歴史上に発生した忌むべき事例から考察する
~旧ブログでの「シュタージ問題」からの考察を再掲載~
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
これから掲載する記事は「集団ストーカー問題を克服する」の旧ブログ(http://bubblering111.blog69.fc2.com/)において取りあげた3つの記事です。旧東ドイツに存在した秘密警察であるシュタージの問題から「集団ストーカー問題」を考察しようという内容でした。お分かりのように、以前のブログは加害者による圧力で閉鎖せざるを得ませんでした。何とか復活しても、この記事を掲載することにはためらいを覚えました。しかし、一度アウトプットしたものを引っ込めてしまっては、加害者の思う壺です。自由な言論には勇気が必要です。最後のほうでも述べていますが、民主主義は誰かに勝手に守ってもらうのではなく、勇気を持った市民が不断の努力で守らなければいい状態を維持できません。このことを伝えたくて、原文そのまま、誤字があったとしてもそのまま掲載します。ブログとしては極めて長文の記事ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(1)
そもそも、人間が人間を監視するということは珍しいことではありません。例えば、企業で働いているときに、企業は従業員の生産活動について、企業の利益に反しない範囲で通常に業務を見守ります。また、街中で子どもが犯罪にあわないよう、通常の社会では子どもを当然のように見守ります。これらの見守りも言い方を変えれば監視といえないこともありません。ただし、そのような見守りに利用されるインフラや技術が非常に発達した社会であるとは言えます。ただし、誰しも強く監視されるのが好きだという人はいません。
しかし、人間の歴史では人間の尊厳を奪ってまで監視・弾圧するといったことは珍しいことではありません。例えば専制政治のような国家においてこのようなことが起きるのは疑いのないことだと思います。
例えば、戦時中の日本もそうでした。また、東ドイツ共和国ではベルリンの壁崩壊と共に、圧制の象徴であったシュタージという秘密警察問題が表面化しました。ドイツは民主主義国家となって以降、重点的にこのような問題に取り組みました。
この東ドイツでは、監視する者と監視される者、弾圧する者と弾圧される者、ベルリンの壁崩壊後に深刻な国民対立が生じました。このような問題は、事態発覚後にまさにその国に住む人を分断してしまうような結果をもたらします。被害者へのルポタージュは、国に大きな爪あとを残すこと、他の同様のことを行っている国についても体制崩壊後に深刻な対立が表面化することを示唆しています。注1)
通常、このようなことは民主主義社会においてはありえないというのが、民主主義国家に住む市民の一般的な通念です。それは一種の信仰のようなものに支えられています。
しかし、私のような集団ストーカーの被害者は、この民主主義社会に対する信頼を根底的に打ち壊されます。この被害が開始されたとたん、すべての自由が奪われます。社会生活上すべての行動に重い制約と苦痛が課せられます。死にたいと思ったことはどの被害者も一度や二度ではないでしょう。
私のケースでは、乗り越える秘訣は、「諦める」ことでした。例えばこの社会で暮らしている街中の元気に遊んでいる子供、ニュースに出てくる社会で活躍している若者、出世した旧友、彼らにはすべて民主主義の原則が適用されています。それを、この被害を受けている中で自分にも求めたら、強い葛藤が生じ、涙が出て、耐えられません。そのときは、「ああ、自分には民主主義の原則が適用されないのか」と思って死んだように生きれば苦痛が緩和されるのです。
上記の東ドイツのシュタージのルポタージュにはこのように書かれています。
「東ドイツの論理」を受け入れるのも、それを無視するのも等しく正常な精神を保つための条件の一つだった。「こうしたことを西側の人たちが考えるみたいに真剣にとらえてたら、わたしたちはみんな自殺してるわよ、きっと!」」・・・・・「気が変になっちゃうっていう意味よ。いつもそんなことばかり考えていたら。」(同著p.134)
当時の東ドイツの国民は、当時のいわゆる西側諸国のように自由に振舞えることを想像したら耐えられない。したがって、監視社会を受け入れて諦めたように暮らしていたことが想像できます。
集団ストーカー被害者も同じ状況に置かれます。私たちは民主主義社会で生まれてそれを信じて疑わずに生きてきました。しかし、この被害を受けると、自由に生きるという尊厳を根底から覆されてしまうのです。
