マーラー交響曲第6番 悲劇的
英雄は運命の打撃を3度受ける
-最終更新日: 2011年11月9日 (水) -
今回は何回かこのブログでも取り上げているマーラー交響曲第6番「悲劇的」について詳述してみたい。
マーラー交響曲第6番「悲劇的」はマーラー中期の作であり、2番~4番の角笛交響曲、4楽章のアダージョが「ベニスに死す」で用いられた5番に続く作品である。マーラー交響曲の中によく見られる声楽はこの6番にはない。しかし、極めて劇的かつ壮大な曲の構成であり、マーラーの創作の一つの頂点と言われている。マーラーがつけたものかは不明であるが、初演時に「悲劇的」という副題が用いられており、それが現在までの表記となっている。
「意志を持った人間が世界、運命という動かしがたい障害と闘い、最終的に打ち倒される悲劇を描いた作品」と表現される通り、第4楽章では最も大きな音の鳴る打楽器であるハンマーが2度打ち鳴らされ、最後に英雄は力尽きる。このハンマーという楽器、見た目が相当インパクトがあり、ライブで鑑賞すると英雄の転機がきわめて象徴的に表現される。ちなみに、このハンマーが鳴らされる回数であるが、当初は5回であったのが3回、2回と変化している。それでもバーンスタインの演奏などのようにアルマの回想にもとづいて3回鳴らされることもある。マーラーは作曲時にアルマに対し「英雄は運命の打撃を3度受ける。最後の一撃が、木を切り倒すように彼を倒す」。と語っていたとされる。
個人的に最も思い入れのあるクラシック曲の一つなので感想を述べさせていただくが、この曲だけは私にとって例外である。人生の苦しいときに何度心が浄化されたか分からない。死の行軍を思わせる第一楽章の冒頭から、運命という動かしがたい障害とひたむきに闘い続ける英雄の姿を目の当たりにする。そして最後には打ち倒されてしまうというリアリズムが曲中の英雄の生涯に輝きを与えるのである。さらに、マーラーの中でも屈指の闘争的な音楽性とあいまって、その偽りなさが苦悩する者にカタルシスを生む。言い換えるなら、人生が困難の極みにあるような状況でもない時に聞くと何の感動もない曲、むしろ忌避される曲だろう。
最初に取り上げたのは、おそらくこの曲の中でベストだと思われるテンシュテットの6番。テンシュテットが癌を患った時に生きている証、輝きを残そうとしたのだろう。奇跡的なライブと言われている。曲の解釈としてもテンシュテットがベストではないだろうか。この曲の悲壮性、焦燥感などがきわめてリアルに表現されている。私が最も聞く機会の多いCDである。
この曲のNO.2、NO.3はバーンスタイン盤、バルビローリ盤だろうか。バーンスタイン盤はテンシュテット盤とよく似ているが、ウィーンフィルということでより技巧的な印象を受ける。しかし、演奏の情熱性は一つも失われておらず、やはりこの曲最高の演奏の一つだろう。バルビローリ盤は、私は、この曲で最も遅いと言われているニュー・フィルハーモニア盤を所持している。しかし、こちらのほうが評価が高いというので掲載してみた。バルビローリはマーラー9番でも歴史に残るような演奏をしている名指揮者である。こちらもぜひ聞いてみたい。
さらに、最近の演奏の中から2つ。ゲルギエフ盤は快速ながら曲のダイナミックさがよく表現されている。アバド盤は最近の解釈で2楽章と3楽章の順序が入れ替えられている。演奏としてもレベルが高く、ハンマーの熾烈な音が特徴。私はハンマーの音がダイナミックであればあるほど好きである。
マーラー6番は他にもよい演奏がたくさんある、興味を持たれた方はぜひ複数指揮者の聴き比べをしながら楽しんでほしい。私の最も思い入れのある曲の1つである。
-最終更新日: 2011年11月9日 (水) -
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今回は何回かこのブログでも取り上げているマーラー交響曲第6番「悲劇的」について詳述してみたい。
マーラー交響曲第6番「悲劇的」はマーラー中期の作であり、2番~4番の角笛交響曲、4楽章のアダージョが「ベニスに死す」で用いられた5番に続く作品である。マーラー交響曲の中によく見られる声楽はこの6番にはない。しかし、極めて劇的かつ壮大な曲の構成であり、マーラーの創作の一つの頂点と言われている。マーラーがつけたものかは不明であるが、初演時に「悲劇的」という副題が用いられており、それが現在までの表記となっている。
