オバマ大統領一般教書演説から考える
~国難において政治が結束して統合するアメリカの風土~
-最終更新日:2011年1月27日(木)-
本日の読売新聞・朝日新聞でさっそく記事に書かれている、アメリカ、オバマ大統領の一般教書演説。今回はこれについて記事にしたい。
一般教書演説とはアメリカ議会において大統領が一年の施策方針を演説するものである。日本だと所信表明演説や施政方針演説がこれにあたるだろうか。ここで日本ではなかなか見られない光景があった。通常は与野党が分かれて座るのが通例であるが、約60名の民主党・共和党の議員が隣り合って座ったのだ。
これはアリゾナ州トゥーソンで起きた銃乱射事件に対してオバマ大統領が協調を呼びかけたものである。このことも含めた銃乱射事件への対応は米国内でのオバマ大統領の支持率を上昇させた。なぜなら、両党の意見が大きく割れて非難合戦となるアメリカの政治状況に対して国民は嫌気を持っており、これら党派を超えた協調に対して好感を抱いたからだ。オバマ大統領は演説の冒頭で以下のように述べている。
この2年間、我々政治家は、政治信条のために激しく戦ってきた。しかし、事件は政党や政治よりも重要なことに気づかせてくれた。我々が米国という家族の一員であることだ。
これは日本政治に大きな示唆を投げかける。日本においても国会はねじれ状態であり、予算成立もままならない。与野党の対立は先鋭化しており、一見協調は不可能に見える。一方で国民はどうだろうか。法案が成立しない状況を快く思っていないはずだ。誰もがアメリカ同様に不毛な対立に対して辟易を感じているだろう。
日本に欠けているのは、政治がこのような国民的な統合を演出して国を沸かせることである。本来、政治のダイナミズムはここにある。この閉塞状況において、アメリカがうらやましいと誰もが思うはずだ。それでも私は自民・民主両党に同様の役割を期待する。このブログの問題においても、両党間の協力が解決に欠かせないからである。
読者の皆さんはどう思われるだろうか。政治の行き詰まりに対しては様々な意見があるに違いない。このブログではこれからも同様の事態に対して示唆を投げかけていきたいと思っている。
-最終更新日:2011年1月27日(木)-
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本日の読売新聞・朝日新聞でさっそく記事に書かれている、アメリカ、オバマ大統領の一般教書演説。今回はこれについて記事にしたい。
一般教書演説とはアメリカ議会において大統領が一年の施策方針を演説するものである。日本だと所信表明演説や施政方針演説がこれにあたるだろうか。ここで日本ではなかなか見られない光景があった。通常は与野党が分かれて座るのが通例であるが、約60名の民主党・共和党の議員が隣り合って座ったのだ。
これはアリゾナ州トゥーソンで起きた銃乱射事件に対してオバマ大統領が協調を呼びかけたものである。このことも含めた銃乱射事件への対応は米国内でのオバマ大統領の支持率を上昇させた。なぜなら、両党の意見が大きく割れて非難合戦となるアメリカの政治状況に対して国民は嫌気を持っており、これら党派を超えた協調に対して好感を抱いたからだ。オバマ大統領は演説の冒頭で以下のように述べている。
この2年間、我々政治家は、政治信条のために激しく戦ってきた。しかし、事件は政党や政治よりも重要なことに気づかせてくれた。我々が米国という家族の一員であることだ。
これは日本政治に大きな示唆を投げかける。日本においても国会はねじれ状態であり、予算成立もままならない。与野党の対立は先鋭化しており、一見協調は不可能に見える。一方で国民はどうだろうか。法案が成立しない状況を快く思っていないはずだ。誰もがアメリカ同様に不毛な対立に対して辟易を感じているだろう。
日本に欠けているのは、政治がこのような国民的な統合を演出して国を沸かせることである。本来、政治のダイナミズムはここにある。この閉塞状況において、アメリカがうらやましいと誰もが思うはずだ。それでも私は自民・民主両党に同様の役割を期待する。このブログの問題においても、両党間の協力が解決に欠かせないからである。
読者の皆さんはどう思われるだろうか。政治の行き詰まりに対しては様々な意見があるに違いない。このブログではこれからも同様の事態に対して示唆を投げかけていきたいと思っている。
私が被害を受けた経緯について
~被害を受けた我々被害者の最終的なゴールとは~
-最終更新日:2011年1月26日(水)-
本日は、私が被害を受けた経緯を差し支えない範囲内で公開します。
私が被害を一番最初に受けたのは、当初就職して離職した直後のインターネット掲示板においてです。ある掲示板上において極めて私に関する書き込みが増えて「祭り」の様相を示し、その時にインターネット上だけでなく現実で不審な不特定多数の人物に付きまとわれるようになっています。
しかし、この被害はそれほど大したものではありませんでした。もっとも酷い被害を受けたのは、3社目に就職した会社でした。この会社での経緯を述べます。
まず、入社しておかしな雰囲気に気づきました。プライベートな時間帯に私の行動をチェックするかのような不審な人物に付きまとわれました。駅前のオーディオショップに行ったときや本屋に行ったときなどに確認しています。そして、入社後初の夏休みで家族で沖縄旅行に行ったとき、異常なまでの付きまといをたたみ掛けられました。このとき泊ったホテルの中にまでほのめかしを行われました。なぜこのような制裁を受けたかについては、社内の上層部の会話で、「就業態度がよくない」などと判断したためであることが分かりました。
これらのことを経て分かったのが、この会社が集団ストーカーの加害者を用いて、従業員のコントロールや制裁のために集団ストーカー行為を行う会社だということです。地元では屈指の会社であるために強いショックを覚えました。具体的には、会社全体で行っているというより、一部のこれらの行為を強く推進する役員などによって行われていました。悪質と呼べるくらい高い頻度で行われていました。しかし、一番上の社長はここまで酷いことが行われているとは気づいていなかったようです。
そして、ちょうど3年前の今頃、あまりにすさまじい加害行為を受けました。これも会社側が身勝手に「離職する可能性があるから監視する必要がある」と始めたことがエスカレートしたものです。このときは、会社側が加害者がこのような行為を行うことをもはやコントロールすることができませんでした。加害者が一方的に私に対して加害行為を行って、会社側をゆするという様相を示していました。私は思いました。「安易にこのような行為を行うことによって会社側もだめになる」。私はこのような行為を行うこの会社と縁を切りたいために、何とか休職して最後には退職しました。
最後のほうでは、逆に会社側が私を加害者からかばうようになっていました。私がこの会社で、年齢ではありえないレベルの高い仕事を任されていたからです。それゆえ、会社の評判にかかわると感じたのでしょう。しかし、時はすでに遅く、加害者は私を「終身的なターゲット」と呼ぶまでに至っていました。制御する義務は会社側にあります。退職後の辛い生活と被害を考えれば許す気になれません。この会社がこのような行為を行ったと公に認めて謝罪・賠償することが必要と考えています。
道のりは長いですが、これが被害者のゴールではないでしょうか。手を取り合ってすべての被害者の方とこの問題を追及していきたいと思っています。
-最終更新日:2011年1月26日(水)-
本日は、私が被害を受けた経緯を差し支えない範囲内で公開します。
私が被害を一番最初に受けたのは、当初就職して離職した直後のインターネット掲示板においてです。ある掲示板上において極めて私に関する書き込みが増えて「祭り」の様相を示し、その時にインターネット上だけでなく現実で不審な不特定多数の人物に付きまとわれるようになっています。
しかし、この被害はそれほど大したものではありませんでした。もっとも酷い被害を受けたのは、3社目に就職した会社でした。この会社での経緯を述べます。
まず、入社しておかしな雰囲気に気づきました。プライベートな時間帯に私の行動をチェックするかのような不審な人物に付きまとわれました。駅前のオーディオショップに行ったときや本屋に行ったときなどに確認しています。そして、入社後初の夏休みで家族で沖縄旅行に行ったとき、異常なまでの付きまといをたたみ掛けられました。このとき泊ったホテルの中にまでほのめかしを行われました。なぜこのような制裁を受けたかについては、社内の上層部の会話で、「就業態度がよくない」などと判断したためであることが分かりました。
これらのことを経て分かったのが、この会社が集団ストーカーの加害者を用いて、従業員のコントロールや制裁のために集団ストーカー行為を行う会社だということです。地元では屈指の会社であるために強いショックを覚えました。具体的には、会社全体で行っているというより、一部のこれらの行為を強く推進する役員などによって行われていました。悪質と呼べるくらい高い頻度で行われていました。しかし、一番上の社長はここまで酷いことが行われているとは気づいていなかったようです。
そして、ちょうど3年前の今頃、あまりにすさまじい加害行為を受けました。これも会社側が身勝手に「離職する可能性があるから監視する必要がある」と始めたことがエスカレートしたものです。このときは、会社側が加害者がこのような行為を行うことをもはやコントロールすることができませんでした。加害者が一方的に私に対して加害行為を行って、会社側をゆするという様相を示していました。私は思いました。「安易にこのような行為を行うことによって会社側もだめになる」。私はこのような行為を行うこの会社と縁を切りたいために、何とか休職して最後には退職しました。
最後のほうでは、逆に会社側が私を加害者からかばうようになっていました。私がこの会社で、年齢ではありえないレベルの高い仕事を任されていたからです。それゆえ、会社の評判にかかわると感じたのでしょう。しかし、時はすでに遅く、加害者は私を「終身的なターゲット」と呼ぶまでに至っていました。制御する義務は会社側にあります。退職後の辛い生活と被害を考えれば許す気になれません。この会社がこのような行為を行ったと公に認めて謝罪・賠償することが必要と考えています。
道のりは長いですが、これが被害者のゴールではないでしょうか。手を取り合ってすべての被害者の方とこの問題を追及していきたいと思っています。
この問題の加害性の所在に関して
~何も加害者だけが加害的なことを行っているわけではない~