東ドイツではこのような監視体制が厳しく敷かれた結果、国民は自分の意見や感情を外部に出さないようになりました。自由な表現をすることができないという事実は、人間を社会に対する前向きな姿勢から逃避傾向にさせます。当時、これは「内面への逃避」と呼ばれました。東ドイツでのお酒の消費量は一般的な西側諸国の2倍でした。実を言うと、私も毎日お酒をあびるほど飲んでいました。まったく終わりのない不自由と、結婚も就職もできない、その見込みもない精神的苦痛でしたでしたから。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(3)
では、このような問題をどのようにして解決すればいいのでしょうか。それは今この日本で一番必要な、「市民が声をあげる」ということだと思います。この問題は、市民の声が政治に反映させるべき社会である民主主義社会で起きた、民主主義社会ではあってはならないことです。たとえ、このような問題が発生したとしても、政治は解決する責任があります。それが行われてこなかった。これは民主主義の衰退だけでなく、腐敗といえます。
このようなことは、残念ながら為政者に対するお任せの政治では解決できません。名もないネットの書き込みですが、このような核心を突いた言葉を目にしたことがあります。
「民主主義はひとりでに維持されるものではない。放っておいたら腐敗する。民主主義を守るためには、市民の不断の努力が必要である。」
先の東ドイツのシュタージ問題も、歴史をさかのぼればフランス革命も、解決したのは圧政に苦しむ庶民でした。海外では命がけで庶民が民主主義を勝ち取ったことに対して、日本ではそのような歴史がありません。少なくともこの問題は、国民や被害者が下から声を突き上げて実態解明を突きつける必要があるのではないかと感じます。
ここで、再度東ドイツのケースを例にあげてみます。(注1 東ドイツではベルリン崩壊のときに、国家機関であるシュタージのビルに大挙して市民が殺到しました。ベルリンの壁の崩壊と同時にシュタージの職員が国民の情報を集めた膨大なシュタージファイルを抹消し始めたからです。市民は、圧政の象徴であり、そして証拠であるシュタージファイルが歴史から消されることに強い危機を感じて押し寄せたのです。幸いなことに、シュタージは膨大すぎるファイルをシュレッダーで削除しましたが、ほぼ同じ袋に同じファイルの裁断された紙切れが入れられました。これは東西ドイツが統合して以降、国家プロジェクトとして、現在でも復元されています。
ドイツでは、今でもシュタージの被害者は、自分に関して集められた情報をいつでも閲覧することができます。集められた情報や加担した人間の情報の公開は、あまりにも生なましい現実を国民に突きつけて新しいドイツ社会をパニックに陥れました。しかし、民主主義を構築するためには必要不可欠なプロセスだったといえるでしょう。これは間違いなく市民の力によるものです。
しかし、問題の解決には時間がかかるものです。この項で最初にも述べましたように、このような問題は、実態把握後国内の加害者と被害者を分断する事態になりかねません。ルポタージュではベルリンの壁崩壊後何年経っても被害者が加害者に対して解消されない葛藤の感情に苛まれている有様が記されていますし、現在までの当時のシュタージ被害の訴訟が行われてるといわれています。
私のケースですと、これまでの文章、私はかなり冷静に書きました。しかし、被害を受けているときにはそのようにいきません。なぜなら、加害-被害関係には、極めて加害者側の感情的な優越感と被害者側の劣等感・屈辱感が存在するからです。被害者はこれを非常に長期間行われるわけで、加害者に対して強い葛藤と相容れなさを感じるようになり、それは年を追うごとに積み重なっていきます。
これは後に国としてこのような問題をどのように乗り越えるかということにも深くかかわってきますが、この感情的な問題を乗り越えるのが一番難点であると考えます。被害者によっては、取り返しのつかないダメージを受けられた方も多くおられると思います。そういったものはそう簡単に解決できるものではありません。解決は長く地道に行っていかなければならないことであると感じています。また、国がこのようなことで長い間分断されてしまうことも避けなければなりません。
負のスパイラルは、国益という観点だけでなく、その国に住むすべての人々の感情に大きなマイナスの影響を及ぼします。民主主義としてこの問題を乗り越えるということは、このようなことだと思っています。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
