加害行為の熾烈さと解決のための法整備についての考察
~自分の被害記録から~
-最終更新日:2010年9月26日(日)-

【写真は電磁波を計測するためのトリフィールドメーター】
【被害者の方の証拠動画。このトリフィールドメーターを使って計測、公開】
これまで、被害がどのようなものかをご説明してきましたが、まだよく分からないという方も多いのではないかと思います。NPOテクノロジー犯罪被害ネットワークによると、被害は「テクノロジー被害」と「人による嫌がらせ被害」に分かれると申し上げました。ここではどのようにこのような被害を可能にしているかを考えてみたいと思います。
まず、自分が受けた被害や同じ被害者の訴えを元に、テクノロジーによってこのようなことが確実に可能なのだということを列挙してみたいと思います。
テクノロジー被害
(音波や電磁波、エネルギー波を指向的に送信する技術による被害)
・音が聞こえる
・声が聞こえる
・針やシャープペンシルで刺したような痛み
(体中のあらゆる部位。自分のケースは眼球にもあった。)
・頭が締め付けられる
・くすぐったくなる
・部屋の一部が音がパチンと鳴る
・心臓に痛み、締め付け感を感じる
・強制的に発汗する
・被害者の会でなければ言えない恥ずかしい性的嫌がらせ
また、これに加えて人的な嫌がらせによる加害行為によって、さらに被害者を追い詰めることを可能にしています。
人による嫌がらせ被害
(付きまといをはじめとする恐怖感や圧迫感を感じる嫌がらせ)
・人による付きまとい
・車による付きまとい
・ほのめかし
(被害者に直接言わない犯罪構成要件を設立させにくい方法で行われる)
・緊急車両によるサイレンや拡声器による威圧
・ヘリコプターの低空旋回での威圧
・車が高速でスレスレまで幅寄せしてくる。または直前でブレーキをかける。
・車で通行中に隣の車から顔を乗り出してのにらみつけ
・かなりの数の人が携帯を毎日向けてくる
・店に入ると必ず大きなクラクションが鳴る
これらによって、不特定多数が特定個人を追い込む被害です。加害行為のバリエーションはもっとあります。また、この被害にはマインドコントロール性が強く含まれています。これらによるたたみ掛けは、人間が自由意志を持って行動することを阻害するように行われます。このような人権をここまで侵害してしまう犯罪が行われて野放しになっていることが、前ブログで申し上げた民主主義の腐敗を象徴していると自分は考えています。
ではこの被害において何が悪いかという話になるかと思います。
今の社会は、テクノロジーや高度に情報化された社会的なインフラを応用して、使いようによっては誰でも加害行為を行える社会になってしまいました。したがって、これらの被害をできるだけ少ない社会にするには、やはりこの被害の認知と、加害行為をエスカレートさせ被害を重くする電磁波技術などの規制、ストーカー規正法などの改正などしか考えられないと思います。ご存知のように、現在のストーカー規正法は、単独の恋愛感情を持つ個人しか罰することができません。
民主主義社会での解決のためには、これらの加害行為が刑法で罰せられる状態にならないと歯止めがかからないと個人的に思っています。例えば、加害行為による苦しみで自殺してしまったら、法的に加害行為と自殺の因果関係が認められ、刑法によって殺人と同様の犯罪として裁かれる社会にならなければならないということです。
何の落ち度もない通常に暮らしていた善良な市民が、ある日ターゲットにされ、終身的な拷問のターゲットになるような性質をこの被害はもっています。現状では、この被害を受けてしまったら解決は困難であり、自殺を含めた重いリスクを抱えることになります。このようなリスクヘッジがきかない被害の横行を、日本という民主主義先進社会では想定していなかったでしょう。野放しになってきた結果、このような社会になってしまいました。残念でなりません。
被害を受けたことがない読者の皆様にも、これらの深刻な加害行為がこの日本で蔓延している状況を、ぜひ深くお考えになってください。
以上の記事は、前ブログから大幅に変更しています。具体的には、電磁波兵器の内容を削除し、加害行為について詳述を深めました。ご了解願います。
(上記の加害内容の列挙は自分が経験したメモをもとに書いています。詳しくは下の▼続きを読む▼を押して読んで下さい。2010年7月中旬から一ヶ月間の、集中的に受けたテクノロジー被害のまとめが書いてあります。これをもとに掲載しようとした記事です。一般の方には私が精神疾患でないという論理的な積み重ねがないと信じてもらえないと思い、今まで公開しませんでした。それでも、一般の方には信じがたい内容ですので、できるだけ被害者の方だけ読んで下さい。なお、加害行為は今現在も続いています。記事を掲載したら加害行為がたたみ掛けられるのではないかという恐怖感で記事を書いています。)
-最終更新日:2010年9月26日(日)-

【写真は電磁波を計測するためのトリフィールドメーター】
【被害者の方の証拠動画。このトリフィールドメーターを使って計測、公開】
これまで、被害がどのようなものかをご説明してきましたが、まだよく分からないという方も多いのではないかと思います。NPOテクノロジー犯罪被害ネットワークによると、被害は「テクノロジー被害」と「人による嫌がらせ被害」に分かれると申し上げました。ここではどのようにこのような被害を可能にしているかを考えてみたいと思います。
まず、自分が受けた被害や同じ被害者の訴えを元に、テクノロジーによってこのようなことが確実に可能なのだということを列挙してみたいと思います。
テクノロジー被害
(音波や電磁波、エネルギー波を指向的に送信する技術による被害)
・音が聞こえる
・声が聞こえる
・針やシャープペンシルで刺したような痛み
(体中のあらゆる部位。自分のケースは眼球にもあった。)
・頭が締め付けられる
・くすぐったくなる
・部屋の一部が音がパチンと鳴る
・心臓に痛み、締め付け感を感じる
・強制的に発汗する
・被害者の会でなければ言えない恥ずかしい性的嫌がらせ
また、これに加えて人的な嫌がらせによる加害行為によって、さらに被害者を追い詰めることを可能にしています。
人による嫌がらせ被害
(付きまといをはじめとする恐怖感や圧迫感を感じる嫌がらせ)
・人による付きまとい
・車による付きまとい
・ほのめかし
(被害者に直接言わない犯罪構成要件を設立させにくい方法で行われる)
・緊急車両によるサイレンや拡声器による威圧
・ヘリコプターの低空旋回での威圧
・車が高速でスレスレまで幅寄せしてくる。または直前でブレーキをかける。
・車で通行中に隣の車から顔を乗り出してのにらみつけ
・かなりの数の人が携帯を毎日向けてくる
・店に入ると必ず大きなクラクションが鳴る
これらによって、不特定多数が特定個人を追い込む被害です。加害行為のバリエーションはもっとあります。また、この被害にはマインドコントロール性が強く含まれています。これらによるたたみ掛けは、人間が自由意志を持って行動することを阻害するように行われます。このような人権をここまで侵害してしまう犯罪が行われて野放しになっていることが、前ブログで申し上げた民主主義の腐敗を象徴していると自分は考えています。
ではこの被害において何が悪いかという話になるかと思います。
今の社会は、テクノロジーや高度に情報化された社会的なインフラを応用して、使いようによっては誰でも加害行為を行える社会になってしまいました。したがって、これらの被害をできるだけ少ない社会にするには、やはりこの被害の認知と、加害行為をエスカレートさせ被害を重くする電磁波技術などの規制、ストーカー規正法などの改正などしか考えられないと思います。ご存知のように、現在のストーカー規正法は、単独の恋愛感情を持つ個人しか罰することができません。
民主主義社会での解決のためには、これらの加害行為が刑法で罰せられる状態にならないと歯止めがかからないと個人的に思っています。例えば、加害行為による苦しみで自殺してしまったら、法的に加害行為と自殺の因果関係が認められ、刑法によって殺人と同様の犯罪として裁かれる社会にならなければならないということです。
何の落ち度もない通常に暮らしていた善良な市民が、ある日ターゲットにされ、終身的な拷問のターゲットになるような性質をこの被害はもっています。現状では、この被害を受けてしまったら解決は困難であり、自殺を含めた重いリスクを抱えることになります。このようなリスクヘッジがきかない被害の横行を、日本という民主主義先進社会では想定していなかったでしょう。野放しになってきた結果、このような社会になってしまいました。残念でなりません。
被害を受けたことがない読者の皆様にも、これらの深刻な加害行為がこの日本で蔓延している状況を、ぜひ深くお考えになってください。
以上の記事は、前ブログから大幅に変更しています。具体的には、電磁波兵器の内容を削除し、加害行為について詳述を深めました。ご了解願います。
(上記の加害内容の列挙は自分が経験したメモをもとに書いています。詳しくは下の▼続きを読む▼を押して読んで下さい。2010年7月中旬から一ヶ月間の、集中的に受けたテクノロジー被害のまとめが書いてあります。これをもとに掲載しようとした記事です。一般の方には私が精神疾患でないという論理的な積み重ねがないと信じてもらえないと思い、今まで公開しませんでした。それでも、一般の方には信じがたい内容ですので、できるだけ被害者の方だけ読んで下さい。なお、加害行為は今現在も続いています。記事を掲載したら加害行為がたたみ掛けられるのではないかという恐怖感で記事を書いています。)
加害行為における防犯技術の悪用について
-最終更新日:2010年9月21日(火)-

【沖縄・月明かりに照らされた首里城】
本年の政治の大きな動向として、沖縄の基地問題は誰もがご存知でしょう。筆者はどのスタンスでもありませんが、沖縄住民の方々は長い間、飛行機事故の危険と騒音に悩まされました。問題解決のために、地方にリスクを分散する知事会が開かれ、大阪の橋本知事などが基地訓練の分担を考慮する考えを示しましたが、以降先に進んでいません。沖縄の住民の方々に多大な負担をかけられた状態が長年続いたことを、本土の住民は深く考えなければなりません。
この問題と同じように考えてはならないかもしれませんが、「集団ストーカー」の被害者も「騒音」に悩まされます。場合によっては、多くの人が「ヘリコプター」の低空旋廻による騒音に悩まされています。筆者も、昨年の秋ごろまで、時期によってはほぼ毎日続いていました。最寄の駅から家までずっとヘリコプターが頭上にいたこともありました。上空を飛ぶ飛行機やヘリコプターの騒音は尋常でなく、低空で飛ばれたときのデシベル値は並大抵ではありません。自分の場合も、常にエアコンがなっているような耳鳴りがしばらく消えなかったのを覚えています。それだけでなく、人間の心理として強い圧迫感を感じ、場合によっては恐怖感すら感じます。
この「集団ストーカー」のヘリコプターの被害は、NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークで多数報告されているようです。私一人だけではありません。下記のリンクの講演会の音声内容をご試聴いただければお分かりになっていただけると思います。
⇒ 【リンク】NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワーク
(「人的嫌がらせ被害の説明 その3」の部分にヘリコプターの被害について石橋理事長が述べられています。ヘリコプターの騒音が、実際には飛行しておらず「音声送信」によるものだというケースも報告されています。筆者の場合は実際のヘリコプターの飛行を目で確認しています。この「人的嫌がらせ被害の説明 その1~その3」は、集団ストーカー被害のなかでも比較的分かりやすい内容であり、統計的にどのような被害が報告されているかを把握されるのに、非常に分かりやすいと思います。)
このブログでは、今後一般の方々が常識的に考えられない被害内容についても、被害の認知と被害者の救済のために述べていかなければなりません。お見苦しい点もあるかと思いますが、できるだけ客観的な資料を添えて、分かりやすくご説明していこうと思っています。
前置きが長くなりましたが、今回は旧ブログに掲載された「被害への取り組み(2)」を掲載致します。「音声送信」について触れたものです。ぜひご覧になってください。
【記事本文】
これまでの記事で、特に「集団ストーカー」という問題の歴史的・社会的背景を考察してきましたが、分かりにくかった方も多いのではないでしょうか。
ここでは、「NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワーク」で受け付けている被害のうち、テクノロジー犯罪がどのようなものかを例を挙げてご説明したいと思います。
NPOテクノロジー犯罪被害ネットワークの統計によりますと、テクノロジー犯罪の中で、「音が聞こえる」「声が聞こえる」といった被害が、それぞれ3位、4位に来ています。これがどのようなものなのかをご説明します。
まず自分の体験を説明します。私がこの被害を受けたのは2年以上前のある時期に集中していますが、ある場所に行ったときに、頭の中に音が鳴り響くようなことが多数起こりました。あるときは頭の中で「わっ!!!」という人が威嚇するような声が頭の中で鳴り響きました。そのとき、3m隣くらいに男性二人がいました。通常なら、このような声がしたら、びっくりして当惑するくらいの大きな声です。しかし、その二人には聞こえていないようでした。自分だけに聞こえていたのです。
被害者はこれを「音声送信」と呼んでいます。このようなことをはじめて聞かれる方は何のことかよく分からないかと思いますが、テクノロジー犯罪を受けている人の多くは、いたる場所で他の人には聞こえない「音」や「声」を耳にします。被害者によっては、脅迫と取れる内容の恫喝を「音声送信」で行われるケースもあります。
では、これはどのような技術によって可能なのでしょうか。
通常の人は、音というものは空気中で拡散することを知っています。したがって、ある人にだけ音が聞こえてその近くにいる人に音が聞こえないといったことはあり得ないと考えます。しかし、近年はこのように指向性スピーカーといって、音波を直進させる技術が開発されています。この写真の製品は、海上での防災や連絡等に主に用いられるものです。これは業務用で非常に大きなサイズですが、「集団ストーカー」の「音声送信」に用いられている技術もこのようなものだと考えられます。
ここで、このような音声送信技術によって、本人だけに聞こえるように恫喝が行われている被害者の心境を想像してください。被害者はこれだけでなく、異常なまでの付きまといや他の嫌がらせ、またテクノロジーによる攻撃を受けています。これらを集中的に1年365日、しかも被害者によっては寝ている時間帯にまで行われるというのが、「集団ストーカー」の被害者の置かれた状況なのです。
またここで、テクノロジー被害に触れておきたいと思います。この「音声送信」が指向性の音波によって本人にのみ音を聞かせる技術なら、テクノロジー被害は同じように指向性の電磁波やエネルギー波を本人だけに浴びせる技術と考えられています。どのような被害がもたらされるかというと、同じくNPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークの統計によると、睡眠妨害(1位)、頭の締め付け・痺れ・痛み(5位)、心臓等内臓の痛み(9位)、電気が体を走った感覚(10位)、体の筋肉が意識に反して動く(17位)… 以上のような被害が報告されています。多種多様であるために、被害者側にはどのような電磁波・エネルギーはであるかの解明が行われていません。
このように、「集団ストーカー」とは、これらの多数の被害が被害者本人に集中的に向けられますが、被害者本人に主観的にしか分からないものであり、この苦しみを多くの方は一人で抱えることになります。下手に他の人に話すと、当初にも述べましたように精神疾患への誤認を受けかねません。被害を受けている方の多くが就労など社会生活の困難に直面され、さらに行政などの対処も得られないとなると、経済的困窮や孤独が重なったら自殺の可能性が高いというのもお分かりいただけるかと思います。
最後にひとつだけこのような技術について申し上げさせていただきます。例えば上記の指向性スピーカーは防災や人命救助のために作られたものであり、例えば、地震や災害などでがれきや土砂の下に埋もれてしまった人にも使用されます。瓦礫や土砂の除去に時間がかかるようなケースは、極限に置かれた被災者を勇気づける非常に有効なコミュニケーション手段となります。このような技術が、防災・防犯などの尊い目的などに正しく使われることを願ってやみません。
【裁判員制度に関する一考 (2010/9/25追記)】
日本で裁判員制度が施行され、最初の公判が行われて1年少しが経ちました。裁判員制度は、当初は市民が司法に参加する日本では画期的な制度として導入されましたが、制度的な欠陥も目立つようになりました。具体的には、裁判員として選ばれた市民への強い負担と、裁判員の買収による司法の安全性の逆担保です。安易な制度運営では陥りやすいこのような状態を乗り越えて、はじめて民主主義を増進させる市民参加の裁判員制度が成り立つのではないでしょうか。冤罪がおびただしい数報道される昨今、同じような状況に置かれる集団ストーカー被害者として、他人事ではないと思いましたので追記します。
この裁判員制度の初公判は、2009年8月3日東京地方裁判所にて行われました。制度施行から5月末までに裁判員として選任された裁判員は3,369人、補充裁判員は1,298人。終局人数(判決を受けた人数)は601人。罪名は上位3つが、
①強盗致傷(156人)
②殺人(131人)
③覚せい剤取締法違反(58人)
④現住建造物等放火(45人)
⑤(準)強姦致死傷(42人)
であり、裁判員への負担も多くのしかかります。企業に勤めている人は、裁判員として裁判所に赴いた日は欠勤扱いされることがほとんどです。別に手当てを支給するケースも多いですが、民主主義制度を強く担保する制度として機能するには、裁判員として選ばれた方の負担軽減が重要なのではないかと思います。冤罪が少なくなる風潮になると、この集団ストーカー問題も激しさが軽減されてくるのではないかという思いから書きました。皆さんも深くお考えになっていただければ幸いです。
【リンク】
裁判員制度の詳しい情報はこちらへ ⇒ 最高裁判所内の裁判員制度のWebサイト

【沖縄・月明かりに照らされた首里城】
本年の政治の大きな動向として、沖縄の基地問題は誰もがご存知でしょう。筆者はどのスタンスでもありませんが、沖縄住民の方々は長い間、飛行機事故の危険と騒音に悩まされました。問題解決のために、地方にリスクを分散する知事会が開かれ、大阪の橋本知事などが基地訓練の分担を考慮する考えを示しましたが、以降先に進んでいません。沖縄の住民の方々に多大な負担をかけられた状態が長年続いたことを、本土の住民は深く考えなければなりません。
