共同性の回復は日本に何をもたらすか
~絆という一語で表された本年を振り返って~
-最終更新日: 2011年12月30日 (金) -
本年の12月12日、京都市清水寺の森清範貫主が今年1年の漢字一語を「絆」と書き上げました。3月11日の東日本大震災という大災害を日本が経験した際、近隣者同士の助け合いがこの苦難を乗り越えるきっかけとなったことに由来します。この傾向は全国に広まり、親族・友人同士で食事を共にするなどの機会は増大しました。この共同性の回復は日本に何をもたらしたでしょうか。
世界経済がリーマンショックを経験するころ、世界は新自由主義的な傾向に傾いており、絆とは両極の功利主義を追い求める個人主義が横行していました。個人同士のつながりは極めて希薄であり、このことを個人のアトム(粒子)化と表現する学者もいました。この時から比べれば、人のつながりが重視されていると肌で実感できる時代になりました。
震災被災者がまさにその困難によってお互いを助け合うとき、それはもっとも倫理的な意味においての自助が行われているということができます。私はセルフヘルプグループを研究主題としてきた中で、人々が同じ困難によって結びつくときに偽りのない共同性が構築されることを身をもって経験しています。それは、現在参加しているNPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークの被害者の集いでも感じていることです。
私は大学卒業後もこのような分野に関心があり、いろいろな書籍を読んでいます。最近は大学時代の恩師の最新著書を読んでいます。
以前の記事でも述べたように、岡田敬司教授は重要な教育命題である「自律」について研究されています。自律的な判断によって行動する個人主題がいかに育てられるかについて述べられた本です。そのための前提条件として、様々な関連世界の立ち上がりについて述べられています。
人間が自律的であるというのは意外と難しいことであって、多くの場合は他者システムにからめ捕られてしまっている状態や、逆に自己がナルシシズムに陥ってしまっているような中で生きているのが現代人です。特に、行き過ぎた個人主義は人々の共同性に非常に暗い影を落としました。それを乗り越えるのが昨今の思想界のパラダイムの一つだったのではないでしょうか。
では、個人が自律的であるような共同体の条件、またはそのかかわり方とはどのようなものでしょうか。書籍からの抜粋です。
ここにおいて必要とされるのは、既存の規則システムの化石を吸収、同化して自他画一的になることではなく、自他の差異性に目覚めた個人システムとしての自己と他者が、相互交渉を通して共有規則を作りだしたり、見つけ出したりして、それをもとに共同体を生ぜしめることである。この場合こそ、自己と他者は自閉的でない、独善的でない普遍理性の自己立法を行いうる。(p.107)
以前、所与の共同体をコミュニティ(community)、生成過程の共同体をアソシエーション(assosiation)と呼ぶと説明しました。例えば地域のつながりと評される地域共同体は主にコミュニティの側面が強いと言えますが、お互いを助け合うという役割を行う一方で、旧態依然としたお互いを束縛するといった面があることも否めません。ここで、参加者が自律的たりえる共同体とは、所与のものを使いながらも、現在進行形で発生している自他の問題に即す形で新たなルールを形成する共同体であると教授は指摘しています。その好例が上記のセルフヘルプグループです。異なる参加主体が同一性の強い問題で結びつくがために、まさにお互いを助けるためのルールづくりが行われるのです。
そして、教授は以下のように述べています。
多文化共生、それは一人ひとりの持つ部分的な関連世界が共通あるいは普遍的であり、多元的な関連世界の個人における複合の仕方が多様であるときに可能である。これこそわれわれの目論む自律的人間の育成である。(p.231)
異なる価値観をもった現代人は、共通する部分と普遍的な部分を手がかりに互いに対話を行って生きていく。そして、それは画一性を目指すのではなく、他者性をそのまま尊重するような形で個人に内在する個性を認める。また一方で、自己は他者との折衝でその枠組みを変化させながら共同性を構築する。その過程で生きた自律が可能となる。これが教授に通底する思想の核心でしょう。
話を当初に戻します。この1年は、いったん個人主義という生き方を覚えてしまった現代人でも、最終的によりどころになるのは近隣者の助け合いであり、そのつながりの重要性を痛感した年だと言えるでしょう。これによって社会の強固さは大きく増したのではないでしょうか。絆、すなわち人々の共同の重要性は来年になっても変わることはありません。今年を教訓に人々が忘れてはならない言葉でしょう。
また、話を集団ストーカー問題に絞ってみれば、被害者間の相互交流が非常に行われやすくなりました。そして、これまで申し上げてきた取り組みによって、被害者が孤立しないメカニズムも形成されてきました。どんなに理解されづらい問題であっても、必ず誰かが気付いて寄り添っている。来年は集団ストーカー被害者にとって必ず報われる年となるはずです。
ブログ読者の皆様も1年間見守っていただいてありがとうございました。来年もこの問題の認知に向けて一層頑張ってまいりたいと思います。皆様におかれましてもよい年を迎えられますようお祈りしています。本年1年、誠に有難うございました。
-最終更新日: 2011年12月30日 (金) -