「意志を持った人間が世界、運命という動かしがたい障害と闘い、最終的に打ち倒される悲劇を描いた作品」と表現される通り、第4楽章では最も大きな音の鳴る打楽器であるハンマーが2度打ち鳴らされ、最後に英雄は力尽きる。このハンマーという楽器、見た目が相当インパクトがあり、ライブで鑑賞すると英雄の転機がきわめて象徴的に表現される。ちなみに、このハンマーが鳴らされる回数であるが、当初は5回であったのが3回、2回と変化している。それでもバーンスタインの演奏などのようにアルマの回想にもとづいて3回鳴らされることもある。マーラーは作曲時にアルマに対し「英雄は運命の打撃を3度受ける。最後の一撃が、木を切り倒すように彼を倒す」。と語っていたとされる。
個人的に最も思い入れのあるクラシック曲の一つなので感想を述べさせていただくが、この曲だけは私にとって例外である。人生の苦しいときに何度心が浄化されたか分からない。死の行軍を思わせる第一楽章の冒頭から、運命という動かしがたい障害とひたむきに闘い続ける英雄の姿を目の当たりにする。そして最後には打ち倒されてしまうというリアリズムが曲中の英雄の生涯に輝きを与えるのである。さらに、マーラーの中でも屈指の闘争的な音楽性とあいまって、その偽りなさが苦悩する者にカタルシスを生む。言い換えるなら、人生が困難の極みにあるような状況でもない時に聞くと何の感動もない曲、むしろ忌避される曲だろう。
最初に取り上げたのは、おそらくこの曲の中でベストだと思われるテンシュテットの6番。テンシュテットが癌を患った時に生きている証、輝きを残そうとしたのだろう。奇跡的なライブと言われている。曲の解釈としてもテンシュテットがベストではないだろうか。この曲の悲壮性、焦燥感などがきわめてリアルに表現されている。私が最も聞く機会の多いCDである。
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」 (2010/10/06) ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 バーンスタイン(レナード)、ハンプソン(トーマス) 他 商品詳細を見る |
マーラー:交響曲第6番 (2006/07/26) バルビローリ(サー・ジョン) 商品詳細を見る |
この曲のNO.2、NO.3はバーンスタイン盤、バルビローリ盤だろうか。バーンスタイン盤はテンシュテット盤とよく似ているが、ウィーンフィルということでより技巧的な印象を受ける。しかし、演奏の情熱性は一つも失われておらず、やはりこの曲最高の演奏の一つだろう。バルビローリ盤は、私は、この曲で最も遅いと言われているニュー・フィルハーモニア盤を所持している。しかし、こちらのほうが評価が高いというので掲載してみた。バルビローリはマーラー9番でも歴史に残るような演奏をしている名指揮者である。こちらもぜひ聞いてみたい。
マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」 (2008/11/26) ゲルギエフ(ワレリー) 商品詳細を見る |
マーラー:交響曲第6番 (2005/05/21) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 商品詳細を見る |
さらに、最近の演奏の中から2つ。ゲルギエフ盤は快速ながら曲のダイナミックさがよく表現されている。アバド盤は最近の解釈で2楽章と3楽章の順序が入れ替えられている。演奏としてもレベルが高く、ハンマーの熾烈な音が特徴。私はハンマーの音がダイナミックであればあるほど好きである。
マーラー6番は他にもよい演奏がたくさんある、興味を持たれた方はぜひ複数指揮者の聴き比べをしながら楽しんでほしい。私の最も思い入れのある曲の1つである。
TPPに関する再考
~反対派の視点から考える~
-最終更新日: 2011年11月6日 (日) -
本日は前回賛成派の立場から書いたTPPについてを、反対派の視点から書いてみたい。昨今、TPP反対の運動が広まっており、これは看過できないものである。一体日本はどうすればいいのか、TPPがこれまでのグローバリズムの延長線上であってはならないいくつかの論点を取り上げる。
まずは、農業と医療の自由化による同産業の疲弊である。農業の従事者は高齢であり、農業改革を行った場合の従事者の負担は想像を絶するものがある。海外の安い農産物に対する競争力がなくなり、収入が得られず自殺者が多発するという意見もある。さらに、医療のほうも同様のことが言える。日本が誇る国民皆保険が破綻しかねないのだ。どうやらTPPはこれが前提に組み込まれており、やはり看過できない。
これに対し、農業は高度集約化や企業化を目指すべきだという論点があるが、これも容易ではない。日本はもともと国土が狭い上、農業従事者が高齢であるという難点がある。これらの改革はこれまでのグローバリズム同様ただ農業を疲弊させるだけになる可能性があるとも述べられている。