この問題と同じように考えてはならないかもしれませんが、「集団ストーカー」の被害者も「騒音」に悩まされます。場合によっては、多くの人が「ヘリコプター」の低空旋廻による騒音に悩まされています。筆者も、昨年の秋ごろまで、時期によってはほぼ毎日続いていました。最寄の駅から家までずっとヘリコプターが頭上にいたこともありました。上空を飛ぶ飛行機やヘリコプターの騒音は尋常でなく、低空で飛ばれたときのデシベル値は並大抵ではありません。自分の場合も、常にエアコンがなっているような耳鳴りがしばらく消えなかったのを覚えています。それだけでなく、人間の心理として強い圧迫感を感じ、場合によっては恐怖感すら感じます。
この「集団ストーカー」のヘリコプターの被害は、NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークで多数報告されているようです。私一人だけではありません。下記のリンクの講演会の音声内容をご試聴いただければお分かりになっていただけると思います。
⇒ 【リンク】NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワーク
(「人的嫌がらせ被害の説明 その3」の部分にヘリコプターの被害について石橋理事長が述べられています。ヘリコプターの騒音が、実際には飛行しておらず「音声送信」によるものだというケースも報告されています。筆者の場合は実際のヘリコプターの飛行を目で確認しています。この「人的嫌がらせ被害の説明 その1~その3」は、集団ストーカー被害のなかでも比較的分かりやすい内容であり、統計的にどのような被害が報告されているかを把握されるのに、非常に分かりやすいと思います。)
このブログでは、今後一般の方々が常識的に考えられない被害内容についても、被害の認知と被害者の救済のために述べていかなければなりません。お見苦しい点もあるかと思いますが、できるだけ客観的な資料を添えて、分かりやすくご説明していこうと思っています。
前置きが長くなりましたが、今回は旧ブログに掲載された「被害への取り組み(2)」を掲載致します。「音声送信」について触れたものです。ぜひご覧になってください。
【記事本文】
これまでの記事で、特に「集団ストーカー」という問題の歴史的・社会的背景を考察してきましたが、分かりにくかった方も多いのではないでしょうか。
ここでは、「NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワーク」で受け付けている被害のうち、テクノロジー犯罪がどのようなものかを例を挙げてご説明したいと思います。
NPOテクノロジー犯罪被害ネットワークの統計によりますと、テクノロジー犯罪の中で、「音が聞こえる」「声が聞こえる」といった被害が、それぞれ3位、4位に来ています。これがどのようなものなのかをご説明します。
まず自分の体験を説明します。私がこの被害を受けたのは2年以上前のある時期に集中していますが、ある場所に行ったときに、頭の中に音が鳴り響くようなことが多数起こりました。あるときは頭の中で「わっ!!!」という人が威嚇するような声が頭の中で鳴り響きました。そのとき、3m隣くらいに男性二人がいました。通常なら、このような声がしたら、びっくりして当惑するくらいの大きな声です。しかし、その二人には聞こえていないようでした。自分だけに聞こえていたのです。
被害者はこれを「音声送信」と呼んでいます。このようなことをはじめて聞かれる方は何のことかよく分からないかと思いますが、テクノロジー犯罪を受けている人の多くは、いたる場所で他の人には聞こえない「音」や「声」を耳にします。被害者によっては、脅迫と取れる内容の恫喝を「音声送信」で行われるケースもあります。
では、これはどのような技術によって可能なのでしょうか。
通常の人は、音というものは空気中で拡散することを知っています。したがって、ある人にだけ音が聞こえてその近くにいる人に音が聞こえないといったことはあり得ないと考えます。しかし、近年はこのように指向性スピーカーといって、音波を直進させる技術が開発されています。この写真の製品は、海上での防災や連絡等に主に用いられるものです。これは業務用で非常に大きなサイズですが、「集団ストーカー」の「音声送信」に用いられている技術もこのようなものだと考えられます。
ここで、このような音声送信技術によって、本人だけに聞こえるように恫喝が行われている被害者の心境を想像してください。被害者はこれだけでなく、異常なまでの付きまといや他の嫌がらせ、またテクノロジーによる攻撃を受けています。これらを集中的に1年365日、しかも被害者によっては寝ている時間帯にまで行われるというのが、「集団ストーカー」の被害者の置かれた状況なのです。
またここで、テクノロジー被害に触れておきたいと思います。この「音声送信」が指向性の音波によって本人にのみ音を聞かせる技術なら、テクノロジー被害は同じように指向性の電磁波やエネルギー波を本人だけに浴びせる技術と考えられています。どのような被害がもたらされるかというと、同じくNPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークの統計によると、睡眠妨害(1位)、頭の締め付け・痺れ・痛み(5位)、心臓等内臓の痛み(9位)、電気が体を走った感覚(10位)、体の筋肉が意識に反して動く(17位)… 以上のような被害が報告されています。多種多様であるために、被害者側にはどのような電磁波・エネルギーはであるかの解明が行われていません。
このように、「集団ストーカー」とは、これらの多数の被害が被害者本人に集中的に向けられますが、被害者本人に主観的にしか分からないものであり、この苦しみを多くの方は一人で抱えることになります。下手に他の人に話すと、当初にも述べましたように精神疾患への誤認を受けかねません。被害を受けている方の多くが就労など社会生活の困難に直面され、さらに行政などの対処も得られないとなると、経済的困窮や孤独が重なったら自殺の可能性が高いというのもお分かりいただけるかと思います。
最後にひとつだけこのような技術について申し上げさせていただきます。例えば上記の指向性スピーカーは防災や人命救助のために作られたものであり、例えば、地震や災害などでがれきや土砂の下に埋もれてしまった人にも使用されます。瓦礫や土砂の除去に時間がかかるようなケースは、極限に置かれた被災者を勇気づける非常に有効なコミュニケーション手段となります。このような技術が、防災・防犯などの尊い目的などに正しく使われることを願ってやみません。
【裁判員制度に関する一考 (2010/9/25追記)】
日本で裁判員制度が施行され、最初の公判が行われて1年少しが経ちました。裁判員制度は、当初は市民が司法に参加する日本では画期的な制度として導入されましたが、制度的な欠陥も目立つようになりました。具体的には、裁判員として選ばれた市民への強い負担と、裁判員の買収による司法の安全性の逆担保です。安易な制度運営では陥りやすいこのような状態を乗り越えて、はじめて民主主義を増進させる市民参加の裁判員制度が成り立つのではないでしょうか。冤罪がおびただしい数報道される昨今、同じような状況に置かれる集団ストーカー被害者として、他人事ではないと思いましたので追記します。
この裁判員制度の初公判は、2009年8月3日東京地方裁判所にて行われました。制度施行から5月末までに裁判員として選任された裁判員は3,369人、補充裁判員は1,298人。終局人数(判決を受けた人数)は601人。罪名は上位3つが、
①強盗致傷(156人)
②殺人(131人)
③覚せい剤取締法違反(58人)
④現住建造物等放火(45人)
⑤(準)強姦致死傷(42人)
であり、裁判員への負担も多くのしかかります。企業に勤めている人は、裁判員として裁判所に赴いた日は欠勤扱いされることがほとんどです。別に手当てを支給するケースも多いですが、民主主義制度を強く担保する制度として機能するには、裁判員として選ばれた方の負担軽減が重要なのではないかと思います。冤罪が少なくなる風潮になると、この集団ストーカー問題も激しさが軽減されてくるのではないかという思いから書きました。皆さんも深くお考えになっていただければ幸いです。
【リンク】
裁判員制度の詳しい情報はこちらへ ⇒ 最高裁判所内の裁判員制度のWebサイト
被害者の会での吐露による被害感の軽減について
-最終更新日:2010年9月18日(土)-
被害者の心理的負担の軽減や生活再建には自助という方法がいいのではと述べましたが、ここではこのことについて述べてみたいと思います。
被害者の方は必ずこのような経験をされたのではないかと思います。それは他人への説得の難しさです。
これは、親しい間柄の人であっても、被害者が主観的にしか分からない説明しにくい被害であるため、信じてもらえないというものです。自分の経験だと、家族ですら分かってもらうのに1回1時間以上の会話を10回以上根気良くしなければなりませんでした。
このように、被害者が主観的に辛いと思っているのだけど、ほかの人に理解されにくい問題のケースは、被害者同士がその辛さを話し合うのが一番治療効果あります。例を挙げるなら、アルコール依存症者の会や難病患者の会、うつ病患者の会、などの自助グループです。
NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークさんは、札幌・東京・名古屋・大阪ですでに被害者の会を開いておられます。私がこのようなことを申し上げるのは差し出がましいことですが、このような問題の心理的な解消のためには以下の方法が効果あります。
被害内容が似た被害者の方数名でグループを作ります。順番に、10分の時間で好きなようにこの被害に関する心境を吐露します。その際、グループのほかの方は一切口出しをしてはいけません。話し終わったら次の人が話します。こうやってすべての方が好きなように話して、他の人は黙って聞くだけです。これは、声の大きい人と小さい人の格差を発生させないためです。また、話したくないときはパスもできます。この方法は、「言いっぱなし、聞きっぱなし」と呼ばれています。
これは、被害者同士の共感と吐露が公平に行われ、連帯感も生むといわれます。例えば、他の自助グループでは、このような「言いっぱなし、聞きっぱなし」の後に、休憩時間などに被害の乗り越え方などの生の情報を共有したりして、インフォーマルな交友関係を他の被害者と結ぶこともできます。また、このような自助グループは参加者が主体的に参加するものであり、このことも被害者がいきいきと社会で暮らすのに失った人間性を回復するといわれています。
被害者によっては、被害が極めて厳しい時期は、外出すること自体が困難になります。そういった状況ですら、このような被害者同士のつながりをあえて強く持つことは、被害者自身の心の安定と不測の事態に備えることにつながります。この被害はともすれば加害者によって分断されてしまい、被害者同士がつながることは難しいのは多くの方が経験されてきたことではないでしょうか。それを克服するような強いネットワークが形成されると、この問題に対して被害者は大きな力を得ることにつながります。
最後に、このような様々な問題のNPO法人などは、行政が対応できない領域を市民の力でカバーする営みです。NPO法ができてから急速に日本に広まって今ではかなりの数になっています。その反面、運営は経営的な面をはじめとして難しいといわれています。今後のニーズの高まりは必至といわれ、NPO法人がより運営しやすい制度づくりも必要になってくるのではないかと思います。
追記掲載 9月18日(土)
上の書籍は、日本のセルフヘルプグループ研究者の第一人者の岡知史氏による、セルフヘルプグループ(自助グループ)の分かりやすい入門書です。岡氏は、アメリカで難病の子どもの親の会に関する博士論文(下の書籍)を出版するなど、セルフヘルプグループに関する本格的な研究をされています。そちらは難しいですが、上記に紹介させていただいた本はどなたにでも分かりやすい内容と思いますので、被害者の方も、被害を受けたことがない方も、よろしければご覧になってください。
この二つの書籍をとりあげるか迷いましたが、この際書きます。大学在学中の指導教官である岡田敬司氏の主要著書の2冊です。
以前、「自律」という概念をこのブログで使用しました。あまり現実にはなじみのない言葉ですが、人間が人間らしく生きるには重要な意味をもちます。自律とは辞書で「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。」とあります。一方、その対義語は「他律」であり、同じく辞書によると「 自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること。」(Yahoo辞書 大辞泉)とあります。
これは、重要な教育学における命題です。子どもは自分で自分の規範を持ちませんし、後天的に社会によって望ましい人間形成が行われなければなりません。そのためには、教師の導きを受ける「他律」の状態から、自分が立てた規範によって行動する「自律」の状態へと育まれなければなりません。現実の世界はもっと複雑ですが、教育における人間形成の原理はこのようなものです。これに関する哲学的な研究を行われてきた方です。
また、岡田敬司氏は、もっと普遍的な命題である、個人とはどのように自律的な主体たりえるか、という考察を広く人間形成の視点から考察されています。教育学に限らず、社会学、精神病理学、心理学などさまざまな観点からです。自分の理解しているところでは、完全に「自律」的な主体は存在せず、国家などの上位システムと、下にある横のつながりの支えによってかろうじて「自律」が可能になっているということです。社会が個人に要求する厳しい命題を、横のつながりによって人間性を維持するといった感じでしょうか。別に難しいものではなく、企業に勤めていたら、企業の外の旧友の絆やサークルの屈託のない輪が、社会で生き生きと暮らす人間性を担保するのと同じようなものです。しかし、企業の中だけで機械のように生産主体としてだけ働いていたら、それはもう「自律」的な主体ではなく、他人に動かされるままの「他律」的な主体ということになります。豊かな人間らしい生活とはかけ離れている状態です。だからといって、生産を放棄したら生活できないのと同様、人間はこの場合企業という上位システムを受け入れざるを得ません。このような一方の役割だけを負わされる厳しい状況に置かれた個人が、家庭内暴力やアルコール依存症などの社会的病理を生み出します。これは、個人的な弱さとは別の問題です。社会の脆さではないでしょうか。
この問題における被害者も同様です。加害者の恐ろしいテクノロジーによる加害行為によって、「自分の意思で行動する」ということが強く抑圧されてしまう状況におかれているからです。安易に岡田敬司先生の理論をこの問題に当てはめようということはできません。ただし、個人がさまざまなものと共軛的に生きていくには、このような考え方が必須です。特に、寛容な昭和時代に多くあった、上位システムの非人間性を中和する、個人との中間の遊びのような制度を社会に多く復活させてほしいというのが願いみたいなものでしょうか。過酷な状況におかれた被害者が人間的に回復するためには、同じような機能をもつセルフヘルプグループという場が必要であるという考え方は、その延長線上にあります。
最後に、岡田敬司先生や岡知史先生をはじめ、このブログで公的なお名前を使用させていただいた方、申し訳ありません。自分も大学卒業後は普通にサラリーマンとかで過ごしていくのかと思ったらこの被害を受けました。迷惑な話ですが、お考えを使わせていただき、申し訳ありません。
後は、このブログがどれだけこの問題に対して、浄化作用となってくれるか。ブログにお越しいただいている読者の皆様、深くお考えになっていただければ幸いです。
被害者の心理的負担の軽減や生活再建には自助という方法がいいのではと述べましたが、ここではこのことについて述べてみたいと思います。
被害者の方は必ずこのような経験をされたのではないかと思います。それは他人への説得の難しさです。
これは、親しい間柄の人であっても、被害者が主観的にしか分からない説明しにくい被害であるため、信じてもらえないというものです。自分の経験だと、家族ですら分かってもらうのに1回1時間以上の会話を10回以上根気良くしなければなりませんでした。
このように、被害者が主観的に辛いと思っているのだけど、ほかの人に理解されにくい問題のケースは、被害者同士がその辛さを話し合うのが一番治療効果あります。例を挙げるなら、アルコール依存症者の会や難病患者の会、うつ病患者の会、などの自助グループです。
NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークさんは、札幌・東京・名古屋・大阪ですでに被害者の会を開いておられます。私がこのようなことを申し上げるのは差し出がましいことですが、このような問題の心理的な解消のためには以下の方法が効果あります。
被害内容が似た被害者の方数名でグループを作ります。順番に、10分の時間で好きなようにこの被害に関する心境を吐露します。その際、グループのほかの方は一切口出しをしてはいけません。話し終わったら次の人が話します。こうやってすべての方が好きなように話して、他の人は黙って聞くだけです。これは、声の大きい人と小さい人の格差を発生させないためです。また、話したくないときはパスもできます。この方法は、「言いっぱなし、聞きっぱなし」と呼ばれています。
これは、被害者同士の共感と吐露が公平に行われ、連帯感も生むといわれます。例えば、他の自助グループでは、このような「言いっぱなし、聞きっぱなし」の後に、休憩時間などに被害の乗り越え方などの生の情報を共有したりして、インフォーマルな交友関係を他の被害者と結ぶこともできます。また、このような自助グループは参加者が主体的に参加するものであり、このことも被害者がいきいきと社会で暮らすのに失った人間性を回復するといわれています。
被害者によっては、被害が極めて厳しい時期は、外出すること自体が困難になります。そういった状況ですら、このような被害者同士のつながりをあえて強く持つことは、被害者自身の心の安定と不測の事態に備えることにつながります。この被害はともすれば加害者によって分断されてしまい、被害者同士がつながることは難しいのは多くの方が経験されてきたことではないでしょうか。それを克服するような強いネットワークが形成されると、この問題に対して被害者は大きな力を得ることにつながります。
