人は黙って話を聞くだけです。おおむね一人10分くらいですが、これが分け隔てなく最後の人まで続けられます。
ここで、「12のステップ」を掲載します。読むのが面倒な方は、最初の3つくらい読んで、最後まで飛ばしてください。
1.われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことが
どうにもならなくなったことを認めた。
2.われわれは自分より偉大な力が、
われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。
3.われわれの意志と命の方向を変え、自分で理解している神、
ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした。
4.探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った。
5.神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、
自分の誤りの正確な本質を認めた。
6.これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを神にゆだねる心の準備が、
完全にできた。
7.自分の短所を変えてください、と謙虚に神に求めた。
8.われわれが傷つけたすべての人の表をつくり、
そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
9.その人たち、または他の人々を傷つけない限り、
機会あるたびに直接埋め合わせをした。
10.自分の生き方の棚卸しを実行し続け、謝ったときは直ちに認めた。
11.自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、
神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
12.これら音ステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコホーリクに伝え、
また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
(スポンサーシップ Q&A AA日本ゼネラルサービスオフィス発行 1999年 日本語翻訳改訂版より)
これを見ていただいたらお分かりになっていただけるように、A・Aの根本的な部分が「ハイヤー・パワー」という神を中心とした宗教的な教義となっていることにお気づきいただけるかと思います。今回の記事の狙いは、たとえ宗教であっても、正しい使い方をしたら重い問題を乗り越える強い武器になるということです。ここでは、この宗教の教義がなぜアルコール依存症を乗り越えるきっかけとなるのか、また実質的に有効な乗り越えの手段となっているかについてご説明します。
アルコール依存症の方々の耽溺の状態は、生理学的に、飲まなければ気がすまない状態です。本人の意思に反して、体が要求するということです。しかし、毎日朝から晩まで飲む生活を続けて、アルコールを中断したら、中毒症状が出ます。幻覚・妄想などです。しかも、強い苦痛を感じます。麻薬をやめるのと同じです。したがって、精神医療の分野での対処となります。しかし、やめるには本人の強い意志が必要です。中断したときの中毒症状にしばらく耐えなければなりません。医療分野は、せいぜいそれを薬の力などで緩和する程度しかできません。
しかし、厄介なことにアルコール依存症の人は一回お酒をやめることができても、また同じアルコール依存に陥ってしまう可能性が高いです。アルコール依存症になってしまったときの飲酒量を飲まなければ満足できない体になってしまっているからです。例えば、アルコール依存症になったときに一日にお酒を一升瓶ぜんぶ飲んでいたら、一合や二合では満足できない体になっているということです。したがって、アルコール依存症を乗り越えるということは、アルコールを断たねばなりません。日本で生まれた「断酒会」というセルフヘルプグループの名前は、そういった意味から由来しています。
さて、先ほどの医学による対処ではどうにもならないことがあります。それは、本人の「性格」です。なぜ本人の「性格」がアルコール依存症に寄与するかについては、おおむね解明されています。極度に几帳面であるとか、完ぺき主義であるとか、他人に弱みを見せることができない性格です。これらに競争性が加わったら、アルコール依存に陥るリスクをいっそう深めます。これらの人は、自分の性格の一部分、それもよい所だけを見せて生きていきます。実際はそうしなくてもいいのですが、本人がそうしないと気がすみません。一方で、これらの状態は、人間が精神的な不調になることを促進させます。羽目をはずすことができない状態ならなおさらです。エリートサラリーマンで、休むまもなく働いていてはけ口のない人が、いきなりアルコールに耽溺して立ち戻れなくなるようなものだと考えていただければと思います。
ここで、1971年にすでにこの個人の心のメカニズムに対して非常に鋭い指摘をした学者がいます。前回のべたダブルバインド(二重拘束)説を打ち立てたグレゴリー・ベイトソンです。これは「精神の生態学」という本に掲載されています。このメカニズムについて、自分が理解していることを述べてみようと思います。(論文自体はかなり難解ですので、取り上げ方には慎重を期しますが、間違いがあったらごめんなさい。)
アルコール依存症の人は、上記のような通常の人より極端な性格的な傾向が強いとされます。これは本人の「プライド」によって支えられています。しかし、他人の承認を元にした相補的な人間関係を体験したいという欲動は常に心の中にあります。それを満足させるためにお酒を飲みます。お酒を飲んだら敵対する相手とでも楽しく会話ができるからです。彼らはしかし、その完ぺき主義的な性格によって、これをすら理性のコントロール下に置くことをを強く望むようになります。彼らの性格では、例えば出世のためにライバルに弱みを見せるわけにいかないからです。人間は、張り詰めた状態とリラックスした状態両方を繰り返すことによって生産活動が可能な主体です。これらのどちらが欠けても人間として破綻に至ります。お酒を飲んだ酩酊状態ですら、理性のコントロール下に置こうという努力。これが、破綻の始まりです。(この場合、アルコールへの耽溺という結果に至らなくても、極度のこ完ぺき主義を求める努力は人格的な破綻を招きます。うつ病など、さまざまな精神疾患に至りやすいのは誰が見てもお分かりいただけると思います。)
ベイトソンは、これをアルコール依存症者の「プライド」と表現しています。それが、次第にお酒にのめりこむ理由になることをロジックで説明しています。酩酊という生理学的に人間がコントロールしにくいものを理性でコントロールするという不可能に近い命題が、耽溺を爆発化させる要因になるというわけです。したがって、A・Aではこれを直すこと、もしくはメンバー同士で乗り越えることが主眼になります。しかし、性格ですので、本人の努力によって乗り越えることは困難です。むしろ、その努力がアルコール依存症を重篤化させることをここまで読まれた方で勘の鋭い方はお気づきになっていただけるかと思います。このようなときには、それを万人訳隔てなく変える仕組みが必要です。
これを端的にあらわしたのが、A・Aの「12のステップ」です。読んでいただいたらお分かりになっていただけるかと思いますが、「自分の性格的な欠陥が自分にはどうしようもないから神様直してくださいと懇願する」内容になっています。人の考え方を社会とそこに住む個人にとってよい方向に変える、「宗教的な装置」の機能を果たしています。これをグループで共有するのがA・Aというセルフヘルプグループの本質なのです。
最後に、日本は宗教に対する社会的な信頼が低いといわれています。これが、敬虔なイスラム教の国家やキリスト教の国家だと、宗教に対する社会的信頼性が驚くほど高いという社会調査が出ます。そのような中で日本は他の国に比べて新聞やテレビなどのメディアの信頼性が比較的に高いという社会調査の結果が出ています。メディアが日本より国民に支持されない国は多いのです。これはすなわち、この日本においてはメディアが民主主義を強く担保してきたということです。
それはさておき、実質的には宗教の仕組みが、アルコール依存という正常な社会生活に立ち戻れない個人を助けています。利益は度外視です。なぜなら、ミーティングに参加する度に、寄付を入れる布袋をミーティング中に手渡していきますが、いくら入れてもOKだからです。自分の知っている人は、500円くらい入れているだけです。その人は他の人がいくら入れているか知りません。このように伝統のある正常な宗教は、人の心を間違いなく豊かにする拠り所となります。歴史的にもそうです。迫害された民族は、すべからく教会やモスクなどの宗教的な拠点がまずもって受け入れました。
これがこの問題に対して最後の示唆になってほしいです。でなければ身が持ちません。加害行為によって社会生活が破綻寸前の状態でこれだけ書いていますので。また、記事の掲載やコメントに対するレスポンスが遅れるかもしれません。ご容赦いただけますと幸いです。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