集団ストーカー問題を書籍から考える(1-1)
今回取り上げる書籍
「監視国家 東ドイツシュタージ(秘密警察)に引き裂かれた絆」 アナ・ファンダー 伊達淳訳 船橋洋一解説 松岳社 2005
普通にこの民主主義国家に住まれている方からすれば、これがどのような被害なのか、良く分からない部分もあるかと思います。「集団ストーカー」問題は実態解明がまだ行われておらず、確定的なことは申し上げられません。しかし、少なくともこれまで述べてきたように東ドイツでは同じようなことをその国の国民が経験してきました。ここでは、このルポタージュに記載されているシュタージ被害者の生の声を掲載したいと思います。
(下記の斜線は、同著p118-158から引用) ⇒新しいこのブログでは、 「明朝体」の部分です。
ユリアは16歳のとき、休暇を利用してライプチヒ見本市の案内役としてアルバイトをしていた。…彼女がイタリア人ボーイフレンドと出会ったのはそのときのことだった。
ここで取りあげるのは、ルポタージュに掲載されているユリアという方の経験です。彼女は1966年生まれで、23歳のときにベルリンの壁崩壊を経験したことになります。ここでは、本に沿って彼女の体験を追っていきたいと思います。
ユリアは、このイタリア人ボーイフレンドと街中でデートしているときは必ず監視下に置かれていました。身元の確認や検問所での確認が意図的に彼女に絶えず行われていました。イタリア人ボーイフレンドは恐怖で震えていましが、ユリアはそういった国の状態を受け入れていたようでした。
「わたしはこうした監視も現実として受け止めて暮らしてたわけだし、好きではなかったけど、ここは独裁国家なんだ、だからこういうもんなんだって思うようにしていたわ。東ドイツの論理に基づいた単純なことだって分かってたもの。…」
この、イタリア人ボーイフレンドとの付き合いが、その後の彼女の人生を大きく狂わせることになります。
ユリアは中等学校で学年トップの成績を収め、言語教育で有名な高等学校に進学することを希望していた。だけど当局は、決してその理由を明らかにしないままに、彼女を有名でもなんでもない遠くの寄宿学校に追いやった。
1985年、ユリアはオールAという成績で大学に入学した。彼女はライプチィヒに行き、大学の翻訳・通訳コースへの入試試験を受ける。結果は不合格だった。
このように、彼女はどちらかと言えば優秀な成績を修めていましたが、希望の進路に進めないといったことが続きます。この後、ユリアの父親はこのように言われます。
「ユリアさんの場合は来年もう一度受験しても同じことなんです。娘さんに他のことをするよう、どうぞよろしくお伝えください。職に就くんです。」
ユリアはこのように言われて、就職活動をしました。あらゆる職種にチャレンジしましたが、どの職業に就くこともできませんでした。
「それ以降、職にも就けなくなってたの。どんな仕事でもダメだった……」彼女は首に巻いたスカーフに手を当てる。「その頃からなのよ」
彼女は、どの会社も従業員を雇うときにシュタージに履歴書を見せなければならないからではないかと考えました。その後、彼女は職業安定所に足を運びます。そこでも、おかしなことに「お嬢さん、あなたは失業しているわけじゃないんです。わが国に失業者はいないんです!」と言われるだけでした。彼女は次第に言いようのない抑圧と失望に次第にあらゆることを諦めるような気持ちになっていきます。
ユリアは自らの状況を、何に挑戦しても失敗したのだと捉えることもできたし、連中のターゲットになってしまったと捉えることもできた。あるいは、全くなんとも考えないでいることもできた。「その頃から、私は何からも身を引くようになってしまったって言っていいのかも。」だんだんベッドから出る時間が遅くなっていった。「気が滅入っていたんだと思う。」
彼女はあきらめず夜間学校に登録しますが…
授業が終わると、「毎晩のように」地元のパブに顔を出した。「両親も見て見ぬフリをしてくれてたみたい。他にどうしようもなかっただろうし、私を哀れんでいたんだと思う。」
彼女は、最後の希望を振り絞ってイタリア人ボーイフレンドと駆け落ちしようとします。しかし…
休暇を利用して彼とハンガリーで落ち合うことになっていた。空港では別室に連れて行かれ、荷物を検査された。ヘアドライヤーを分解してまで調べられ… ハンガリーで、すべてが終わったのだと彼に告げた。「彼にしてみれば寝耳に水だったはずだし、不満そうだったわ。」そしてユリアはすべてから身を引き、自宅に引きこもり、希望を捨てた。「内面への逃避」なんていうものではない。流浪だ。