最後に、このような様々な問題のNPO法人などは、行政が対応できない領域を市民の力でカバーする営みです。NPO法ができてから急速に日本に広まって今ではかなりの数になっています。その反面、運営は経営的な面をはじめとして難しいといわれています。今後のニーズの高まりは必至といわれ、NPO法人がより運営しやすい制度づくりも必要になってくるのではないかと思います。
追記掲載 9月18日(土)
![]() | セルフヘルプグループ―わかちあい・ひとりだち・ときはなち (1999/02) 岡 知史 商品詳細を見る |
![]() | Self-Help Groups for Parents of Children With Intractable Diseases: A Qualitative Study of Their Organisational Problems (2003/10) Tomofumi Oka 商品詳細を見る |
上の書籍は、日本のセルフヘルプグループ研究者の第一人者の岡知史氏による、セルフヘルプグループ(自助グループ)の分かりやすい入門書です。岡氏は、アメリカで難病の子どもの親の会に関する博士論文(下の書籍)を出版するなど、セルフヘルプグループに関する本格的な研究をされています。そちらは難しいですが、上記に紹介させていただいた本はどなたにでも分かりやすい内容と思いますので、被害者の方も、被害を受けたことがない方も、よろしければご覧になってください。
![]() | 「自律」の復権―教育的かかわりと自律を育む共同体 (2004/08) 岡田 敬司 商品詳細を見る |
![]() | 人間形成にとって共同体とは何か―自律を育む他律の条件 (2009/02) 岡田 敬司 商品詳細を見る |
この二つの書籍をとりあげるか迷いましたが、この際書きます。大学在学中の指導教官である岡田敬司氏の主要著書の2冊です。
以前、「自律」という概念をこのブログで使用しました。あまり現実にはなじみのない言葉ですが、人間が人間らしく生きるには重要な意味をもちます。自律とは辞書で「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。」とあります。一方、その対義語は「他律」であり、同じく辞書によると「 自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること。」(Yahoo辞書 大辞泉)とあります。
これは、重要な教育学における命題です。子どもは自分で自分の規範を持ちませんし、後天的に社会によって望ましい人間形成が行われなければなりません。そのためには、教師の導きを受ける「他律」の状態から、自分が立てた規範によって行動する「自律」の状態へと育まれなければなりません。現実の世界はもっと複雑ですが、教育における人間形成の原理はこのようなものです。これに関する哲学的な研究を行われてきた方です。
また、岡田敬司氏は、もっと普遍的な命題である、個人とはどのように自律的な主体たりえるか、という考察を広く人間形成の視点から考察されています。教育学に限らず、社会学、精神病理学、心理学などさまざまな観点からです。自分の理解しているところでは、完全に「自律」的な主体は存在せず、国家などの上位システムと、下にある横のつながりの支えによってかろうじて「自律」が可能になっているということです。社会が個人に要求する厳しい命題を、横のつながりによって人間性を維持するといった感じでしょうか。別に難しいものではなく、企業に勤めていたら、企業の外の旧友の絆やサークルの屈託のない輪が、社会で生き生きと暮らす人間性を担保するのと同じようなものです。しかし、企業の中だけで機械のように生産主体としてだけ働いていたら、それはもう「自律」的な主体ではなく、他人に動かされるままの「他律」的な主体ということになります。豊かな人間らしい生活とはかけ離れている状態です。だからといって、生産を放棄したら生活できないのと同様、人間はこの場合企業という上位システムを受け入れざるを得ません。このような一方の役割だけを負わされる厳しい状況に置かれた個人が、家庭内暴力やアルコール依存症などの社会的病理を生み出します。これは、個人的な弱さとは別の問題です。社会の脆さではないでしょうか。
この問題における被害者も同様です。加害者の恐ろしいテクノロジーによる加害行為によって、「自分の意思で行動する」ということが強く抑圧されてしまう状況におかれているからです。安易に岡田敬司先生の理論をこの問題に当てはめようということはできません。ただし、個人がさまざまなものと共軛的に生きていくには、このような考え方が必須です。特に、寛容な昭和時代に多くあった、上位システムの非人間性を中和する、個人との中間の遊びのような制度を社会に多く復活させてほしいというのが願いみたいなものでしょうか。過酷な状況におかれた被害者が人間的に回復するためには、同じような機能をもつセルフヘルプグループという場が必要であるという考え方は、その延長線上にあります。
最後に、岡田敬司先生や岡知史先生をはじめ、このブログで公的なお名前を使用させていただいた方、申し訳ありません。自分も大学卒業後は普通にサラリーマンとかで過ごしていくのかと思ったらこの被害を受けました。迷惑な話ですが、お考えを使わせていただき、申し訳ありません。
後は、このブログがどれだけこの問題に対して、浄化作用となってくれるか。ブログにお越しいただいている読者の皆様、深くお考えになっていただければ幸いです。
セルフヘルプグループと宗教
~アルコール依存症を克服するために必要な宗教装置について~
-最終更新日:2010年9月12日(日)-
前回、セルフヘルプグループが重要な社会問題や病気などを乗り越えるために、弱い立場におかれた人にとって極めて重要な克服の手段となってきたこと述べました。今回は、そのなかでも、耽溺・嗜癖に関するセルフヘルプグループについて述べてみたいと思います。この系統のセルフヘルプグループは、薬物依存、アルコール依存症、ギャンブルなどです。最近では煙草もこれに該当するかもしれません。
社会で人間が豊かに生活するためには、多少の逸脱は社会的にも個人的にも許容されます。しかし、それで社会生活が破綻してしまっては元も子もありません。お酒でも、泥酔した人は翌日にはしらふに戻って仕事に行きます。休日にギャンブルをしても、通常の人は経済的に破綻しない程度にとどめます。薬物依存に至っては、それ自体が法律違反です。これらの耽溺・嗜癖は、場合によってはのめりこんでしまって、通常の社会生活に戻ることができない状態に至ります。この個人の嗜癖・耽溺は、没入してしまっても、元の社会生活に復帰できるということを前提として制度設計されています。社会には為政者が馴致できるガス抜きが必要だということです。集合的にこれを合法的に解消できる代表的なものがこのブログで取りあげているお祭りです。お祭りのドンチャン騒ぎのあとに日常生活に立ち戻ることを、フランスの社会学者E・デュルケムは「聖から俗への帰還」などと表現していたと思います。トーテミズムなどの原始社会のお祭りも、現代のお祭りも、社会に果たす機能は同じというわけです。普段は壁があっても、祭りが社会を統合させるときに、個人は自我の壁を溶解させる体験をします。美しい芸術作品などへの没我・没入と一緒です。
話が脇道にそれましたが、これらの問題には、当然医学の分野で治療の対象とされるものもあります。アルコール依存症や薬物依存症です。しかし、医学にとって非常に迷惑で厄介な分野です。基本的には個人の「選択」によって没落してしまったからです。医師は自分で病気になるような悪い養生をした個人は助けたがらないものです。アルコールを「個人の選択」として多飲した結果のこのような迷惑な問題でも、医学での適切な処置が功を奏する以上、「病気」とし精神医学に位置づけられています。(この問題は、個人的に、「アルコールを飲む」という選択が個人主義制度下で功利的な選択のもとに行われたとする風潮も、アルコール依存症の方を苦しめていると思います。お酒に飲まされたというほうが、問題の性質上正しいと思います。本人の生理学上、多飲しないと満足できない体質が形成されているからです。また下にも述べますが、自分ではどうしようもない性格的気質も要因になっているからです。少なくとも、回復のためにはそのような視点が必要です。これらの点では、心理学でカウンセリングを行う専門家のほうが、個人のこのような性格的気質について詳しく、適切な対処がなされると思います。ただし、薬物依存に関しては違法であるため、個人主義制度の下で、使用を禁じる個人の強い意志が必要です。これだけは間違ってはなりませんので。)
そもそも、これらの問題のセルフヘルプグループが誕生したのも、厄介者扱いされて社会的に見捨てられた人々が集まったからでした。アルコール依存症になった人など、社会は救う気になれないのです。
しかし、例えばアルコール依存症のセルフヘルプグループとしてA・A(アルコホリック・アノニマス)というものがあります。なぜ「アノニマス」かというと、お互いにニックネームで呼び合うからです。重い問題を抱えた人が実名で参加する必要がないように配慮されているからです。このA・Aはキリスト教の教義から派生したもので、治療に実質的な効果があるために、またたく間に浸透して、現在では全世界に数百万人のメンバーがいます。キリスト教の教会などの施設で開催されることもあります。一方で、日本はキリスト教が浸透していませんので、「断酒会」のほうがメンバーが多いです。こちらは、同じようなグループ形態が仏教の教義にそうように作り直されたものと受け取っていただいたら話が早いかと思います。
なぜ、これらのグループが宗教のノウハウを使用しているかが、今回の記事の一番注目所です。A・Aでのミーティングの流れを説明しますと、まず最初にA・Aの「12のステップ」をメンバー全員で唱和します。その後、「言いっぱなし・聞きっぱなし」によってお互いの苦労話を共有します。休憩時間に談話をはさんで、最後の人が話し終わったらミーティングの終わりです。「言いっぱなし・聞きっぱなし」では自分が言いたいことを言って、他の人は黙って話を聞くだけです。おおむね一人10分くらいですが、これが分け隔てなく最後の人まで続けられます。
ここで、「12のステップ」を掲載します。読むのが面倒な方は、最初の3つくらい読んで、最後まで飛ばしてください。
1.われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことが
どうにもならなくなったことを認めた。
2.われわれは自分より偉大な力が、
われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。
3.われわれの意志と命の方向を変え、自分で理解している神、
ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした。
4.探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った。
5.神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、
自分の誤りの正確な本質を認めた。
6.これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを神にゆだねる心の準備が、
完全にできた。
7.自分の短所を変えてください、と謙虚に神に求めた。
8.われわれが傷つけたすべての人の表をつくり、
そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
9.その人たち、または他の人々を傷つけない限り、
機会あるたびに直接埋め合わせをした。
10.自分の生き方の棚卸しを実行し続け、謝ったときは直ちに認めた。
11.自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、
神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
12.これら音ステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコホーリクに伝え、
また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
(スポンサーシップ Q&A AA日本ゼネラルサービスオフィス発行 1999年 日本語翻訳改訂版より)
これを見ていただいたらお分かりになっていただけるように、A・Aの根本的な部分が「ハイヤー・パワー」という神を中心とした宗教的な教義となっていることにお気づきいただけるかと思います。今回の記事の狙いは、たとえ宗教であっても、正しい使い方をしたら重い問題を乗り越える強い武器になるということです。ここでは、この宗教の教義がなぜアルコール依存症を乗り越えるきっかけとなるのか、また実質的に有効な乗り越えの手段となっているかについてご説明します。
アルコール依存症の方々の耽溺の状態は、生理学的に、飲まなければ気がすまない状態です。本人の意思に反して、体が要求するということです。しかし、毎日朝から晩まで飲む生活を続けて、アルコールを中断したら、中毒症状が出ます。幻覚・妄想などです。しかも、強い苦痛を感じます。麻薬をやめるのと同じです。したがって、精神医療の分野での対処となります。しかし、やめるには本人の強い意志が必要です。中断したときの中毒症状にしばらく耐えなければなりません。医療分野は、せいぜいそれを薬の力などで緩和する程度しかできません。
しかし、厄介なことにアルコール依存症の人は一回お酒をやめることができても、また同じアルコール依存に陥ってしまう可能性が高いです。アルコール依存症になってしまったときの飲酒量を飲まなければ満足できない体になってしまっているからです。例えば、アルコール依存症になったときに一日にお酒を一升瓶ぜんぶ飲んでいたら、一合や二合では満足できない体になっているということです。したがって、アルコール依存症を乗り越えるということは、アルコールを断たねばなりません。日本で生まれた「断酒会」というセルフヘルプグループの名前は、そういった意味から由来しています。
さて、先ほどの医学による対処ではどうにもならないことがあります。それは、本人の「性格」です。なぜ本人の「性格」がアルコール依存症に寄与するかについては、おおむね解明されています。極度に几帳面であるとか、完ぺき主義であるとか、他人に弱みを見せることができない性格です。これらに競争性が加わったら、アルコール依存に陥るリスクをいっそう深めます。これらの人は、自分の性格の一部分、それもよい所だけを見せて生きていきます。実際はそうしなくてもいいのですが、本人がそうしないと気がすみません。一方で、これらの状態は、人間が精神的な不調になることを促進させます。羽目をはずすことができない状態ならなおさらです。エリートサラリーマンで、休むまもなく働いていてはけ口のない人が、いきなりアルコールに耽溺して立ち戻れなくなるようなものだと考えていただければと思います。
ここで、1971年にすでにこの個人の心のメカニズムに対して非常に鋭い指摘をした学者がいます。前回のべたダブルバインド(二重拘束)説を打ち立てたグレゴリー・ベイトソンです。これは「精神の生態学」という本に掲載されています。このメカニズムについて、自分が理解していることを述べてみようと思います。(論文自体はかなり難解ですので、取り上げ方には慎重を期しますが、間違いがあったらごめんなさい。)
アルコール依存症の人は、上記のような通常の人より極端な性格的な傾向が強いとされます。これは本人の「プライド」によって支えられています。しかし、他人の承認を元にした相補的な人間関係を体験したいという欲動は常に心の中にあります。それを満足させるためにお酒を飲みます。お酒を飲んだら敵対する相手とでも楽しく会話ができるからです。彼らはしかし、その完ぺき主義的な性格によって、これをすら理性のコントロール下に置くことをを強く望むようになります。彼らの性格では、例えば出世のためにライバルに弱みを見せるわけにいかないからです。人間は、張り詰めた状態とリラックスした状態両方を繰り返すことによって生産活動が可能な主体です。これらのどちらが欠けても人間として破綻に至ります。お酒を飲んだ酩酊状態ですら、理性のコントロール下に置こうという努力。これが、破綻の始まりです。(この場合、アルコールへの耽溺という結果に至らなくても、極度のこ完ぺき主義を求める努力は人格的な破綻を招きます。うつ病など、さまざまな精神疾患に至りやすいのは誰が見てもお分かりいただけると思います。)
ベイトソンは、これをアルコール依存症者の「プライド」と表現しています。それが、次第にお酒にのめりこむ理由になることをロジックで説明しています。酩酊という生理学的に人間がコントロールしにくいものを理性でコントロールするという不可能に近い命題が、耽溺を爆発化させる要因になるというわけです。したがって、A・Aではこれを直すこと、もしくはメンバー同士で乗り越えることが主眼になります。しかし、性格ですので、本人の努力によって乗り越えることは困難です。むしろ、その努力がアルコール依存症を重篤化させることをここまで読まれた方で勘の鋭い方はお気づきになっていただけるかと思います。このようなときには、それを万人訳隔てなく変える仕組みが必要です。
これを端的にあらわしたのが、A・Aの「12のステップ」です。読んでいただいたらお分かりになっていただけるかと思いますが、「自分の性格的な欠陥が自分にはどうしようもないから神様直してくださいと懇願する」内容になっています。人の考え方を社会とそこに住む個人にとってよい方向に変える、「宗教的な装置」の機能を果たしています。これをグループで共有するのがA・Aというセルフヘルプグループの本質なのです。
最後に、日本は宗教に対する社会的な信頼が低いといわれています。これが、敬虔なイスラム教の国家やキリスト教の国家だと、宗教に対する社会的信頼性が驚くほど高いという社会調査が出ます。そのような中で日本は他の国に比べて新聞やテレビなどのメディアの信頼性が比較的に高いという社会調査の結果が出ています。メディアが日本より国民に支持されない国は多いのです。これはすなわち、この日本においてはメディアが民主主義を強く担保してきたということです。
それはさておき、実質的には宗教の仕組みが、アルコール依存という正常な社会生活に立ち戻れない個人を助けています。利益は度外視です。なぜなら、ミーティングに参加する度に、寄付を入れる布袋をミーティング中に手渡していきますが、いくら入れてもOKだからです。自分の知っている人は、500円くらい入れているだけです。その人は他の人がいくら入れているか知りません。このように伝統のある正常な宗教は、人の心を間違いなく豊かにする拠り所となります。歴史的にもそうです。迫害された民族は、すべからく教会やモスクなどの宗教的な拠点がまずもって受け入れました。