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筆者の学生時代の専攻の指導教官の一人。学生時代にスパルタで英語の書籍を一章丸々訳すという講義はきつかった。一方で好きな芸能人に会ってインタビューするという面白い講義も。筆者は山崎まさよしに会いたいと言ったが、当然会えるはずもなく沈没。それでもレポートを出したら合格した。この著書は社会学が本当に楽しく感じられる入門書である。
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ダブルバインド(二重拘束)説の原典となっている著書。かなり難解であるため、私はアルコール依存の下りしか読んで理解していない。20世紀の知の巨人による名著。
この問題への公的機関と専門領域の対処とは (2)
~精神医療と集団ストーカー問題について~
-最終更新日:2010年9月9日(水)-
荷は重いですが、この問題がさまざまな学術分野で考察されなければならないと言った手前、たとえ専門知識が希薄だとしても、示唆を与える部分だけでもアウトプットしなければならないと思います。今回は精神医療の観点から考察してみたいと思います。
精神科医は医師です。さまざまな病気を扱います。代表的なものが統合失調症です。意識と行動が乖離してしまうこともある、現在ではドーパミンの過剰分泌が主要な原因であるとされる病気の一群です。古典的には、破瓜型、妄想型、緊張型という分類がなされます。これらは、一切偏見が行われるべきでない歴然とした病気であり、医療行為による適切な治療が必要です。トーパミン遮断剤だけで驚くほど症状が軽くなるからです。
その次に代表的なものは、うつ病です。昔は大うつ病といって、非常に症状が深刻でした。寝たきり状態になるものまでありました。現在は、トランキライザーの進歩や社会的認知が広まりもあり、症状の軽症化が進んでいます。だからといって罹患する患者数が減っているというわけではなく、全体のうつ病患者は増えているといわれています。自殺との強い因果関係も指摘される時代となりました。また、時代によって症状が異なるのか、現在は抑うつ状態にありながらも外向性が強くなって暴力をふるうケースが増えているなど、症状の多様化が進んでいると言われています。精神医療は命がけの仕事なのです。
しかし、精神疾患には病気とされないものもあります。ボーダーラインと呼ばれる有名な境界性人格障害をはじめとする、人格障害とよばれるものです。(厳密に病気とされないものはアスペルガー症候群などたくさんあります。)
これについては、精神医学に基づいた治療はなかなか効を奏しません。一般には病気とされないからです。「障害」という名前が指し示すように、社会生活を円滑に営むための何かが欠落しているという観点で見られます。例えば、アスペルガー症候群は、情緒的な能力の欠損が著しいものとされます。ただし、知的能力、特に論理的思考に関しては通常の人より高いIQを示すと言われています。
このような病気とされないながらも精神医療の分野で扱われる障害は、完全に「治療」することが難しいとされます。ただし、精神医療の中に組み込まれているということは、この分野で取り組むということです。そのためには、前回の高齢者に対する包括支援センターの取り組みのように、この人格障害においてもさまざまな専門家の支援が提供されなければなりません。一般的には、精神科医をトップとした支援チームが組まれます。精神科医以外では、臨床心理士や看護師、PSW(精神医療ソーシャルワーカー)と呼ばれる人たちです。(資格試験で、「社会福祉士」と「精神保健福祉士」が別々になっていることについて、この分野の方はお詳しいはずです。)
さて、ここでなぜ人格障害をピックアップしたかです。自分の経験から、この問題をかかえるとまさに被害者が人格障害のような様相を示すからです。これは他の被害者の方を冒涜したものではありません。自分が、人格障害になったのと同じような様相を示したということです。例えばアルコールをあびるほど飲む自傷行為に及んだり、相手に対して極度に敵意を向けたり、家族に対して激しい口論を仕掛けたりするようになります。常に拷問のような苦痛を浴びている状態のうえ、加害行為による社会生活の制限によって強い抑圧感情に支配されます。このようなとき、人間は異常なまでにイラついた状態になります。以前、いじめっ子は別次元でいじめを受けているという説を紹介しました。これと同じように、自分のケースでは家族にイラつきの矛先が向けられました。自分の家族は被害を受けていませんが、このような被害を受けている家族の構成員がいなければもっと幸せになっていたでしょう。この数年間、家族に大きな迷惑をかけつづけています。(あくまで私のケースです。他の被害者の方には当てはまらないかもしれません。もしそうでしたら、申し訳ありません。)
人格障害は、社会生活にうまく適合できない意味において人格が欠損しているケースをいいます。これは病気でなく、その人のせいでもありません。先天的なものが大部分を占めているといわれているからです。ですから、本人に責任はありません。したがって、精神医療やその援助の対象となります。世の中になかなか受け入れられない障害ですが、社会生活の円滑化には、このような方の援助が欠かせません。治療の方法論は、精神医療の分野で歴史的に研究が積み重ねられてきています。
なぜ「集団ストーカー」の被害者が人格障害と似たような症状を示すのかというと、上記のように、ただ社会生活を抑圧されて行動が制限されているだけではありません。他の人との人間関係を円滑に推進させたりする意味において、情緒的に非常に困難を伴う心的機制が形成されてしまっているからです。これらは、単純にイラつくという単純なものばかりでなく、不安、自傷、社会生活からの隠遁、猜疑心の高揚などさまざまです。また、被害者によっては、加害行為の客観性が保てず、加害者が吹き込んだ間違った情報によりパニック状況におかれている方もおられます。これまで述べてきたように、加害行為には強いマインドコントロール性があるからです。これでは、人間関係の構築ができません。まだ自分は加害行為は終わっていませんが、終わっても社会生活に齟齬をきたす症状が残るでしょう。既存の精神疾患や障害とは別の観点で、被害者の心の破綻のメカニズムが研究されなければなりません。そうでなければ、本当の意味での被害者の救済はありえないでしょう。また、これらの治療には時間とお金がかかります。社会コストが膨大にかかるということです。この問題を解決して民主主義を正常化させるということには、そのほかの取り組みも含めて公的に膨大なコストがかかるのです。被害者の方々の負担も馬鹿にはならないでしょう。はっきりいって許せません。加害者に負担してほしいくらいです。
最後に、身体と自己が引き裂かれる統合失調症も、社会的認知と差別の撤廃には長い年月がかかりました。しかし、人口の1%が罹患する、重に遺伝的な疾患としての認知が広まり、患者さんは社会で非常に暮らしやすくなってきました。前回述べた当事者の会であるセルフヘルプグループも、重要な役割を果たしてきました。この「集団ストーカー」問題に関しても、被害者の受けている加害行為に対する正しい知識が広まって、社会の中に受け入れられることを望んでやみません。
統合失調症が精神分裂病(スキゾフレニア)と呼ばれている時代、その認知のためには様々な手段が工夫されました。ルイス・ブニュエルの「エル」という映画がありますが、当時の精神分裂病にかかった人の妄想や幻聴などの症状がうまく映像表現されているものとして、鏡像段階論で有名なフランスのジャック・ラカンが講義に取り入れました。同じく精神医療の認知を進めた映画に、アンジェリーナ・ジョリーさんが助演女優賞を獲得した「17歳のカルテ」があります。この問題でも同じように、テクノロジー被害を疑似体験する仕組みの構築を進めている被害者の方もおられるようです。ただし、加害行為に使われている機器を使用できませんので、非常に困難が伴うものと推察いたします。
今日も、自分は起きた瞬間に外でクラクションがなりました。目が覚めて無防備な瞬間に、他人の意識が自分の意識として感じられる「意識への介入」が始まりました。「意識への介入」によって罵倒を浴びせられたり、生活行為にいちいちでたらめな指示やいちゃもんが送りつけられる毎日です。また、時には針で刺したような痛みを感じる「痛みの送信」もあります。BMI技術が放送されたりなど、そろそろ認知が社会で広まっていくと思いますが、偏見がないように社会で受け入れられてほしいというのが被害者一同の願いです。
【記事に参考図書を追記 2010年10月8日(木)】
筆者の専攻の指導教官の新宮一成氏の一番有名な著書。自己と他者の割合(ラシオー)をフィボナッチの数列や黄金数に求めているあたりがまさに天才である。学生時代に読みふけった著書である。
「この問題への公的機関と専門領域の対処とは」では(1-○)は社会福祉学、(2-○)は精神医療分野です。(3-○)、(4-○)と教育学や社会学など、広範に考える努力をしてみる予定です。とはいってもこれらの分野から離れてかなり時間がかかってますので、何とか勉強しなおして書いていきたいと思います。本当なら心理学の力も必要なんですが、専攻として勉強してないので、論述能力に欠けると思います。ただ、先日述べたダブルバインド(二重拘束)説や、カール・ロジャースの傾聴論など、心理学の分野にまたがる書籍などもちょっとですが勉強してますので、必ず考え方を取り入れたいと思います。
-最終更新日:2010年9月9日(水)-