その後、彼女にとどめを刺すような出来事が発生します。当局から1枚のはがきが届き、行ってみると、国家保安省のN少佐からこのように言われます。
「ベーレントさん(ユリア)。」N少佐が切り出した。「あなたのように若くて魅力的で知的な方です、どうしてなのか、ご説明いただけますね。どうして働いていらっしゃらないんですか?」笑っている。
そういうことか。この瞬間まで、すべては自分の想像にすぎないと思おうと勤めてきた。寄宿学校も、校長の訪問も、町を歩いているだけで常に尾行されることも、試験の不合格も、「友人たち」の警告も、…そしてあり得ないくらい雇ってくれないことも。
ショックだった。ゆっくりと口を開いた。
「わたしがどうして働いていないか、それはあなたの方がよくご存知なんじゃないんですか?」
男の声は優しかった。笑顔も絶やさない。「どうしてわたしが知っているのですか?ベーレントさん。」
彼女は自制心を失った。……
このように、「ユリア」は海外に行った際にできたイタリア人ボーイフレンドとの付き合いによって、厳しい監視下に置かれることになりました。それだけでなく、人生のあらゆる局面で、シュタージの意図的な介入によって人生を狂わされました。例えば、彼女は20代前半でお酒におぼれることになり、家族はそれを彼女の気持ちを斟酌するかのように黙って見過ごしました。これは彼女が、若くして人生を無茶苦茶にされて、言いようのない葛藤に苛まれていたことを示すものだと思います。
また、被害者の方が読まれたら分かると思いますが、「集団ストーカー」の被害者の状況と共通点が多くあることがお分かりいただけると思います。「集団ストーカー」の被害も、一種の人生のぶち壊しです。被害の過程で様々な可能性や希望を失い、解消されない葛藤のなかで生きざるを得なくなります。
なお、私の経験は述べないといいましたが、ここで一つだけ言いたいと思います。私もこの被害を受けているこの数年間、家から出る機会が極めて減少して、それこそ毎日浴びるほどお酒を飲んでいました。最初は心配した両親が何とか止めようとしましたが、それも次第になくなりました。
私はこの本をもとに、集団ストーカーの被害について父と話し合いました。父はこのように言いました。「たとえどのような世の中であっても、希望をもってたくましく生きるしかない。自分にはそれしか言ってあげられない。」状況が分かるにしたがって、家族は次第にわたしが引きこもったり、お酒におぼれることに対して寛容になっていきました。これが私の置かれた実態でした。
(この書籍には、「集団ストーカー」問題を乗り越えるのに、様々な共通点と示唆が得られます。時期があったら、他の様々な部分も取りあげたいと思います。)
記事の改定はしないと申し上げましたので、ここに書籍の広告を追加します。ぜひご覧になって頂ければ幸いです。(2010年10月6日)
-最終更新日:2010年9月6日(月)-
注記)今回の記事について
これから掲載する記事は「集団ストーカー問題を克服する」の旧ブログ(http://bubblering111.blog69.fc2.com/)において取りあげた3つの記事です。旧東ドイツに存在した秘密警察であるシュタージの問題から「集団ストーカー問題」を考察しようという内容でした。お分かりのように、以前のブログは加害者による圧力で閉鎖せざるを得ませんでした。何とか復活しても、この記事を掲載することにはためらいを覚えました。しかし、一度アウトプットしたものを引っ込めてしまっては、加害者の思う壺です。自由な言論には勇気が必要です。最後のほうでも述べていますが、民主主義は誰かに勝手に守ってもらうのではなく、勇気を持った市民が不断の努力で守らなければいい状態を維持できません。このことを伝えたくて、原文そのまま、誤字があったとしてもそのまま掲載します。ブログとしては極めて長文の記事ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(1)
そもそも、人間が人間を監視するということは珍しいことではありません。例えば、企業で働いているときに、企業は従業員の生産活動について、企業の利益に反しない範囲で通常に業務を見守ります。また、街中で子どもが犯罪にあわないよう、通常の社会では子どもを当然のように見守ります。これらの見守りも言い方を変えれば監視といえないこともありません。ただし、そのような見守りに利用されるインフラや技術が非常に発達した社会であるとは言えます。ただし、誰しも強く監視されるのが好きだという人はいません。