これがこの問題に対して最後の示唆になってほしいです。でなければ身が持ちません。加害行為によって社会生活が破綻寸前の状態でこれだけ書いていますので。また、記事の掲載やコメントに対するレスポンスが遅れるかもしれません。ご容赦いただけますと幸いです。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
筆者の学生時代の専攻の指導教官の一人。学生時代にスパルタで英語の書籍を一章丸々訳すという講義はきつかった。一方で好きな芸能人に会ってインタビューするという面白い講義も。筆者は山崎まさよしに会いたいと言ったが、当然会えるはずもなく沈没。それでもレポートを出したら合格した。この著書は社会学が本当に楽しく感じられる入門書である。
ダブルバインド(二重拘束)説の原典となっている著書。かなり難解であるため、私はアルコール依存の下りしか読んで理解していない。20世紀の知の巨人による名著。
-最終更新日:2010年9月12日(日)-
前回、セルフヘルプグループが重要な社会問題や病気などを乗り越えるために、弱い立場におかれた人にとって極めて重要な克服の手段となってきたこと述べました。今回は、そのなかでも、耽溺・嗜癖に関するセルフヘルプグループについて述べてみたいと思います。この系統のセルフヘルプグループは、薬物依存、アルコール依存症、ギャンブルなどです。最近では煙草もこれに該当するかもしれません。
社会で人間が豊かに生活するためには、多少の逸脱は社会的にも個人的にも許容されます。しかし、それで社会生活が破綻してしまっては元も子もありません。お酒でも、泥酔した人は翌日にはしらふに戻って仕事に行きます。休日にギャンブルをしても、通常の人は経済的に破綻しない程度にとどめます。薬物依存に至っては、それ自体が法律違反です。これらの耽溺・嗜癖は、場合によってはのめりこんでしまって、通常の社会生活に戻ることができない状態に至ります。この個人の嗜癖・耽溺は、没入してしまっても、元の社会生活に復帰できるということを前提として制度設計されています。社会には為政者が馴致できるガス抜きが必要だということです。集合的にこれを合法的に解消できる代表的なものがこのブログで取りあげているお祭りです。お祭りのドンチャン騒ぎのあとに日常生活に立ち戻ることを、フランスの社会学者E・デュルケムは「聖から俗への帰還」などと表現していたと思います。トーテミズムなどの原始社会のお祭りも、現代のお祭りも、社会に果たす機能は同じというわけです。普段は壁があっても、祭りが社会を統合させるときに、個人は自我の壁を溶解させる体験をします。美しい芸術作品などへの没我・没入と一緒です。
話が脇道にそれましたが、これらの問題には、当然医学の分野で治療の対象とされるものもあります。アルコール依存症や薬物依存症です。しかし、医学にとって非常に迷惑で厄介な分野です。基本的には個人の「選択」によって没落してしまったからです。医師は自分で病気になるような悪い養生をした個人は助けたがらないものです。アルコールを「個人の選択」として多飲した結果のこのような迷惑な問題でも、医学での適切な処置が功を奏する以上、「病気」とし精神医学に位置づけられています。(この問題は、個人的に、「アルコールを飲む」という選択が個人主義制度下で功利的な選択のもとに行われたとする風潮も、アルコール依存症の方を苦しめていると思います。お酒に飲まされたというほうが、問題の性質上正しいと思います。本人の生理学上、多飲しないと満足できない体質が形成されているからです。また下にも述べますが、自分ではどうしようもない性格的気質も要因になっているからです。少なくとも、回復のためにはそのような視点が必要です。これらの点では、心理学でカウンセリングを行う専門家のほうが、個人のこのような性格的気質について詳しく、適切な対処がなされると思います。ただし、薬物依存に関しては違法であるため、個人主義制度の下で、使用を禁じる個人の強い意志が必要です。これだけは間違ってはなりませんので。)
そもそも、これらの問題のセルフヘルプグループが誕生したのも、厄介者扱いされて社会的に見捨てられた人々が集まったからでした。アルコール依存症になった人など、社会は救う気になれないのです。
しかし、例えばアルコール依存症のセルフヘルプグループとしてA・A(アルコホリック・アノニマス)というものがあります。なぜ「アノニマス」かというと、お互いにニックネームで呼び合うからです。重い問題を抱えた人が実名で参加する必要がないように配慮されているからです。このA・Aはキリスト教の教義から派生したもので、治療に実質的な効果があるために、またたく間に浸透して、現在では全世界に数百万人のメンバーがいます。キリスト教の教会などの施設で開催されることもあります。一方で、日本はキリスト教が浸透していませんので、「断酒会」のほうがメンバーが多いです。こちらは、同じようなグループ形態が仏教の教義にそうように作り直されたものと受け取っていただいたら話が早いかと思います。
なぜ、これらのグループが宗教のノウハウを使用しているかが、今回の記事の一番注目所です。A・Aでのミーティングの流れを説明しますと、まず最初にA・Aの「12のステップ」をメンバー全員で唱和します。その後、「言いっぱなし・聞きっぱなし」によってお互いの苦労話を共有します。休憩時間に談話をはさんで、最後の人が話し終わったらミーティングの終わりです。「言いっぱなし・聞きっぱなし」では自分が言いたいことを言って、他の人は黙って話を聞くだけです。おおむね一人10分くらいですが、これが分け隔てなく最後の人まで続けられます。
ここで、「12のステップ」を掲載します。読むのが面倒な方は、最初の3つくらい読んで、最後まで飛ばしてください。
1.われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことが
どうにもならなくなったことを認めた。
2.われわれは自分より偉大な力が、
われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。
3.われわれの意志と命の方向を変え、自分で理解している神、
ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした。
4.探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った。
5.神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、
自分の誤りの正確な本質を認めた。
6.これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを神にゆだねる心の準備が、
完全にできた。
7.自分の短所を変えてください、と謙虚に神に求めた。
8.われわれが傷つけたすべての人の表をつくり、
そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
9.その人たち、または他の人々を傷つけない限り、
機会あるたびに直接埋め合わせをした。
10.自分の生き方の棚卸しを実行し続け、謝ったときは直ちに認めた。
11.自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、
神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
12.これら音ステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコホーリクに伝え、
また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
(スポンサーシップ Q&A AA日本ゼネラルサービスオフィス発行 1999年 日本語翻訳改訂版より)
これを見ていただいたらお分かりになっていただけるように、A・Aの根本的な部分が「ハイヤー・パワー」という神を中心とした宗教的な教義となっていることにお気づきいただけるかと思います。今回の記事の狙いは、たとえ宗教であっても、正しい使い方をしたら重い問題を乗り越える強い武器になるということです。ここでは、この宗教の教義がなぜアルコール依存症を乗り越えるきっかけとなるのか、また実質的に有効な乗り越えの手段となっているかについてご説明します。
アルコール依存症の方々の耽溺の状態は、生理学的に、飲まなければ気がすまない状態です。本人の意思に反して、体が要求するということです。しかし、毎日朝から晩まで飲む生活を続けて、アルコールを中断したら、中毒症状が出ます。幻覚・妄想などです。しかも、強い苦痛を感じます。麻薬をやめるのと同じです。したがって、精神医療の分野での対処となります。しかし、やめるには本人の強い意志が必要です。中断したときの中毒症状にしばらく耐えなければなりません。医療分野は、せいぜいそれを薬の力などで緩和する程度しかできません。
しかし、厄介なことにアルコール依存症の人は一回お酒をやめることができても、また同じアルコール依存に陥ってしまう可能性が高いです。アルコール依存症になってしまったときの飲酒量を飲まなければ満足できない体になってしまっているからです。例えば、アルコール依存症になったときに一日にお酒を一升瓶ぜんぶ飲んでいたら、一合や二合では満足できない体になっているということです。したがって、アルコール依存症を乗り越えるということは、アルコールを断たねばなりません。日本で生まれた「断酒会」というセルフヘルプグループの名前は、そういった意味から由来しています。
さて、先ほどの医学による対処ではどうにもならないことがあります。それは、本人の「性格」です。なぜ本人の「性格」がアルコール依存症に寄与するかについては、おおむね解明されています。極度に几帳面であるとか、完ぺき主義であるとか、他人に弱みを見せることができない性格です。これらに競争性が加わったら、アルコール依存に陥るリスクをいっそう深めます。これらの人は、自分の性格の一部分、それもよい所だけを見せて生きていきます。実際はそうしなくてもいいのですが、本人がそうしないと気がすみません。一方で、これらの状態は、人間が精神的な不調になることを促進させます。羽目をはずすことができない状態ならなおさらです。エリートサラリーマンで、休むまもなく働いていてはけ口のない人が、いきなりアルコールに耽溺して立ち戻れなくなるようなものだと考えていただければと思います。
ここで、1971年にすでにこの個人の心のメカニズムに対して非常に鋭い指摘をした学者がいます。前回のべたダブルバインド(二重拘束)説を打ち立てたグレゴリー・ベイトソンです。これは「精神の生態学」という本に掲載されています。このメカニズムについて、自分が理解していることを述べてみようと思います。(論文自体はかなり難解ですので、取り上げ方には慎重を期しますが、間違いがあったらごめんなさい。)
アルコール依存症の人は、上記のような通常の人より極端な性格的な傾向が強いとされます。これは本人の「プライド」によって支えられています。しかし、他人の承認を元にした相補的な人間関係を体験したいという欲動は常に心の中にあります。それを満足させるためにお酒を飲みます。お酒を飲んだら敵対する相手とでも楽しく会話ができるからです。彼らはしかし、その完ぺき主義的な性格によって、これをすら理性のコントロール下に置くことをを強く望むようになります。彼らの性格では、例えば出世のためにライバルに弱みを見せるわけにいかないからです。人間は、張り詰めた状態とリラックスした状態両方を繰り返すことによって生産活動が可能な主体です。これらのどちらが欠けても人間として破綻に至ります。お酒を飲んだ酩酊状態ですら、理性のコントロール下に置こうという努力。これが、破綻の始まりです。(この場合、アルコールへの耽溺という結果に至らなくても、極度のこ完ぺき主義を求める努力は人格的な破綻を招きます。うつ病など、さまざまな精神疾患に至りやすいのは誰が見てもお分かりいただけると思います。)
ベイトソンは、これをアルコール依存症者の「プライド」と表現しています。それが、次第にお酒にのめりこむ理由になることをロジックで説明しています。酩酊という生理学的に人間がコントロールしにくいものを理性でコントロールするという不可能に近い命題が、耽溺を爆発化させる要因になるというわけです。したがって、A・Aではこれを直すこと、もしくはメンバー同士で乗り越えることが主眼になります。しかし、性格ですので、本人の努力によって乗り越えることは困難です。むしろ、その努力がアルコール依存症を重篤化させることをここまで読まれた方で勘の鋭い方はお気づきになっていただけるかと思います。このようなときには、それを万人訳隔てなく変える仕組みが必要です。
これを端的にあらわしたのが、A・Aの「12のステップ」です。読んでいただいたらお分かりになっていただけるかと思いますが、「自分の性格的な欠陥が自分にはどうしようもないから神様直してくださいと懇願する」内容になっています。人の考え方を社会とそこに住む個人にとってよい方向に変える、「宗教的な装置」の機能を果たしています。これをグループで共有するのがA・Aというセルフヘルプグループの本質なのです。
最後に、日本は宗教に対する社会的な信頼が低いといわれています。これが、敬虔なイスラム教の国家やキリスト教の国家だと、宗教に対する社会的信頼性が驚くほど高いという社会調査が出ます。そのような中で日本は他の国に比べて新聞やテレビなどのメディアの信頼性が比較的に高いという社会調査の結果が出ています。メディアが日本より国民に支持されない国は多いのです。これはすなわち、この日本においてはメディアが民主主義を強く担保してきたということです。
それはさておき、実質的には宗教の仕組みが、アルコール依存という正常な社会生活に立ち戻れない個人を助けています。利益は度外視です。なぜなら、ミーティングに参加する度に、寄付を入れる布袋をミーティング中に手渡していきますが、いくら入れてもOKだからです。自分の知っている人は、500円くらい入れているだけです。その人は他の人がいくら入れているか知りません。このように伝統のある正常な宗教は、人の心を間違いなく豊かにする拠り所となります。歴史的にもそうです。迫害された民族は、すべからく教会やモスクなどの宗教的な拠点がまずもって受け入れました。
これがこの問題に対して最後の示唆になってほしいです。でなければ身が持ちません。加害行為によって社会生活が破綻寸前の状態でこれだけ書いていますので。また、記事の掲載やコメントに対するレスポンスが遅れるかもしれません。ご容赦いただけますと幸いです。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
![]() | 社会学講義―感情論の視点 (1999/09) 高橋 由典 商品詳細を見る |
筆者の学生時代の専攻の指導教官の一人。学生時代にスパルタで英語の書籍を一章丸々訳すという講義はきつかった。一方で好きな芸能人に会ってインタビューするという面白い講義も。筆者は山崎まさよしに会いたいと言ったが、当然会えるはずもなく沈没。それでもレポートを出したら合格した。この著書は社会学が本当に楽しく感じられる入門書である。
![]() | 精神の生態学 (2000/02) グレゴリー ベイトソン 商品詳細を見る |
ダブルバインド(二重拘束)説の原典となっている著書。かなり難解であるため、私はアルコール依存の下りしか読んで理解していない。20世紀の知の巨人による名著。
この問題への公的機関と専門領域の対処とは (2)
~精神医療と集団ストーカー問題について~
-最終更新日:2010年9月9日(水)-
荷は重いですが、この問題がさまざまな学術分野で考察されなければならないと言った手前、たとえ専門知識が希薄だとしても、示唆を与える部分だけでもアウトプットしなければならないと思います。今回は精神医療の観点から考察してみたいと思います。
精神科医は医師です。さまざまな病気を扱います。代表的なものが統合失調症です。意識と行動が乖離してしまうこともある、現在ではドーパミンの過剰分泌が主要な原因であるとされる病気の一群です。古典的には、破瓜型、妄想型、緊張型という分類がなされます。これらは、一切偏見が行われるべきでない歴然とした病気であり、医療行為による適切な治療が必要です。トーパミン遮断剤だけで驚くほど症状が軽くなるからです。
その次に代表的なものは、うつ病です。昔は大うつ病といって、非常に症状が深刻でした。寝たきり状態になるものまでありました。現在は、トランキライザーの進歩や社会的認知が広まりもあり、症状の軽症化が進んでいます。だからといって罹患する患者数が減っているというわけではなく、全体のうつ病患者は増えているといわれています。自殺との強い因果関係も指摘される時代となりました。また、時代によって症状が異なるのか、現在は抑うつ状態にありながらも外向性が強くなって暴力をふるうケースが増えているなど、症状の多様化が進んでいると言われています。精神医療は命がけの仕事なのです。
しかし、精神疾患には病気とされないものもあります。ボーダーラインと呼ばれる有名な境界性人格障害をはじめとする、人格障害とよばれるものです。(厳密に病気とされないものはアスペルガー症候群などたくさんあります。)
これについては、精神医学に基づいた治療はなかなか効を奏しません。一般には病気とされないからです。「障害」という名前が指し示すように、社会生活を円滑に営むための何かが欠落しているという観点で見られます。例えば、アスペルガー症候群は、情緒的な能力の欠損が著しいものとされます。ただし、知的能力、特に論理的思考に関しては通常の人より高いIQを示すと言われています。
このような病気とされないながらも精神医療の分野で扱われる障害は、完全に「治療」することが難しいとされます。ただし、精神医療の中に組み込まれているということは、この分野で取り組むということです。そのためには、前回の高齢者に対する包括支援センターの取り組みのように、この人格障害においてもさまざまな専門家の支援が提供されなければなりません。一般的には、精神科医をトップとした支援チームが組まれます。精神科医以外では、臨床心理士や看護師、PSW(精神医療ソーシャルワーカー)と呼ばれる人たちです。(資格試験で、「社会福祉士」と「精神保健福祉士」が別々になっていることについて、この分野の方はお詳しいはずです。)
