和と絆、この対話が日本人にもたらすもの
-最終更新日:2010年8月7日(土)-
今回は、この問題が日本人同士のコミュニケーションの異質化によって解決しにくくなっている問題だという認識から考えてみたいと思います。
コミュニケーションとは何でしょうか。辞書で調べると、
「人間が互いに意思・感情・思考を伝達し合うこと。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える身振り・表情・声などの手段によって行う。」(Yahoo日本語辞書 大辞林より)
とあります。ここでは、言葉でのコミュニケーションを考えてみたいと思います。言葉は、人間にしかないものだからです。人間は、言葉を話す存在であることによって、社会というものが形成されます。社会では、この言葉を使ってさまざまなコンフリクトを解消してきました。
しかし、今の日本においては、このコミュニケーションという言葉が偏った意味において用いられていると感じます。例えば、学生が就職試験でよく口にする「コミュニケーション能力」です。日本では、このコミュニケーション能力が、「周りの雰囲気に合わせる」という意味で使われることが多いと思います。入社試験で、突然、自分のこだわりの持論を展開したら、面接官にその場で不合格と判断される危険があるでしょう。誰もそんなこと言いません。そのような危うさをできるだけ避けるように、同年代との異質性をできるだけ少なくしようと自分を枠にはめるのが現代の若者です。
しかし、それでいいのでしょうか。少なくとも、あらゆる社会問題の解決には、雰囲気に安易に迎合する姿勢では解決できません。
ここで強く取りあげたいのが、「対話」という考え方です。対話とは、両者がお互いの相違点をそのまま受け止めて、お互いに真摯な応答をするということです。この場合、利害関係は度外視されます。ここのところの日本は、雰囲気に迎合させるようなコミュニケーション能力ばかり追求されてきたました。しかし、本当の意味で「他者性」を克服するような対話が行われなくなった社会ではないでしょうか。それは、問題解決を先延ばしにするだけで、何の解決にもつながりません。むしろ、実質的には対立状態が持続されます。
これを、近年多いとされる「住民トラブル」について考えてみましょう。住民トラブルは、ある一定の限度を超えると、我慢しているほうの住民が警察などに届け出ます。そして、警察がトラブルの原因となっている住民に注意をします。それが繰り返されても解消できない場合は、最悪の場合訴訟に発展します。そうなったら、お互いは感情的に収まりがつかなくなり、もう修復できません。近年では簡易化された紛争解決手段も存在しますが、そもそも、住民トラブルなどでそこまで訴訟を起こす必要があるでしょうか。
昔は、近所づきあいが頻繁にありました。しかし、現在では、相互的にコミュニケーションすらとらない地域もあります。隣近所が何をしているか分からない社会になりました。昔は、頻繁なコミュニケーションをとってお互いに安全か確認し合っていました。その中で、些細なトラブルはすぐに解決して深刻化の目を摘み取っていたのです。
このように、ここ数回で申し上げているつながりの希薄化は、社会問題のさまざまな解決を困難にして、対立を深めます。そもそも、解決の糸口となるコミュニケーションが行われなくなったからです。そこには、安易に付き合える人とだけ迎合的なコミュニケーションをとって満足するような個人主義的な風潮も追い討ちをかけていると思います。これは総じて、コミュニケーションの質、そしてコミュニケーションを行う能力の低下ということができます。本来なら、相違点を認めながら話し合って様々な問題を解決して生きていかなければなりません。面倒な作業ですが、それが人間社会で生きることだと思います。
「人とのつながり」というものを、これまでに一つの社会の円滑的な推進の理想モデルのように取りあげましたが、実際にはこの社会は考え方が違う人ばかりが住んでいます。それは、自分とは違う「他者」だということです。日本人でも、考え方に大きな多様性があります。コミュニケーションとは、その相克を乗り越えるために存在します。考えが違う人と言葉で論理的に解決を模索する「対話」は面倒なことです。しかし、あえて労力をかけて多くの人が行えば、いろんな社会問題が解決しやすい国になります。その繰り返しによって「強い絆」が発生することを望んでやみません。解決が困難な異質性を伴う問題も、共同で対策を練ることができます。日本がそのような社会になることを心底願っています。
このブログで取りあげている問題の根本も、このような日本の住民同士のコミュニケーションの異質化に起因していると思います。
皆さんはどうお考えでしょうか。
記事や祭りの画像が気に入ったらぜひ押してください。アクセスアップに繋がります。この問題の認知と解決のためにご協力をお願い致します。

