人間形成にとって共同体とは何か
~自律を育む他律の条件~
-最終更新日:2011年1月12日(水)-
本日は読売新聞「日本の改新」シリーズの佳境、マイケル・サンデル氏のコラムである。そこへなぜ筆者の大学時代の指導教官の書籍を持ってきたか。それはコミュニティを扱う研究者としてその思想が重なる部分が多いからである。
岡田敬司教授は、自律的な人間形成を目的とした場合の共同体の役割を中心に研究テーマとされている。なぜ共同体なのかという問いかけに対してはこのように答えることができる。人間は社会的な生き物であり、自他との調節において自らを社会に適合させなければならない。その際の他者となりうるのが、国家であったり勤める企業であったり同じ社交クラブのメンバーであったりする。これらの外部システムは、時として自己と相克する。それでも、いかなる状況においても自らの内的世界と他者である外的世界を調節して生きなければならない。それが人間という存在である。
現代は個人主義の時代と呼ばれる。時として、外部システムであるさまざまなコミュニティの規範を逸脱して生きることを現代人は選択する。これの行き過ぎが人間社会の共同性の崩壊を招き、サンデル教授のコラムで典型的な例として「無縁社会」を挙げている。昭和の時代には、隣人が不幸になっている場合、助けなければならないという社会規範が強く作用していた。しかし、現在では全く作用しない。無視することがの当たり前の社会となっている。これが多くの社会的弱者の孤独と個人間の軋轢を生み出している。「無縁社会」は社会問題の中でも最も重要視されなければならないものとしてNHKが特集を組んでいる。すでに隣人は真の意味で「他者=得体の知れない存在」になってしまっているのである。
このサンデル氏のコラムでは、これらの個人主義の病理を乗り越えるものとして、共同体原理に基づいて解決する人のことをコミュニタリアンと呼ぶと易しく1月11日の読売新聞で解説している。個人主義がもっとも発達しているアメリカにおいて、その病理と向き合いながら共同体的自己決定による社会問題の解決を提唱しているサンデル氏の講義がハーバード大学でもっとも人気だということに私は驚きを隠せない。アメリカでも個人による自己決定と共同体的自己決定、どちらが相応しいかの問いかけは若者にとって非常に重要な関心事なのだということを意味している。
では、旧来の共同体が個人主義の病理を乗り越える手段を提供してくれるかといえばそうではない。すでに個人主義は民主主義の発達と経済的な豊かさの獲得によって既得権のようなものになっており、現代人はこれを手放すことができない。それを埋めるために強制的にポストモダン以前の共同体の鋳型にはめこめば、それこそ主体の抑圧につながるだけだ。それでも、人間は一人でいることにいたたまれないことも多く、共同体的なものへの帰属を幻想として希求する。昔は、地域の絆や親族の絆への強制的な参加が生きるための必要条件であったのに対し、現在はそうとまではいかない。ここに現代人がコミュニティへ参加することの性質の変化が存在する。現代人の多くは個人主義による共同性の崩壊もあり、安直に共同体への帰属意識による満足が得られることを志向する。
これには二つの疑問が発生する。このような参加による共同体への参加の様式では、倫理的な問題解決が望まれる社会問題への対応に無力であること。そして、岡田教授の言葉を借りさせてもらえば、それは恣意が偶然に一致した人々の一時的な集まりに過ぎず、倫理的なつながりによる人間形成が望めないと言ったところだろうか。困ったときは必ず助け合うという強い規範とコミュニティへの帰属意識がなければ孤独な高齢者は救えないし、助け合いによってお互いに豊かになれる人間関係の醸成も行えないのである。現在は、この安易な帰属意識をインターネットによる即時的なつながり、すなわち掲示板やtwitterなどで満たしている部分が多いのだろう。このようなつながりでは本当に困ったときに助けてもらえない。