さて、ここでなぜ人格障害をピックアップしたかです。自分の経験から、この問題をかかえるとまさに被害者が人格障害のような様相を示すからです。これは他の被害者の方を冒涜したものではありません。自分が、人格障害になったのと同じような様相を示したということです。例えばアルコールをあびるほど飲む自傷行為に及んだり、相手に対して極度に敵意を向けたり、家族に対して激しい口論を仕掛けたりするようになります。常に拷問のような苦痛を浴びている状態のうえ、加害行為による社会生活の制限によって強い抑圧感情に支配されます。このようなとき、人間は異常なまでにイラついた状態になります。以前、いじめっ子は別次元でいじめを受けているという説を紹介しました。これと同じように、自分のケースでは家族にイラつきの矛先が向けられました。自分の家族は被害を受けていませんが、このような被害を受けている家族の構成員がいなければもっと幸せになっていたでしょう。この数年間、家族に大きな迷惑をかけつづけています。(あくまで私のケースです。他の被害者の方には当てはまらないかもしれません。もしそうでしたら、申し訳ありません。)
人格障害は、社会生活にうまく適合できない意味において人格が欠損しているケースをいいます。これは病気でなく、その人のせいでもありません。先天的なものが大部分を占めているといわれているからです。ですから、本人に責任はありません。したがって、精神医療やその援助の対象となります。世の中になかなか受け入れられない障害ですが、社会生活の円滑化には、このような方の援助が欠かせません。治療の方法論は、精神医療の分野で歴史的に研究が積み重ねられてきています。
なぜ「集団ストーカー」の被害者が人格障害と似たような症状を示すのかというと、上記のように、ただ社会生活を抑圧されて行動が制限されているだけではありません。他の人との人間関係を円滑に推進させたりする意味において、情緒的に非常に困難を伴う心的機制が形成されてしまっているからです。これらは、単純にイラつくという単純なものばかりでなく、不安、自傷、社会生活からの隠遁、猜疑心の高揚などさまざまです。また、被害者によっては、加害行為の客観性が保てず、加害者が吹き込んだ間違った情報によりパニック状況におかれている方もおられます。これまで述べてきたように、加害行為には強いマインドコントロール性があるからです。これでは、人間関係の構築ができません。まだ自分は加害行為は終わっていませんが、終わっても社会生活に齟齬をきたす症状が残るでしょう。既存の精神疾患や障害とは別の観点で、被害者の心の破綻のメカニズムが研究されなければなりません。そうでなければ、本当の意味での被害者の救済はありえないでしょう。また、これらの治療には時間とお金がかかります。社会コストが膨大にかかるということです。この問題を解決して民主主義を正常化させるということには、そのほかの取り組みも含めて公的に膨大なコストがかかるのです。被害者の方々の負担も馬鹿にはならないでしょう。はっきりいって許せません。加害者に負担してほしいくらいです。
最後に、身体と自己が引き裂かれる統合失調症も、社会的認知と差別の撤廃には長い年月がかかりました。しかし、人口の1%が罹患する、重に遺伝的な疾患としての認知が広まり、患者さんは社会で非常に暮らしやすくなってきました。前回述べた当事者の会であるセルフヘルプグループも、重要な役割を果たしてきました。この「集団ストーカー」問題に関しても、被害者の受けている加害行為に対する正しい知識が広まって、社会の中に受け入れられることを望んでやみません。
統合失調症が精神分裂病(スキゾフレニア)と呼ばれている時代、その認知のためには様々な手段が工夫されました。ルイス・ブニュエルの「エル」という映画がありますが、当時の精神分裂病にかかった人の妄想や幻聴などの症状がうまく映像表現されているものとして、鏡像段階論で有名なフランスのジャック・ラカンが講義に取り入れました。同じく精神医療の認知を進めた映画に、アンジェリーナ・ジョリーさんが助演女優賞を獲得した「17歳のカルテ」があります。この問題でも同じように、テクノロジー被害を疑似体験する仕組みの構築を進めている被害者の方もおられるようです。ただし、加害行為に使われている機器を使用できませんので、非常に困難が伴うものと推察いたします。
今日も、自分は起きた瞬間に外でクラクションがなりました。目が覚めて無防備な瞬間に、他人の意識が自分の意識として感じられる「意識への介入」が始まりました。「意識への介入」によって罵倒を浴びせられたり、生活行為にいちいちでたらめな指示やいちゃもんが送りつけられる毎日です。また、時には針で刺したような痛みを感じる「痛みの送信」もあります。BMI技術が放送されたりなど、そろそろ認知が社会で広まっていくと思いますが、偏見がないように社会で受け入れられてほしいというのが被害者一同の願いです。
【記事に参考図書を追記 2010年10月8日(木)】
筆者の専攻の指導教官の新宮一成氏の一番有名な著書。自己と他者の割合(ラシオー)をフィボナッチの数列や黄金数に求めているあたりがまさに天才である。学生時代に読みふけった著書である。
「この問題への公的機関と専門領域の対処とは」では(1-○)は社会福祉学、(2-○)は精神医療分野です。(3-○)、(4-○)と教育学や社会学など、広範に考える努力をしてみる予定です。とはいってもこれらの分野から離れてかなり時間がかかってますので、何とか勉強しなおして書いていきたいと思います。本当なら心理学の力も必要なんですが、専攻として勉強してないので、論述能力に欠けると思います。ただ、先日述べたダブルバインド(二重拘束)説や、カール・ロジャースの傾聴論など、心理学の分野にまたがる書籍などもちょっとですが勉強してますので、必ず考え方を取り入れたいと思います。
-最終更新日:2010年9月9日(水)-
荷は重いですが、この問題がさまざまな学術分野で考察されなければならないと言った手前、たとえ専門知識が希薄だとしても、示唆を与える部分だけでもアウトプットしなければならないと思います。今回は精神医療の観点から考察してみたいと思います。
精神科医は医師です。さまざまな病気を扱います。代表的なものが統合失調症です。意識と行動が乖離してしまうこともある、現在ではドーパミンの過剰分泌が主要な原因であるとされる病気の一群です。古典的には、破瓜型、妄想型、緊張型という分類がなされます。これらは、一切偏見が行われるべきでない歴然とした病気であり、医療行為による適切な治療が必要です。トーパミン遮断剤だけで驚くほど症状が軽くなるからです。
その次に代表的なものは、うつ病です。昔は大うつ病といって、非常に症状が深刻でした。寝たきり状態になるものまでありました。現在は、トランキライザーの進歩や社会的認知が広まりもあり、症状の軽症化が進んでいます。だからといって罹患する患者数が減っているというわけではなく、全体のうつ病患者は増えているといわれています。自殺との強い因果関係も指摘される時代となりました。また、時代によって症状が異なるのか、現在は抑うつ状態にありながらも外向性が強くなって暴力をふるうケースが増えているなど、症状の多様化が進んでいると言われています。精神医療は命がけの仕事なのです。
しかし、精神疾患には病気とされないものもあります。ボーダーラインと呼ばれる有名な境界性人格障害をはじめとする、人格障害とよばれるものです。(厳密に病気とされないものはアスペルガー症候群などたくさんあります。)
これについては、精神医学に基づいた治療はなかなか効を奏しません。一般には病気とされないからです。「障害」という名前が指し示すように、社会生活を円滑に営むための何かが欠落しているという観点で見られます。例えば、アスペルガー症候群は、情緒的な能力の欠損が著しいものとされます。ただし、知的能力、特に論理的思考に関しては通常の人より高いIQを示すと言われています。
このような病気とされないながらも精神医療の分野で扱われる障害は、完全に「治療」することが難しいとされます。ただし、精神医療の中に組み込まれているということは、この分野で取り組むということです。そのためには、前回の高齢者に対する包括支援センターの取り組みのように、この人格障害においてもさまざまな専門家の支援が提供されなければなりません。一般的には、精神科医をトップとした支援チームが組まれます。精神科医以外では、臨床心理士や看護師、PSW(精神医療ソーシャルワーカー)と呼ばれる人たちです。(資格試験で、「社会福祉士」と「精神保健福祉士」が別々になっていることについて、この分野の方はお詳しいはずです。)
さて、ここでなぜ人格障害をピックアップしたかです。自分の経験から、この問題をかかえるとまさに被害者が人格障害のような様相を示すからです。これは他の被害者の方を冒涜したものではありません。自分が、人格障害になったのと同じような様相を示したということです。例えばアルコールをあびるほど飲む自傷行為に及んだり、相手に対して極度に敵意を向けたり、家族に対して激しい口論を仕掛けたりするようになります。常に拷問のような苦痛を浴びている状態のうえ、加害行為による社会生活の制限によって強い抑圧感情に支配されます。このようなとき、人間は異常なまでにイラついた状態になります。以前、いじめっ子は別次元でいじめを受けているという説を紹介しました。これと同じように、自分のケースでは家族にイラつきの矛先が向けられました。自分の家族は被害を受けていませんが、このような被害を受けている家族の構成員がいなければもっと幸せになっていたでしょう。この数年間、家族に大きな迷惑をかけつづけています。(あくまで私のケースです。他の被害者の方には当てはまらないかもしれません。もしそうでしたら、申し訳ありません。)
人格障害は、社会生活にうまく適合できない意味において人格が欠損しているケースをいいます。これは病気でなく、その人のせいでもありません。先天的なものが大部分を占めているといわれているからです。ですから、本人に責任はありません。したがって、精神医療やその援助の対象となります。世の中になかなか受け入れられない障害ですが、社会生活の円滑化には、このような方の援助が欠かせません。治療の方法論は、精神医療の分野で歴史的に研究が積み重ねられてきています。
なぜ「集団ストーカー」の被害者が人格障害と似たような症状を示すのかというと、上記のように、ただ社会生活を抑圧されて行動が制限されているだけではありません。他の人との人間関係を円滑に推進させたりする意味において、情緒的に非常に困難を伴う心的機制が形成されてしまっているからです。これらは、単純にイラつくという単純なものばかりでなく、不安、自傷、社会生活からの隠遁、猜疑心の高揚などさまざまです。また、被害者によっては、加害行為の客観性が保てず、加害者が吹き込んだ間違った情報によりパニック状況におかれている方もおられます。これまで述べてきたように、加害行為には強いマインドコントロール性があるからです。これでは、人間関係の構築ができません。まだ自分は加害行為は終わっていませんが、終わっても社会生活に齟齬をきたす症状が残るでしょう。既存の精神疾患や障害とは別の観点で、被害者の心の破綻のメカニズムが研究されなければなりません。そうでなければ、本当の意味での被害者の救済はありえないでしょう。また、これらの治療には時間とお金がかかります。社会コストが膨大にかかるということです。この問題を解決して民主主義を正常化させるということには、そのほかの取り組みも含めて公的に膨大なコストがかかるのです。被害者の方々の負担も馬鹿にはならないでしょう。はっきりいって許せません。加害者に負担してほしいくらいです。
最後に、身体と自己が引き裂かれる統合失調症も、社会的認知と差別の撤廃には長い年月がかかりました。しかし、人口の1%が罹患する、重に遺伝的な疾患としての認知が広まり、患者さんは社会で非常に暮らしやすくなってきました。前回述べた当事者の会であるセルフヘルプグループも、重要な役割を果たしてきました。この「集団ストーカー」問題に関しても、被害者の受けている加害行為に対する正しい知識が広まって、社会の中に受け入れられることを望んでやみません。
統合失調症が精神分裂病(スキゾフレニア)と呼ばれている時代、その認知のためには様々な手段が工夫されました。ルイス・ブニュエルの「エル」という映画がありますが、当時の精神分裂病にかかった人の妄想や幻聴などの症状がうまく映像表現されているものとして、鏡像段階論で有名なフランスのジャック・ラカンが講義に取り入れました。同じく精神医療の認知を進めた映画に、アンジェリーナ・ジョリーさんが助演女優賞を獲得した「17歳のカルテ」があります。この問題でも同じように、テクノロジー被害を疑似体験する仕組みの構築を進めている被害者の方もおられるようです。ただし、加害行為に使われている機器を使用できませんので、非常に困難が伴うものと推察いたします。
![]() | エル [DVD] (2009/12/19) アルトゥーロ・デ・コルドヴァ 商品詳細を見る |
![]() | 17歳のカルテ コレクターズ・エディション [DVD] (2007/07/25) ウィノナ・ライダー .アンジェリーナ・ジョリー.ジャレッド・レト 商品詳細を見る |
今日も、自分は起きた瞬間に外でクラクションがなりました。目が覚めて無防備な瞬間に、他人の意識が自分の意識として感じられる「意識への介入」が始まりました。「意識への介入」によって罵倒を浴びせられたり、生活行為にいちいちでたらめな指示やいちゃもんが送りつけられる毎日です。また、時には針で刺したような痛みを感じる「痛みの送信」もあります。BMI技術が放送されたりなど、そろそろ認知が社会で広まっていくと思いますが、偏見がないように社会で受け入れられてほしいというのが被害者一同の願いです。
【記事に参考図書を追記 2010年10月8日(木)】
![]() | ラカンの精神分析 (講談社現代新書) (1995/11/16) 新宮 一成 商品詳細を見る |
筆者の専攻の指導教官の新宮一成氏の一番有名な著書。自己と他者の割合(ラシオー)をフィボナッチの数列や黄金数に求めているあたりがまさに天才である。学生時代に読みふけった著書である。
「この問題への公的機関と専門領域の対処とは」では(1-○)は社会福祉学、(2-○)は精神医療分野です。(3-○)、(4-○)と教育学や社会学など、広範に考える努力をしてみる予定です。とはいってもこれらの分野から離れてかなり時間がかかってますので、何とか勉強しなおして書いていきたいと思います。本当なら心理学の力も必要なんですが、専攻として勉強してないので、論述能力に欠けると思います。ただ、先日述べたダブルバインド(二重拘束)説や、カール・ロジャースの傾聴論など、心理学の分野にまたがる書籍などもちょっとですが勉強してますので、必ず考え方を取り入れたいと思います。
この問題を乗り越えるに当たって「家族」とは何か
~つらくても打ち明けられない社会をどのように克服するか~
-最終更新日:2010年9月7日(火)-
9月7日(火)の読売新聞朝刊の18・19面をご覧ください。自死遺族の特集が組まれています。
前回にも申し上げましたように、年間自殺者数が30,000人を超えて10年以上が経過する日本社会。なぜこのようなおかしな国になってしまったのでしょうか。原因のひとつに、自死遺族へのサポートのなさがあげられます。この観点から、本日の読売新聞は、2面にわたって特集を組んでいます。
もう少し掘り下げてみましょう。このサポートのなさについてです。自殺してしまいかねない人や、自殺してしまった人を抱える家族を、だれがケアすべきかです。ここで、ケアする能力があるものを羅列してみましょう。まず、第一に家族です。社会が何もしてくれないときは、家族が自身でケアをしなければなりません。その次に地域です。周囲の人が心配してあげたり、差し入れをしてあげたり、相談に乗ってあげたり、いろんなことができます。次に公的なセクションです。専門家が相談に乗るのは効果があります。また、公的に自死遺族が話し合う場を提供することもできます。概ね、自死遺族を支えるものはこの3つといえるでしょう。
自死遺族を支えるもの
① 家族
② 地域
③ 公的セクション
ここで、時代によっては②の地域や③の公的セクションが極めて希薄な社会となってしまうことがあります。そうすると、この重い問題を①だけ、つまり家族だけで背負わなければなりません。これは相当に負担が必要なことです。この3つが合わさってようやく重い問題を乗り越えることができるのに、①の家族だけだと重すぎて潰れてしまうのです。
これは、このブログにて取り上げている問題も同じです。一人の人間、ないしはその家族が背負うにはあまりにも重過ぎる問題なのです。人間社会は、リスクを高度に分散することによって成立しています。つまり、支えあいです。そのための民主主義の法制度です。特定の家族や個人に重荷が課せられて潰れる社会は、ローカルに極度なリスクがある社会として、成長を萎縮させてしまうことになりかねません。この問題は、社会の構成員に解決のしようがないという非常に強い恐怖感をもたらしています。また、自殺で救われない社会も同様です。むしろ、この二つの問題は相関しあっているのかもしれません。
昭和の時代には、「家族共同体」「地域共同体」「学校共同体」「企業共同体」というものが、個人が逸脱して落ちぶれたりすることを防ぐ装置として働いていました。この十数年で、これらが機能不全となりました。本日の朝日新聞の13面、オピニオンのコーナーでは渥美清さんの「男はつらいよ」で有名な山田洋二監督が今の社会とりわけ家族についてこのように述べています。
「……寅さんの映画は『家族や地域からはみ出してしまった人間にも愛情を寄せたい』という観客の思いがあったから支持されたわけです。今の若者は、そういう感情自体を理解できなくなっているのかもしれない」
若者がこうであるということは、長い間そのような社会を経験して育ってしまったということです。その結果、逸脱して落ちぶれる人間が放置されることがあたりまえの社会になってしまいました。これは、100歳以上の高齢者が死んでもなお戸籍に残り続けた昨今の問題に重なります。親族ですら身内の状況を把握することを放棄した絆の薄い社会になってしまったのです。NHKはこれを「無縁社会」の特集で強くとりあげています。
私がこのブログで、人間社会のリスク分散に欠かせないさまざまなつながりの制度の復権を求めているのはこのようなことです。持続的な社会の形成のためには「社会システムと個人の中間で機能する人間性の回復のためのさまざまな装置」が不可欠です。つまり、上記の学校、企業、地域、家族において、かつて昭和の時代に温かみをもって存在していたように、人間同士の絆が取り戻されなければならないということです。
「もう、辛い思いをしても誰も気付いてくれない社会はごめんだ。」それは今の日本国民すべての願いではないでしょうか。
(参考)
これまで、私は自殺してしまった人を抱える家族を「自殺遺族」と申し上げました。しかし、本日の読売新聞では、この言葉自体が家族を抑圧しているとして、少しでも穏やかな「自死遺族」という表現を提案しています。「殺」という表現が突き刺さるというのです。自分もこの考えに賛同しますので、以後、このブログでは「自死遺族」という表現を使いたいと思います。また、この読売新聞の記事には、以前とりあげた「NPO法人ライフリンク」の自死遺族500名の聞き取り調査なども記事に含まれています。