私は長期的に見れば日本のTPP参加は国益になると考えているが、韓国のように弱者が切り捨てられては国内が荒廃するだけである。ここでは、TPP参加に当たってこのようになってはならないという点をいくつか述べてみたい。
まず、格差の拡大である。TPPとは環太平洋の自由貿易協定であり、グローバリズムと同様の問題をはらんでいる。ただ自由貿易主義を推し進めては格差の拡大は目に見えている。これをいかに所得再分配するか。貿易に関しては自由であっても国内政策でこの矛盾を解消しなければならないだろう。
そして、人々の分断である。私もグローバリズムにおける新自由主義はこの時代を生きる個人主体にとって厳しい思想だったと考えている。人々の共同性が失われ、人々はお互いを助けるにあたって寄る辺がない時代が続いた。自己責任を暴力的に要請される時代でもあり、私はこの時代の自立・自律とは孤独であったと考えている。
これがあるためにTPP参加が忌避されている側面が強くあることを述べなければならない。温和な時代に機能している国内融和が再び暴力的な形で駆逐されはしないかという懸念を庶民は強めているのだ。これに対して、推進派は明確にNOを突きつけなければならない。TPPによって自由貿易を国益のために推し進めても、必ず人々の生活の安心は保たれる、またそのような政策を必ず実行することを政府は打ち上げなければならない。農業従事者には例えば海外へのブランド輸出のための高度集約化を持続可能な形で補助しなければならないだろう。
ここに来て、TPPがイエスかノーかの二元論に戻ってしまっているが、この相反する属性を解消してどのように日本を盛り上げるかが本来の論点のはずだ。日本を分断することなく、健全な議論を期待したい。
-最終更新日: 2011年11月6日 (日) -
本日は前回賛成派の立場から書いたTPPについてを、反対派の視点から書いてみたい。昨今、TPP反対の運動が広まっており、これは看過できないものである。一体日本はどうすればいいのか、TPPがこれまでのグローバリズムの延長線上であってはならないいくつかの論点を取り上げる。
まずは、農業と医療の自由化による同産業の疲弊である。農業の従事者は高齢であり、農業改革を行った場合の従事者の負担は想像を絶するものがある。海外の安い農産物に対する競争力がなくなり、収入が得られず自殺者が多発するという意見もある。さらに、医療のほうも同様のことが言える。日本が誇る国民皆保険が破綻しかねないのだ。どうやらTPPはこれが前提に組み込まれており、やはり看過できない。
これに対し、農業は高度集約化や企業化を目指すべきだという論点があるが、これも容易ではない。日本はもともと国土が狭い上、農業従事者が高齢であるという難点がある。これらの改革はこれまでのグローバリズム同様ただ農業を疲弊させるだけになる可能性があるとも述べられている。
私は長期的に見れば日本のTPP参加は国益になると考えているが、韓国のように弱者が切り捨てられては国内が荒廃するだけである。ここでは、TPP参加に当たってこのようになってはならないという点をいくつか述べてみたい。
まず、格差の拡大である。TPPとは環太平洋の自由貿易協定であり、グローバリズムと同様の問題をはらんでいる。ただ自由貿易主義を推し進めては格差の拡大は目に見えている。これをいかに所得再分配するか。貿易に関しては自由であっても国内政策でこの矛盾を解消しなければならないだろう。
そして、人々の分断である。私もグローバリズムにおける新自由主義はこの時代を生きる個人主体にとって厳しい思想だったと考えている。人々の共同性が失われ、人々はお互いを助けるにあたって寄る辺がない時代が続いた。自己責任を暴力的に要請される時代でもあり、私はこの時代の自立・自律とは孤独であったと考えている。
これがあるためにTPP参加が忌避されている側面が強くあることを述べなければならない。温和な時代に機能している国内融和が再び暴力的な形で駆逐されはしないかという懸念を庶民は強めているのだ。これに対して、推進派は明確にNOを突きつけなければならない。TPPによって自由貿易を国益のために推し進めても、必ず人々の生活の安心は保たれる、またそのような政策を必ず実行することを政府は打ち上げなければならない。農業従事者には例えば海外へのブランド輸出のための高度集約化を持続可能な形で補助しなければならないだろう。
ここに来て、TPPがイエスかノーかの二元論に戻ってしまっているが、この相反する属性を解消してどのように日本を盛り上げるかが本来の論点のはずだ。日本を分断することなく、健全な議論を期待したい。
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