-最終更新日:2011年1月25日(火)-
本日は特殊で重要な話を少々。
昨年、参議院選に出馬する可能性があったと申し上げました。それまで私は集団ストーカーの中でも人的被害を中心に受けており、テクノロジー被害はほとんどありませんでした。参議院選挙の直後から加害者の制裁的なテクノロジー被害を集中して受けました。その時期から今まで、自分の意思で外出する頻度は数回だけという異常さです。命の危険すら感じるからです。
そろそろ本当のことを言わなければなりませんが、すでに政府は被害者の補助をしています。特に、私のケースにおいては加害者が意識への介入で罵声を浴びせたりマインドコントロールで激高を招いたりすることに対して、同じ意識への介入の技術でサポートしています。ただし、そのやり方に問題があります。
私のケースだと、昨年のある時期を除いて毎日ブログを更新してきました。政府が公式にこの問題を認めることができないゆえに、私を意識への介入である意味操作してブログ記事を書かせてきました。この強要がきつく、時には激高状態になってガラスを割るほどでした。ガラスを数度、PCや液晶を何度となく壊しています。あまりにもつらいブログ作業の強要でした。
ほかにも同じような方がおられるかもしれません。しかしそのような方は希少だと思います。特に私においては、現政権が他党への牽制に用いたという印象がぬぐえません。このブログの製作と発生した損害に数十万円以上費やしています。いったい、社会問題の解決にこのような方法が用いられていいのでしょうか。
申し上げることには勇気が必要なことでしたが、正しくこの問題が解決されなければならないと感じましたので、今の段階でこの事実をこのブログに掲載いたします。もう一度言います。加害者は確かに私を自殺に追い込もうという悪意に基づいて加害行為を行ってきました。しかし、現政府は政治におけるイニシアチブを取得するために、同じ技術で時には加害者よりも酷い方法で私を認知のための材料としてきました。この点は、両者について訴訟を行わなければならないと感じている昨今です。
被害者の皆様に置かれましても受け入れがたい事実かと思いますが、このような事実も許容いただきますよう何卒宜しくお願い致します。
-最終更新日:2011年1月25日(火)-
本日は特殊で重要な話を少々。
昨年、参議院選に出馬する可能性があったと申し上げました。それまで私は集団ストーカーの中でも人的被害を中心に受けており、テクノロジー被害はほとんどありませんでした。参議院選挙の直後から加害者の制裁的なテクノロジー被害を集中して受けました。その時期から今まで、自分の意思で外出する頻度は数回だけという異常さです。命の危険すら感じるからです。
そろそろ本当のことを言わなければなりませんが、すでに政府は被害者の補助をしています。特に、私のケースにおいては加害者が意識への介入で罵声を浴びせたりマインドコントロールで激高を招いたりすることに対して、同じ意識への介入の技術でサポートしています。ただし、そのやり方に問題があります。
私のケースだと、昨年のある時期を除いて毎日ブログを更新してきました。政府が公式にこの問題を認めることができないゆえに、私を意識への介入である意味操作してブログ記事を書かせてきました。この強要がきつく、時には激高状態になってガラスを割るほどでした。ガラスを数度、PCや液晶を何度となく壊しています。あまりにもつらいブログ作業の強要でした。
ほかにも同じような方がおられるかもしれません。しかしそのような方は希少だと思います。特に私においては、現政権が他党への牽制に用いたという印象がぬぐえません。このブログの製作と発生した損害に数十万円以上費やしています。いったい、社会問題の解決にこのような方法が用いられていいのでしょうか。
申し上げることには勇気が必要なことでしたが、正しくこの問題が解決されなければならないと感じましたので、今の段階でこの事実をこのブログに掲載いたします。もう一度言います。加害者は確かに私を自殺に追い込もうという悪意に基づいて加害行為を行ってきました。しかし、現政府は政治におけるイニシアチブを取得するために、同じ技術で時には加害者よりも酷い方法で私を認知のための材料としてきました。この点は、両者について訴訟を行わなければならないと感じている昨今です。
被害者の皆様に置かれましても受け入れがたい事実かと思いますが、このような事実も許容いただきますよう何卒宜しくお願い致します。
人間形成にとって共同体とは何か
~自律を育む他律の条件~
-最終更新日:2011年1月12日(水)-
本日は読売新聞「日本の改新」シリーズの佳境、マイケル・サンデル氏のコラムである。そこへなぜ筆者の大学時代の指導教官の書籍を持ってきたか。それはコミュニティを扱う研究者としてその思想が重なる部分が多いからである。
岡田敬司教授は、自律的な人間形成を目的とした場合の共同体の役割を中心に研究テーマとされている。なぜ共同体なのかという問いかけに対してはこのように答えることができる。人間は社会的な生き物であり、自他との調節において自らを社会に適合させなければならない。その際の他者となりうるのが、国家であったり勤める企業であったり同じ社交クラブのメンバーであったりする。これらの外部システムは、時として自己と相克する。それでも、いかなる状況においても自らの内的世界と他者である外的世界を調節して生きなければならない。それが人間という存在である。
現代は個人主義の時代と呼ばれる。時として、外部システムであるさまざまなコミュニティの規範を逸脱して生きることを現代人は選択する。これの行き過ぎが人間社会の共同性の崩壊を招き、サンデル教授のコラムで典型的な例として「無縁社会」を挙げている。昭和の時代には、隣人が不幸になっている場合、助けなければならないという社会規範が強く作用していた。しかし、現在では全く作用しない。無視することがの当たり前の社会となっている。これが多くの社会的弱者の孤独と個人間の軋轢を生み出している。「無縁社会」は社会問題の中でも最も重要視されなければならないものとしてNHKが特集を組んでいる。すでに隣人は真の意味で「他者=得体の知れない存在」になってしまっているのである。
このサンデル氏のコラムでは、これらの個人主義の病理を乗り越えるものとして、共同体原理に基づいて解決する人のことをコミュニタリアンと呼ぶと易しく1月11日の読売新聞で解説している。個人主義がもっとも発達しているアメリカにおいて、その病理と向き合いながら共同体的自己決定による社会問題の解決を提唱しているサンデル氏の講義がハーバード大学でもっとも人気だということに私は驚きを隠せない。アメリカでも個人による自己決定と共同体的自己決定、どちらが相応しいかの問いかけは若者にとって非常に重要な関心事なのだということを意味している。
では、旧来の共同体が個人主義の病理を乗り越える手段を提供してくれるかといえばそうではない。すでに個人主義は民主主義の発達と経済的な豊かさの獲得によって既得権のようなものになっており、現代人はこれを手放すことができない。それを埋めるために強制的にポストモダン以前の共同体の鋳型にはめこめば、それこそ主体の抑圧につながるだけだ。それでも、人間は一人でいることにいたたまれないことも多く、共同体的なものへの帰属を幻想として希求する。昔は、地域の絆や親族の絆への強制的な参加が生きるための必要条件であったのに対し、現在はそうとまではいかない。ここに現代人がコミュニティへ参加することの性質の変化が存在する。現代人の多くは個人主義による共同性の崩壊もあり、安直に共同体への帰属意識による満足が得られることを志向する。
これには二つの疑問が発生する。このような参加による共同体への参加の様式では、倫理的な問題解決が望まれる社会問題への対応に無力であること。そして、岡田教授の言葉を借りさせてもらえば、それは恣意が偶然に一致した人々の一時的な集まりに過ぎず、倫理的なつながりによる人間形成が望めないと言ったところだろうか。困ったときは必ず助け合うという強い規範とコミュニティへの帰属意識がなければ孤独な高齢者は救えないし、助け合いによってお互いに豊かになれる人間関係の醸成も行えないのである。現在は、この安易な帰属意識をインターネットによる即時的なつながり、すなわち掲示板やtwitterなどで満たしている部分が多いのだろう。このようなつながりでは本当に困ったときに助けてもらえない。
では、参加主体が組織運営においても自己においても自律的でありながら倫理的なつながりによって存続している共同体とは何か。これが岡田教授のもとで勉強した私の研究的な関心のルーツであり、その答えは「自助グループ」をはじめとする互助共同体である。その要件としては、問題の解決に当たり差し迫って共同性を構築する必要があり、形成されたアソシエーションが個人に課する規範も相互に問題解決を図ることを目的としたものだからである。共同性の構築と規範の形成はそのとたんに個人の自律を抑圧するが、この互助的なグループにおいては、むしろ参加主体がそのルールを形成する過程で人間的な回復が行われるといった点に注目しなければならない。
実例を挙げると、北海道浦河市の「べてるの家」が挙げられる。このべてるの家は一時期奇跡の障碍者グループとしてマスコミの脚光を浴びた。さまざまな番組が放送されるとともに複数の本が出版されており、ご存知の方も多いかもしれない。このべてるの家がすごいのは、自分たちによる経済活動で自立した運営ができているということである。主に昆布の生産工場での収入だが、精神障碍者同士の互助によって不可能とされた経済的自立を可能にしているのである。そこには経済的な互助だけでなく、生活共同体としての互助も存在する。お互いの精神疾患を共同的な役割において研究し、乗り越えているのである。
これはほかのさまざまな自助グループにも同じことが言える。特に逼迫した問題としては私が専門としたアルコール依存の当事者会や、自殺問題におけるグリーフケアなどが挙げられるだろうか。これらのグループの参加においては個人主義的なエゴはほとんど発生しない。お互いがつらい状況を乗り越えるためによりよい参加形態を模索しながら助け合っていくのである。これは岡田教授の専門領域である教育学でも同じことが言える。学級において同じ役割を果たす「中間共同体」が子どもの豊かな発達機序になるというものである。東京大学の佐藤学教授も「学びの共同体」として同じような理論を展開されている。ちなみに、岡田教授のルーツはフランスの教育運動である。制度主義教育論と呼ばれる戦後の取り組みである。下記に著書の一部を引用する。