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今回は、この問題が日本人同士のコミュニケーションの異質化によって解決しにくくなっている問題だという認識から考えてみたいと思います。
コミュニケーションとは何でしょうか。辞書で調べると、
「人間が互いに意思・感情・思考を伝達し合うこと。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える身振り・表情・声などの手段によって行う。」(Yahoo日本語辞書 大辞林より)
とあります。ここでは、言葉でのコミュニケーションを考えてみたいと思います。言葉は、人間にしかないものだからです。人間は、言葉を話す存在であることによって、社会というものが形成されます。社会では、この言葉を使ってさまざまなコンフリクトを解消してきました。
しかし、今の日本においては、このコミュニケーションという言葉が偏った意味において用いられていると感じます。例えば、学生が就職試験でよく口にする「コミュニケーション能力」です。日本では、このコミュニケーション能力が、「周りの雰囲気に合わせる」という意味で使われることが多いと思います。入社試験で、突然、自分のこだわりの持論を展開したら、面接官にその場で不合格と判断される危険があるでしょう。誰もそんなこと言いません。そのような危うさをできるだけ避けるように、同年代との異質性をできるだけ少なくしようと自分を枠にはめるのが現代の若者です。
しかし、それでいいのでしょうか。少なくとも、あらゆる社会問題の解決には、雰囲気に安易に迎合する姿勢では解決できません。
ここで強く取りあげたいのが、「対話」という考え方です。対話とは、両者がお互いの相違点をそのまま受け止めて、お互いに真摯な応答をするということです。この場合、利害関係は度外視されます。ここのところの日本は、雰囲気に迎合させるようなコミュニケーション能力ばかり追求されてきたました。しかし、本当の意味で「他者性」を克服するような対話が行われなくなった社会ではないでしょうか。それは、問題解決を先延ばしにするだけで、何の解決にもつながりません。むしろ、実質的には対立状態が持続されます。
これを、近年多いとされる「住民トラブル」について考えてみましょう。住民トラブルは、ある一定の限度を超えると、我慢しているほうの住民が警察などに届け出ます。そして、警察がトラブルの原因となっている住民に注意をします。それが繰り返されても解消できない場合は、最悪の場合訴訟に発展します。そうなったら、お互いは感情的に収まりがつかなくなり、もう修復できません。近年では簡易化された紛争解決手段も存在しますが、そもそも、住民トラブルなどでそこまで訴訟を起こす必要があるでしょうか。
昔は、近所づきあいが頻繁にありました。しかし、現在では、相互的にコミュニケーションすらとらない地域もあります。隣近所が何をしているか分からない社会になりました。昔は、頻繁なコミュニケーションをとってお互いに安全か確認し合っていました。その中で、些細なトラブルはすぐに解決して深刻化の目を摘み取っていたのです。
このように、ここ数回で申し上げているつながりの希薄化は、社会問題のさまざまな解決を困難にして、対立を深めます。そもそも、解決の糸口となるコミュニケーションが行われなくなったからです。そこには、安易に付き合える人とだけ迎合的なコミュニケーションをとって満足するような個人主義的な風潮も追い討ちをかけていると思います。これは総じて、コミュニケーションの質、そしてコミュニケーションを行う能力の低下ということができます。本来なら、相違点を認めながら話し合って様々な問題を解決して生きていかなければなりません。面倒な作業ですが、それが人間社会で生きることだと思います。
「人とのつながり」というものを、これまでに一つの社会の円滑的な推進の理想モデルのように取りあげましたが、実際にはこの社会は考え方が違う人ばかりが住んでいます。それは、自分とは違う「他者」だということです。日本人でも、考え方に大きな多様性があります。コミュニケーションとは、その相克を乗り越えるために存在します。考えが違う人と言葉で論理的に解決を模索する「対話」は面倒なことです。しかし、あえて労力をかけて多くの人が行えば、いろんな社会問題が解決しやすい国になります。その繰り返しによって「強い絆」が発生することを望んでやみません。解決が困難な異質性を伴う問題も、共同で対策を練ることができます。日本がそのような社会になることを心底願っています。
このブログで取りあげている問題の根本も、このような日本の住民同士のコミュニケーションの異質化に起因していると思います。
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