荷は重いですが、この問題がさまざまな学術分野で考察されなければならないと言った手前、たとえ専門知識が希薄だとしても、示唆を与える部分だけでもアウトプットしなければならないと思います。今回は精神医療の観点から考察してみたいと思います。
精神科医は医師です。さまざまな病気を扱います。代表的なものが統合失調症です。意識と行動が乖離してしまうこともある、現在ではドーパミンの過剰分泌が主要な原因であるとされる病気の一群です。古典的には、破瓜型、妄想型、緊張型という分類がなされます。これらは、一切偏見が行われるべきでない歴然とした病気であり、医療行為による適切な治療が必要です。トーパミン遮断剤だけで驚くほど症状が軽くなるからです。
その次に代表的なものは、うつ病です。昔は大うつ病といって、非常に症状が深刻でした。寝たきり状態になるものまでありました。現在は、トランキライザーの進歩や社会的認知が広まりもあり、症状の軽症化が進んでいます。だからといって罹患する患者数が減っているというわけではなく、全体のうつ病患者は増えているといわれています。自殺との強い因果関係も指摘される時代となりました。また、時代によって症状が異なるのか、現在は抑うつ状態にありながらも外向性が強くなって暴力をふるうケースが増えているなど、症状の多様化が進んでいると言われています。精神医療は命がけの仕事なのです。
しかし、精神疾患には病気とされないものもあります。ボーダーラインと呼ばれる有名な境界性人格障害をはじめとする、人格障害とよばれるものです。(厳密に病気とされないものはアスペルガー症候群などたくさんあります。)
これについては、精神医学に基づいた治療はなかなか効を奏しません。一般には病気とされないからです。「障害」という名前が指し示すように、社会生活を円滑に営むための何かが欠落しているという観点で見られます。例えば、アスペルガー症候群は、情緒的な能力の欠損が著しいものとされます。ただし、知的能力、特に論理的思考に関しては通常の人より高いIQを示すと言われています。
このような病気とされないながらも精神医療の分野で扱われる障害は、完全に「治療」することが難しいとされます。ただし、精神医療の中に組み込まれているということは、この分野で取り組むということです。そのためには、前回の高齢者に対する包括支援センターの取り組みのように、この人格障害においてもさまざまな専門家の支援が提供されなければなりません。一般的には、精神科医をトップとした支援チームが組まれます。精神科医以外では、臨床心理士や看護師、PSW(精神医療ソーシャルワーカー)と呼ばれる人たちです。(資格試験で、「社会福祉士」と「精神保健福祉士」が別々になっていることについて、この分野の方はお詳しいはずです。)
さて、ここでなぜ人格障害をピックアップしたかです。自分の経験から、この問題をかかえるとまさに被害者が人格障害のような様相を示すからです。これは他の被害者の方を冒涜したものではありません。自分が、人格障害になったのと同じような様相を示したということです。例えばアルコールをあびるほど飲む自傷行為に及んだり、相手に対して極度に敵意を向けたり、家族に対して激しい口論を仕掛けたりするようになります。常に拷問のような苦痛を浴びている状態のうえ、加害行為による社会生活の制限によって強い抑圧感情に支配されます。このようなとき、人間は異常なまでにイラついた状態になります。以前、いじめっ子は別次元でいじめを受けているという説を紹介しました。これと同じように、自分のケースでは家族にイラつきの矛先が向けられました。自分の家族は被害を受けていませんが、このような被害を受けている家族の構成員がいなければもっと幸せになっていたでしょう。この数年間、家族に大きな迷惑をかけつづけています。(あくまで私のケースです。他の被害者の方には当てはまらないかもしれません。もしそうでしたら、申し訳ありません。)
人格障害は、社会生活にうまく適合できない意味において人格が欠損しているケースをいいます。これは病気でなく、その人のせいでもありません。先天的なものが大部分を占めているといわれているからです。ですから、本人に責任はありません。したがって、精神医療やその援助の対象となります。世の中になかなか受け入れられない障害ですが、社会生活の円滑化には、このような方の援助が欠かせません。治療の方法論は、精神医療の分野で歴史的に研究が積み重ねられてきています。
なぜ「集団ストーカー」の被害者が人格障害と似たような症状を示すのかというと、上記のように、ただ社会生活を抑圧されて行動が制限されているだけではありません。他の人との人間関係を円滑に推進させたりする意味において、情緒的に非常に困難を伴う心的機制が形成されてしまっているからです。これらは、単純にイラつくという単純なものばかりでなく、不安、自傷、社会生活からの隠遁、猜疑心の高揚などさまざまです。また、被害者によっては、加害行為の客観性が保てず、加害者が吹き込んだ間違った情報によりパニック状況におかれている方もおられます。これまで述べてきたように、加害行為には強いマインドコントロール性があるからです。これでは、人間関係の構築ができません。まだ自分は加害行為は終わっていませんが、終わっても社会生活に齟齬をきたす症状が残るでしょう。既存の精神疾患や障害とは別の観点で、被害者の心の破綻のメカニズムが研究されなければなりません。そうでなければ、本当の意味での被害者の救済はありえないでしょう。また、これらの治療には時間とお金がかかります。社会コストが膨大にかかるということです。この問題を解決して民主主義を正常化させるということには、そのほかの取り組みも含めて公的に膨大なコストがかかるのです。被害者の方々の負担も馬鹿にはならないでしょう。はっきりいって許せません。加害者に負担してほしいくらいです。
最後に、身体と自己が引き裂かれる統合失調症も、社会的認知と差別の撤廃には長い年月がかかりました。しかし、人口の1%が罹患する、重に遺伝的な疾患としての認知が広まり、患者さんは社会で非常に暮らしやすくなってきました。前回述べた当事者の会であるセルフヘルプグループも、重要な役割を果たしてきました。この「集団ストーカー」問題に関しても、被害者の受けている加害行為に対する正しい知識が広まって、社会の中に受け入れられることを望んでやみません。
統合失調症が精神分裂病(スキゾフレニア)と呼ばれている時代、その認知のためには様々な手段が工夫されました。ルイス・ブニュエルの「エル」という映画がありますが、当時の精神分裂病にかかった人の妄想や幻聴などの症状がうまく映像表現されているものとして、鏡像段階論で有名なフランスのジャック・ラカンが講義に取り入れました。同じく精神医療の認知を進めた映画に、アンジェリーナ・ジョリーさんが助演女優賞を獲得した「17歳のカルテ」があります。この問題でも同じように、テクノロジー被害を疑似体験する仕組みの構築を進めている被害者の方もおられるようです。ただし、加害行為に使われている機器を使用できませんので、非常に困難が伴うものと推察いたします。
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今日も、自分は起きた瞬間に外でクラクションがなりました。目が覚めて無防備な瞬間に、他人の意識が自分の意識として感じられる「意識への介入」が始まりました。「意識への介入」によって罵倒を浴びせられたり、生活行為にいちいちでたらめな指示やいちゃもんが送りつけられる毎日です。また、時には針で刺したような痛みを感じる「痛みの送信」もあります。BMI技術が放送されたりなど、そろそろ認知が社会で広まっていくと思いますが、偏見がないように社会で受け入れられてほしいというのが被害者一同の願いです。
【記事に参考図書を追記 2010年10月8日(木)】
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筆者の専攻の指導教官の新宮一成氏の一番有名な著書。自己と他者の割合(ラシオー)をフィボナッチの数列や黄金数に求めているあたりがまさに天才である。学生時代に読みふけった著書である。
「この問題への公的機関と専門領域の対処とは」では(1-○)は社会福祉学、(2-○)は精神医療分野です。(3-○)、(4-○)と教育学や社会学など、広範に考える努力をしてみる予定です。とはいってもこれらの分野から離れてかなり時間がかかってますので、何とか勉強しなおして書いていきたいと思います。本当なら心理学の力も必要なんですが、専攻として勉強してないので、論述能力に欠けると思います。ただ、先日述べたダブルバインド(二重拘束)説や、カール・ロジャースの傾聴論など、心理学の分野にまたがる書籍などもちょっとですが勉強してますので、必ず考え方を取り入れたいと思います。
この問題を乗り越えるに当たって「家族」とは何か
~つらくても打ち明けられない社会をどのように克服するか~
-最終更新日:2010年9月7日(火)-
9月7日(火)の読売新聞朝刊の18・19面をご覧ください。自死遺族の特集が組まれています。
前回にも申し上げましたように、年間自殺者数が30,000人を超えて10年以上が経過する日本社会。なぜこのようなおかしな国になってしまったのでしょうか。原因のひとつに、自死遺族へのサポートのなさがあげられます。この観点から、本日の読売新聞は、2面にわたって特集を組んでいます。