教育をフィールドとして、社会システムと個人システムの緊張関係の問題に真正面から取り組んだ先駆的存在としてフランスの制度主義教育論を紹介しておこう。これは人間形成のフィールドが政治システムや経済システムのシステム合理性に絡めとられてしまうのに抵抗し、かといって社会システムを人間疎外をもたらす悪玉に仕立てることで満足するのでもなく、個人システムがかかわりのネットワークをあるいは利用し、あるいは共同構築していく中で、社会システムを部分的にわがものにしつつ自己形成を図っていくというものである。(p.103)
この文章に岡田教授の考えの粋があると言っていいだろう。巨大システムの下で完全に他律状態になってしまって生きるのも好ましくない。かといって完全な自律的主体など存在しない。前者の肥大化は人間疎外により人格の破綻を生み出すし、後者を追及すると個人主義のなれの果てに独我に陥ってしまうだけである。では、旧来の共同体への参加のような出来事がすべてを解決するといえばそうではなく、参加のとたんにその規範に主体が絡め取られてしまう危険がある。上記に述べたように、倫理的なつながりにおいて自らもシステム管理者になるような参加主体となるよう自他を調整しながら生きるという現代人のさまざまな矛盾に対するかろうじての解を導き出されているのである。
サンデル教授も、旧来のコミュニティをすべて称揚するのではなく、ディベートを絶えず行いながら問いかけを行っていく講義スタイルを取っている。そこには何らか通ずるものがある。これは、まさに新たな価値基準を大学という極めて自由な場で対話により作ろうとする試みであり、新しい倫理と公共性の構築はここから行われるのだと想像すると胸が高鳴るものがある。読み上げの講義はでは新たな制度は作られない。学生とともに作りながら講義を運営しているのである。学生にとってこれほど面白い講義は存在しないだろう。サンデル氏は、メディアに対してもディベートによる倫理の形成を求めている。個人が行き詰った現代において、知がそれを打破する試みは現在進行形で行われているのである。
-最終更新日:2011年1月12日(水)-
![]() | 人間形成にとって共同体とは何か ―自律を育む他律の条件 (2009/02) 岡田 敬司 商品詳細を見る |
本日は読売新聞「日本の改新」シリーズの佳境、マイケル・サンデル氏のコラムである。そこへなぜ筆者の大学時代の指導教官の書籍を持ってきたか。それはコミュニティを扱う研究者としてその思想が重なる部分が多いからである。
岡田敬司教授は、自律的な人間形成を目的とした場合の共同体の役割を中心に研究テーマとされている。なぜ共同体なのかという問いかけに対してはこのように答えることができる。人間は社会的な生き物であり、自他との調節において自らを社会に適合させなければならない。その際の他者となりうるのが、国家であったり勤める企業であったり同じ社交クラブのメンバーであったりする。これらの外部システムは、時として自己と相克する。それでも、いかなる状況においても自らの内的世界と他者である外的世界を調節して生きなければならない。それが人間という存在である。
現代は個人主義の時代と呼ばれる。時として、外部システムであるさまざまなコミュニティの規範を逸脱して生きることを現代人は選択する。これの行き過ぎが人間社会の共同性の崩壊を招き、サンデル教授のコラムで典型的な例として「無縁社会」を挙げている。昭和の時代には、隣人が不幸になっている場合、助けなければならないという社会規範が強く作用していた。しかし、現在では全く作用しない。無視することがの当たり前の社会となっている。これが多くの社会的弱者の孤独と個人間の軋轢を生み出している。「無縁社会」は社会問題の中でも最も重要視されなければならないものとしてNHKが特集を組んでいる。すでに隣人は真の意味で「他者=得体の知れない存在」になってしまっているのである。
![]() | これからの「正義」の話をしよう ―いまを生き延びるための哲学 (2010/05/22) マイケル・サンデル 商品詳細を見る |
このサンデル氏のコラムでは、これらの個人主義の病理を乗り越えるものとして、共同体原理に基づいて解決する人のことをコミュニタリアンと呼ぶと易しく1月11日の読売新聞で解説している。個人主義がもっとも発達しているアメリカにおいて、その病理と向き合いながら共同体的自己決定による社会問題の解決を提唱しているサンデル氏の講義がハーバード大学でもっとも人気だということに私は驚きを隠せない。アメリカでも個人による自己決定と共同体的自己決定、どちらが相応しいかの問いかけは若者にとって非常に重要な関心事なのだということを意味している。
では、旧来の共同体が個人主義の病理を乗り越える手段を提供してくれるかといえばそうではない。すでに個人主義は民主主義の発達と経済的な豊かさの獲得によって既得権のようなものになっており、現代人はこれを手放すことができない。それを埋めるために強制的にポストモダン以前の共同体の鋳型にはめこめば、それこそ主体の抑圧につながるだけだ。それでも、人間は一人でいることにいたたまれないことも多く、共同体的なものへの帰属を幻想として希求する。昔は、地域の絆や親族の絆への強制的な参加が生きるための必要条件であったのに対し、現在はそうとまではいかない。ここに現代人がコミュニティへ参加することの性質の変化が存在する。現代人の多くは個人主義による共同性の崩壊もあり、安直に共同体への帰属意識による満足が得られることを志向する。
これには二つの疑問が発生する。このような参加による共同体への参加の様式では、倫理的な問題解決が望まれる社会問題への対応に無力であること。そして、岡田教授の言葉を借りさせてもらえば、それは恣意が偶然に一致した人々の一時的な集まりに過ぎず、倫理的なつながりによる人間形成が望めないと言ったところだろうか。困ったときは必ず助け合うという強い規範とコミュニティへの帰属意識がなければ孤独な高齢者は救えないし、助け合いによってお互いに豊かになれる人間関係の醸成も行えないのである。現在は、この安易な帰属意識をインターネットによる即時的なつながり、すなわち掲示板やtwitterなどで満たしている部分が多いのだろう。このようなつながりでは本当に困ったときに助けてもらえない。
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では、参加主体が組織運営においても自己においても自律的でありながら倫理的なつながりによって存続している共同体とは何か。これが岡田教授のもとで勉強した私の研究的な関心のルーツであり、その答えは「自助グループ」をはじめとする互助共同体である。その要件としては、問題の解決に当たり差し迫って共同性を構築する必要があり、形成されたアソシエーションが個人に課する規範も相互に問題解決を図ることを目的としたものだからである。共同性の構築と規範の形成はそのとたんに個人の自律を抑圧するが、この互助的なグループにおいては、むしろ参加主体がそのルールを形成する過程で人間的な回復が行われるといった点に注目しなければならない。
実例を挙げると、北海道浦河市の「べてるの家」が挙げられる。このべてるの家は一時期奇跡の障碍者グループとしてマスコミの脚光を浴びた。さまざまな番組が放送されるとともに複数の本が出版されており、ご存知の方も多いかもしれない。このべてるの家がすごいのは、自分たちによる経済活動で自立した運営ができているということである。主に昆布の生産工場での収入だが、精神障碍者同士の互助によって不可能とされた経済的自立を可能にしているのである。そこには経済的な互助だけでなく、生活共同体としての互助も存在する。お互いの精神疾患を共同的な役割において研究し、乗り越えているのである。
これはほかのさまざまな自助グループにも同じことが言える。特に逼迫した問題としては私が専門としたアルコール依存の当事者会や、自殺問題におけるグリーフケアなどが挙げられるだろうか。これらのグループの参加においては個人主義的なエゴはほとんど発生しない。お互いがつらい状況を乗り越えるためによりよい参加形態を模索しながら助け合っていくのである。これは岡田教授の専門領域である教育学でも同じことが言える。学級において同じ役割を果たす「中間共同体」が子どもの豊かな発達機序になるというものである。東京大学の佐藤学教授も「学びの共同体」として同じような理論を展開されている。ちなみに、岡田教授のルーツはフランスの教育運動である。制度主義教育論と呼ばれる戦後の取り組みである。下記に著書の一部を引用する。
教育をフィールドとして、社会システムと個人システムの緊張関係の問題に真正面から取り組んだ先駆的存在としてフランスの制度主義教育論を紹介しておこう。これは人間形成のフィールドが政治システムや経済システムのシステム合理性に絡めとられてしまうのに抵抗し、かといって社会システムを人間疎外をもたらす悪玉に仕立てることで満足するのでもなく、個人システムがかかわりのネットワークをあるいは利用し、あるいは共同構築していく中で、社会システムを部分的にわがものにしつつ自己形成を図っていくというものである。(p.103)
この文章に岡田教授の考えの粋があると言っていいだろう。巨大システムの下で完全に他律状態になってしまって生きるのも好ましくない。かといって完全な自律的主体など存在しない。前者の肥大化は人間疎外により人格の破綻を生み出すし、後者を追及すると個人主義のなれの果てに独我に陥ってしまうだけである。では、旧来の共同体への参加のような出来事がすべてを解決するといえばそうではなく、参加のとたんにその規範に主体が絡め取られてしまう危険がある。上記に述べたように、倫理的なつながりにおいて自らもシステム管理者になるような参加主体となるよう自他を調整しながら生きるという現代人のさまざまな矛盾に対するかろうじての解を導き出されているのである。
サンデル教授も、旧来のコミュニティをすべて称揚するのではなく、ディベートを絶えず行いながら問いかけを行っていく講義スタイルを取っている。そこには何らか通ずるものがある。これは、まさに新たな価値基準を大学という極めて自由な場で対話により作ろうとする試みであり、新しい倫理と公共性の構築はここから行われるのだと想像すると胸が高鳴るものがある。読み上げの講義はでは新たな制度は作られない。学生とともに作りながら講義を運営しているのである。学生にとってこれほど面白い講義は存在しないだろう。サンデル氏は、メディアに対してもディベートによる倫理の形成を求めている。個人が行き詰った現代において、知がそれを打破する試みは現在進行形で行われているのである。
