日本の伝統文化と融合・調和の美
-最終更新日:2010年8月25日(水)-
前回(旧ブログで)、この問題をクラシックという観点から取り上げてみましたが、今回も同じく音楽から取り上げてみたいと思います。
今回は、日本の作曲家の曲を挙げてみたいと思います。武満徹氏の「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」です。
武満徹氏といえば、黒澤明氏の映画音楽をはじめとして、西洋・東洋問わず様々な楽曲を作曲した日本を代表する作曲家です。自分のイメージとしては、ストラヴィンスキーなどと交流があり、同じ作曲家である細川俊夫氏に「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う」と評されるように、自分には難解すぎてあまり聴いていませんでした。
ところが、雅楽も一度聴いてみたいと思い、このCDを買ってみたところ、とたんに夢中になってしまいました。この「秋庭歌一具」は現代雅楽です。1970年代に、「古典雅楽だけでは雅楽の世界で存続できない、新作の現代雅楽が必要になる。」といわれたときに、武満氏が抜擢されて作曲したものです。現代音楽ということで、難解かとも思いましたが、秋の夜長に聞くと、心に染みわたって目の前に秋の日本庭園が浮かび上がるような気持ちにさせてくれます。(CDの論評には「武満(氏)がもっとも腐心したのが、たゆたう時間と空間を表現であった」とあります。)
この「秋庭歌一具」、2001年にサントリーホールで公演されたものですが、1979年に初演が行われ、以降も何度も再演されています。
武満氏は作曲に当たって「新雅楽を創るというような気負いを捨てて、ただ、音の中に身を置きそれを聴き出す事につとめた。」とあります。武満氏は、当初の西洋音楽の一次元的な構成から、次第に東洋音楽の多層的な構成に曲風が変化したと言われています。武満氏はまた、西洋音楽のオーケストレーションに、日本の楽器を入れた曲が多く、その入れ方は調和的に入れるというよりも、対立させて入れていたと言われています。
このような素晴らしい音楽をこの問題について取り上げることは、畏れ多いことです。ただ、ひとつ言えるのは、多元的な時間軸で構成されたこのような現代雅楽や武満氏の作曲スタイルが、この問題に与えてくれる示唆があるだろうということです。
雅楽は日本の伝統的な文化です。その文化も、時代とともに変化します。しかし、伝統的な文化として根本的に失われてはならないものは、失われてはならない。時代の変化とともに、大切な部分を守りながら変容していく。対立しながらも多元的にひとつの構成を作り上げる。それが、この武満氏による現代雅楽の挑戦だったのではないでしょうか。
少し話を変えますが、以前取り上げた限界集落や中産間地域などの伝統的な祭りなども、いま存続の危機が叫ばれています。このような祭りはその地域の神事であり、豊作を願ったりなど、さまざまな祭りの目的の過程で、その町や村の人を結びつけます。田舎ほど生活が厳しく、共同体としての人々のつながりが重要になるといわれています。
しかし、現在は過疎化などの問題でこのような祭りが危機に瀕しています。祭りによっては開催が何年も中止されたりするようなケースが続出しています。これでは、その地域に住む人たちにとって必要な連帯感醸成のきっかけが失われてしまいます。そうなると、人々のつながりが薄くなり、様々な社会的な問題が発生します。伝統的な祭りは、考え方が異なる住民が意識を一つにする限られた機会だからです。
私が申し上げているこの問題の被害も、このように人々のつながりが希薄化した社会において発生しやすいと思われます。その意味で、人の心情に根ざす変えられるべきでない伝統文化は、時代の変化とともに変化することはあっても、保持されていかなければならないと思います。
このような「祭り」はその地域でより長く生きられた経験深い方による伝承で受け継がれてきました。このような祭りは、そのような伝承によって文化やしきたりが後世に伝えられます。同じように、親子関係においても、父親が一定の権威的な役割において、子どもに様々な社会規範を教えます。近年はこのような家庭や地域の伝統的な教育役割も変化しているのではないかと思います。それも、社会の秩序に悪影響を及ぼしているのではないでしょうか。
(注 「秋庭歌」、「秋庭歌一具」は宮内庁楽部によって演奏されてきました。この2002年サントリーホールでの「秋庭歌一具」は、宮内庁の芝祐靖氏が、退官されてまで「秋庭歌」のより良い演奏のために1984年に結成された「伶楽舎」による演奏です。
芝祐靖氏はこのように述べている。
「演奏時間50分、指揮者を置かない29人の合奏は精神的にかなりハードですが、練習本番のたびに新しい発見があり、秋庭歌に内包された自然観と詩情の追及はこれからもまだまだ続きます。そしてこのエネルギーが今後の古典雅楽の継承、そして現代雅楽の創造に役立つことを願ってやみません。」