もう少し掘り下げてみましょう。このサポートのなさについてです。自殺してしまいかねない人や、自殺してしまった人を抱える家族を、だれがケアすべきかです。ここで、ケアする能力があるものを羅列してみましょう。まず、第一に家族です。社会が何もしてくれないときは、家族が自身でケアをしなければなりません。その次に地域です。周囲の人が心配してあげたり、差し入れをしてあげたり、相談に乗ってあげたり、いろんなことができます。次に公的なセクションです。専門家が相談に乗るのは効果があります。また、公的に自死遺族が話し合う場を提供することもできます。概ね、自死遺族を支えるものはこの3つといえるでしょう。
自死遺族を支えるもの
① 家族
② 地域
③ 公的セクション
ここで、時代によっては②の地域や③の公的セクションが極めて希薄な社会となってしまうことがあります。そうすると、この重い問題を①だけ、つまり家族だけで背負わなければなりません。これは相当に負担が必要なことです。この3つが合わさってようやく重い問題を乗り越えることができるのに、①の家族だけだと重すぎて潰れてしまうのです。
これは、このブログにて取り上げている問題も同じです。一人の人間、ないしはその家族が背負うにはあまりにも重過ぎる問題なのです。人間社会は、リスクを高度に分散することによって成立しています。つまり、支えあいです。そのための民主主義の法制度です。特定の家族や個人に重荷が課せられて潰れる社会は、ローカルに極度なリスクがある社会として、成長を萎縮させてしまうことになりかねません。この問題は、社会の構成員に解決のしようがないという非常に強い恐怖感をもたらしています。また、自殺で救われない社会も同様です。むしろ、この二つの問題は相関しあっているのかもしれません。
昭和の時代には、「家族共同体」「地域共同体」「学校共同体」「企業共同体」というものが、個人が逸脱して落ちぶれたりすることを防ぐ装置として働いていました。この十数年で、これらが機能不全となりました。本日の朝日新聞の13面、オピニオンのコーナーでは渥美清さんの「男はつらいよ」で有名な山田洋二監督が今の社会とりわけ家族についてこのように述べています。
「……寅さんの映画は『家族や地域からはみ出してしまった人間にも愛情を寄せたい』という観客の思いがあったから支持されたわけです。今の若者は、そういう感情自体を理解できなくなっているのかもしれない」
若者がこうであるということは、長い間そのような社会を経験して育ってしまったということです。その結果、逸脱して落ちぶれる人間が放置されることがあたりまえの社会になってしまいました。これは、100歳以上の高齢者が死んでもなお戸籍に残り続けた昨今の問題に重なります。親族ですら身内の状況を把握することを放棄した絆の薄い社会になってしまったのです。NHKはこれを「無縁社会」の特集で強くとりあげています。
私がこのブログで、人間社会のリスク分散に欠かせないさまざまなつながりの制度の復権を求めているのはこのようなことです。持続的な社会の形成のためには「社会システムと個人の中間で機能する人間性の回復のためのさまざまな装置」が不可欠です。つまり、上記の学校、企業、地域、家族において、かつて昭和の時代に温かみをもって存在していたように、人間同士の絆が取り戻されなければならないということです。
「もう、辛い思いをしても誰も気付いてくれない社会はごめんだ。」それは今の日本国民すべての願いではないでしょうか。
(参考)
これまで、私は自殺してしまった人を抱える家族を「自殺遺族」と申し上げました。しかし、本日の読売新聞では、この言葉自体が家族を抑圧しているとして、少しでも穏やかな「自死遺族」という表現を提案しています。「殺」という表現が突き刺さるというのです。自分もこの考えに賛同しますので、以後、このブログでは「自死遺族」という表現を使いたいと思います。また、この読売新聞の記事には、以前とりあげた「NPO法人ライフリンク」の自死遺族500名の聞き取り調査なども記事に含まれています。
【記事に参考図書を追記 2010年10月8日(木)】
アダルトチルドレンの概念を日本に輸入した第一人者である斎藤学氏のもっともメジャーな著書。アダルトチルドレンは幼少時の親のダブルバインド(二重拘束)を起因とする学説で有名である。アメリカでは、クリントン元大統領が幼少期の体験から自らがアダルトチルドレンだと告白されている。相当の勇気が必要だったものと推察される。同じ問題を抱える人からすれば、先駆的な存在なのだろう。敬意を表したいと思います。
-最終更新日:2010年9月7日(火)-
9月7日(火)の読売新聞朝刊の18・19面をご覧ください。自死遺族の特集が組まれています。
前回にも申し上げましたように、年間自殺者数が30,000人を超えて10年以上が経過する日本社会。なぜこのようなおかしな国になってしまったのでしょうか。原因のひとつに、自死遺族へのサポートのなさがあげられます。この観点から、本日の読売新聞は、2面にわたって特集を組んでいます。
もう少し掘り下げてみましょう。このサポートのなさについてです。自殺してしまいかねない人や、自殺してしまった人を抱える家族を、だれがケアすべきかです。ここで、ケアする能力があるものを羅列してみましょう。まず、第一に家族です。社会が何もしてくれないときは、家族が自身でケアをしなければなりません。その次に地域です。周囲の人が心配してあげたり、差し入れをしてあげたり、相談に乗ってあげたり、いろんなことができます。次に公的なセクションです。専門家が相談に乗るのは効果があります。また、公的に自死遺族が話し合う場を提供することもできます。概ね、自死遺族を支えるものはこの3つといえるでしょう。
自死遺族を支えるもの
① 家族
② 地域
③ 公的セクション
ここで、時代によっては②の地域や③の公的セクションが極めて希薄な社会となってしまうことがあります。そうすると、この重い問題を①だけ、つまり家族だけで背負わなければなりません。これは相当に負担が必要なことです。この3つが合わさってようやく重い問題を乗り越えることができるのに、①の家族だけだと重すぎて潰れてしまうのです。
これは、このブログにて取り上げている問題も同じです。一人の人間、ないしはその家族が背負うにはあまりにも重過ぎる問題なのです。人間社会は、リスクを高度に分散することによって成立しています。つまり、支えあいです。そのための民主主義の法制度です。特定の家族や個人に重荷が課せられて潰れる社会は、ローカルに極度なリスクがある社会として、成長を萎縮させてしまうことになりかねません。この問題は、社会の構成員に解決のしようがないという非常に強い恐怖感をもたらしています。また、自殺で救われない社会も同様です。むしろ、この二つの問題は相関しあっているのかもしれません。
昭和の時代には、「家族共同体」「地域共同体」「学校共同体」「企業共同体」というものが、個人が逸脱して落ちぶれたりすることを防ぐ装置として働いていました。この十数年で、これらが機能不全となりました。本日の朝日新聞の13面、オピニオンのコーナーでは渥美清さんの「男はつらいよ」で有名な山田洋二監督が今の社会とりわけ家族についてこのように述べています。
「……寅さんの映画は『家族や地域からはみ出してしまった人間にも愛情を寄せたい』という観客の思いがあったから支持されたわけです。今の若者は、そういう感情自体を理解できなくなっているのかもしれない」
若者がこうであるということは、長い間そのような社会を経験して育ってしまったということです。その結果、逸脱して落ちぶれる人間が放置されることがあたりまえの社会になってしまいました。これは、100歳以上の高齢者が死んでもなお戸籍に残り続けた昨今の問題に重なります。親族ですら身内の状況を把握することを放棄した絆の薄い社会になってしまったのです。NHKはこれを「無縁社会」の特集で強くとりあげています。
私がこのブログで、人間社会のリスク分散に欠かせないさまざまなつながりの制度の復権を求めているのはこのようなことです。持続的な社会の形成のためには「社会システムと個人の中間で機能する人間性の回復のためのさまざまな装置」が不可欠です。つまり、上記の学校、企業、地域、家族において、かつて昭和の時代に温かみをもって存在していたように、人間同士の絆が取り戻されなければならないということです。
「もう、辛い思いをしても誰も気付いてくれない社会はごめんだ。」それは今の日本国民すべての願いではないでしょうか。
(参考)
これまで、私は自殺してしまった人を抱える家族を「自殺遺族」と申し上げました。しかし、本日の読売新聞では、この言葉自体が家族を抑圧しているとして、少しでも穏やかな「自死遺族」という表現を提案しています。「殺」という表現が突き刺さるというのです。自分もこの考えに賛同しますので、以後、このブログでは「自死遺族」という表現を使いたいと思います。また、この読売新聞の記事には、以前とりあげた「NPO法人ライフリンク」の自死遺族500名の聞き取り調査なども記事に含まれています。
【記事に参考図書を追記 2010年10月8日(木)】
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アダルトチルドレンの概念を日本に輸入した第一人者である斎藤学氏のもっともメジャーな著書。アダルトチルドレンは幼少時の親のダブルバインド(二重拘束)を起因とする学説で有名である。アメリカでは、クリントン元大統領が幼少期の体験から自らがアダルトチルドレンだと告白されている。相当の勇気が必要だったものと推察される。同じ問題を抱える人からすれば、先駆的な存在なのだろう。敬意を表したいと思います。