日本という諸国家併存社会 ほか
~山崎正和氏の文明論より~
-最終更新日:2011年1月11日(火)-
本日も読売新聞、朝日新聞両新聞からの記事である。まずは1月10日(月)の読売新聞1面、「日本の改新」山崎正和氏のコラムより。
独自の文明論を展開している氏の理論は面白い。日本の歴史的な文化それ自体が構造的にヨーロッパ社会と似ているということである。例えばローマ帝国がヨーロッパ各地を自治的な統治形態により合理的に支配したように、日本も江戸時代に地方分権を半ば認めていたというものだ。これを可能にしたのは、文字が庶民向けであったことなどにより社会が縦につながったからだという。
このようなヨーロッパ社会のいわば諸国家併存社会がもたらすのは、歴史的経緯により時間がたてばいずれは民主主義社会に到達するというものである。知識の高度化はより国民を高度な民主主義へと志向させるからである。この点、アメリカは非常に強い。知的財産を育む大学が圧倒的な力を持っているからだ。日本でも飛びぬけて優秀な教授達がアメリカの大学を志向するのが近年顕著であることからわかるだろう。
そして、山崎氏は現状の国際情勢において、日本はこのアメリカと同様に「知識基盤社会」を目指すしかないと指摘する。そのためには民主主義のより緻密な高度化が必要であり、これが実現して初めて世界最高レベルの知識社会が形成されることは間違いない。しかし、既存の日本社会では弱みを含んでいる部分もたくさん存在する。この点で山崎氏が指摘しているのが、教育制度の改革と大衆社会の悪化への対応である。
まず前者である。高度経済成長期の横並びの教育では、知識社会のコアとなる人材を育てきれないという点が挙げられる。筆者が京都大学に在籍していた時に、3年次で飛び級で大学院に入学する人もいた。このような選抜的な教育が行われないと、せっかくの世界的な才能を育てきれない可能性があるのである。
また、大衆社会の悪化に関しては皆さんも強く感じられているだろう。情報発信能力やそのモラルに欠ける人物がごみのように垂れ流すインターネットの情報によって、社会に誤謬だらけの情報が蔓延することを。これは民主主義の大きな危機なのだということをご自覚いただきたい。この点、既存メディアの権能の復活こそが民主主義増進の大きなポイントだということは以前から指摘している通りなのである。
朝日新聞「阿弥陀仏 祈り包んで」
次は朝日新聞の10面である。1面で浄土宗を開いた法然上人の弟子、源智が作成したとされる「阿弥陀如来立像」の特集が組まれている。ちなみに筆者はほぼ無神論者で、自分の家の宗派も度忘れするほどである。筆者の実家は真言宗だそうだ。始祖は空海である。
その真言宗の寺になぜか存在していたこの像が、法然上人800回忌を記念して浄土宗の寺に戻されたという。このことについて、伊藤唯真浄土門主や中井真孝佛教大教授の解説が記事に組まれている。仏教の中で念仏を唯一極楽浄土に行ける行として位置付けた法然上人は、民衆から絶大な支持を得るとともに、当時の政権に敵視され迫害を受けたという。
その法然上人を慕った弟子の源智が建立したとされるこの像であるが、内部には4万人以上の名前が記された文書が入っていたのが発見されている。1979年のことである。この中には、後白河法皇、後鳥羽上皇、平清盛、源頼朝の名前もあり、まさに最重要文化財と呼ぶにふさわしいだろう。記事には、仏像ガール氏の対談、土井通弘氏や安嶋紀昭氏の解説も含まれており、興味深い内容である。
ちなみに、なぜ五木寛之氏の「親鸞」を掲載したかというと、親鸞は法然の弟子だからだ。ベストセラーになったこの小説、筆者も読んだが非常に面白い。誰が読んでも痛快な親鸞の生涯に没入できる内容になっている。波乱万丈の親鸞の生涯を独自の視点で描いたものだ。吉川英二氏による小説とは一線を画すが、恋愛的な要素も盛りだくさんであり、大河ドラマにしても面白いのではないだろうかと思う。ちなみに親鸞が始祖なのは浄土真宗なのでお間違いのないよう。
また、親鸞も法然上人と同様に当時の民衆の絶大な支持を受けた。時代が閉塞的な状況に陥り、仏教界も特権階級の救済のみ考えるようになっていた際に、比叡山から自ら下山して民衆を救おうとしたからである。流刑を覚悟した親鸞の行動はどのような現象を生み出したか。それは皆さんが実際にこの書籍を読んで判断してもらいたい。人間の業とその救済をここまで描いた小説は数少ない。無神論者の私でも強く感動を覚えたのを覚えている。
白鵬関、新年の意気込みを語る
再びこの日の読売新聞であるが、16面に「角界再生へ『覚悟の年』」と題したこのコラムが掲載されている。記事で放駒親方がまずこのように述べている。
新生の年となるように全力を尽くす。
昨年の不祥事を一切断ち切る覚悟を込めて述べたのだろう。そして同じような気持ちを込めて白鵬関はこのように述べている。
新たな挑戦、道のりが始まる。
(両陛下と)同じ屋根の下で、いい相撲を取れたことがうれしい。
昨年、双葉山関の69連勝に挑んだが、歴代2位63勝にとどまった。これだけでも相当な成績であるが、1位を達成できなかったことに対する悔やみは想像以上のものがあるだろう。それでも白鵬関が凄いのは、その後一切未練を断ち切って連勝を続けたことである。
筆者はこのような白鵬関の人格を尊敬する。相撲で強いことではない。むしろ、この人格の高潔さ、人柄の良さが心技体を支えているのだろう。白鵬関は再び新たな挑戦を始めた。同様な気持ちで私も毎日ブログの更新を続けていきたいと思っている。常に白鵬関を応援している。今年も頑張ってほしいものである。
-最終更新日:2011年1月11日(火)-
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本日も読売新聞、朝日新聞両新聞からの記事である。まずは1月10日(月)の読売新聞1面、「日本の改新」山崎正和氏のコラムより。
独自の文明論を展開している氏の理論は面白い。日本の歴史的な文化それ自体が構造的にヨーロッパ社会と似ているということである。例えばローマ帝国がヨーロッパ各地を自治的な統治形態により合理的に支配したように、日本も江戸時代に地方分権を半ば認めていたというものだ。これを可能にしたのは、文字が庶民向けであったことなどにより社会が縦につながったからだという。
このようなヨーロッパ社会のいわば諸国家併存社会がもたらすのは、歴史的経緯により時間がたてばいずれは民主主義社会に到達するというものである。知識の高度化はより国民を高度な民主主義へと志向させるからである。この点、アメリカは非常に強い。知的財産を育む大学が圧倒的な力を持っているからだ。日本でも飛びぬけて優秀な教授達がアメリカの大学を志向するのが近年顕著であることからわかるだろう。
そして、山崎氏は現状の国際情勢において、日本はこのアメリカと同様に「知識基盤社会」を目指すしかないと指摘する。そのためには民主主義のより緻密な高度化が必要であり、これが実現して初めて世界最高レベルの知識社会が形成されることは間違いない。しかし、既存の日本社会では弱みを含んでいる部分もたくさん存在する。この点で山崎氏が指摘しているのが、教育制度の改革と大衆社会の悪化への対応である。
まず前者である。高度経済成長期の横並びの教育では、知識社会のコアとなる人材を育てきれないという点が挙げられる。筆者が京都大学に在籍していた時に、3年次で飛び級で大学院に入学する人もいた。このような選抜的な教育が行われないと、せっかくの世界的な才能を育てきれない可能性があるのである。
また、大衆社会の悪化に関しては皆さんも強く感じられているだろう。情報発信能力やそのモラルに欠ける人物がごみのように垂れ流すインターネットの情報によって、社会に誤謬だらけの情報が蔓延することを。これは民主主義の大きな危機なのだということをご自覚いただきたい。この点、既存メディアの権能の復活こそが民主主義増進の大きなポイントだということは以前から指摘している通りなのである。
朝日新聞「阿弥陀仏 祈り包んで」
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次は朝日新聞の10面である。1面で浄土宗を開いた法然上人の弟子、源智が作成したとされる「阿弥陀如来立像」の特集が組まれている。ちなみに筆者はほぼ無神論者で、自分の家の宗派も度忘れするほどである。筆者の実家は真言宗だそうだ。始祖は空海である。
その真言宗の寺になぜか存在していたこの像が、法然上人800回忌を記念して浄土宗の寺に戻されたという。このことについて、伊藤唯真浄土門主や中井真孝佛教大教授の解説が記事に組まれている。仏教の中で念仏を唯一極楽浄土に行ける行として位置付けた法然上人は、民衆から絶大な支持を得るとともに、当時の政権に敵視され迫害を受けたという。
その法然上人を慕った弟子の源智が建立したとされるこの像であるが、内部には4万人以上の名前が記された文書が入っていたのが発見されている。1979年のことである。この中には、後白河法皇、後鳥羽上皇、平清盛、源頼朝の名前もあり、まさに最重要文化財と呼ぶにふさわしいだろう。記事には、仏像ガール氏の対談、土井通弘氏や安嶋紀昭氏の解説も含まれており、興味深い内容である。
ちなみに、なぜ五木寛之氏の「親鸞」を掲載したかというと、親鸞は法然の弟子だからだ。ベストセラーになったこの小説、筆者も読んだが非常に面白い。誰が読んでも痛快な親鸞の生涯に没入できる内容になっている。波乱万丈の親鸞の生涯を独自の視点で描いたものだ。吉川英二氏による小説とは一線を画すが、恋愛的な要素も盛りだくさんであり、大河ドラマにしても面白いのではないだろうかと思う。ちなみに親鸞が始祖なのは浄土真宗なのでお間違いのないよう。
また、親鸞も法然上人と同様に当時の民衆の絶大な支持を受けた。時代が閉塞的な状況に陥り、仏教界も特権階級の救済のみ考えるようになっていた際に、比叡山から自ら下山して民衆を救おうとしたからである。流刑を覚悟した親鸞の行動はどのような現象を生み出したか。それは皆さんが実際にこの書籍を読んで判断してもらいたい。人間の業とその救済をここまで描いた小説は数少ない。無神論者の私でも強く感動を覚えたのを覚えている。
白鵬関、新年の意気込みを語る
再びこの日の読売新聞であるが、16面に「角界再生へ『覚悟の年』」と題したこのコラムが掲載されている。記事で放駒親方がまずこのように述べている。
新生の年となるように全力を尽くす。
昨年の不祥事を一切断ち切る覚悟を込めて述べたのだろう。そして同じような気持ちを込めて白鵬関はこのように述べている。
新たな挑戦、道のりが始まる。
(両陛下と)同じ屋根の下で、いい相撲を取れたことがうれしい。