では、参加主体が組織運営においても自己においても自律的でありながら倫理的なつながりによって存続している共同体とは何か。これが岡田教授のもとで勉強した私の研究的な関心のルーツであり、その答えは「自助グループ」をはじめとする互助共同体である。その要件としては、問題の解決に当たり差し迫って共同性を構築する必要があり、形成されたアソシエーションが個人に課する規範も相互に問題解決を図ることを目的としたものだからである。共同性の構築と規範の形成はそのとたんに個人の自律を抑圧するが、この互助的なグループにおいては、むしろ参加主体がそのルールを形成する過程で人間的な回復が行われるといった点に注目しなければならない。
実例を挙げると、北海道浦河市の「べてるの家」が挙げられる。このべてるの家は一時期奇跡の障碍者グループとしてマスコミの脚光を浴びた。さまざまな番組が放送されるとともに複数の本が出版されており、ご存知の方も多いかもしれない。このべてるの家がすごいのは、自分たちによる経済活動で自立した運営ができているということである。主に昆布の生産工場での収入だが、精神障碍者同士の互助によって不可能とされた経済的自立を可能にしているのである。そこには経済的な互助だけでなく、生活共同体としての互助も存在する。お互いの精神疾患を共同的な役割において研究し、乗り越えているのである。
これはほかのさまざまな自助グループにも同じことが言える。特に逼迫した問題としては私が専門としたアルコール依存の当事者会や、自殺問題におけるグリーフケアなどが挙げられるだろうか。これらのグループの参加においては個人主義的なエゴはほとんど発生しない。お互いがつらい状況を乗り越えるためによりよい参加形態を模索しながら助け合っていくのである。これは岡田教授の専門領域である教育学でも同じことが言える。学級において同じ役割を果たす「中間共同体」が子どもの豊かな発達機序になるというものである。東京大学の佐藤学教授も「学びの共同体」として同じような理論を展開されている。ちなみに、岡田教授のルーツはフランスの教育運動である。制度主義教育論と呼ばれる戦後の取り組みである。下記に著書の一部を引用する。
教育をフィールドとして、社会システムと個人システムの緊張関係の問題に真正面から取り組んだ先駆的存在としてフランスの制度主義教育論を紹介しておこう。これは人間形成のフィールドが政治システムや経済システムのシステム合理性に絡めとられてしまうのに抵抗し、かといって社会システムを人間疎外をもたらす悪玉に仕立てることで満足するのでもなく、個人システムがかかわりのネットワークをあるいは利用し、あるいは共同構築していく中で、社会システムを部分的にわがものにしつつ自己形成を図っていくというものである。(p.103)
この文章に岡田教授の考えの粋があると言っていいだろう。巨大システムの下で完全に他律状態になってしまって生きるのも好ましくない。かといって完全な自律的主体など存在しない。前者の肥大化は人間疎外により人格の破綻を生み出すし、後者を追及すると個人主義のなれの果てに独我に陥ってしまうだけである。では、旧来の共同体への参加のような出来事がすべてを解決するといえばそうではなく、参加のとたんにその規範に主体が絡め取られてしまう危険がある。上記に述べたように、倫理的なつながりにおいて自らもシステム管理者になるような参加主体となるよう自他を調整しながら生きるという現代人のさまざまな矛盾に対するかろうじての解を導き出されているのである。
サンデル教授も、旧来のコミュニティをすべて称揚するのではなく、ディベートを絶えず行いながら問いかけを行っていく講義スタイルを取っている。そこには何らか通ずるものがある。これは、まさに新たな価値基準を大学という極めて自由な場で対話により作ろうとする試みであり、新しい倫理と公共性の構築はここから行われるのだと想像すると胸が高鳴るものがある。読み上げの講義はでは新たな制度は作られない。学生とともに作りながら講義を運営しているのである。学生にとってこれほど面白い講義は存在しないだろう。サンデル氏は、メディアに対してもディベートによる倫理の形成を求めている。個人が行き詰った現代において、知がそれを打破する試みは現在進行形で行われているのである。
-最終更新日:2011年1月12日(水)-
![]() | 人間形成にとって共同体とは何か ―自律を育む他律の条件 (2009/02) 岡田 敬司 商品詳細を見る |