グスタフ・マーラー 交響曲第2番 「復活」
小沢征爾さんとズービン・メータ氏の演奏から考える
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
前回の記事で、グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)の交響曲第2番を引用しました。ここでは、長文は控えて、クラウス・テンシュテット以外の指揮者によるこの曲の名演をとりあげたいと思います。
ズービン・メータ(Zubin Mehta, 1936年4月29日 - )
これは、インドを代表する指揮者であるメータ氏が1975年にウィーンフィルで演奏したものです。同曲の歴史的な名演として高く評価されています。
メータ氏のコンサートは、父と一回だけ行きました。めったに日本で聞けないような豪快な演奏だったのを覚えています。(ある地方で聞きましたが、別の地域では別の曲目も演奏されていました。東京だと「新世界」が演奏されていたのをパンフレットを読んで覚えています。日本の各地で演奏されたすべての演奏を聞きたいくらいでした。)
メータ氏は現在存命の指揮者の中では世界最高の指揮者という評価がされることもあるくらいの指揮者です。
小沢 征爾(おざわ せいじ、1935年9月1日 - )
おなじみの小沢征爾さんによるマーラーの2番です。いわゆるクラオタと呼ばれるクラシックマニアの人は、同じ曲でも複数の指揮者の演奏を買いあさります。自分も例外ではありません。クラシックは二度と同じ演奏が行われません。あるときに名演があっても、二度と同じ演奏ができないからです。
自分は、これまでにクラウス・テンシュテットと上のズービン・メータ氏のマーラー2番をピックアップしてきました。この2曲は世界中で評されている最高レベルの演奏です。実は、小沢さんのこの2番も、それに勝るとも劣らない演奏だと自分は感じています。1986年、ボストン交響楽団による演奏です。
今日の読売新聞の朝刊で、その小沢さんの記事がありました。75歳になって食道がんを克服された後の初演奏が行われたという内容です。少しだけ引用させてもらいたいと思います。(続きは買って読んでください。)
「世界のオザワ 復活のタクト」本日9月6日読売新聞朝刊
初期の食堂がんを克服した世界的指揮者の小沢征爾さん(75)が5日、長野県松本市の県松本文化会館で開かれている音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」のコンサートに出演、約9ヶ月ぶりにオーケストラを指揮した(中略)
続く武満徹「ノヴェンバー・フェスティバル」とベルリオーズ「幻想交響曲」は、小沢さんに代わり、読売日本交響楽団製指揮者の下野竜也さん(40)が指揮した。
DECCAが、小沢さんの生誕75年を記念してアニバーサリーアルバムを発売しています。これを末尾にご紹介したいと思います。(このアルバムにはここで述べたマーラー交響曲2番「復活」、そしてこのブログで過去に紹介した「秋庭歌一具」を作曲された、武満徹氏の代表作である「セレモニアル」なども収録されています。注1)
⇒ サイトウ・キネン・フェスティバル松本の公式ホームページはこちら
⇒ YOMIURI ONLINEへのリンクはこちら
⇒ この記事で取りあげた武満徹氏「秋庭歌一具」の記事はこちら
このブログで取り上げている問題も、歴史のページがめくられる日が来ることを願ってやみません。
注1)この小沢征爾さんのアニバーサリーアルバムの中に、武満徹氏の「ノヴェンバー・フェスティバル」が収録されていると当初掲載しましたが、正しくは「セレモニアル」の間違いでした。このアルバムには11枚のCDで構成されていますが、正しい武満徹氏の曲の構成は以下の通りです。
武満徹:作品集(CD3)
1.セレモニアル
2.系図(英語版)
3.マイ・ウェイ・オブ・ライフ
4.弦楽のためのレクイエム
5.エア(フルートのための)
「セレモニアル」は日本の雅楽と西洋クラシックを融合させた音楽です。日本人の感性に強く訴えかけます。ぜひ一度、ここを訪れた皆さんにも聞いていただきたいおすすめの曲です。
【2010年9月23日(木)追記】
この日の読売新聞の1面に「気迫の指揮『復活』の7分間」とあります。小沢征爾さんが、長野県松本市で行われている「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で再び指揮棒を振ったという内容の記事が29面に掲載されています。嬉しい内容なので、すぐ記事に追加させていただきます。
上記のDVDを自分は持っているのですが、通常音楽というのはCDで聴くものです。しかし、クラシックの場合はDVDで見たほうが迫力がある場合があります。歌劇やオペラなら当然でしょう。ただし、交響曲などでも、指揮者の表情を目の当たりにすることができます。
このDVDは小沢征爾さんがボストン響主任指揮者に在任中のときの演奏ですが、演奏内容もさることながら、小沢さんの表情をドアップで見ることができます。はっきりいって、こんなに険しい表情で演奏される方とは思っていませんでした。音楽のリズムに乗せて恍惚の表情を浮かべたり、楽団に対して厳しい目線を配ったり、様々な表情を読み取ることができます。そして、演奏の最後のほうには汗が滴り落ちています。これはもう、気迫の演奏としか言いようがないです。
ちなみに演奏内容はベートーヴェンの7番とマーラーの9番ですが、これはどちらも相当の名演だと思いました。7番は、自分はC・クライバーとカラヤンばかり聞くのですが、この7番も何回も聴きたくなるほど迫力があります。また、マーラーの9番は、恐らく小沢さんのボストン響最後の演奏なのでしょう。楽団の方が、最高の演奏を小沢さんに捧げているのが分かります。
ちなみに、Jポップもそうですしクラシックもそうなのですが、ライブでは、当初予定していた演奏を超えた内容になることが多いです。観客が熱狂を欲するあまり、指揮者が統制をかなぐり捨てて爆演をすることが多いからです。歴史的な名演はすべてそうだと思います。C・クライバーのベートーヴェン7番も、楽団と指揮者の信頼関係が想定を超えた爆演を生み出しています。ベートーヴェン7番は日本では「のだめカンタービレ」で演奏機会が多くなった曲目です。よかったら一度聴かれてみてはいかがでしょうか。
また、マーラー2番「復活」と6番「悲劇的」はこれまでとりあげてきましたが、9番も同作曲家の最高傑作です。歴史的な祭典によく演奏されます。マーラーが死を覚悟して作曲した曲だからです。ベートーヴェンも、ドヴォルザークなど主要な作曲家が9番で最高傑作を作った後に亡くなっているからです。ベートーヴェンの9番は歓喜の歌と呼ばれる第4楽章を含む「合唱付き」、ドヴォルザークの9番は「遠き山に日は落ちて」が第2楽章にある「新世界」です。作曲家にとって、これらの最高傑作を作った後に亡くなっているというのは、交響曲9番には死のジンクスがあるということでしょうか。小沢さんがボストン響で最後にこの曲を演奏されたのも、このような意味合いがあるのでしょう。
自分の趣味を書きつづって申し訳ないのですが、何にせよ、日本が世界に誇る演奏家の「復活」はこれほど嬉しいことはありません。一人でも多くの方が小沢さんの過去の演奏を聞いていただけたらなと思います。
長文失礼致しました。
小澤征爾さん、ウィーンフィルの「名誉団員」へ (2010年11月3日追記)
11月2日の午後にこのニュースが流れて筆者は驚いた。ウィーンフィル168年の歴史手で歴史上50人しか選ばれていない中に入ったのである。これほどの快挙はない。小澤氏も「仲間から贈られた、というのが、どんな勲章よりもとにかくうれしい」と感極まった涙を浮かべたと本日の読売新聞にある。筆者も思わず目がしらが熱くなるのを感じた。
このCDは最近発売された小澤さんのCD集である。自分はこれが氏のなかで一番のお気に入りである。クラシックの初心者でもまんべんなく様々な音楽に触れることができるからである。
聞いてみると、世界の一流の演奏と肩を並べるものが多数ある。筆者のおすすめを一つ挙げよう。一つはホルストの惑星「ジュピター」である。これを聞いたときに驚いたのだが、アメリカの最高の指揮者の一人、レナード・バーンスタイン氏の演奏を髣髴とさせるものだったのである。平原綾香さんも歌っている「ジュピター」であるが、このサビの部分がアダージョと呼べるくらい悠長な重厚感ある演奏なのである。私はこのジュピターが一番好きである。
また、最後から2曲目がアメリカ合衆国の「国の公式行進曲」に制定されている「星条旗よ永遠なれ」であるあたりがボストン響に在任された時代のオマージュを感じさせるのである。さらに最後がJ.シュトラウスⅠ世のラデツキー行進曲であるのはウィーンフィルへのオマージュだろう。どちらも大衆的な合奏の最後に演奏される曲として親しまれている曲である。(2010年11月10日追記)
上記のCDは若き頃のバーンスタイン氏の「新世界」である。筆者はこれを超えるものにまだ出会ったことがない。ロック調とも呼べる大胆な演奏であり、後世のどの指揮者もこの演奏を真似ることができていないはずだ。同じように苛烈さという意味において素晴らしい演奏と言えば下のケルテス版くらいだろうか。
小澤さんの快挙が嬉しくてついお気に入りCDを紹介したが、このバーンスタインの「新世界」など1962年の演奏である。若いころの同氏の気鋭の演奏というわけだ。クラシックには過去の演奏の方が録音の状態を含めてはるかに満足できるものが多い。これも歴史と伝統のなせる技だろう。多くの方に入門用としてこの小澤さんのCDを聞いていただきたいのである。