昨年、双葉山関の69連勝に挑んだが、歴代2位63勝にとどまった。これだけでも相当な成績であるが、1位を達成できなかったことに対する悔やみは想像以上のものがあるだろう。それでも白鵬関が凄いのは、その後一切未練を断ち切って連勝を続けたことである。
筆者はこのような白鵬関の人格を尊敬する。相撲で強いことではない。むしろ、この人格の高潔さ、人柄の良さが心技体を支えているのだろう。白鵬関は再び新たな挑戦を始めた。同様な気持ちで私も毎日ブログの更新を続けていきたいと思っている。常に白鵬関を応援している。今年も頑張ってほしいものである。
日本における国際戦略の重要性と農政に関して
~CSISジョン・ハムレ氏と生源寺真一氏のインタビューより~
-最終更新日:2011年1月10日(月)-
本日も1月8日(土)と1月9日(日)の読売新聞1面「日本の革新」からである。このシリーズが素晴らしいのは、日本の国家戦略について、様々な視点から日本と世界の主要な人物のオピニオンをわかりやすく掲載していることである。筆者は朝日新聞の「孤族の国」も好きであり、これらはまさに新聞の良心と呼べるコラムだろう。
まずハムレ氏のコラムから。氏の主張を端的に述べると「日本は日米同盟に依存せずに独自の国家戦略を形成すべきだ」というものである。筆者もこれに強く同感で、日本の国家戦略のなさには辟易するばかりである。その主要な要因が、選挙目的で短絡な公約を各政党が打ち上げることよって、ちぐはぐな一貫性のない国政になってしまっていることだというのはほとんどの方に同意いただけるのではないかと思う。
また、氏は中国との関係が極めて難しくなるだろうということを予測しながらも、かつての冷戦のような状態は作ってはならないとする。上の参考図書はハムレ氏が所長を務めている戦略国際問題研究所の書籍であり、和訳すると「アメリカ政治像における中国」といったところだろうか。今後ビジネスパートナーとしては日米とも欠かせない存在であることには変わらず、その上での良好な米中・日中関係とはどのようなものだろうか。考えさせられるものがある。
そして、氏は日本の国連の常任理事国入りを強く支持している。もう少しで日本は非常任理事国ですらなくなってしまうことに対する危惧も抱いている。筆者も国際舞台における日本の関与度が希薄化することに懸念を感じるのである。オバマ大統領が初めて来日した時に、日本のマスコミにも戦略性があるのかという内容の発言をした。しかし、その後は政治にも全く統一性も戦略性も見えない。このような日本の現状を早く脱却することを望むものである。やはり、数十年スパンの国家戦略についてはアメリカのほうが遥かに先をいっているのである。
次に生源寺氏の農政に関するコラムである。氏はTPPか農業重視かの二元論を避け、国益のためにどう両立すればいいかを建設的に語っている。ともすれば業界団体の圧力によって捻じ曲げられてしまいがちな国政であるが、自由貿易協定それ自体は日本の今後の戦略に欠かせない。ここは感情論ではなく氏が述べるような両立可能性について構築性をもって議論されなければならないだろう。
現状の戸別所得保障制度のように作物価格の下落に対して補償を行うのがヨーロッパを含めたトレンドの施策である。作物価格が下落した状態は国際競争力を維持しやすく、これに対してわざわざ国が物価調整する必要がないというのが理由である。この施策を維持したまま、工業部門は自由化することによって日本全体の産業の浮揚を狙えることは誰にでも想像できるだろう。あとはどのような着地点にすべきかを政治がリーダーシップをもって解決するだけだ。
それに、日本の農業も高度化して輸出に特化しなければならない。いつまでも国内の需要を満たすだけの農業では先進国として限界に達している。日本の甘い果物は海外富裕層が頻繁に購入する。例を挙げると、中国にとって縁起のいい色である赤に対して、真っ赤な青森のリンゴが爆発的に売れている現象が挙げられる。このような作物に特許性を帯びさせることができれば、日本独自の産業に発展するのである。
それにしてもこの読売新聞の「日本の革新」コーナーは新聞の意地を感じる。実現には相当労力を費やしているものと思われる。情報が氾濫する世界において、新聞社のプライドを見せているといったところだろうか。筆者は、購読に値するプロの文章は民主主義を保持する能力はいまだ十分にあり、不可欠であると感じている昨今である。
-最終更新日:2011年1月10日(月)-
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本日も1月8日(土)と1月9日(日)の読売新聞1面「日本の革新」からである。このシリーズが素晴らしいのは、日本の国家戦略について、様々な視点から日本と世界の主要な人物のオピニオンをわかりやすく掲載していることである。筆者は朝日新聞の「孤族の国」も好きであり、これらはまさに新聞の良心と呼べるコラムだろう。
まずハムレ氏のコラムから。氏の主張を端的に述べると「日本は日米同盟に依存せずに独自の国家戦略を形成すべきだ」というものである。筆者もこれに強く同感で、日本の国家戦略のなさには辟易するばかりである。その主要な要因が、選挙目的で短絡な公約を各政党が打ち上げることよって、ちぐはぐな一貫性のない国政になってしまっていることだというのはほとんどの方に同意いただけるのではないかと思う。
また、氏は中国との関係が極めて難しくなるだろうということを予測しながらも、かつての冷戦のような状態は作ってはならないとする。上の参考図書はハムレ氏が所長を務めている戦略国際問題研究所の書籍であり、和訳すると「アメリカ政治像における中国」といったところだろうか。今後ビジネスパートナーとしては日米とも欠かせない存在であることには変わらず、その上での良好な米中・日中関係とはどのようなものだろうか。考えさせられるものがある。
そして、氏は日本の国連の常任理事国入りを強く支持している。もう少しで日本は非常任理事国ですらなくなってしまうことに対する危惧も抱いている。筆者も国際舞台における日本の関与度が希薄化することに懸念を感じるのである。オバマ大統領が初めて来日した時に、日本のマスコミにも戦略性があるのかという内容の発言をした。しかし、その後は政治にも全く統一性も戦略性も見えない。このような日本の現状を早く脱却することを望むものである。やはり、数十年スパンの国家戦略についてはアメリカのほうが遥かに先をいっているのである。
次に生源寺氏の農政に関するコラムである。氏はTPPか農業重視かの二元論を避け、国益のためにどう両立すればいいかを建設的に語っている。ともすれば業界団体の圧力によって捻じ曲げられてしまいがちな国政であるが、自由貿易協定それ自体は日本の今後の戦略に欠かせない。ここは感情論ではなく氏が述べるような両立可能性について構築性をもって議論されなければならないだろう。
現状の戸別所得保障制度のように作物価格の下落に対して補償を行うのがヨーロッパを含めたトレンドの施策である。作物価格が下落した状態は国際競争力を維持しやすく、これに対してわざわざ国が物価調整する必要がないというのが理由である。この施策を維持したまま、工業部門は自由化することによって日本全体の産業の浮揚を狙えることは誰にでも想像できるだろう。あとはどのような着地点にすべきかを政治がリーダーシップをもって解決するだけだ。
それに、日本の農業も高度化して輸出に特化しなければならない。いつまでも国内の需要を満たすだけの農業では先進国として限界に達している。日本の甘い果物は海外富裕層が頻繁に購入する。例を挙げると、中国にとって縁起のいい色である赤に対して、真っ赤な青森のリンゴが爆発的に売れている現象が挙げられる。このような作物に特許性を帯びさせることができれば、日本独自の産業に発展するのである。
それにしてもこの読売新聞の「日本の革新」コーナーは新聞の意地を感じる。実現には相当労力を費やしているものと思われる。情報が氾濫する世界において、新聞社のプライドを見せているといったところだろうか。筆者は、購読に値するプロの文章は民主主義を保持する能力はいまだ十分にあり、不可欠であると感じている昨今である。
消費税増税は必要かどうか
~財政再建をあきらめてはならない日本にとって~
-最終更新日:2011年1月9日(日)-
今回も1月7日の新聞にインスピレーションを得て掲載する。今度は読売新聞の1面「日本の改新」コーナー5回目、東京大学教授の伊藤隆敏氏のコラムである。
これを読んで筆者は痛快に感じた。なかなか国の台所事情を表ざたにして論を張れない識者が多い中で、端的に日本の財政事情を説いているからである。氏はこのように述べている。「財政赤字が今のままなら、国債の安定消化ができるのは最大であと5年ほどではないか」。それほどまでに日本は追い詰められている。それなのに政治はのんきだ。今年も埋蔵金のねん出とわずかばかりの無駄の削減に終わったのみで、国債発行額は税収を軽く超えている。抜本的な経費削減は達成されておらず、財政再建のめどは立たない。
これに対して筆者は原因が二つあると思う。一つは庶民の先を見る目のなさ、もう一つは政治の停滞である。前者に関しては、日本の国民があと数年、できれば10年消費税増税に対して許容的であれば、これほどまでの財政赤字はなかったということである。そして政治の停滞。こちらは庶民の許容性のなさに拍車をかけて、選挙に勝つために消費税増税を公約として打ち出すことができなかったという現実である。つまり、政治は国民をだまして選挙に勝とうとし、庶民は国の台所事情などいざ知らずというのが日本の置かれたこの10年の現状だったわけである。
あらかじめ述べておきたいが、政治の質は国民の質に比例する。政治の質を上げるには国民の政治に対する関心をあげてもっと参加的にならなければならない。いざ財政赤字になった国を立て直すには、国民に高い教養が求められるのである。これが失われた10年間だったのではないかと思う。責任は何も政治にばかりあるわけではない。
悲観的にならずとも、伊藤氏が指摘しているように、国債の95%を国内で引き受けていること、あと数年は余裕があることからここで踏ん張ればいいのである。ただし、消費税増税は避けて通れない。ある程度国の財政がわかる人間なら試算ができてしまうのだが、最終的には現段階より15%~20%の増税が必要だという。氏も述べているが、学識者や官僚はある程度この現実を知って前政権でも自民党に突き付けていたのだが、国民に許容性がなかった。これだけは国民が反省しなければならないことだと筆者は付け加えておきたい。