しかし、人間の歴史では人間の尊厳を奪ってまで監視・弾圧するといったことは珍しいことではありません。例えば専制政治のような国家においてこのようなことが起きるのは疑いのないことだと思います。
例えば、戦時中の日本もそうでした。また、東ドイツ共和国ではベルリンの壁崩壊と共に、圧制の象徴であったシュタージという秘密警察問題が表面化しました。ドイツは民主主義国家となって以降、重点的にこのような問題に取り組みました。
この東ドイツでは、監視する者と監視される者、弾圧する者と弾圧される者、ベルリンの壁崩壊後に深刻な国民対立が生じました。このような問題は、事態発覚後にまさにその国に住む人を分断してしまうような結果をもたらします。被害者へのルポタージュは、国に大きな爪あとを残すこと、他の同様のことを行っている国についても体制崩壊後に深刻な対立が表面化することを示唆しています。注1)
通常、このようなことは民主主義社会においてはありえないというのが、民主主義国家に住む市民の一般的な通念です。それは一種の信仰のようなものに支えられています。
しかし、私のような集団ストーカーの被害者は、この民主主義社会に対する信頼を根底的に打ち壊されます。この被害が開始されたとたん、すべての自由が奪われます。社会生活上すべての行動に重い制約と苦痛が課せられます。死にたいと思ったことはどの被害者も一度や二度ではないでしょう。
私のケースでは、乗り越える秘訣は、「諦める」ことでした。例えばこの社会で暮らしている街中の元気に遊んでいる子供、ニュースに出てくる社会で活躍している若者、出世した旧友、彼らにはすべて民主主義の原則が適用されています。それを、この被害を受けている中で自分にも求めたら、強い葛藤が生じ、涙が出て、耐えられません。そのときは、「ああ、自分には民主主義の原則が適用されないのか」と思って死んだように生きれば苦痛が緩和されるのです。
上記の東ドイツのシュタージのルポタージュにはこのように書かれています。
「東ドイツの論理」を受け入れるのも、それを無視するのも等しく正常な精神を保つための条件の一つだった。「こうしたことを西側の人たちが考えるみたいに真剣にとらえてたら、わたしたちはみんな自殺してるわよ、きっと!」」・・・・・「気が変になっちゃうっていう意味よ。いつもそんなことばかり考えていたら。」(同著p.134)
当時の東ドイツの国民は、当時のいわゆる西側諸国のように自由に振舞えることを想像したら耐えられない。したがって、監視社会を受け入れて諦めたように暮らしていたことが想像できます。
集団ストーカー被害者も同じ状況に置かれます。私たちは民主主義社会で生まれてそれを信じて疑わずに生きてきました。しかし、この被害を受けると、自由に生きるという尊厳を根底から覆されてしまうのです。
東ドイツではこのような監視体制が厳しく敷かれた結果、国民は自分の意見や感情を外部に出さないようになりました。自由な表現をすることができないという事実は、人間を社会に対する前向きな姿勢から逃避傾向にさせます。当時、これは「内面への逃避」と呼ばれました。東ドイツでのお酒の消費量は一般的な西側諸国の2倍でした。実を言うと、私も毎日お酒をあびるほど飲んでいました。まったく終わりのない不自由と、結婚も就職もできない、その見込みもない精神的苦痛でしたでしたから。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
2.集団ストーカーという問題が蔓延した社会背景(3)
では、このような問題をどのようにして解決すればいいのでしょうか。それは今この日本で一番必要な、「市民が声をあげる」ということだと思います。この問題は、市民の声が政治に反映させるべき社会である民主主義社会で起きた、民主主義社会ではあってはならないことです。たとえ、このような問題が発生したとしても、政治は解決する責任があります。それが行われてこなかった。これは民主主義の衰退だけでなく、腐敗といえます。
このようなことは、残念ながら為政者に対するお任せの政治では解決できません。名もないネットの書き込みですが、このような核心を突いた言葉を目にしたことがあります。
「民主主義はひとりでに維持されるものではない。放っておいたら腐敗する。民主主義を守るためには、市民の不断の努力が必要である。」