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
前回の記事で、グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)の交響曲第2番を引用しました。ここでは、長文は控えて、クラウス・テンシュテット以外の指揮者によるこの曲の名演をとりあげたいと思います。
ズービン・メータ(Zubin Mehta, 1936年4月29日 - )
これは、インドを代表する指揮者であるメータ氏が1975年にウィーンフィルで演奏したものです。同曲の歴史的な名演として高く評価されています。
メータ氏のコンサートは、父と一回だけ行きました。めったに日本で聞けないような豪快な演奏だったのを覚えています。(ある地方で聞きましたが、別の地域では別の曲目も演奏されていました。東京だと「新世界」が演奏されていたのをパンフレットを読んで覚えています。日本の各地で演奏されたすべての演奏を聞きたいくらいでした。)
メータ氏は現在存命の指揮者の中では世界最高の指揮者という評価がされることもあるくらいの指揮者です。
![]() | マーラー:交響曲第2番《復活》 (2009/10/21) ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 メータ(ズービン)コトルバス(イレアナ) 商品詳細を見る |
小沢 征爾(おざわ せいじ、1935年9月1日 - )
おなじみの小沢征爾さんによるマーラーの2番です。いわゆるクラオタと呼ばれるクラシックマニアの人は、同じ曲でも複数の指揮者の演奏を買いあさります。自分も例外ではありません。クラシックは二度と同じ演奏が行われません。あるときに名演があっても、二度と同じ演奏ができないからです。
自分は、これまでにクラウス・テンシュテットと上のズービン・メータ氏のマーラー2番をピックアップしてきました。この2曲は世界中で評されている最高レベルの演奏です。実は、小沢さんのこの2番も、それに勝るとも劣らない演奏だと自分は感じています。1986年、ボストン交響楽団による演奏です。
今日の読売新聞の朝刊で、その小沢さんの記事がありました。75歳になって食道がんを克服された後の初演奏が行われたという内容です。少しだけ引用させてもらいたいと思います。(続きは買って読んでください。)
「世界のオザワ 復活のタクト」本日9月6日読売新聞朝刊
初期の食堂がんを克服した世界的指揮者の小沢征爾さん(75)が5日、長野県松本市の県松本文化会館で開かれている音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」のコンサートに出演、約9ヶ月ぶりにオーケストラを指揮した(中略)
続く武満徹「ノヴェンバー・フェスティバル」とベルリオーズ「幻想交響曲」は、小沢さんに代わり、読売日本交響楽団製指揮者の下野竜也さん(40)が指揮した。
DECCAが、小沢さんの生誕75年を記念してアニバーサリーアルバムを発売しています。これを末尾にご紹介したいと思います。(このアルバムにはここで述べたマーラー交響曲2番「復活」、そしてこのブログで過去に紹介した「秋庭歌一具」を作曲された、武満徹氏の代表作である「セレモニアル」なども収録されています。注1)
![]() | Anniversary (2010/09/14) Seiji Ozawa 商品詳細を見る |
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⇒ この記事で取りあげた武満徹氏「秋庭歌一具」の記事はこちら
このブログで取り上げている問題も、歴史のページがめくられる日が来ることを願ってやみません。
注1)この小沢征爾さんのアニバーサリーアルバムの中に、武満徹氏の「ノヴェンバー・フェスティバル」が収録されていると当初掲載しましたが、正しくは「セレモニアル」の間違いでした。このアルバムには11枚のCDで構成されていますが、正しい武満徹氏の曲の構成は以下の通りです。
武満徹:作品集(CD3)
1.セレモニアル
2.系図(英語版)
3.マイ・ウェイ・オブ・ライフ
4.弦楽のためのレクイエム
5.エア(フルートのための)
「セレモニアル」は日本の雅楽と西洋クラシックを融合させた音楽です。日本人の感性に強く訴えかけます。ぜひ一度、ここを訪れた皆さんにも聞いていただきたいおすすめの曲です。
【2010年9月23日(木)追記】
この日の読売新聞の1面に「気迫の指揮『復活』の7分間」とあります。小沢征爾さんが、長野県松本市で行われている「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で再び指揮棒を振ったという内容の記事が29面に掲載されています。嬉しい内容なので、すぐ記事に追加させていただきます。
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上記のDVDを自分は持っているのですが、通常音楽というのはCDで聴くものです。しかし、クラシックの場合はDVDで見たほうが迫力がある場合があります。歌劇やオペラなら当然でしょう。ただし、交響曲などでも、指揮者の表情を目の当たりにすることができます。
このDVDは小沢征爾さんがボストン響主任指揮者に在任中のときの演奏ですが、演奏内容もさることながら、小沢さんの表情をドアップで見ることができます。はっきりいって、こんなに険しい表情で演奏される方とは思っていませんでした。音楽のリズムに乗せて恍惚の表情を浮かべたり、楽団に対して厳しい目線を配ったり、様々な表情を読み取ることができます。そして、演奏の最後のほうには汗が滴り落ちています。これはもう、気迫の演奏としか言いようがないです。
ちなみに演奏内容はベートーヴェンの7番とマーラーの9番ですが、これはどちらも相当の名演だと思いました。7番は、自分はC・クライバーとカラヤンばかり聞くのですが、この7番も何回も聴きたくなるほど迫力があります。また、マーラーの9番は、恐らく小沢さんのボストン響最後の演奏なのでしょう。楽団の方が、最高の演奏を小沢さんに捧げているのが分かります。
ちなみに、Jポップもそうですしクラシックもそうなのですが、ライブでは、当初予定していた演奏を超えた内容になることが多いです。観客が熱狂を欲するあまり、指揮者が統制をかなぐり捨てて爆演をすることが多いからです。歴史的な名演はすべてそうだと思います。C・クライバーのベートーヴェン7番も、楽団と指揮者の信頼関係が想定を超えた爆演を生み出しています。ベートーヴェン7番は日本では「のだめカンタービレ」で演奏機会が多くなった曲目です。よかったら一度聴かれてみてはいかがでしょうか。
また、マーラー2番「復活」と6番「悲劇的」はこれまでとりあげてきましたが、9番も同作曲家の最高傑作です。歴史的な祭典によく演奏されます。マーラーが死を覚悟して作曲した曲だからです。ベートーヴェンも、ドヴォルザークなど主要な作曲家が9番で最高傑作を作った後に亡くなっているからです。ベートーヴェンの9番は歓喜の歌と呼ばれる第4楽章を含む「合唱付き」、ドヴォルザークの9番は「遠き山に日は落ちて」が第2楽章にある「新世界」です。作曲家にとって、これらの最高傑作を作った後に亡くなっているというのは、交響曲9番には死のジンクスがあるということでしょうか。小沢さんがボストン響で最後にこの曲を演奏されたのも、このような意味合いがあるのでしょう。
自分の趣味を書きつづって申し訳ないのですが、何にせよ、日本が世界に誇る演奏家の「復活」はこれほど嬉しいことはありません。一人でも多くの方が小沢さんの過去の演奏を聞いていただけたらなと思います。
長文失礼致しました。
小澤征爾さん、ウィーンフィルの「名誉団員」へ (2010年11月3日追記)
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11月2日の午後にこのニュースが流れて筆者は驚いた。ウィーンフィル168年の歴史手で歴史上50人しか選ばれていない中に入ったのである。これほどの快挙はない。小澤氏も「仲間から贈られた、というのが、どんな勲章よりもとにかくうれしい」と感極まった涙を浮かべたと本日の読売新聞にある。筆者も思わず目がしらが熱くなるのを感じた。
このCDは最近発売された小澤さんのCD集である。自分はこれが氏のなかで一番のお気に入りである。クラシックの初心者でもまんべんなく様々な音楽に触れることができるからである。
聞いてみると、世界の一流の演奏と肩を並べるものが多数ある。筆者のおすすめを一つ挙げよう。一つはホルストの惑星「ジュピター」である。これを聞いたときに驚いたのだが、アメリカの最高の指揮者の一人、レナード・バーンスタイン氏の演奏を髣髴とさせるものだったのである。平原綾香さんも歌っている「ジュピター」であるが、このサビの部分がアダージョと呼べるくらい悠長な重厚感ある演奏なのである。私はこのジュピターが一番好きである。
また、最後から2曲目がアメリカ合衆国の「国の公式行進曲」に制定されている「星条旗よ永遠なれ」であるあたりがボストン響に在任された時代のオマージュを感じさせるのである。さらに最後がJ.シュトラウスⅠ世のラデツキー行進曲であるのはウィーンフィルへのオマージュだろう。どちらも大衆的な合奏の最後に演奏される曲として親しまれている曲である。(2010年11月10日追記)