消費税増税にあたってもさまざまな工夫がある。伊藤氏が挙げているのが、①貿易の自由化とTPPへの参加、②少子化への対策、③消費税のインボイス式の導入、などをあげている。順に説明を加えていきたい。①については先日の記事でふれたとおりである。②については税収の観点から明示的である。フランスが少子化対策を大々的に行って合計特殊出生率を2以上に引き上げたことから、財政問題などが切迫した先進国の主要課題でもある。
③についてだが、これが消費税増税にとって国民の理解を得るのに非常に重要である。消費税増税は累進的な税とは違い、万人に共通して課せられる税である。したがって、高所得者ほど負担が軽く、低所得者ほど負担が重いとされる。これではますます住みにくい国になる一方である。そこで氏が提案するのが「インボイス」(税額票)方式である。生活必需品であるミルクやパン、コメには消費税がかからないという方式だ。筆者の知識だと、諸外国ではこれに加えて贅沢品・奢侈品により重い税をかける方式をとっている国も存在する。国民の理解を得るには必要不可欠だろう。
最後に、氏の著書について少し触れる。著者はインフレ目標といって、政府がインフレ率をどれだけ上昇させるかを目標として政策決定を行う方式を提唱している。それが冒頭の著書である。インフレターゲットという言葉をどこかで聞いたことがある方もおられるかもしれない。このデフレ状況下にあって、スパイラルに陥らないためにも、大胆な日銀の介入と財政政策が行われなければならない。日銀は2010年10月に包括緩和を決めたが、これも以前から学識者が提唱していたことだと伊藤氏は指摘する。今の日本、知識と国民の力を総動員して国を立て直す時期である。読者の皆さんにもこの意識を持っていただきたいというのが筆者の願いである。
-最終更新日:2011年1月9日(日)-
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今回も1月7日の新聞にインスピレーションを得て掲載する。今度は読売新聞の1面「日本の改新」コーナー5回目、東京大学教授の伊藤隆敏氏のコラムである。
これを読んで筆者は痛快に感じた。なかなか国の台所事情を表ざたにして論を張れない識者が多い中で、端的に日本の財政事情を説いているからである。氏はこのように述べている。「財政赤字が今のままなら、国債の安定消化ができるのは最大であと5年ほどではないか」。それほどまでに日本は追い詰められている。それなのに政治はのんきだ。今年も埋蔵金のねん出とわずかばかりの無駄の削減に終わったのみで、国債発行額は税収を軽く超えている。抜本的な経費削減は達成されておらず、財政再建のめどは立たない。
これに対して筆者は原因が二つあると思う。一つは庶民の先を見る目のなさ、もう一つは政治の停滞である。前者に関しては、日本の国民があと数年、できれば10年消費税増税に対して許容的であれば、これほどまでの財政赤字はなかったということである。そして政治の停滞。こちらは庶民の許容性のなさに拍車をかけて、選挙に勝つために消費税増税を公約として打ち出すことができなかったという現実である。つまり、政治は国民をだまして選挙に勝とうとし、庶民は国の台所事情などいざ知らずというのが日本の置かれたこの10年の現状だったわけである。
あらかじめ述べておきたいが、政治の質は国民の質に比例する。政治の質を上げるには国民の政治に対する関心をあげてもっと参加的にならなければならない。いざ財政赤字になった国を立て直すには、国民に高い教養が求められるのである。これが失われた10年間だったのではないかと思う。責任は何も政治にばかりあるわけではない。
悲観的にならずとも、伊藤氏が指摘しているように、国債の95%を国内で引き受けていること、あと数年は余裕があることからここで踏ん張ればいいのである。ただし、消費税増税は避けて通れない。ある程度国の財政がわかる人間なら試算ができてしまうのだが、最終的には現段階より15%~20%の増税が必要だという。氏も述べているが、学識者や官僚はある程度この現実を知って前政権でも自民党に突き付けていたのだが、国民に許容性がなかった。これだけは国民が反省しなければならないことだと筆者は付け加えておきたい。
消費税増税にあたってもさまざまな工夫がある。伊藤氏が挙げているのが、①貿易の自由化とTPPへの参加、②少子化への対策、③消費税のインボイス式の導入、などをあげている。順に説明を加えていきたい。①については先日の記事でふれたとおりである。②については税収の観点から明示的である。フランスが少子化対策を大々的に行って合計特殊出生率を2以上に引き上げたことから、財政問題などが切迫した先進国の主要課題でもある。
③についてだが、これが消費税増税にとって国民の理解を得るのに非常に重要である。消費税増税は累進的な税とは違い、万人に共通して課せられる税である。したがって、高所得者ほど負担が軽く、低所得者ほど負担が重いとされる。これではますます住みにくい国になる一方である。そこで氏が提案するのが「インボイス」(税額票)方式である。生活必需品であるミルクやパン、コメには消費税がかからないという方式だ。筆者の知識だと、諸外国ではこれに加えて贅沢品・奢侈品により重い税をかける方式をとっている国も存在する。国民の理解を得るには必要不可欠だろう。
最後に、氏の著書について少し触れる。著者はインフレ目標といって、政府がインフレ率をどれだけ上昇させるかを目標として政策決定を行う方式を提唱している。それが冒頭の著書である。インフレターゲットという言葉をどこかで聞いたことがある方もおられるかもしれない。このデフレ状況下にあって、スパイラルに陥らないためにも、大胆な日銀の介入と財政政策が行われなければならない。日銀は2010年10月に包括緩和を決めたが、これも以前から学識者が提唱していたことだと伊藤氏は指摘する。今の日本、知識と国民の力を総動員して国を立て直す時期である。読者の皆さんにもこの意識を持っていただきたいというのが筆者の願いである。
「事業仕分け」の力
~初めてメスが入った構造的な改革となる行政レビュー~
-最終更新日:2011年1月7日(金)-
ちょっと旬が過ぎたが、最近の政治では目覚ましい業績をあげた「事業仕分け」を取り上げてみようと思う。事業仕訳は、民主党が政権交代直後に行った目玉施策の一つで、行政改革担当大臣である現仙谷由人官房長官を中心に行われた。その後、次年には枝野氏が大臣に就任して行っている。さまざまな論点がこの事業仕分けにあるが、この書籍の最後にこのように書かれている。
結果がすぐ出る事業を削減しがちであった。より長期的視野での検討を可能にし、かつ、政治的にアンタッチャブルなテーマについても取り組みうるという意識を醸成。(同著p.198)
これは、事業仕訳のモデルとなったカナダのプログラム・レビューにおける効果を列挙したものの抜粋である。このプログラム・レビューとは、1990年代のカナダにおける財政赤字が厳しい状況の中で行われた行政改革である。同じように削減できる行政項目を同じ手法でレビューすることによって、削減の強制力を持たせるという手法である。
日本における事業仕分けも実は法的拘束力がない。事業仕分けで削減対象とされた事業は削減する必要がないのである。しかし、政治家による公平なレビューをあれだけテレビ中継で報道され記録に残されたら削減しないと面目が立たない。その程度の拘束力だけで行われている。それでも予算削減の原動力となったことに間違いはない。いろいろ言われる事業仕分けであるが、確実に日本の政治史において前向きに評価できる痕跡を残したといえるだろう。筆者はインターネット中継でA・B両チームの仕分けの様子を見ていたが、「下手なテレビ番組より面白い」などというtwitterの発言もあった。蓮舫議員が冴えまくっていたのを覚えている。お名前を忘れて申し訳ないが、民間のきわめて優秀な仕分け人の方々も強く印象に残っている。
この事業仕分け、現在ではそれ自体は不必要になりつつあるとされながらも、「行政レビュー」としてさまざまな分野で小規模に行われている。無駄な事業を公開してレビューすること自体が予算削減につながるということで、継続して行おうということだろう。あとはこの「行政レビュー」がどれだけ実行力を持って根を張れるかだ。
ちなみに、枝野氏は弁護士出身である。政治家には弁護士出身の議員が多い。筆者が知っている中で弁護士出身の議員といえば、自民党の白川勝彦元議員や民主党の仙谷由人現官房長官、横粂勝仁議員、社民党の福島瑞穂議員あたりである。法曹界のトップの弁護士といえば知能指数は折り紙つきなわけで、やはり優秀な議員が多いということだろう。
と思って調べてみたら、自民党の谷垣禎一総裁も弁護士出身だった。道理であれだけ頭の回転のパフォーマンスがいいしゃべり方ができるのだ。他にもたくさんおられると思うが、無知な筆者だけにご容赦いただきたい。
-最終更新日:2011年1月7日(金)-
![]() | 「事業仕分け」の力 (集英社新書 540A) (2010/04/16) 枝野 幸男 商品詳細を見る |
ちょっと旬が過ぎたが、最近の政治では目覚ましい業績をあげた「事業仕分け」を取り上げてみようと思う。事業仕訳は、民主党が政権交代直後に行った目玉施策の一つで、行政改革担当大臣である現仙谷由人官房長官を中心に行われた。その後、次年には枝野氏が大臣に就任して行っている。さまざまな論点がこの事業仕分けにあるが、この書籍の最後にこのように書かれている。
結果がすぐ出る事業を削減しがちであった。より長期的視野での検討を可能にし、かつ、政治的にアンタッチャブルなテーマについても取り組みうるという意識を醸成。(同著p.198)
これは、事業仕訳のモデルとなったカナダのプログラム・レビューにおける効果を列挙したものの抜粋である。このプログラム・レビューとは、1990年代のカナダにおける財政赤字が厳しい状況の中で行われた行政改革である。同じように削減できる行政項目を同じ手法でレビューすることによって、削減の強制力を持たせるという手法である。
日本における事業仕分けも実は法的拘束力がない。事業仕分けで削減対象とされた事業は削減する必要がないのである。しかし、政治家による公平なレビューをあれだけテレビ中継で報道され記録に残されたら削減しないと面目が立たない。その程度の拘束力だけで行われている。それでも予算削減の原動力となったことに間違いはない。いろいろ言われる事業仕分けであるが、確実に日本の政治史において前向きに評価できる痕跡を残したといえるだろう。筆者はインターネット中継でA・B両チームの仕分けの様子を見ていたが、「下手なテレビ番組より面白い」などというtwitterの発言もあった。蓮舫議員が冴えまくっていたのを覚えている。お名前を忘れて申し訳ないが、民間のきわめて優秀な仕分け人の方々も強く印象に残っている。