本年の12月12日、京都市清水寺の森清範貫主が今年1年の漢字一語を「絆」と書き上げました。3月11日の東日本大震災という大災害を日本が経験した際、近隣者同士の助け合いがこの苦難を乗り越えるきっかけとなったことに由来します。この傾向は全国に広まり、親族・友人同士で食事を共にするなどの機会は増大しました。この共同性の回復は日本に何をもたらしたでしょうか。
世界経済がリーマンショックを経験するころ、世界は新自由主義的な傾向に傾いており、絆とは両極の功利主義を追い求める個人主義が横行していました。個人同士のつながりは極めて希薄であり、このことを個人のアトム(粒子)化と表現する学者もいました。この時から比べれば、人のつながりが重視されていると肌で実感できる時代になりました。
震災被災者がまさにその困難によってお互いを助け合うとき、それはもっとも倫理的な意味においての自助が行われているということができます。私はセルフヘルプグループを研究主題としてきた中で、人々が同じ困難によって結びつくときに偽りのない共同性が構築されることを身をもって経験しています。それは、現在参加しているNPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークの被害者の集いでも感じていることです。
自律者の育成は可能か: 「世界の立ち上がり」の理論 (2011/07/05) 岡田 敬司 商品詳細を見る |
私は大学卒業後もこのような分野に関心があり、いろいろな書籍を読んでいます。最近は大学時代の恩師の最新著書を読んでいます。
以前の記事でも述べたように、岡田敬司教授は重要な教育命題である「自律」について研究されています。自律的な判断によって行動する個人主題がいかに育てられるかについて述べられた本です。そのための前提条件として、様々な関連世界の立ち上がりについて述べられています。
人間が自律的であるというのは意外と難しいことであって、多くの場合は他者システムにからめ捕られてしまっている状態や、逆に自己がナルシシズムに陥ってしまっているような中で生きているのが現代人です。特に、行き過ぎた個人主義は人々の共同性に非常に暗い影を落としました。それを乗り越えるのが昨今の思想界のパラダイムの一つだったのではないでしょうか。
では、個人が自律的であるような共同体の条件、またはそのかかわり方とはどのようなものでしょうか。書籍からの抜粋です。
ここにおいて必要とされるのは、既存の規則システムの化石を吸収、同化して自他画一的になることではなく、自他の差異性に目覚めた個人システムとしての自己と他者が、相互交渉を通して共有規則を作りだしたり、見つけ出したりして、それをもとに共同体を生ぜしめることである。この場合こそ、自己と他者は自閉的でない、独善的でない普遍理性の自己立法を行いうる。(p.107)
以前、所与の共同体をコミュニティ(community)、生成過程の共同体をアソシエーション(assosiation)と呼ぶと説明しました。例えば地域のつながりと評される地域共同体は主にコミュニティの側面が強いと言えますが、お互いを助け合うという役割を行う一方で、旧態依然としたお互いを束縛するといった面があることも否めません。ここで、参加者が自律的たりえる共同体とは、所与のものを使いながらも、現在進行形で発生している自他の問題に即す形で新たなルールを形成する共同体であると教授は指摘しています。その好例が上記のセルフヘルプグループです。異なる参加主体が同一性の強い問題で結びつくがために、まさにお互いを助けるためのルールづくりが行われるのです。
そして、教授は以下のように述べています。
多文化共生、それは一人ひとりの持つ部分的な関連世界が共通あるいは普遍的であり、多元的な関連世界の個人における複合の仕方が多様であるときに可能である。これこそわれわれの目論む自律的人間の育成である。(p.231)
異なる価値観をもった現代人は、共通する部分と普遍的な部分を手がかりに互いに対話を行って生きていく。そして、それは画一性を目指すのではなく、他者性をそのまま尊重するような形で個人に内在する個性を認める。また一方で、自己は他者との折衝でその枠組みを変化させながら共同性を構築する。その過程で生きた自律が可能となる。これが教授に通底する思想の核心でしょう。
話を当初に戻します。この1年は、いったん個人主義という生き方を覚えてしまった現代人でも、最終的によりどころになるのは近隣者の助け合いであり、そのつながりの重要性を痛感した年だと言えるでしょう。これによって社会の強固さは大きく増したのではないでしょうか。絆、すなわち人々の共同の重要性は来年になっても変わることはありません。今年を教訓に人々が忘れてはならない言葉でしょう。
また、話を集団ストーカー問題に絞ってみれば、被害者間の相互交流が非常に行われやすくなりました。そして、これまで申し上げてきた取り組みによって、被害者が孤立しないメカニズムも形成されてきました。どんなに理解されづらい問題であっても、必ず誰かが気付いて寄り添っている。来年は集団ストーカー被害者にとって必ず報われる年となるはずです。
ブログ読者の皆様も1年間見守っていただいてありがとうございました。来年もこの問題の認知に向けて一層頑張ってまいりたいと思います。皆様におかれましてもよい年を迎えられますようお祈りしています。本年1年、誠に有難うございました。
- 関連記事
-
- STALKER ZERO〜被害者が守られる社会へ〜 2014/01/11
- 当事者の連帯によって問題解決をはかるセルフヘルプグループについて 2010/08/30
- 中国・ロシアに対する軽視の発言は慎むべき 2023/09/29
- トランプ政権の功罪 2022/02/16
- Twitter社は言論の自由を保障すべき 2021/01/13