先の東ドイツのシュタージ問題も、歴史をさかのぼればフランス革命も、解決したのは圧政に苦しむ庶民でした。海外では命がけで庶民が民主主義を勝ち取ったことに対して、日本ではそのような歴史がありません。少なくともこの問題は、国民や被害者が下から声を突き上げて実態解明を突きつける必要があるのではないかと感じます。
ここで、再度東ドイツのケースを例にあげてみます。(注1 東ドイツではベルリン崩壊のときに、国家機関であるシュタージのビルに大挙して市民が殺到しました。ベルリンの壁の崩壊と同時にシュタージの職員が国民の情報を集めた膨大なシュタージファイルを抹消し始めたからです。市民は、圧政の象徴であり、そして証拠であるシュタージファイルが歴史から消されることに強い危機を感じて押し寄せたのです。幸いなことに、シュタージは膨大すぎるファイルをシュレッダーで削除しましたが、ほぼ同じ袋に同じファイルの裁断された紙切れが入れられました。これは東西ドイツが統合して以降、国家プロジェクトとして、現在でも復元されています。
ドイツでは、今でもシュタージの被害者は、自分に関して集められた情報をいつでも閲覧することができます。集められた情報や加担した人間の情報の公開は、あまりにも生なましい現実を国民に突きつけて新しいドイツ社会をパニックに陥れました。しかし、民主主義を構築するためには必要不可欠なプロセスだったといえるでしょう。これは間違いなく市民の力によるものです。
しかし、問題の解決には時間がかかるものです。この項で最初にも述べましたように、このような問題は、実態把握後国内の加害者と被害者を分断する事態になりかねません。ルポタージュではベルリンの壁崩壊後何年経っても被害者が加害者に対して解消されない葛藤の感情に苛まれている有様が記されていますし、現在までの当時のシュタージ被害の訴訟が行われてるといわれています。
私のケースですと、これまでの文章、私はかなり冷静に書きました。しかし、被害を受けているときにはそのようにいきません。なぜなら、加害-被害関係には、極めて加害者側の感情的な優越感と被害者側の劣等感・屈辱感が存在するからです。被害者はこれを非常に長期間行われるわけで、加害者に対して強い葛藤と相容れなさを感じるようになり、それは年を追うごとに積み重なっていきます。
これは後に国としてこのような問題をどのように乗り越えるかということにも深くかかわってきますが、この感情的な問題を乗り越えるのが一番難点であると考えます。被害者によっては、取り返しのつかないダメージを受けられた方も多くおられると思います。そういったものはそう簡単に解決できるものではありません。解決は長く地道に行っていかなければならないことであると感じています。また、国がこのようなことで長い間分断されてしまうことも避けなければなりません。
負のスパイラルは、国益という観点だけでなく、その国に住むすべての人々の感情に大きなマイナスの影響を及ぼします。民主主義としてこの問題を乗り越えるということは、このようなことだと思っています。
(注1「監視国家 東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆」アナ・ファンダー 松岳社 2005
集団ストーカー問題を書籍から考える(1-1)
今回取り上げる書籍
「監視国家 東ドイツシュタージ(秘密警察)に引き裂かれた絆」 アナ・ファンダー 伊達淳訳 船橋洋一解説 松岳社 2005
普通にこの民主主義国家に住まれている方からすれば、これがどのような被害なのか、良く分からない部分もあるかと思います。「集団ストーカー」問題は実態解明がまだ行われておらず、確定的なことは申し上げられません。しかし、少なくともこれまで述べてきたように東ドイツでは同じようなことをその国の国民が経験してきました。ここでは、このルポタージュに記載されているシュタージ被害者の生の声を掲載したいと思います。
(下記の斜線は、同著p118-158から引用) ⇒新しいこのブログでは、 「明朝体」の部分です。
ユリアは16歳のとき、休暇を利用してライプチヒ見本市の案内役としてアルバイトをしていた。…彼女がイタリア人ボーイフレンドと出会ったのはそのときのことだった。
ここで取りあげるのは、ルポタージュに掲載されているユリアという方の経験です。彼女は1966年生まれで、23歳のときにベルリンの壁崩壊を経験したことになります。ここでは、本に沿って彼女の体験を追っていきたいと思います。
ユリアは、このイタリア人ボーイフレンドと街中でデートしているときは必ず監視下に置かれていました。身元の確認や検問所での確認が意図的に彼女に絶えず行われていました。イタリア人ボーイフレンドは恐怖で震えていましが、ユリアはそういった国の状態を受け入れていたようでした。