【記事に参考図書を追記 2010年10月8日(木)】
アダルトチルドレンの概念を日本に輸入した第一人者である斎藤学氏のもっともメジャーな著書。アダルトチルドレンは幼少時の親のダブルバインド(二重拘束)を起因とする学説で有名である。アメリカでは、クリントン元大統領が幼少期の体験から自らがアダルトチルドレンだと告白されている。相当の勇気が必要だったものと推察される。同じ問題を抱える人からすれば、先駆的な存在なのだろう。敬意を表したいと思います。
-最終更新日:2010年9月7日(火)-
9月7日(火)の読売新聞朝刊の18・19面をご覧ください。自死遺族の特集が組まれています。
前回にも申し上げましたように、年間自殺者数が30,000人を超えて10年以上が経過する日本社会。なぜこのようなおかしな国になってしまったのでしょうか。原因のひとつに、自死遺族へのサポートのなさがあげられます。この観点から、本日の読売新聞は、2面にわたって特集を組んでいます。
もう少し掘り下げてみましょう。このサポートのなさについてです。自殺してしまいかねない人や、自殺してしまった人を抱える家族を、だれがケアすべきかです。ここで、ケアする能力があるものを羅列してみましょう。まず、第一に家族です。社会が何もしてくれないときは、家族が自身でケアをしなければなりません。その次に地域です。周囲の人が心配してあげたり、差し入れをしてあげたり、相談に乗ってあげたり、いろんなことができます。次に公的なセクションです。専門家が相談に乗るのは効果があります。また、公的に自死遺族が話し合う場を提供することもできます。概ね、自死遺族を支えるものはこの3つといえるでしょう。
自死遺族を支えるもの
① 家族
② 地域
③ 公的セクション
ここで、時代によっては②の地域や③の公的セクションが極めて希薄な社会となってしまうことがあります。そうすると、この重い問題を①だけ、つまり家族だけで背負わなければなりません。これは相当に負担が必要なことです。この3つが合わさってようやく重い問題を乗り越えることができるのに、①の家族だけだと重すぎて潰れてしまうのです。
これは、このブログにて取り上げている問題も同じです。一人の人間、ないしはその家族が背負うにはあまりにも重過ぎる問題なのです。人間社会は、リスクを高度に分散することによって成立しています。つまり、支えあいです。そのための民主主義の法制度です。特定の家族や個人に重荷が課せられて潰れる社会は、ローカルに極度なリスクがある社会として、成長を萎縮させてしまうことになりかねません。この問題は、社会の構成員に解決のしようがないという非常に強い恐怖感をもたらしています。また、自殺で救われない社会も同様です。むしろ、この二つの問題は相関しあっているのかもしれません。
昭和の時代には、「家族共同体」「地域共同体」「学校共同体」「企業共同体」というものが、個人が逸脱して落ちぶれたりすることを防ぐ装置として働いていました。この十数年で、これらが機能不全となりました。本日の朝日新聞の13面、オピニオンのコーナーでは渥美清さんの「男はつらいよ」で有名な山田洋二監督が今の社会とりわけ家族についてこのように述べています。
「……寅さんの映画は『家族や地域からはみ出してしまった人間にも愛情を寄せたい』という観客の思いがあったから支持されたわけです。今の若者は、そういう感情自体を理解できなくなっているのかもしれない」
若者がこうであるということは、長い間そのような社会を経験して育ってしまったということです。その結果、逸脱して落ちぶれる人間が放置されることがあたりまえの社会になってしまいました。これは、100歳以上の高齢者が死んでもなお戸籍に残り続けた昨今の問題に重なります。親族ですら身内の状況を把握することを放棄した絆の薄い社会になってしまったのです。NHKはこれを「無縁社会」の特集で強くとりあげています。
私がこのブログで、人間社会のリスク分散に欠かせないさまざまなつながりの制度の復権を求めているのはこのようなことです。持続的な社会の形成のためには「社会システムと個人の中間で機能する人間性の回復のためのさまざまな装置」が不可欠です。つまり、上記の学校、企業、地域、家族において、かつて昭和の時代に温かみをもって存在していたように、人間同士の絆が取り戻されなければならないということです。
「もう、辛い思いをしても誰も気付いてくれない社会はごめんだ。」それは今の日本国民すべての願いではないでしょうか。
(参考)
これまで、私は自殺してしまった人を抱える家族を「自殺遺族」と申し上げました。しかし、本日の読売新聞では、この言葉自体が家族を抑圧しているとして、少しでも穏やかな「自死遺族」という表現を提案しています。「殺」という表現が突き刺さるというのです。自分もこの考えに賛同しますので、以後、このブログでは「自死遺族」という表現を使いたいと思います。また、この読売新聞の記事には、以前とりあげた「NPO法人ライフリンク」の自死遺族500名の聞き取り調査なども記事に含まれています。
【記事に参考図書を追記 2010年10月8日(木)】
![]() | 魂の家族を求めて―私のセルフヘルプ・グループ論 (小学館文庫) (1998/10) 斎藤 学 商品詳細を見る |
アダルトチルドレンの概念を日本に輸入した第一人者である斎藤学氏のもっともメジャーな著書。アダルトチルドレンは幼少時の親のダブルバインド(二重拘束)を起因とする学説で有名である。アメリカでは、クリントン元大統領が幼少期の体験から自らがアダルトチルドレンだと告白されている。相当の勇気が必要だったものと推察される。同じ問題を抱える人からすれば、先駆的な存在なのだろう。敬意を表したいと思います。
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東ドイツの文化と歴史を再評価する
~東ドイツが輩出した名指揮者と近年の東への郷愁という事態から考察する~
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
今回の記事も旧ブログからの修正なしの掲載です。東ドイツの負の側面を取りあげましたが、人間の存在など否定できるわけがありません。それは新たな負のスパイラルを生みます。その観点から、東ドイツの誇る文化などを前記事の延長線上にとりあげたいと思います。
集団ストーカー問題を書籍から考える(2)
このコーナーは、この問題を出版されている書籍から考えようというものでした。しかし、考えているうちに、映画や音楽から考えても面白いと思うようになりました。今回は個人的に好きな下記の指揮者をあげてみたいと思います。
ヘルベルト・ケーゲル(Herbert Kegel, 1920年7月29日 - 1990年11月20日)は、ドイツのオーケストラ・合唱指揮者。
ケーゲルも、テンシュテットも東ドイツの指揮者です。ケーゲルは、1989年10月というベルリンの壁崩壊1ヶ月前にドレスデンフィルハーモニーの指揮者として日本に来日し、NHKのコンサートホールで公演しています。曲目はベートーヴェン・エグモント序曲、交響曲第六番、交響曲第五番、バッハ・アリアです。
この演奏会は、当時はラジオで放送され、演奏会に来た人を含めて、口づてでその噂が広まりました。私もクラシックはよく聞きますが、おおむねネットで買っています。検索でこのCDを調べてみると、評判だったので思わず買ってみました。聞いてみると、「伝説の講演会」というのが分かるくらい、素晴らしい演奏でした。
私はクラシックはそこそこCDを持っていますが、他の名指揮者の演奏と比べてもトップクラスの演奏ではないかと感じています。クラシックは、歴史の大事件が起きたときに、名演奏が行われることが多いと言われています。日本でおなじみのベートーヴェン第九で非常に売れているフルトヴェングラー指揮のバイロイト音楽祭の演奏も伝説的な名演です。
クラウス・テンシュテット(Klaus Tennstedt, 1926年6月6日 - 1998年1月11日)は、ドイツの指揮者。
私は音楽をはじめとする文芸評論は得意ではありません。ただ、いいと思った音楽を聞くだけです。今一番聞く頻度が高いのが、テンシュテットのマーラー交響曲第6番です。
マーラーの交響曲第6番は、同指揮者の最高傑作とわれています。また、「意志を持った人間が世界、運命という動かしがたい障害と闘い、最終的に打ち倒される悲劇を描いた作品」などと呼ばれています。
私はこの曲を自らが置かれた状況を重ね合わせて聞きます。聞く頻度は部分部分ですが1週間に数回ですから、のめり込んでしまっています。この6番は他の指揮者の名演もありますが、私は必ずテンシュテットの演奏を聴きます。マーラーはテンシュテットのライブを聞けば間違いないというくらい、他の交響曲も素晴らしいです。テンシュテットといえば、ロンドンフィルハーモニーでの指揮ですが、楽団との強い信頼関係が結ばれていたと言われ、オーケストラの力を限界以上に発揮していたと言われています。それゆえ、非常に迫力のあるダイナミックなマーラーが多いです。
近年、東ドイツの指揮者の演奏が見直されています。聞いてみるとこんな素晴らしい名演があったのかと驚くくらいの演奏が多いです。皆さんも聞かれてみてはいかがでしょうか。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(補2)
「集団ストーカー」は難しい問題だと思います。というのもこれまで述べてきたように、この問題に関して明確にこれが悪いのだと言えるようなイデオロギーみたいなものがない問題だからです。したがって、先の新自由主義やグローバリズムで補足したように、あることに対して批判したら補足して修正するといった作業が重要になってくるのではないかと思います。
ここで、もう一つ修正したいことができました。東ドイツについて取り上げてきたことです。これを、先ほどは、「集団ストーカー」とよく似た事例として取り上げました。解決には市民の声の突き上げが必要であるとも述べました。ベルリンの壁崩壊は冷戦の中での民主主義の勝利として歴史上に強く残っていますが、ここだけにスポットを当てるのは、逆に誤解を生じさせてしまいかねません。ここでは、「オスタルギー」という現象を取り上げることによって、これまで取り上げてきた東ドイツの事例を修正したいと思います。
「オスタルギー」とは、ドイツ語で「東」を表す”Ost”と、「郷愁」を表す“Nostalgie”の合成語です。ひとことで説明したら、東ドイツが存在した時代や当時の事物への郷愁のことです。
これを表す一つの象徴的な出来事は2009年9月27日のドイツ総選挙です。ドイツは伝統的な二大政党制の国です。この2009年ドイツ総選挙の結果は、二大政党以外の政党の躍進という結果に終わりました。このとき、第四政党である「左派党」“Die Linke”が議席数を54から76に伸ばしました。この「左翼党」はWASG(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)と左翼党-民主社会党”Die Linkspartei.PDS)が2007年に合併したものです。このうち、左翼党-民主社会党は旧東ドイツの政権与党です。この政党が日本でまさに政権交代が行われた直後のドイツの選挙で躍進したのです。
これは、なぜでしょうか。
ドイツは、2005年に行われた総選挙以降、日本と同じように「新自由主義政策」を推し進めてきました。ドイツにおいても、例外なくグローバリズムの波に飲み込まれ、アメリカや日本と同じような市場原理主義の道を選択しました。しかし、これは、「雇用」「年金」「医療」「福祉」などの分野を大きく衰退させることになりました。日本とまったく同じです。これに対して強い怒りを国民が感じた結果が2009年総選挙の結果でした。
これについて、私も日本のニュースで、若者層が「左派党」を支持していることや、東ドイツの地域で貧困層のための低価格の賞味期限切れに近い食料品分配サービスが支持を得ているといったことが報道されていたのを記憶しています。
このように、行き過ぎた市場原理主義が国家の社会的な基盤を疲弊させ、これらの復活を国民が希望するといった流れは世界的なものでした。これは、(補1)において指摘したように、民主主義の衰退という事態をはらむものでした。そして、そのような衰退した民主主義の中で、世界的に「集団ストーカー」が蔓延した。これが、私が現在世界で蔓延している「集団ストーカー」にイデオロギーは関係ないと述べた理由です。「集団ストーカー」を「民主主義の勝利」というパラダイムを内包する東ドイツの事例でとりあげたことが、部分的に間違っていたことになります。これが、修正を必要とする点でした。
最後に付言します。「書籍で考える(2)」において書きましたが、私はクラシックが大好きです。芸術作品に国境やイデオロギーの壁はありません。いいものはいいものです。例えば、テンシュテットのマーラーが強烈な力強さを持っているのが自分は大好きです。テンシュテットのマーラー6番第4楽章を聞いた後に、同指揮者のマーラー第2番5楽章を聞くのが私の癖です。「悲劇的」から「復活」するからです。私が「集団ストーカー」を乗り越えるのに、この音楽は間違いなく強い勇気を与えてくれたと思っています。(車の中で大音量で聴くのが癖です。)
ここからは過去の記事ではありません。2010年9月8日(水)に追記するものです。
上のケーゲルのエグモント序曲は、自分が聴いた同曲の中でずば抜けて一番です。他のどの演奏家よりも上だと感じています。たった10分程度の曲ですが、これだけのために買う価値があるくらいだと思っています。「苛烈」という表現しかできません。
また、マーラー6番「悲劇的」第4楽章には、「ハンマー」という打楽器が使用されます。これは「運命の打撃」と呼ばれています。その名の通り、とてつもない大きな音がします。指揮者の解釈によって、どれだけ強く打撃するか違うようです。
なぜ「運命の打撃」かというと、マーラーの生涯で重要な局面を表現しているからだといわれています。その打撃の回数は、通常2回ですが、奥さんの恣意的な判断によって後世に変えられたりしているようです。初めて聴かれた方は「ドカン」という音がいきなりするので、驚かれると思います。自分はまだ4種類くらいしか聞いていませんが、2004年ベルリンフィル演奏によるアバドの打撃が自分が聞いた中で一番大きいです。
クラシックは、祭典の際に大砲(もちろん空砲ですが)を撃ったり、何百人で演奏したりするものもあります。壮大という意味においては、歴史的にかなうことがない芸術かもしれません。
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
今回の記事も旧ブログからの修正なしの掲載です。東ドイツの負の側面を取りあげましたが、人間の存在など否定できるわけがありません。それは新たな負のスパイラルを生みます。その観点から、東ドイツの誇る文化などを前記事の延長線上にとりあげたいと思います。
集団ストーカー問題を書籍から考える(2)
このコーナーは、この問題を出版されている書籍から考えようというものでした。しかし、考えているうちに、映画や音楽から考えても面白いと思うようになりました。今回は個人的に好きな下記の指揮者をあげてみたいと思います。
ヘルベルト・ケーゲル(Herbert Kegel, 1920年7月29日 - 1990年11月20日)は、ドイツのオーケストラ・合唱指揮者。
ケーゲルも、テンシュテットも東ドイツの指揮者です。ケーゲルは、1989年10月というベルリンの壁崩壊1ヶ月前にドレスデンフィルハーモニーの指揮者として日本に来日し、NHKのコンサートホールで公演しています。曲目はベートーヴェン・エグモント序曲、交響曲第六番、交響曲第五番、バッハ・アリアです。
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この演奏会は、当時はラジオで放送され、演奏会に来た人を含めて、口づてでその噂が広まりました。私もクラシックはよく聞きますが、おおむねネットで買っています。検索でこのCDを調べてみると、評判だったので思わず買ってみました。聞いてみると、「伝説の講演会」というのが分かるくらい、素晴らしい演奏でした。
私はクラシックはそこそこCDを持っていますが、他の名指揮者の演奏と比べてもトップクラスの演奏ではないかと感じています。クラシックは、歴史の大事件が起きたときに、名演奏が行われることが多いと言われています。日本でおなじみのベートーヴェン第九で非常に売れているフルトヴェングラー指揮のバイロイト音楽祭の演奏も伝説的な名演です。
クラウス・テンシュテット(Klaus Tennstedt, 1926年6月6日 - 1998年1月11日)は、ドイツの指揮者。
私は音楽をはじめとする文芸評論は得意ではありません。ただ、いいと思った音楽を聞くだけです。今一番聞く頻度が高いのが、テンシュテットのマーラー交響曲第6番です。
マーラーの交響曲第6番は、同指揮者の最高傑作とわれています。また、「意志を持った人間が世界、運命という動かしがたい障害と闘い、最終的に打ち倒される悲劇を描いた作品」などと呼ばれています。
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私はこの曲を自らが置かれた状況を重ね合わせて聞きます。聞く頻度は部分部分ですが1週間に数回ですから、のめり込んでしまっています。この6番は他の指揮者の名演もありますが、私は必ずテンシュテットの演奏を聴きます。マーラーはテンシュテットのライブを聞けば間違いないというくらい、他の交響曲も素晴らしいです。テンシュテットといえば、ロンドンフィルハーモニーでの指揮ですが、楽団との強い信頼関係が結ばれていたと言われ、オーケストラの力を限界以上に発揮していたと言われています。それゆえ、非常に迫力のあるダイナミックなマーラーが多いです。
近年、東ドイツの指揮者の演奏が見直されています。聞いてみるとこんな素晴らしい名演があったのかと驚くくらいの演奏が多いです。皆さんも聞かれてみてはいかがでしょうか。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(補2)
「集団ストーカー」は難しい問題だと思います。というのもこれまで述べてきたように、この問題に関して明確にこれが悪いのだと言えるようなイデオロギーみたいなものがない問題だからです。したがって、先の新自由主義やグローバリズムで補足したように、あることに対して批判したら補足して修正するといった作業が重要になってくるのではないかと思います。