本日は読売新聞「日本の改新」シリーズの佳境、マイケル・サンデル氏のコラムである。そこへなぜ筆者の大学時代の指導教官の書籍を持ってきたか。それはコミュニティを扱う研究者としてその思想が重なる部分が多いからである。
岡田敬司教授は、自律的な人間形成を目的とした場合の共同体の役割を中心に研究テーマとされている。なぜ共同体なのかという問いかけに対してはこのように答えることができる。人間は社会的な生き物であり、自他との調節において自らを社会に適合させなければならない。その際の他者となりうるのが、国家であったり勤める企業であったり同じ社交クラブのメンバーであったりする。これらの外部システムは、時として自己と相克する。それでも、いかなる状況においても自らの内的世界と他者である外的世界を調節して生きなければならない。それが人間という存在である。
現代は個人主義の時代と呼ばれる。時として、外部システムであるさまざまなコミュニティの規範を逸脱して生きることを現代人は選択する。これの行き過ぎが人間社会の共同性の崩壊を招き、サンデル教授のコラムで典型的な例として「無縁社会」を挙げている。昭和の時代には、隣人が不幸になっている場合、助けなければならないという社会規範が強く作用していた。しかし、現在では全く作用しない。無視することがの当たり前の社会となっている。これが多くの社会的弱者の孤独と個人間の軋轢を生み出している。「無縁社会」は社会問題の中でも最も重要視されなければならないものとしてNHKが特集を組んでいる。すでに隣人は真の意味で「他者=得体の知れない存在」になってしまっているのである。
![]() | これからの「正義」の話をしよう ―いまを生き延びるための哲学 (2010/05/22) マイケル・サンデル 商品詳細を見る |
このサンデル氏のコラムでは、これらの個人主義の病理を乗り越えるものとして、共同体原理に基づいて解決する人のことをコミュニタリアンと呼ぶと易しく1月11日の読売新聞で解説している。個人主義がもっとも発達しているアメリカにおいて、その病理と向き合いながら共同体的自己決定による社会問題の解決を提唱しているサンデル氏の講義がハーバード大学でもっとも人気だということに私は驚きを隠せない。アメリカでも個人による自己決定と共同体的自己決定、どちらが相応しいかの問いかけは若者にとって非常に重要な関心事なのだということを意味している。
では、旧来の共同体が個人主義の病理を乗り越える手段を提供してくれるかといえばそうではない。すでに個人主義は民主主義の発達と経済的な豊かさの獲得によって既得権のようなものになっており、現代人はこれを手放すことができない。それを埋めるために強制的にポストモダン以前の共同体の鋳型にはめこめば、それこそ主体の抑圧につながるだけだ。それでも、人間は一人でいることにいたたまれないことも多く、共同体的なものへの帰属を幻想として希求する。昔は、地域の絆や親族の絆への強制的な参加が生きるための必要条件であったのに対し、現在はそうとまではいかない。ここに現代人がコミュニティへ参加することの性質の変化が存在する。現代人の多くは個人主義による共同性の崩壊もあり、安直に共同体への帰属意識による満足が得られることを志向する。
これには二つの疑問が発生する。このような参加による共同体への参加の様式では、倫理的な問題解決が望まれる社会問題への対応に無力であること。そして、岡田教授の言葉を借りさせてもらえば、それは恣意が偶然に一致した人々の一時的な集まりに過ぎず、倫理的なつながりによる人間形成が望めないと言ったところだろうか。困ったときは必ず助け合うという強い規範とコミュニティへの帰属意識がなければ孤独な高齢者は救えないし、助け合いによってお互いに豊かになれる人間関係の醸成も行えないのである。現在は、この安易な帰属意識をインターネットによる即時的なつながり、すなわち掲示板やtwitterなどで満たしている部分が多いのだろう。このようなつながりでは本当に困ったときに助けてもらえない。
![]() | べてるの家の「非」援助論 ―そのままでいいと思えるための25章 (シリーズ・ケアをひらく) (2002/05) 浦河べてるの家 商品詳細を見る |