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上記のCDは若き頃のバーンスタイン氏の「新世界」である。筆者はこれを超えるものにまだ出会ったことがない。ロック調とも呼べる大胆な演奏であり、後世のどの指揮者もこの演奏を真似ることができていないはずだ。同じように苛烈さという意味において素晴らしい演奏と言えば下のケルテス版くらいだろうか。
小澤さんの快挙が嬉しくてついお気に入りCDを紹介したが、このバーンスタインの「新世界」など1962年の演奏である。若いころの同氏の気鋭の演奏というわけだ。クラシックには過去の演奏の方が録音の状態を含めてはるかに満足できるものが多い。これも歴史と伝統のなせる技だろう。多くの方に入門用としてこの小澤さんのCDを聞いていただきたいのである。
東ドイツの文化と歴史を再評価する
~東ドイツが輩出した名指揮者と近年の東への郷愁という事態から考察する~
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
今回の記事も旧ブログからの修正なしの掲載です。東ドイツの負の側面を取りあげましたが、人間の存在など否定できるわけがありません。それは新たな負のスパイラルを生みます。その観点から、東ドイツの誇る文化などを前記事の延長線上にとりあげたいと思います。
集団ストーカー問題を書籍から考える(2)
このコーナーは、この問題を出版されている書籍から考えようというものでした。しかし、考えているうちに、映画や音楽から考えても面白いと思うようになりました。今回は個人的に好きな下記の指揮者をあげてみたいと思います。
ヘルベルト・ケーゲル(Herbert Kegel, 1920年7月29日 - 1990年11月20日)は、ドイツのオーケストラ・合唱指揮者。
ケーゲルも、テンシュテットも東ドイツの指揮者です。ケーゲルは、1989年10月というベルリンの壁崩壊1ヶ月前にドレスデンフィルハーモニーの指揮者として日本に来日し、NHKのコンサートホールで公演しています。曲目はベートーヴェン・エグモント序曲、交響曲第六番、交響曲第五番、バッハ・アリアです。
この演奏会は、当時はラジオで放送され、演奏会に来た人を含めて、口づてでその噂が広まりました。私もクラシックはよく聞きますが、おおむねネットで買っています。検索でこのCDを調べてみると、評判だったので思わず買ってみました。聞いてみると、「伝説の講演会」というのが分かるくらい、素晴らしい演奏でした。
私はクラシックはそこそこCDを持っていますが、他の名指揮者の演奏と比べてもトップクラスの演奏ではないかと感じています。クラシックは、歴史の大事件が起きたときに、名演奏が行われることが多いと言われています。日本でおなじみのベートーヴェン第九で非常に売れているフルトヴェングラー指揮のバイロイト音楽祭の演奏も伝説的な名演です。
クラウス・テンシュテット(Klaus Tennstedt, 1926年6月6日 - 1998年1月11日)は、ドイツの指揮者。
私は音楽をはじめとする文芸評論は得意ではありません。ただ、いいと思った音楽を聞くだけです。今一番聞く頻度が高いのが、テンシュテットのマーラー交響曲第6番です。
マーラーの交響曲第6番は、同指揮者の最高傑作とわれています。また、「意志を持った人間が世界、運命という動かしがたい障害と闘い、最終的に打ち倒される悲劇を描いた作品」などと呼ばれています。
私はこの曲を自らが置かれた状況を重ね合わせて聞きます。聞く頻度は部分部分ですが1週間に数回ですから、のめり込んでしまっています。この6番は他の指揮者の名演もありますが、私は必ずテンシュテットの演奏を聴きます。マーラーはテンシュテットのライブを聞けば間違いないというくらい、他の交響曲も素晴らしいです。テンシュテットといえば、ロンドンフィルハーモニーでの指揮ですが、楽団との強い信頼関係が結ばれていたと言われ、オーケストラの力を限界以上に発揮していたと言われています。それゆえ、非常に迫力のあるダイナミックなマーラーが多いです。
近年、東ドイツの指揮者の演奏が見直されています。聞いてみるとこんな素晴らしい名演があったのかと驚くくらいの演奏が多いです。皆さんも聞かれてみてはいかがでしょうか。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(補2)
「集団ストーカー」は難しい問題だと思います。というのもこれまで述べてきたように、この問題に関して明確にこれが悪いのだと言えるようなイデオロギーみたいなものがない問題だからです。したがって、先の新自由主義やグローバリズムで補足したように、あることに対して批判したら補足して修正するといった作業が重要になってくるのではないかと思います。
ここで、もう一つ修正したいことができました。東ドイツについて取り上げてきたことです。これを、先ほどは、「集団ストーカー」とよく似た事例として取り上げました。解決には市民の声の突き上げが必要であるとも述べました。ベルリンの壁崩壊は冷戦の中での民主主義の勝利として歴史上に強く残っていますが、ここだけにスポットを当てるのは、逆に誤解を生じさせてしまいかねません。ここでは、「オスタルギー」という現象を取り上げることによって、これまで取り上げてきた東ドイツの事例を修正したいと思います。
「オスタルギー」とは、ドイツ語で「東」を表す”Ost”と、「郷愁」を表す“Nostalgie”の合成語です。ひとことで説明したら、東ドイツが存在した時代や当時の事物への郷愁のことです。
これを表す一つの象徴的な出来事は2009年9月27日のドイツ総選挙です。ドイツは伝統的な二大政党制の国です。この2009年ドイツ総選挙の結果は、二大政党以外の政党の躍進という結果に終わりました。このとき、第四政党である「左派党」“Die Linke”が議席数を54から76に伸ばしました。この「左翼党」はWASG(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)と左翼党-民主社会党”Die Linkspartei.PDS)が2007年に合併したものです。このうち、左翼党-民主社会党は旧東ドイツの政権与党です。この政党が日本でまさに政権交代が行われた直後のドイツの選挙で躍進したのです。
これは、なぜでしょうか。
ドイツは、2005年に行われた総選挙以降、日本と同じように「新自由主義政策」を推し進めてきました。ドイツにおいても、例外なくグローバリズムの波に飲み込まれ、アメリカや日本と同じような市場原理主義の道を選択しました。しかし、これは、「雇用」「年金」「医療」「福祉」などの分野を大きく衰退させることになりました。日本とまったく同じです。これに対して強い怒りを国民が感じた結果が2009年総選挙の結果でした。
これについて、私も日本のニュースで、若者層が「左派党」を支持していることや、東ドイツの地域で貧困層のための低価格の賞味期限切れに近い食料品分配サービスが支持を得ているといったことが報道されていたのを記憶しています。
このように、行き過ぎた市場原理主義が国家の社会的な基盤を疲弊させ、これらの復活を国民が希望するといった流れは世界的なものでした。これは、(補1)において指摘したように、民主主義の衰退という事態をはらむものでした。そして、そのような衰退した民主主義の中で、世界的に「集団ストーカー」が蔓延した。これが、私が現在世界で蔓延している「集団ストーカー」にイデオロギーは関係ないと述べた理由です。「集団ストーカー」を「民主主義の勝利」というパラダイムを内包する東ドイツの事例でとりあげたことが、部分的に間違っていたことになります。これが、修正を必要とする点でした。
最後に付言します。「書籍で考える(2)」において書きましたが、私はクラシックが大好きです。芸術作品に国境やイデオロギーの壁はありません。いいものはいいものです。例えば、テンシュテットのマーラーが強烈な力強さを持っているのが自分は大好きです。テンシュテットのマーラー6番第4楽章を聞いた後に、同指揮者のマーラー第2番5楽章を聞くのが私の癖です。「悲劇的」から「復活」するからです。私が「集団ストーカー」を乗り越えるのに、この音楽は間違いなく強い勇気を与えてくれたと思っています。(車の中で大音量で聴くのが癖です。)
ここからは過去の記事ではありません。2010年9月8日(水)に追記するものです。
上のケーゲルのエグモント序曲は、自分が聴いた同曲の中でずば抜けて一番です。他のどの演奏家よりも上だと感じています。たった10分程度の曲ですが、これだけのために買う価値があるくらいだと思っています。「苛烈」という表現しかできません。
また、マーラー6番「悲劇的」第4楽章には、「ハンマー」という打楽器が使用されます。これは「運命の打撃」と呼ばれています。その名の通り、とてつもない大きな音がします。指揮者の解釈によって、どれだけ強く打撃するか違うようです。
なぜ「運命の打撃」かというと、マーラーの生涯で重要な局面を表現しているからだといわれています。その打撃の回数は、通常2回ですが、奥さんの恣意的な判断によって後世に変えられたりしているようです。初めて聴かれた方は「ドカン」という音がいきなりするので、驚かれると思います。自分はまだ4種類くらいしか聞いていませんが、2004年ベルリンフィル演奏によるアバドの打撃が自分が聞いた中で一番大きいです。