ここで、もう一つ修正したいことができました。東ドイツについて取り上げてきたことです。これを、先ほどは、「集団ストーカー」とよく似た事例として取り上げました。解決には市民の声の突き上げが必要であるとも述べました。ベルリンの壁崩壊は冷戦の中での民主主義の勝利として歴史上に強く残っていますが、ここだけにスポットを当てるのは、逆に誤解を生じさせてしまいかねません。ここでは、「オスタルギー」という現象を取り上げることによって、これまで取り上げてきた東ドイツの事例を修正したいと思います。
「オスタルギー」とは、ドイツ語で「東」を表す”Ost”と、「郷愁」を表す“Nostalgie”の合成語です。ひとことで説明したら、東ドイツが存在した時代や当時の事物への郷愁のことです。
これを表す一つの象徴的な出来事は2009年9月27日のドイツ総選挙です。ドイツは伝統的な二大政党制の国です。この2009年ドイツ総選挙の結果は、二大政党以外の政党の躍進という結果に終わりました。このとき、第四政党である「左派党」“Die Linke”が議席数を54から76に伸ばしました。この「左翼党」はWASG(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)と左翼党-民主社会党”Die Linkspartei.PDS)が2007年に合併したものです。このうち、左翼党-民主社会党は旧東ドイツの政権与党です。この政党が日本でまさに政権交代が行われた直後のドイツの選挙で躍進したのです。
これは、なぜでしょうか。
ドイツは、2005年に行われた総選挙以降、日本と同じように「新自由主義政策」を推し進めてきました。ドイツにおいても、例外なくグローバリズムの波に飲み込まれ、アメリカや日本と同じような市場原理主義の道を選択しました。しかし、これは、「雇用」「年金」「医療」「福祉」などの分野を大きく衰退させることになりました。日本とまったく同じです。これに対して強い怒りを国民が感じた結果が2009年総選挙の結果でした。
これについて、私も日本のニュースで、若者層が「左派党」を支持していることや、東ドイツの地域で貧困層のための低価格の賞味期限切れに近い食料品分配サービスが支持を得ているといったことが報道されていたのを記憶しています。
このように、行き過ぎた市場原理主義が国家の社会的な基盤を疲弊させ、これらの復活を国民が希望するといった流れは世界的なものでした。これは、(補1)において指摘したように、民主主義の衰退という事態をはらむものでした。そして、そのような衰退した民主主義の中で、世界的に「集団ストーカー」が蔓延した。これが、私が現在世界で蔓延している「集団ストーカー」にイデオロギーは関係ないと述べた理由です。「集団ストーカー」を「民主主義の勝利」というパラダイムを内包する東ドイツの事例でとりあげたことが、部分的に間違っていたことになります。これが、修正を必要とする点でした。
最後に付言します。「書籍で考える(2)」において書きましたが、私はクラシックが大好きです。芸術作品に国境やイデオロギーの壁はありません。いいものはいいものです。例えば、テンシュテットのマーラーが強烈な力強さを持っているのが自分は大好きです。テンシュテットのマーラー6番第4楽章を聞いた後に、同指揮者のマーラー第2番5楽章を聞くのが私の癖です。「悲劇的」から「復活」するからです。私が「集団ストーカー」を乗り越えるのに、この音楽は間違いなく強い勇気を与えてくれたと思っています。(車の中で大音量で聴くのが癖です。)
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ここからは過去の記事ではありません。2010年9月8日(水)に追記するものです。
上のケーゲルのエグモント序曲は、自分が聴いた同曲の中でずば抜けて一番です。他のどの演奏家よりも上だと感じています。たった10分程度の曲ですが、これだけのために買う価値があるくらいだと思っています。「苛烈」という表現しかできません。
また、マーラー6番「悲劇的」第4楽章には、「ハンマー」という打楽器が使用されます。これは「運命の打撃」と呼ばれています。その名の通り、とてつもない大きな音がします。指揮者の解釈によって、どれだけ強く打撃するか違うようです。
なぜ「運命の打撃」かというと、マーラーの生涯で重要な局面を表現しているからだといわれています。その打撃の回数は、通常2回ですが、奥さんの恣意的な判断によって後世に変えられたりしているようです。初めて聴かれた方は「ドカン」という音がいきなりするので、驚かれると思います。自分はまだ4種類くらいしか聞いていませんが、2004年ベルリンフィル演奏によるアバドの打撃が自分が聞いた中で一番大きいです。
クラシックは、祭典の際に大砲(もちろん空砲ですが)を撃ったり、何百人で演奏したりするものもあります。壮大という意味においては、歴史的にかなうことがない芸術かもしれません。
歴史上に発生した忌むべき事例から考察する
~旧ブログでの「シュタージ問題」からの考察を再掲載~
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
これから掲載する記事は「集団ストーカー問題を克服する」の旧ブログ(http://bubblering111.blog69.fc2.com/)において取りあげた3つの記事です。旧東ドイツに存在した秘密警察であるシュタージの問題から「集団ストーカー問題」を考察しようという内容でした。お分かりのように、以前のブログは加害者による圧力で閉鎖せざるを得ませんでした。何とか復活しても、この記事を掲載することにはためらいを覚えました。しかし、一度アウトプットしたものを引っ込めてしまっては、加害者の思う壺です。自由な言論には勇気が必要です。最後のほうでも述べていますが、民主主義は誰かに勝手に守ってもらうのではなく、勇気を持った市民が不断の努力で守らなければいい状態を維持できません。このことを伝えたくて、原文そのまま、誤字があったとしてもそのまま掲載します。ブログとしては極めて長文の記事ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(1)
そもそも、人間が人間を監視するということは珍しいことではありません。例えば、企業で働いているときに、企業は従業員の生産活動について、企業の利益に反しない範囲で通常に業務を見守ります。また、街中で子どもが犯罪にあわないよう、通常の社会では子どもを当然のように見守ります。これらの見守りも言い方を変えれば監視といえないこともありません。ただし、そのような見守りに利用されるインフラや技術が非常に発達した社会であるとは言えます。ただし、誰しも強く監視されるのが好きだという人はいません。
しかし、人間の歴史では人間の尊厳を奪ってまで監視・弾圧するといったことは珍しいことではありません。例えば専制政治のような国家においてこのようなことが起きるのは疑いのないことだと思います。
例えば、戦時中の日本もそうでした。また、東ドイツ共和国ではベルリンの壁崩壊と共に、圧制の象徴であったシュタージという秘密警察問題が表面化しました。ドイツは民主主義国家となって以降、重点的にこのような問題に取り組みました。
この東ドイツでは、監視する者と監視される者、弾圧する者と弾圧される者、ベルリンの壁崩壊後に深刻な国民対立が生じました。このような問題は、事態発覚後にまさにその国に住む人を分断してしまうような結果をもたらします。被害者へのルポタージュは、国に大きな爪あとを残すこと、他の同様のことを行っている国についても体制崩壊後に深刻な対立が表面化することを示唆しています。注1)
通常、このようなことは民主主義社会においてはありえないというのが、民主主義国家に住む市民の一般的な通念です。それは一種の信仰のようなものに支えられています。
しかし、私のような集団ストーカーの被害者は、この民主主義社会に対する信頼を根底的に打ち壊されます。この被害が開始されたとたん、すべての自由が奪われます。社会生活上すべての行動に重い制約と苦痛が課せられます。死にたいと思ったことはどの被害者も一度や二度ではないでしょう。
私のケースでは、乗り越える秘訣は、「諦める」ことでした。例えばこの社会で暮らしている街中の元気に遊んでいる子供、ニュースに出てくる社会で活躍している若者、出世した旧友、彼らにはすべて民主主義の原則が適用されています。それを、この被害を受けている中で自分にも求めたら、強い葛藤が生じ、涙が出て、耐えられません。そのときは、「ああ、自分には民主主義の原則が適用されないのか」と思って死んだように生きれば苦痛が緩和されるのです。
上記の東ドイツのシュタージのルポタージュにはこのように書かれています。
「東ドイツの論理」を受け入れるのも、それを無視するのも等しく正常な精神を保つための条件の一つだった。「こうしたことを西側の人たちが考えるみたいに真剣にとらえてたら、わたしたちはみんな自殺してるわよ、きっと!」」・・・・・「気が変になっちゃうっていう意味よ。いつもそんなことばかり考えていたら。」(同著p.134)
当時の東ドイツの国民は、当時のいわゆる西側諸国のように自由に振舞えることを想像したら耐えられない。したがって、監視社会を受け入れて諦めたように暮らしていたことが想像できます。
集団ストーカー被害者も同じ状況に置かれます。私たちは民主主義社会で生まれてそれを信じて疑わずに生きてきました。しかし、この被害を受けると、自由に生きるという尊厳を根底から覆されてしまうのです。
東ドイツではこのような監視体制が厳しく敷かれた結果、国民は自分の意見や感情を外部に出さないようになりました。自由な表現をすることができないという事実は、人間を社会に対する前向きな姿勢から逃避傾向にさせます。当時、これは「内面への逃避」と呼ばれました。東ドイツでのお酒の消費量は一般的な西側諸国の2倍でした。実を言うと、私も毎日お酒をあびるほど飲んでいました。まったく終わりのない不自由と、結婚も就職もできない、その見込みもない精神的苦痛でしたでしたから。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(3)
では、このような問題をどのようにして解決すればいいのでしょうか。それは今この日本で一番必要な、「市民が声をあげる」ということだと思います。この問題は、市民の声が政治に反映させるべき社会である民主主義社会で起きた、民主主義社会ではあってはならないことです。たとえ、このような問題が発生したとしても、政治は解決する責任があります。それが行われてこなかった。これは民主主義の衰退だけでなく、腐敗といえます。
このようなことは、残念ながら為政者に対するお任せの政治では解決できません。名もないネットの書き込みですが、このような核心を突いた言葉を目にしたことがあります。
「民主主義はひとりでに維持されるものではない。放っておいたら腐敗する。民主主義を守るためには、市民の不断の努力が必要である。」
先の東ドイツのシュタージ問題も、歴史をさかのぼればフランス革命も、解決したのは圧政に苦しむ庶民でした。海外では命がけで庶民が民主主義を勝ち取ったことに対して、日本ではそのような歴史がありません。少なくともこの問題は、国民や被害者が下から声を突き上げて実態解明を突きつける必要があるのではないかと感じます。
ここで、再度東ドイツのケースを例にあげてみます。(注1 東ドイツではベルリン崩壊のときに、国家機関であるシュタージのビルに大挙して市民が殺到しました。ベルリンの壁の崩壊と同時にシュタージの職員が国民の情報を集めた膨大なシュタージファイルを抹消し始めたからです。市民は、圧政の象徴であり、そして証拠であるシュタージファイルが歴史から消されることに強い危機を感じて押し寄せたのです。幸いなことに、シュタージは膨大すぎるファイルをシュレッダーで削除しましたが、ほぼ同じ袋に同じファイルの裁断された紙切れが入れられました。これは東西ドイツが統合して以降、国家プロジェクトとして、現在でも復元されています。
ドイツでは、今でもシュタージの被害者は、自分に関して集められた情報をいつでも閲覧することができます。集められた情報や加担した人間の情報の公開は、あまりにも生なましい現実を国民に突きつけて新しいドイツ社会をパニックに陥れました。しかし、民主主義を構築するためには必要不可欠なプロセスだったといえるでしょう。これは間違いなく市民の力によるものです。
しかし、問題の解決には時間がかかるものです。この項で最初にも述べましたように、このような問題は、実態把握後国内の加害者と被害者を分断する事態になりかねません。ルポタージュではベルリンの壁崩壊後何年経っても被害者が加害者に対して解消されない葛藤の感情に苛まれている有様が記されていますし、現在までの当時のシュタージ被害の訴訟が行われてるといわれています。
私のケースですと、これまでの文章、私はかなり冷静に書きました。しかし、被害を受けているときにはそのようにいきません。なぜなら、加害-被害関係には、極めて加害者側の感情的な優越感と被害者側の劣等感・屈辱感が存在するからです。被害者はこれを非常に長期間行われるわけで、加害者に対して強い葛藤と相容れなさを感じるようになり、それは年を追うごとに積み重なっていきます。
これは後に国としてこのような問題をどのように乗り越えるかということにも深くかかわってきますが、この感情的な問題を乗り越えるのが一番難点であると考えます。被害者によっては、取り返しのつかないダメージを受けられた方も多くおられると思います。そういったものはそう簡単に解決できるものではありません。解決は長く地道に行っていかなければならないことであると感じています。また、国がこのようなことで長い間分断されてしまうことも避けなければなりません。
負のスパイラルは、国益という観点だけでなく、その国に住むすべての人々の感情に大きなマイナスの影響を及ぼします。民主主義としてこの問題を乗り越えるということは、このようなことだと思っています。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
集団ストーカー問題を書籍から考える(1-1)
今回取り上げる書籍
「監視国家 東ドイツシュタージ(秘密警察)に引き裂かれた絆」 アナ・ファンダー 伊達淳訳 船橋洋一解説 松岳社 2005
普通にこの民主主義国家に住まれている方からすれば、これがどのような被害なのか、良く分からない部分もあるかと思います。「集団ストーカー」問題は実態解明がまだ行われておらず、確定的なことは申し上げられません。しかし、少なくともこれまで述べてきたように東ドイツでは同じようなことをその国の国民が経験してきました。ここでは、このルポタージュに記載されているシュタージ被害者の生の声を掲載したいと思います。
(下記の斜線は、同著p118-158から引用) ⇒新しいこのブログでは、 「明朝体」の部分です。
ユリアは16歳のとき、休暇を利用してライプチヒ見本市の案内役としてアルバイトをしていた。…彼女がイタリア人ボーイフレンドと出会ったのはそのときのことだった。
ここで取りあげるのは、ルポタージュに掲載されているユリアという方の経験です。彼女は1966年生まれで、23歳のときにベルリンの壁崩壊を経験したことになります。ここでは、本に沿って彼女の体験を追っていきたいと思います。
ユリアは、このイタリア人ボーイフレンドと街中でデートしているときは必ず監視下に置かれていました。身元の確認や検問所での確認が意図的に彼女に絶えず行われていました。イタリア人ボーイフレンドは恐怖で震えていましが、ユリアはそういった国の状態を受け入れていたようでした。
「わたしはこうした監視も現実として受け止めて暮らしてたわけだし、好きではなかったけど、ここは独裁国家なんだ、だからこういうもんなんだって思うようにしていたわ。東ドイツの論理に基づいた単純なことだって分かってたもの。…」
この、イタリア人ボーイフレンドとの付き合いが、その後の彼女の人生を大きく狂わせることになります。
ユリアは中等学校で学年トップの成績を収め、言語教育で有名な高等学校に進学することを希望していた。だけど当局は、決してその理由を明らかにしないままに、彼女を有名でもなんでもない遠くの寄宿学校に追いやった。
1985年、ユリアはオールAという成績で大学に入学した。彼女はライプチィヒに行き、大学の翻訳・通訳コースへの入試試験を受ける。結果は不合格だった。
このように、彼女はどちらかと言えば優秀な成績を修めていましたが、希望の進路に進めないといったことが続きます。この後、ユリアの父親はこのように言われます。
「ユリアさんの場合は来年もう一度受験しても同じことなんです。娘さんに他のことをするよう、どうぞよろしくお伝えください。職に就くんです。」
ユリアはこのように言われて、就職活動をしました。あらゆる職種にチャレンジしましたが、どの職業に就くこともできませんでした。
「それ以降、職にも就けなくなってたの。どんな仕事でもダメだった……」彼女は首に巻いたスカーフに手を当てる。「その頃からなのよ」
彼女は、どの会社も従業員を雇うときにシュタージに履歴書を見せなければならないからではないかと考えました。その後、彼女は職業安定所に足を運びます。そこでも、おかしなことに「お嬢さん、あなたは失業しているわけじゃないんです。わが国に失業者はいないんです!」と言われるだけでした。彼女は次第に言いようのない抑圧と失望に次第にあらゆることを諦めるような気持ちになっていきます。
ユリアは自らの状況を、何に挑戦しても失敗したのだと捉えることもできたし、連中のターゲットになってしまったと捉えることもできた。あるいは、全くなんとも考えないでいることもできた。「その頃から、私は何からも身を引くようになってしまったって言っていいのかも。」だんだんベッドから出る時間が遅くなっていった。「気が滅入っていたんだと思う。」
彼女はあきらめず夜間学校に登録しますが…
授業が終わると、「毎晩のように」地元のパブに顔を出した。「両親も見て見ぬフリをしてくれてたみたい。他にどうしようもなかっただろうし、私を哀れんでいたんだと思う。」
彼女は、最後の希望を振り絞ってイタリア人ボーイフレンドと駆け落ちしようとします。しかし…
休暇を利用して彼とハンガリーで落ち合うことになっていた。空港では別室に連れて行かれ、荷物を検査された。ヘアドライヤーを分解してまで調べられ… ハンガリーで、すべてが終わったのだと彼に告げた。「彼にしてみれば寝耳に水だったはずだし、不満そうだったわ。」そしてユリアはすべてから身を引き、自宅に引きこもり、希望を捨てた。「内面への逃避」なんていうものではない。流浪だ。
その後、彼女にとどめを刺すような出来事が発生します。当局から1枚のはがきが届き、行ってみると、国家保安省のN少佐からこのように言われます。
「ベーレントさん(ユリア)。」N少佐が切り出した。「あなたのように若くて魅力的で知的な方です、どうしてなのか、ご説明いただけますね。どうして働いていらっしゃらないんですか?」笑っている。