では、参加主体が組織運営においても自己においても自律的でありながら倫理的なつながりによって存続している共同体とは何か。これが岡田教授のもとで勉強した私の研究的な関心のルーツであり、その答えは「自助グループ」をはじめとする互助共同体である。その要件としては、問題の解決に当たり差し迫って共同性を構築する必要があり、形成されたアソシエーションが個人に課する規範も相互に問題解決を図ることを目的としたものだからである。共同性の構築と規範の形成はそのとたんに個人の自律を抑圧するが、この互助的なグループにおいては、むしろ参加主体がそのルールを形成する過程で人間的な回復が行われるといった点に注目しなければならない。
実例を挙げると、北海道浦河市の「べてるの家」が挙げられる。このべてるの家は一時期奇跡の障碍者グループとしてマスコミの脚光を浴びた。さまざまな番組が放送されるとともに複数の本が出版されており、ご存知の方も多いかもしれない。このべてるの家がすごいのは、自分たちによる経済活動で自立した運営ができているということである。主に昆布の生産工場での収入だが、精神障碍者同士の互助によって不可能とされた経済的自立を可能にしているのである。そこには経済的な互助だけでなく、生活共同体としての互助も存在する。お互いの精神疾患を共同的な役割において研究し、乗り越えているのである。
これはほかのさまざまな自助グループにも同じことが言える。特に逼迫した問題としては私が専門としたアルコール依存の当事者会や、自殺問題におけるグリーフケアなどが挙げられるだろうか。これらのグループの参加においては個人主義的なエゴはほとんど発生しない。お互いがつらい状況を乗り越えるためによりよい参加形態を模索しながら助け合っていくのである。これは岡田教授の専門領域である教育学でも同じことが言える。学級において同じ役割を果たす「中間共同体」が子どもの豊かな発達機序になるというものである。東京大学の佐藤学教授も「学びの共同体」として同じような理論を展開されている。ちなみに、岡田教授のルーツはフランスの教育運動である。制度主義教育論と呼ばれる戦後の取り組みである。下記に著書の一部を引用する。
教育をフィールドとして、社会システムと個人システムの緊張関係の問題に真正面から取り組んだ先駆的存在としてフランスの制度主義教育論を紹介しておこう。これは人間形成のフィールドが政治システムや経済システムのシステム合理性に絡めとられてしまうのに抵抗し、かといって社会システムを人間疎外をもたらす悪玉に仕立てることで満足するのでもなく、個人システムがかかわりのネットワークをあるいは利用し、あるいは共同構築していく中で、社会システムを部分的にわがものにしつつ自己形成を図っていくというものである。(p.103)
この文章に岡田教授の考えの粋があると言っていいだろう。巨大システムの下で完全に他律状態になってしまって生きるのも好ましくない。かといって完全な自律的主体など存在しない。前者の肥大化は人間疎外により人格の破綻を生み出すし、後者を追及すると個人主義のなれの果てに独我に陥ってしまうだけである。では、旧来の共同体への参加のような出来事がすべてを解決するといえばそうではなく、参加のとたんにその規範に主体が絡め取られてしまう危険がある。上記に述べたように、倫理的なつながりにおいて自らもシステム管理者になるような参加主体となるよう自他を調整しながら生きるという現代人のさまざまな矛盾に対するかろうじての解を導き出されているのである。
サンデル教授も、旧来のコミュニティをすべて称揚するのではなく、ディベートを絶えず行いながら問いかけを行っていく講義スタイルを取っている。そこには何らか通ずるものがある。これは、まさに新たな価値基準を大学という極めて自由な場で対話により作ろうとする試みであり、新しい倫理と公共性の構築はここから行われるのだと想像すると胸が高鳴るものがある。読み上げの講義はでは新たな制度は作られない。学生とともに作りながら講義を運営しているのである。学生にとってこれほど面白い講義は存在しないだろう。サンデル氏は、メディアに対してもディベートによる倫理の形成を求めている。個人が行き詰った現代において、知がそれを打破する試みは現在進行形で行われているのである。
- 関連記事