この事業仕分け、現在ではそれ自体は不必要になりつつあるとされながらも、「行政レビュー」としてさまざまな分野で小規模に行われている。無駄な事業を公開してレビューすること自体が予算削減につながるということで、継続して行おうということだろう。あとはこの「行政レビュー」がどれだけ実行力を持って根を張れるかだ。
ちなみに、枝野氏は弁護士出身である。政治家には弁護士出身の議員が多い。筆者が知っている中で弁護士出身の議員といえば、自民党の白川勝彦元議員や民主党の仙谷由人現官房長官、横粂勝仁議員、社民党の福島瑞穂議員あたりである。法曹界のトップの弁護士といえば知能指数は折り紙つきなわけで、やはり優秀な議員が多いということだろう。
と思って調べてみたら、自民党の谷垣禎一総裁も弁護士出身だった。道理であれだけ頭の回転のパフォーマンスがいいしゃべり方ができるのだ。他にもたくさんおられると思うが、無知な筆者だけにご容赦いただきたい。
2011年日本政治の行く末は
-最終更新日:2011年1月6日(木)-
①日本の政治の動向に関する所感
②TPP環太平洋経済連携協定への参加の是非
③シュワルツェネッガー氏、引退
今回はこの3つのテーマについて今年の政治の行く末を考えてみたいと思います。このカテゴリ「日本の政治を考える」はさまざまな視点で骨太な記事を書いていきたいと思います。このブログの中でも重要な意味合いがある記事だとご理解いただければ幸いです。
①日本の政治の動向に関する所感
1月5日の読売新聞の3面に菅首相と自民党谷垣総裁の一年の抱負が掲載されている。今回の記事はこの日の朝日新聞の記事と両方を読んでの所感である。
昨年、政治への国民の失望感は頂点に達した。政治と金、領海問題、北朝鮮の脅威、法案成立率過去最低。いずれも既存の政権がイニシアチブをとることができずにこれらの問題に翻弄された。年末までに支持率は急低下。現在でも今後の政争の行く末が見えないでいる。
筆者は、その解決策の一つが大連立だと考えている。水と油と呼ばれかねないが、もともと民主党も水と油の勢力で成立している。それよりも看過できないのが政治の停滞である。ねじれ状態でお互いの失点のみ喜びあうような国会は何とかならないだろうかと思っている国民の方も多いのではないだろうか。
大連立というのは、先進諸国を見ても珍しい政治形態である。特に二大政党制が定着した国家は通常はこの形態をとらない。しかし、日本の場合はさまざまな未解決の政治問題を手早く進めていかなければならない。そのためには、大連立は十分な大義名分になるのである。
思えば、福田政権時代に大連立構想が浮かび上がったが、もし既存の政治家がわだかまりを乗り越えて成立していたらと思う方も多いのではないだろうか。おそらく財政再建に関する法案が1年以上早く成立したに違いない。実現不可能なように見えるが、今の日本の置かれた状況は大連立を選ぶことに非常に効果があると言い切ることができる。この時は日本の行く先を案じるがために会談が実現したのだろう。
先日掲載した薮中元外務次官とジョセフ・ナイ氏のインタビューにもあるように、日本には現存の閉塞感を打破するブレイク・スルーが必要なのである。期待とか羨望とかそういうのを政治に投げかける前に、一回実現可能なことを前提として緻密に話し合いを始めてはどうだろうか。実現したら、国民の不満が一気に解消されるような政治の突破口になるだろう。
読者の皆さんはどのようにお考えだろうか。筆者は日本が避けて通れない道の一つだと考えている。
②TPP(環太平洋経済連携協定)への参加の是非
二つ目の記事は自由貿易協定(FTA)に関してである。現在、日本はTPP(環太平洋経済連携協定)への参加か否かで揺れている。上記の菅首相によると、6月を目途に表明すると発表しているが、どうなるのだろうか。日本の行く末を決める要素の一つといわれているTPP参加、これについて考察してみたい。
そもそも、自由貿易協定とは、ある貿易を交わしている2国が、国内産業の保護を顧みずに自由な貿易を促進するものとして結ぶものである。たいていの場合は関税率を下げることによって、輸出産業を促進させるものである。TPPとは、環太平洋国家の自由貿易協定の一つで、現在これらの国の多くが参加について検討を始めている。
ここで、自由貿易協定を多国間と結ぶことによって、国内浮揚を成功させている国家を挙げよう。韓国である。2011年1月5日の読売新聞には、同国前首相の鄭雲燦(チョン・ウンチャン)氏のインタビューが掲載されいている。韓国は、輸出入額が国内総生産に占める割合が多く、貿易依存度が高い国家である。それゆえ、国内産業を守るか、それとも自由貿易協定路線に走るかで国内に大きな摩擦が生じていた。しかし、国内の浮揚のためには輸出産業の保護は避けられない。これに対し、国内全体が一体感を持って各国との自由貿易協定の締結に共同して参画してきたのである。これは有名な盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の時代に始められたことである。
これに対し、日本も、現在TPPに参加するかどうかで揺れている。もし参加した場合、国内の農業をはじめとする産業へのダメージは避けられず、難しい問題である。しかし、例えば、韓国はヨーロッパなどと独自の自由貿易協定を結ぶことによって、関税率を大幅に削減する協定を2010年中に結んでいる。これは、日本がヨーロッパに輸出する際よりもメリットがあるということであり、発行すれば国内の産業にとって大きな脅威となる。
日本もこれに遅れまいとする動きがあるが、やはり鈍い。多くの論客がTPP参加と同時に国内産業の保護の施策を進めなければならないことを論じているが、政治はなかなか動かない。この問題に対しても、日本の政治はイニシアチブを持って臨んでいかなければならないだろう。
最近では、日米韓の軍事合同演習の必要についても取りざたされており、環太平洋の経済的連携だけでなく、民主主義国家を守るための軍事連携についても取りざたもされている。これは先日の時事問題(4)、時事問題(5)において、日米同盟について取り上げたことからお分かりいただけるかと思う。軍事連携のほうは慎重な問題であるが、これらに遅れるということは日本が沈滞するということに他ならない。強い意識を日本の政治家には持っていただきたいと筆者は願っている。
③シュワルツェネッガー氏、引退
アーノルド・シュワルツェネッガー氏がアメリカ、カリフォルニア州知事を引退した。7年の任期をまっとうしてのことである。
氏は1968年にオーストリアから単身で渡米。ボディビルダーであったことや優秀な演技力を買われ、「コナン・ザ・グレート」や「ターミネーター」シリーズに出演。一躍アメリカのスターとなった。日本でもこれらの映画は大ヒットし、「シュワちゃん」の愛称で親しまれる。ちなみにこの愛称を最初に作ったとされるのが、故・淀川長治さんである。
もともと優秀な学歴のあるシュワルツェネッガー氏は2003年にカリフォルニア州知事選挙に立候補。選挙直前である2か月前の立候補だったが、全米的な人気者であり集中票を受けトップ当選。ここにアメリカンドリームが実現した。
しかし、知事としてのキャリアは苦難の連続だった。当選当時からカリフォルニア州には膨大な財政赤字が存在し、共和党と民主党のはざまに立たされ法案成立もままならなかった。アメリカは厳しくシュワルツェネッガー氏の政治手腕を批判するが、それには無理があるだろう。政治とは数のパワーゲームであり、政治家個人の資質や能力以外が左右する部分が大きい。間違いなくシュワルツェネッガー氏は人気・実力ともに優秀な存在なのだから。
筆者はこれで一つの時代が終わってしまったのかと悲しい。しかし、シュワルツェネッガー氏の去来として、俳優への復帰や環境事業家への転身の噂が取りざたされている。なじみの深い日本のファンとしては、末永く氏の動向に注目していたいと感じるのである。筆者の皆さんはどう思われるだろうか。
今回はこのように政治に関する記事を3つ書いたが、日本政治の行く末にいまだ光明が見えない。これに対し我々はただじっと見ているのではなく、主体的にしっかり考察しながらオピニオンを表出しなければならない。政治に失望するにはまだ早いのだという観点から、力のこもった記事をこれからも書いていきたいと思う。ご期待ください。
①日本の政治の動向に関する所感
②TPP環太平洋経済連携協定への参加の是非
③シュワルツェネッガー氏、引退
今回はこの3つのテーマについて今年の政治の行く末を考えてみたいと思います。このカテゴリ「日本の政治を考える」はさまざまな視点で骨太な記事を書いていきたいと思います。このブログの中でも重要な意味合いがある記事だとご理解いただければ幸いです。
①日本の政治の動向に関する所感
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1月5日の読売新聞の3面に菅首相と自民党谷垣総裁の一年の抱負が掲載されている。今回の記事はこの日の朝日新聞の記事と両方を読んでの所感である。
昨年、政治への国民の失望感は頂点に達した。政治と金、領海問題、北朝鮮の脅威、法案成立率過去最低。いずれも既存の政権がイニシアチブをとることができずにこれらの問題に翻弄された。年末までに支持率は急低下。現在でも今後の政争の行く末が見えないでいる。
筆者は、その解決策の一つが大連立だと考えている。水と油と呼ばれかねないが、もともと民主党も水と油の勢力で成立している。それよりも看過できないのが政治の停滞である。ねじれ状態でお互いの失点のみ喜びあうような国会は何とかならないだろうかと思っている国民の方も多いのではないだろうか。
大連立というのは、先進諸国を見ても珍しい政治形態である。特に二大政党制が定着した国家は通常はこの形態をとらない。しかし、日本の場合はさまざまな未解決の政治問題を手早く進めていかなければならない。そのためには、大連立は十分な大義名分になるのである。
思えば、福田政権時代に大連立構想が浮かび上がったが、もし既存の政治家がわだかまりを乗り越えて成立していたらと思う方も多いのではないだろうか。おそらく財政再建に関する法案が1年以上早く成立したに違いない。実現不可能なように見えるが、今の日本の置かれた状況は大連立を選ぶことに非常に効果があると言い切ることができる。この時は日本の行く先を案じるがために会談が実現したのだろう。