そういうことか。この瞬間まで、すべては自分の想像にすぎないと思おうと勤めてきた。寄宿学校も、校長の訪問も、町を歩いているだけで常に尾行されることも、試験の不合格も、「友人たち」の警告も、…そしてあり得ないくらい雇ってくれないことも。
ショックだった。ゆっくりと口を開いた。
「わたしがどうして働いていないか、それはあなたの方がよくご存知なんじゃないんですか?」
男の声は優しかった。笑顔も絶やさない。「どうしてわたしが知っているのですか?ベーレントさん。」
彼女は自制心を失った。……
このように、「ユリア」は海外に行った際にできたイタリア人ボーイフレンドとの付き合いによって、厳しい監視下に置かれることになりました。それだけでなく、人生のあらゆる局面で、シュタージの意図的な介入によって人生を狂わされました。例えば、彼女は20代前半でお酒におぼれることになり、家族はそれを彼女の気持ちを斟酌するかのように黙って見過ごしました。これは彼女が、若くして人生を無茶苦茶にされて、言いようのない葛藤に苛まれていたことを示すものだと思います。
また、被害者の方が読まれたら分かると思いますが、「集団ストーカー」の被害者の状況と共通点が多くあることがお分かりいただけると思います。「集団ストーカー」の被害も、一種の人生のぶち壊しです。被害の過程で様々な可能性や希望を失い、解消されない葛藤のなかで生きざるを得なくなります。
なお、私の経験は述べないといいましたが、ここで一つだけ言いたいと思います。私もこの被害を受けているこの数年間、家から出る機会が極めて減少して、それこそ毎日浴びるほどお酒を飲んでいました。最初は心配した両親が何とか止めようとしましたが、それも次第になくなりました。
私はこの本をもとに、集団ストーカーの被害について父と話し合いました。父はこのように言いました。「たとえどのような世の中であっても、希望をもってたくましく生きるしかない。自分にはそれしか言ってあげられない。」状況が分かるにしたがって、家族は次第にわたしが引きこもったり、お酒におぼれることに対して寛容になっていきました。これが私の置かれた実態でした。
(この書籍には、「集団ストーカー」問題を乗り越えるのに、様々な共通点と示唆が得られます。時期があったら、他の様々な部分も取りあげたいと思います。)
記事の改定はしないと申し上げましたので、ここに書籍の広告を追加します。ぜひご覧になって頂ければ幸いです。(2010年10月6日)
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
これから掲載する記事は「集団ストーカー問題を克服する」の旧ブログ(http://bubblering111.blog69.fc2.com/)において取りあげた3つの記事です。旧東ドイツに存在した秘密警察であるシュタージの問題から「集団ストーカー問題」を考察しようという内容でした。お分かりのように、以前のブログは加害者による圧力で閉鎖せざるを得ませんでした。何とか復活しても、この記事を掲載することにはためらいを覚えました。しかし、一度アウトプットしたものを引っ込めてしまっては、加害者の思う壺です。自由な言論には勇気が必要です。最後のほうでも述べていますが、民主主義は誰かに勝手に守ってもらうのではなく、勇気を持った市民が不断の努力で守らなければいい状態を維持できません。このことを伝えたくて、原文そのまま、誤字があったとしてもそのまま掲載します。ブログとしては極めて長文の記事ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(1)
そもそも、人間が人間を監視するということは珍しいことではありません。例えば、企業で働いているときに、企業は従業員の生産活動について、企業の利益に反しない範囲で通常に業務を見守ります。また、街中で子どもが犯罪にあわないよう、通常の社会では子どもを当然のように見守ります。これらの見守りも言い方を変えれば監視といえないこともありません。ただし、そのような見守りに利用されるインフラや技術が非常に発達した社会であるとは言えます。ただし、誰しも強く監視されるのが好きだという人はいません。
しかし、人間の歴史では人間の尊厳を奪ってまで監視・弾圧するといったことは珍しいことではありません。例えば専制政治のような国家においてこのようなことが起きるのは疑いのないことだと思います。
例えば、戦時中の日本もそうでした。また、東ドイツ共和国ではベルリンの壁崩壊と共に、圧制の象徴であったシュタージという秘密警察問題が表面化しました。ドイツは民主主義国家となって以降、重点的にこのような問題に取り組みました。
この東ドイツでは、監視する者と監視される者、弾圧する者と弾圧される者、ベルリンの壁崩壊後に深刻な国民対立が生じました。このような問題は、事態発覚後にまさにその国に住む人を分断してしまうような結果をもたらします。被害者へのルポタージュは、国に大きな爪あとを残すこと、他の同様のことを行っている国についても体制崩壊後に深刻な対立が表面化することを示唆しています。注1)
通常、このようなことは民主主義社会においてはありえないというのが、民主主義国家に住む市民の一般的な通念です。それは一種の信仰のようなものに支えられています。
しかし、私のような集団ストーカーの被害者は、この民主主義社会に対する信頼を根底的に打ち壊されます。この被害が開始されたとたん、すべての自由が奪われます。社会生活上すべての行動に重い制約と苦痛が課せられます。死にたいと思ったことはどの被害者も一度や二度ではないでしょう。
私のケースでは、乗り越える秘訣は、「諦める」ことでした。例えばこの社会で暮らしている街中の元気に遊んでいる子供、ニュースに出てくる社会で活躍している若者、出世した旧友、彼らにはすべて民主主義の原則が適用されています。それを、この被害を受けている中で自分にも求めたら、強い葛藤が生じ、涙が出て、耐えられません。そのときは、「ああ、自分には民主主義の原則が適用されないのか」と思って死んだように生きれば苦痛が緩和されるのです。
上記の東ドイツのシュタージのルポタージュにはこのように書かれています。
「東ドイツの論理」を受け入れるのも、それを無視するのも等しく正常な精神を保つための条件の一つだった。「こうしたことを西側の人たちが考えるみたいに真剣にとらえてたら、わたしたちはみんな自殺してるわよ、きっと!」」・・・・・「気が変になっちゃうっていう意味よ。いつもそんなことばかり考えていたら。」(同著p.134)
当時の東ドイツの国民は、当時のいわゆる西側諸国のように自由に振舞えることを想像したら耐えられない。したがって、監視社会を受け入れて諦めたように暮らしていたことが想像できます。
集団ストーカー被害者も同じ状況に置かれます。私たちは民主主義社会で生まれてそれを信じて疑わずに生きてきました。しかし、この被害を受けると、自由に生きるという尊厳を根底から覆されてしまうのです。
東ドイツではこのような監視体制が厳しく敷かれた結果、国民は自分の意見や感情を外部に出さないようになりました。自由な表現をすることができないという事実は、人間を社会に対する前向きな姿勢から逃避傾向にさせます。当時、これは「内面への逃避」と呼ばれました。東ドイツでのお酒の消費量は一般的な西側諸国の2倍でした。実を言うと、私も毎日お酒をあびるほど飲んでいました。まったく終わりのない不自由と、結婚も就職もできない、その見込みもない精神的苦痛でしたでしたから。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(3)
では、このような問題をどのようにして解決すればいいのでしょうか。それは今この日本で一番必要な、「市民が声をあげる」ということだと思います。この問題は、市民の声が政治に反映させるべき社会である民主主義社会で起きた、民主主義社会ではあってはならないことです。たとえ、このような問題が発生したとしても、政治は解決する責任があります。それが行われてこなかった。これは民主主義の衰退だけでなく、腐敗といえます。
このようなことは、残念ながら為政者に対するお任せの政治では解決できません。名もないネットの書き込みですが、このような核心を突いた言葉を目にしたことがあります。
「民主主義はひとりでに維持されるものではない。放っておいたら腐敗する。民主主義を守るためには、市民の不断の努力が必要である。」
先の東ドイツのシュタージ問題も、歴史をさかのぼればフランス革命も、解決したのは圧政に苦しむ庶民でした。海外では命がけで庶民が民主主義を勝ち取ったことに対して、日本ではそのような歴史がありません。少なくともこの問題は、国民や被害者が下から声を突き上げて実態解明を突きつける必要があるのではないかと感じます。
ここで、再度東ドイツのケースを例にあげてみます。(注1 東ドイツではベルリン崩壊のときに、国家機関であるシュタージのビルに大挙して市民が殺到しました。ベルリンの壁の崩壊と同時にシュタージの職員が国民の情報を集めた膨大なシュタージファイルを抹消し始めたからです。市民は、圧政の象徴であり、そして証拠であるシュタージファイルが歴史から消されることに強い危機を感じて押し寄せたのです。幸いなことに、シュタージは膨大すぎるファイルをシュレッダーで削除しましたが、ほぼ同じ袋に同じファイルの裁断された紙切れが入れられました。これは東西ドイツが統合して以降、国家プロジェクトとして、現在でも復元されています。
ドイツでは、今でもシュタージの被害者は、自分に関して集められた情報をいつでも閲覧することができます。集められた情報や加担した人間の情報の公開は、あまりにも生なましい現実を国民に突きつけて新しいドイツ社会をパニックに陥れました。しかし、民主主義を構築するためには必要不可欠なプロセスだったといえるでしょう。これは間違いなく市民の力によるものです。
しかし、問題の解決には時間がかかるものです。この項で最初にも述べましたように、このような問題は、実態把握後国内の加害者と被害者を分断する事態になりかねません。ルポタージュではベルリンの壁崩壊後何年経っても被害者が加害者に対して解消されない葛藤の感情に苛まれている有様が記されていますし、現在までの当時のシュタージ被害の訴訟が行われてるといわれています。
私のケースですと、これまでの文章、私はかなり冷静に書きました。しかし、被害を受けているときにはそのようにいきません。なぜなら、加害-被害関係には、極めて加害者側の感情的な優越感と被害者側の劣等感・屈辱感が存在するからです。被害者はこれを非常に長期間行われるわけで、加害者に対して強い葛藤と相容れなさを感じるようになり、それは年を追うごとに積み重なっていきます。
これは後に国としてこのような問題をどのように乗り越えるかということにも深くかかわってきますが、この感情的な問題を乗り越えるのが一番難点であると考えます。被害者によっては、取り返しのつかないダメージを受けられた方も多くおられると思います。そういったものはそう簡単に解決できるものではありません。解決は長く地道に行っていかなければならないことであると感じています。また、国がこのようなことで長い間分断されてしまうことも避けなければなりません。
負のスパイラルは、国益という観点だけでなく、その国に住むすべての人々の感情に大きなマイナスの影響を及ぼします。民主主義としてこの問題を乗り越えるということは、このようなことだと思っています。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
集団ストーカー問題を書籍から考える(1-1)
今回取り上げる書籍
「監視国家 東ドイツシュタージ(秘密警察)に引き裂かれた絆」 アナ・ファンダー 伊達淳訳 船橋洋一解説 松岳社 2005
普通にこの民主主義国家に住まれている方からすれば、これがどのような被害なのか、良く分からない部分もあるかと思います。「集団ストーカー」問題は実態解明がまだ行われておらず、確定的なことは申し上げられません。しかし、少なくともこれまで述べてきたように東ドイツでは同じようなことをその国の国民が経験してきました。ここでは、このルポタージュに記載されているシュタージ被害者の生の声を掲載したいと思います。
(下記の斜線は、同著p118-158から引用) ⇒新しいこのブログでは、 「明朝体」の部分です。
ユリアは16歳のとき、休暇を利用してライプチヒ見本市の案内役としてアルバイトをしていた。…彼女がイタリア人ボーイフレンドと出会ったのはそのときのことだった。
ここで取りあげるのは、ルポタージュに掲載されているユリアという方の経験です。彼女は1966年生まれで、23歳のときにベルリンの壁崩壊を経験したことになります。ここでは、本に沿って彼女の体験を追っていきたいと思います。
ユリアは、このイタリア人ボーイフレンドと街中でデートしているときは必ず監視下に置かれていました。身元の確認や検問所での確認が意図的に彼女に絶えず行われていました。イタリア人ボーイフレンドは恐怖で震えていましが、ユリアはそういった国の状態を受け入れていたようでした。
「わたしはこうした監視も現実として受け止めて暮らしてたわけだし、好きではなかったけど、ここは独裁国家なんだ、だからこういうもんなんだって思うようにしていたわ。東ドイツの論理に基づいた単純なことだって分かってたもの。…」
この、イタリア人ボーイフレンドとの付き合いが、その後の彼女の人生を大きく狂わせることになります。
ユリアは中等学校で学年トップの成績を収め、言語教育で有名な高等学校に進学することを希望していた。だけど当局は、決してその理由を明らかにしないままに、彼女を有名でもなんでもない遠くの寄宿学校に追いやった。
1985年、ユリアはオールAという成績で大学に入学した。彼女はライプチィヒに行き、大学の翻訳・通訳コースへの入試試験を受ける。結果は不合格だった。
このように、彼女はどちらかと言えば優秀な成績を修めていましたが、希望の進路に進めないといったことが続きます。この後、ユリアの父親はこのように言われます。
「ユリアさんの場合は来年もう一度受験しても同じことなんです。娘さんに他のことをするよう、どうぞよろしくお伝えください。職に就くんです。」
ユリアはこのように言われて、就職活動をしました。あらゆる職種にチャレンジしましたが、どの職業に就くこともできませんでした。
「それ以降、職にも就けなくなってたの。どんな仕事でもダメだった……」彼女は首に巻いたスカーフに手を当てる。「その頃からなのよ」
彼女は、どの会社も従業員を雇うときにシュタージに履歴書を見せなければならないからではないかと考えました。その後、彼女は職業安定所に足を運びます。そこでも、おかしなことに「お嬢さん、あなたは失業しているわけじゃないんです。わが国に失業者はいないんです!」と言われるだけでした。彼女は次第に言いようのない抑圧と失望に次第にあらゆることを諦めるような気持ちになっていきます。
ユリアは自らの状況を、何に挑戦しても失敗したのだと捉えることもできたし、連中のターゲットになってしまったと捉えることもできた。あるいは、全くなんとも考えないでいることもできた。「その頃から、私は何からも身を引くようになってしまったって言っていいのかも。」だんだんベッドから出る時間が遅くなっていった。「気が滅入っていたんだと思う。」
彼女はあきらめず夜間学校に登録しますが…
授業が終わると、「毎晩のように」地元のパブに顔を出した。「両親も見て見ぬフリをしてくれてたみたい。他にどうしようもなかっただろうし、私を哀れんでいたんだと思う。」
彼女は、最後の希望を振り絞ってイタリア人ボーイフレンドと駆け落ちしようとします。しかし…
休暇を利用して彼とハンガリーで落ち合うことになっていた。空港では別室に連れて行かれ、荷物を検査された。ヘアドライヤーを分解してまで調べられ… ハンガリーで、すべてが終わったのだと彼に告げた。「彼にしてみれば寝耳に水だったはずだし、不満そうだったわ。」そしてユリアはすべてから身を引き、自宅に引きこもり、希望を捨てた。「内面への逃避」なんていうものではない。流浪だ。
その後、彼女にとどめを刺すような出来事が発生します。当局から1枚のはがきが届き、行ってみると、国家保安省のN少佐からこのように言われます。
「ベーレントさん(ユリア)。」N少佐が切り出した。「あなたのように若くて魅力的で知的な方です、どうしてなのか、ご説明いただけますね。どうして働いていらっしゃらないんですか?」笑っている。
そういうことか。この瞬間まで、すべては自分の想像にすぎないと思おうと勤めてきた。寄宿学校も、校長の訪問も、町を歩いているだけで常に尾行されることも、試験の不合格も、「友人たち」の警告も、…そしてあり得ないくらい雇ってくれないことも。
ショックだった。ゆっくりと口を開いた。
「わたしがどうして働いていないか、それはあなたの方がよくご存知なんじゃないんですか?」
男の声は優しかった。笑顔も絶やさない。「どうしてわたしが知っているのですか?ベーレントさん。」
彼女は自制心を失った。……
このように、「ユリア」は海外に行った際にできたイタリア人ボーイフレンドとの付き合いによって、厳しい監視下に置かれることになりました。それだけでなく、人生のあらゆる局面で、シュタージの意図的な介入によって人生を狂わされました。例えば、彼女は20代前半でお酒におぼれることになり、家族はそれを彼女の気持ちを斟酌するかのように黙って見過ごしました。これは彼女が、若くして人生を無茶苦茶にされて、言いようのない葛藤に苛まれていたことを示すものだと思います。
また、被害者の方が読まれたら分かると思いますが、「集団ストーカー」の被害者の状況と共通点が多くあることがお分かりいただけると思います。「集団ストーカー」の被害も、一種の人生のぶち壊しです。被害の過程で様々な可能性や希望を失い、解消されない葛藤のなかで生きざるを得なくなります。
なお、私の経験は述べないといいましたが、ここで一つだけ言いたいと思います。私もこの被害を受けているこの数年間、家から出る機会が極めて減少して、それこそ毎日浴びるほどお酒を飲んでいました。最初は心配した両親が何とか止めようとしましたが、それも次第になくなりました。
私はこの本をもとに、集団ストーカーの被害について父と話し合いました。父はこのように言いました。「たとえどのような世の中であっても、希望をもってたくましく生きるしかない。自分にはそれしか言ってあげられない。」状況が分かるにしたがって、家族は次第にわたしが引きこもったり、お酒におぼれることに対して寛容になっていきました。これが私の置かれた実態でした。
(この書籍には、「集団ストーカー」問題を乗り越えるのに、様々な共通点と示唆が得られます。時期があったら、他の様々な部分も取りあげたいと思います。)
記事の改定はしないと申し上げましたので、ここに書籍の広告を追加します。ぜひご覧になって頂ければ幸いです。(2010年10月6日)
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