クラシックは、祭典の際に大砲(もちろん空砲ですが)を撃ったり、何百人で演奏したりするものもあります。壮大という意味においては、歴史的にかなうことがない芸術かもしれません。
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
今回の記事も旧ブログからの修正なしの掲載です。東ドイツの負の側面を取りあげましたが、人間の存在など否定できるわけがありません。それは新たな負のスパイラルを生みます。その観点から、東ドイツの誇る文化などを前記事の延長線上にとりあげたいと思います。
集団ストーカー問題を書籍から考える(2)
このコーナーは、この問題を出版されている書籍から考えようというものでした。しかし、考えているうちに、映画や音楽から考えても面白いと思うようになりました。今回は個人的に好きな下記の指揮者をあげてみたいと思います。
ヘルベルト・ケーゲル(Herbert Kegel, 1920年7月29日 - 1990年11月20日)は、ドイツのオーケストラ・合唱指揮者。
ケーゲルも、テンシュテットも東ドイツの指揮者です。ケーゲルは、1989年10月というベルリンの壁崩壊1ヶ月前にドレスデンフィルハーモニーの指揮者として日本に来日し、NHKのコンサートホールで公演しています。曲目はベートーヴェン・エグモント序曲、交響曲第六番、交響曲第五番、バッハ・アリアです。
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この演奏会は、当時はラジオで放送され、演奏会に来た人を含めて、口づてでその噂が広まりました。私もクラシックはよく聞きますが、おおむねネットで買っています。検索でこのCDを調べてみると、評判だったので思わず買ってみました。聞いてみると、「伝説の講演会」というのが分かるくらい、素晴らしい演奏でした。
私はクラシックはそこそこCDを持っていますが、他の名指揮者の演奏と比べてもトップクラスの演奏ではないかと感じています。クラシックは、歴史の大事件が起きたときに、名演奏が行われることが多いと言われています。日本でおなじみのベートーヴェン第九で非常に売れているフルトヴェングラー指揮のバイロイト音楽祭の演奏も伝説的な名演です。
クラウス・テンシュテット(Klaus Tennstedt, 1926年6月6日 - 1998年1月11日)は、ドイツの指揮者。
私は音楽をはじめとする文芸評論は得意ではありません。ただ、いいと思った音楽を聞くだけです。今一番聞く頻度が高いのが、テンシュテットのマーラー交響曲第6番です。
マーラーの交響曲第6番は、同指揮者の最高傑作とわれています。また、「意志を持った人間が世界、運命という動かしがたい障害と闘い、最終的に打ち倒される悲劇を描いた作品」などと呼ばれています。
![]() | マーラー:交響曲第6番 (2005/03/02) テンシュテット(クラウス) 商品詳細を見る |
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私はこの曲を自らが置かれた状況を重ね合わせて聞きます。聞く頻度は部分部分ですが1週間に数回ですから、のめり込んでしまっています。この6番は他の指揮者の名演もありますが、私は必ずテンシュテットの演奏を聴きます。マーラーはテンシュテットのライブを聞けば間違いないというくらい、他の交響曲も素晴らしいです。テンシュテットといえば、ロンドンフィルハーモニーでの指揮ですが、楽団との強い信頼関係が結ばれていたと言われ、オーケストラの力を限界以上に発揮していたと言われています。それゆえ、非常に迫力のあるダイナミックなマーラーが多いです。
近年、東ドイツの指揮者の演奏が見直されています。聞いてみるとこんな素晴らしい名演があったのかと驚くくらいの演奏が多いです。皆さんも聞かれてみてはいかがでしょうか。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(補2)
「集団ストーカー」は難しい問題だと思います。というのもこれまで述べてきたように、この問題に関して明確にこれが悪いのだと言えるようなイデオロギーみたいなものがない問題だからです。したがって、先の新自由主義やグローバリズムで補足したように、あることに対して批判したら補足して修正するといった作業が重要になってくるのではないかと思います。
ここで、もう一つ修正したいことができました。東ドイツについて取り上げてきたことです。これを、先ほどは、「集団ストーカー」とよく似た事例として取り上げました。解決には市民の声の突き上げが必要であるとも述べました。ベルリンの壁崩壊は冷戦の中での民主主義の勝利として歴史上に強く残っていますが、ここだけにスポットを当てるのは、逆に誤解を生じさせてしまいかねません。ここでは、「オスタルギー」という現象を取り上げることによって、これまで取り上げてきた東ドイツの事例を修正したいと思います。
「オスタルギー」とは、ドイツ語で「東」を表す”Ost”と、「郷愁」を表す“Nostalgie”の合成語です。ひとことで説明したら、東ドイツが存在した時代や当時の事物への郷愁のことです。
これを表す一つの象徴的な出来事は2009年9月27日のドイツ総選挙です。ドイツは伝統的な二大政党制の国です。この2009年ドイツ総選挙の結果は、二大政党以外の政党の躍進という結果に終わりました。このとき、第四政党である「左派党」“Die Linke”が議席数を54から76に伸ばしました。この「左翼党」はWASG(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)と左翼党-民主社会党”Die Linkspartei.PDS)が2007年に合併したものです。このうち、左翼党-民主社会党は旧東ドイツの政権与党です。この政党が日本でまさに政権交代が行われた直後のドイツの選挙で躍進したのです。
これは、なぜでしょうか。
ドイツは、2005年に行われた総選挙以降、日本と同じように「新自由主義政策」を推し進めてきました。ドイツにおいても、例外なくグローバリズムの波に飲み込まれ、アメリカや日本と同じような市場原理主義の道を選択しました。しかし、これは、「雇用」「年金」「医療」「福祉」などの分野を大きく衰退させることになりました。日本とまったく同じです。これに対して強い怒りを国民が感じた結果が2009年総選挙の結果でした。
これについて、私も日本のニュースで、若者層が「左派党」を支持していることや、東ドイツの地域で貧困層のための低価格の賞味期限切れに近い食料品分配サービスが支持を得ているといったことが報道されていたのを記憶しています。
このように、行き過ぎた市場原理主義が国家の社会的な基盤を疲弊させ、これらの復活を国民が希望するといった流れは世界的なものでした。これは、(補1)において指摘したように、民主主義の衰退という事態をはらむものでした。そして、そのような衰退した民主主義の中で、世界的に「集団ストーカー」が蔓延した。これが、私が現在世界で蔓延している「集団ストーカー」にイデオロギーは関係ないと述べた理由です。「集団ストーカー」を「民主主義の勝利」というパラダイムを内包する東ドイツの事例でとりあげたことが、部分的に間違っていたことになります。これが、修正を必要とする点でした。
最後に付言します。「書籍で考える(2)」において書きましたが、私はクラシックが大好きです。芸術作品に国境やイデオロギーの壁はありません。いいものはいいものです。例えば、テンシュテットのマーラーが強烈な力強さを持っているのが自分は大好きです。テンシュテットのマーラー6番第4楽章を聞いた後に、同指揮者のマーラー第2番5楽章を聞くのが私の癖です。「悲劇的」から「復活」するからです。私が「集団ストーカー」を乗り越えるのに、この音楽は間違いなく強い勇気を与えてくれたと思っています。(車の中で大音量で聴くのが癖です。)
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ここからは過去の記事ではありません。2010年9月8日(水)に追記するものです。
上のケーゲルのエグモント序曲は、自分が聴いた同曲の中でずば抜けて一番です。他のどの演奏家よりも上だと感じています。たった10分程度の曲ですが、これだけのために買う価値があるくらいだと思っています。「苛烈」という表現しかできません。
また、マーラー6番「悲劇的」第4楽章には、「ハンマー」という打楽器が使用されます。これは「運命の打撃」と呼ばれています。その名の通り、とてつもない大きな音がします。指揮者の解釈によって、どれだけ強く打撃するか違うようです。
なぜ「運命の打撃」かというと、マーラーの生涯で重要な局面を表現しているからだといわれています。その打撃の回数は、通常2回ですが、奥さんの恣意的な判断によって後世に変えられたりしているようです。初めて聴かれた方は「ドカン」という音がいきなりするので、驚かれると思います。自分はまだ4種類くらいしか聞いていませんが、2004年ベルリンフィル演奏によるアバドの打撃が自分が聞いた中で一番大きいです。
クラシックは、祭典の際に大砲(もちろん空砲ですが)を撃ったり、何百人で演奏したりするものもあります。壮大という意味においては、歴史的にかなうことがない芸術かもしれません。
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