先日掲載した薮中元外務次官とジョセフ・ナイ氏のインタビューにもあるように、日本には現存の閉塞感を打破するブレイク・スルーが必要なのである。期待とか羨望とかそういうのを政治に投げかける前に、一回実現可能なことを前提として緻密に話し合いを始めてはどうだろうか。実現したら、国民の不満が一気に解消されるような政治の突破口になるだろう。
読者の皆さんはどのようにお考えだろうか。筆者は日本が避けて通れない道の一つだと考えている。
②TPP(環太平洋経済連携協定)への参加の是非
二つ目の記事は自由貿易協定(FTA)に関してである。現在、日本はTPP(環太平洋経済連携協定)への参加か否かで揺れている。上記の菅首相によると、6月を目途に表明すると発表しているが、どうなるのだろうか。日本の行く末を決める要素の一つといわれているTPP参加、これについて考察してみたい。
そもそも、自由貿易協定とは、ある貿易を交わしている2国が、国内産業の保護を顧みずに自由な貿易を促進するものとして結ぶものである。たいていの場合は関税率を下げることによって、輸出産業を促進させるものである。TPPとは、環太平洋国家の自由貿易協定の一つで、現在これらの国の多くが参加について検討を始めている。
ここで、自由貿易協定を多国間と結ぶことによって、国内浮揚を成功させている国家を挙げよう。韓国である。2011年1月5日の読売新聞には、同国前首相の鄭雲燦(チョン・ウンチャン)氏のインタビューが掲載されいている。韓国は、輸出入額が国内総生産に占める割合が多く、貿易依存度が高い国家である。それゆえ、国内産業を守るか、それとも自由貿易協定路線に走るかで国内に大きな摩擦が生じていた。しかし、国内の浮揚のためには輸出産業の保護は避けられない。これに対し、国内全体が一体感を持って各国との自由貿易協定の締結に共同して参画してきたのである。これは有名な盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の時代に始められたことである。
これに対し、日本も、現在TPPに参加するかどうかで揺れている。もし参加した場合、国内の農業をはじめとする産業へのダメージは避けられず、難しい問題である。しかし、例えば、韓国はヨーロッパなどと独自の自由貿易協定を結ぶことによって、関税率を大幅に削減する協定を2010年中に結んでいる。これは、日本がヨーロッパに輸出する際よりもメリットがあるということであり、発行すれば国内の産業にとって大きな脅威となる。
日本もこれに遅れまいとする動きがあるが、やはり鈍い。多くの論客がTPP参加と同時に国内産業の保護の施策を進めなければならないことを論じているが、政治はなかなか動かない。この問題に対しても、日本の政治はイニシアチブを持って臨んでいかなければならないだろう。
最近では、日米韓の軍事合同演習の必要についても取りざたされており、環太平洋の経済的連携だけでなく、民主主義国家を守るための軍事連携についても取りざたもされている。これは先日の時事問題(4)、時事問題(5)において、日米同盟について取り上げたことからお分かりいただけるかと思う。軍事連携のほうは慎重な問題であるが、これらに遅れるということは日本が沈滞するということに他ならない。強い意識を日本の政治家には持っていただきたいと筆者は願っている。
③シュワルツェネッガー氏、引退
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アーノルド・シュワルツェネッガー氏がアメリカ、カリフォルニア州知事を引退した。7年の任期をまっとうしてのことである。
氏は1968年にオーストリアから単身で渡米。ボディビルダーであったことや優秀な演技力を買われ、「コナン・ザ・グレート」や「ターミネーター」シリーズに出演。一躍アメリカのスターとなった。日本でもこれらの映画は大ヒットし、「シュワちゃん」の愛称で親しまれる。ちなみにこの愛称を最初に作ったとされるのが、故・淀川長治さんである。
もともと優秀な学歴のあるシュワルツェネッガー氏は2003年にカリフォルニア州知事選挙に立候補。選挙直前である2か月前の立候補だったが、全米的な人気者であり集中票を受けトップ当選。ここにアメリカンドリームが実現した。
しかし、知事としてのキャリアは苦難の連続だった。当選当時からカリフォルニア州には膨大な財政赤字が存在し、共和党と民主党のはざまに立たされ法案成立もままならなかった。アメリカは厳しくシュワルツェネッガー氏の政治手腕を批判するが、それには無理があるだろう。政治とは数のパワーゲームであり、政治家個人の資質や能力以外が左右する部分が大きい。間違いなくシュワルツェネッガー氏は人気・実力ともに優秀な存在なのだから。
筆者はこれで一つの時代が終わってしまったのかと悲しい。しかし、シュワルツェネッガー氏の去来として、俳優への復帰や環境事業家への転身の噂が取りざたされている。なじみの深い日本のファンとしては、末永く氏の動向に注目していたいと感じるのである。筆者の皆さんはどう思われるだろうか。
今回はこのように政治に関する記事を3つ書いたが、日本政治の行く末にいまだ光明が見えない。これに対し我々はただじっと見ているのではなく、主体的にしっかり考察しながらオピニオンを表出しなければならない。政治に失望するにはまだ早いのだという観点から、力のこもった記事をこれからも書いていきたいと思う。ご期待ください。
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日米同盟のあり方を考える②
~前回に引き続き、ジェームズ・ベーカー氏のインタビューから考察する~
-最終更新日:2011年1月5日(水)-
掲載が遅れてしまって申し訳ない。前回のジョセフ・ナイ氏の「日米同盟のあり方を考える①」に続き、第二段である。今回は2011年1月4日の読売新聞に掲載された、米国共和党の重鎮ジェームズ・ベーカー氏によるインタビューから考察する。ちなみに書籍は氏が1997年にブッシュ元大統領の国務長官だった激動の時代の回顧録である。
この日の読売新聞によると、ジェームズ・ベーカー氏は日本はいまだ世界第三位のプレーヤーであり、国際的な重要性は何も失われていない。その上で、自由主義貿易によって日本の本来性を取り戻せば、浮揚も可能だとしている。その上で重要な点は以下のことであることを強調している。
日本が再び世界で輝くには、内なる強さを見つめなおす必要がある。民族間の対立がないこと、民主主義への決意、勤勉な国民性を強みとして、困難から立ち上がれると信じることだ。
筆者はこの言葉に強い共感を覚える。まさにアメリカが民主主義の黄金時代を築いた時の国務長官である。氏はこの書籍で「この男(ブッシュ元大統領)がいなければ時代が変わっていたかも知れない」と述べている。冷戦時代を終え、ソ連の崩壊やイラクの湾岸戦争を切り抜けたアメリカに付き従っていた人物である。鉄の精神で民主主義を守ろうとしたことがうかがえるのである。
そのベーカー氏も日米同盟が重要だと強く主張する。前回述べたように、一度関係が希薄化してしまっては、環太平洋の民主主義に大きなマイナスの影響を及ぼすからだ。それは北朝鮮の脅威が強く示している。「日米関係の強化に努めた人間として、日本で安保50年にあたって支持を低調なのを見るのはつらい」と述べている氏は、共通の価値観として両国に根ざしてきた安保の復活を願っている。筆者も同じ気持ちである。
ちなみに、アメリカ共和党といえば新自由主義経済路線のイメージが強く、そのように氏を見てしまいがちだ。しかし、インタビューでは国際的な財政均衡が必要だという主張をしている。これはグローバリズムの加熱によって発生した赤字国と黒字国の格差を修正する論であり、氏に対する浅はかなイメージの押し付けは控えなければならない。それはすなわち、日本の国益を代弁したものでもあるからだ。
懸命な読者の皆さんは、ジョセフ・ナイ氏とジェームズ・ベーカー氏から得られる知見が多いことに気付くはずだ。日本の政治にブレイクスルーが必要とされる昨今、国民である我々も真剣に考えなければならない。
-最終更新日:2011年1月5日(水)-
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掲載が遅れてしまって申し訳ない。前回のジョセフ・ナイ氏の「日米同盟のあり方を考える①」に続き、第二段である。今回は2011年1月4日の読売新聞に掲載された、米国共和党の重鎮ジェームズ・ベーカー氏によるインタビューから考察する。ちなみに書籍は氏が1997年にブッシュ元大統領の国務長官だった激動の時代の回顧録である。
この日の読売新聞によると、ジェームズ・ベーカー氏は日本はいまだ世界第三位のプレーヤーであり、国際的な重要性は何も失われていない。その上で、自由主義貿易によって日本の本来性を取り戻せば、浮揚も可能だとしている。その上で重要な点は以下のことであることを強調している。
日本が再び世界で輝くには、内なる強さを見つめなおす必要がある。民族間の対立がないこと、民主主義への決意、勤勉な国民性を強みとして、困難から立ち上がれると信じることだ。
筆者はこの言葉に強い共感を覚える。まさにアメリカが民主主義の黄金時代を築いた時の国務長官である。氏はこの書籍で「この男(ブッシュ元大統領)がいなければ時代が変わっていたかも知れない」と述べている。冷戦時代を終え、ソ連の崩壊やイラクの湾岸戦争を切り抜けたアメリカに付き従っていた人物である。鉄の精神で民主主義を守ろうとしたことがうかがえるのである。
そのベーカー氏も日米同盟が重要だと強く主張する。前回述べたように、一度関係が希薄化してしまっては、環太平洋の民主主義に大きなマイナスの影響を及ぼすからだ。それは北朝鮮の脅威が強く示している。「日米関係の強化に努めた人間として、日本で安保50年にあたって支持を低調なのを見るのはつらい」と述べている氏は、共通の価値観として両国に根ざしてきた安保の復活を願っている。筆者も同じ気持ちである。
ちなみに、アメリカ共和党といえば新自由主義経済路線のイメージが強く、そのように氏を見てしまいがちだ。しかし、インタビューでは国際的な財政均衡が必要だという主張をしている。これはグローバリズムの加熱によって発生した赤字国と黒字国の格差を修正する論であり、氏に対する浅はかなイメージの押し付けは控えなければならない。それはすなわち、日本の国益を代弁したものでもあるからだ。
懸命な読者の皆さんは、ジョセフ・ナイ氏とジェームズ・ベーカー氏から得られる知見が多いことに気付くはずだ。日本の政治にブレイクスルーが必要とされる昨今、国民である我々も真剣に考えなければならない。