前回(旧ブログで)、この問題をクラシックという観点から取り上げてみましたが、今回も同じく音楽から取り上げてみたいと思います。
今回は、日本の作曲家の曲を挙げてみたいと思います。武満徹氏の「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」です。
![]() | 武満徹:秋庭歌一具 (2002/09/04) 伶楽舎 商品詳細を見る |
武満徹氏といえば、黒澤明氏の映画音楽をはじめとして、西洋・東洋問わず様々な楽曲を作曲した日本を代表する作曲家です。自分のイメージとしては、ストラヴィンスキーなどと交流があり、同じ作曲家である細川俊夫氏に「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う」と評されるように、自分には難解すぎてあまり聴いていませんでした。
ところが、雅楽も一度聴いてみたいと思い、このCDを買ってみたところ、とたんに夢中になってしまいました。この「秋庭歌一具」は現代雅楽です。1970年代に、「古典雅楽だけでは雅楽の世界で存続できない、新作の現代雅楽が必要になる。」といわれたときに、武満氏が抜擢されて作曲したものです。現代音楽ということで、難解かとも思いましたが、秋の夜長に聞くと、心に染みわたって目の前に秋の日本庭園が浮かび上がるような気持ちにさせてくれます。(CDの論評には「武満(氏)がもっとも腐心したのが、たゆたう時間と空間を表現であった」とあります。)
この「秋庭歌一具」、2001年にサントリーホールで公演されたものですが、1979年に初演が行われ、以降も何度も再演されています。
武満氏は作曲に当たって「新雅楽を創るというような気負いを捨てて、ただ、音の中に身を置きそれを聴き出す事につとめた。」とあります。武満氏は、当初の西洋音楽の一次元的な構成から、次第に東洋音楽の多層的な構成に曲風が変化したと言われています。武満氏はまた、西洋音楽のオーケストレーションに、日本の楽器を入れた曲が多く、その入れ方は調和的に入れるというよりも、対立させて入れていたと言われています。
このような素晴らしい音楽をこの問題について取り上げることは、畏れ多いことです。ただ、ひとつ言えるのは、多元的な時間軸で構成されたこのような現代雅楽や武満氏の作曲スタイルが、この問題に与えてくれる示唆があるだろうということです。
雅楽は日本の伝統的な文化です。その文化も、時代とともに変化します。しかし、伝統的な文化として根本的に失われてはならないものは、失われてはならない。時代の変化とともに、大切な部分を守りながら変容していく。対立しながらも多元的にひとつの構成を作り上げる。それが、この武満氏による現代雅楽の挑戦だったのではないでしょうか。
少し話を変えますが、以前取り上げた限界集落や中産間地域などの伝統的な祭りなども、いま存続の危機が叫ばれています。このような祭りはその地域の神事であり、豊作を願ったりなど、さまざまな祭りの目的の過程で、その町や村の人を結びつけます。田舎ほど生活が厳しく、共同体としての人々のつながりが重要になるといわれています。
しかし、現在は過疎化などの問題でこのような祭りが危機に瀕しています。祭りによっては開催が何年も中止されたりするようなケースが続出しています。これでは、その地域に住む人たちにとって必要な連帯感醸成のきっかけが失われてしまいます。そうなると、人々のつながりが薄くなり、様々な社会的な問題が発生します。伝統的な祭りは、考え方が異なる住民が意識を一つにする限られた機会だからです。
私が申し上げているこの問題の被害も、このように人々のつながりが希薄化した社会において発生しやすいと思われます。その意味で、人の心情に根ざす変えられるべきでない伝統文化は、時代の変化とともに変化することはあっても、保持されていかなければならないと思います。
このような「祭り」はその地域でより長く生きられた経験深い方による伝承で受け継がれてきました。このような祭りは、そのような伝承によって文化やしきたりが後世に伝えられます。同じように、親子関係においても、父親が一定の権威的な役割において、子どもに様々な社会規範を教えます。近年はこのような家庭や地域の伝統的な教育役割も変化しているのではないかと思います。それも、社会の秩序に悪影響を及ぼしているのではないでしょうか。
(注 「秋庭歌」、「秋庭歌一具」は宮内庁楽部によって演奏されてきました。この2002年サントリーホールでの「秋庭歌一具」は、宮内庁の芝祐靖氏が、退官されてまで「秋庭歌」のより良い演奏のために1984年に結成された「伶楽舎」による演奏です。
芝祐靖氏はこのように述べている。
「演奏時間50分、指揮者を置かない29人の合奏は精神的にかなりハードですが、練習本番のたびに新しい発見があり、秋庭歌に内包された自然観と詩情の追及はこれからもまだまだ続きます。そしてこのエネルギーが今後の古典雅楽の継承、そして現代雅楽の創造に役立つことを願ってやみません。」
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