「わたしはこうした監視も現実として受け止めて暮らしてたわけだし、好きではなかったけど、ここは独裁国家なんだ、だからこういうもんなんだって思うようにしていたわ。東ドイツの論理に基づいた単純なことだって分かってたもの。…」
この、イタリア人ボーイフレンドとの付き合いが、その後の彼女の人生を大きく狂わせることになります。
ユリアは中等学校で学年トップの成績を収め、言語教育で有名な高等学校に進学することを希望していた。だけど当局は、決してその理由を明らかにしないままに、彼女を有名でもなんでもない遠くの寄宿学校に追いやった。
1985年、ユリアはオールAという成績で大学に入学した。彼女はライプチィヒに行き、大学の翻訳・通訳コースへの入試試験を受ける。結果は不合格だった。
このように、彼女はどちらかと言えば優秀な成績を修めていましたが、希望の進路に進めないといったことが続きます。この後、ユリアの父親はこのように言われます。
「ユリアさんの場合は来年もう一度受験しても同じことなんです。娘さんに他のことをするよう、どうぞよろしくお伝えください。職に就くんです。」
ユリアはこのように言われて、就職活動をしました。あらゆる職種にチャレンジしましたが、どの職業に就くこともできませんでした。
「それ以降、職にも就けなくなってたの。どんな仕事でもダメだった……」彼女は首に巻いたスカーフに手を当てる。「その頃からなのよ」
彼女は、どの会社も従業員を雇うときにシュタージに履歴書を見せなければならないからではないかと考えました。その後、彼女は職業安定所に足を運びます。そこでも、おかしなことに「お嬢さん、あなたは失業しているわけじゃないんです。わが国に失業者はいないんです!」と言われるだけでした。彼女は次第に言いようのない抑圧と失望に次第にあらゆることを諦めるような気持ちになっていきます。
ユリアは自らの状況を、何に挑戦しても失敗したのだと捉えることもできたし、連中のターゲットになってしまったと捉えることもできた。あるいは、全くなんとも考えないでいることもできた。「その頃から、私は何からも身を引くようになってしまったって言っていいのかも。」だんだんベッドから出る時間が遅くなっていった。「気が滅入っていたんだと思う。」
彼女はあきらめず夜間学校に登録しますが…
授業が終わると、「毎晩のように」地元のパブに顔を出した。「両親も見て見ぬフリをしてくれてたみたい。他にどうしようもなかっただろうし、私を哀れんでいたんだと思う。」
彼女は、最後の希望を振り絞ってイタリア人ボーイフレンドと駆け落ちしようとします。しかし…
休暇を利用して彼とハンガリーで落ち合うことになっていた。空港では別室に連れて行かれ、荷物を検査された。ヘアドライヤーを分解してまで調べられ… ハンガリーで、すべてが終わったのだと彼に告げた。「彼にしてみれば寝耳に水だったはずだし、不満そうだったわ。」そしてユリアはすべてから身を引き、自宅に引きこもり、希望を捨てた。「内面への逃避」なんていうものではない。流浪だ。
その後、彼女にとどめを刺すような出来事が発生します。当局から1枚のはがきが届き、行ってみると、国家保安省のN少佐からこのように言われます。
「ベーレントさん(ユリア)。」N少佐が切り出した。「あなたのように若くて魅力的で知的な方です、どうしてなのか、ご説明いただけますね。どうして働いていらっしゃらないんですか?」笑っている。
そういうことか。この瞬間まで、すべては自分の想像にすぎないと思おうと勤めてきた。寄宿学校も、校長の訪問も、町を歩いているだけで常に尾行されることも、試験の不合格も、「友人たち」の警告も、…そしてあり得ないくらい雇ってくれないことも。
ショックだった。ゆっくりと口を開いた。
「わたしがどうして働いていないか、それはあなたの方がよくご存知なんじゃないんですか?」
男の声は優しかった。笑顔も絶やさない。「どうしてわたしが知っているのですか?ベーレントさん。」
彼女は自制心を失った。……
このように、「ユリア」は海外に行った際にできたイタリア人ボーイフレンドとの付き合いによって、厳しい監視下に置かれることになりました。それだけでなく、人生のあらゆる局面で、シュタージの意図的な介入によって人生を狂わされました。例えば、彼女は20代前半でお酒におぼれることになり、家族はそれを彼女の気持ちを斟酌するかのように黙って見過ごしました。これは彼女が、若くして人生を無茶苦茶にされて、言いようのない葛藤に苛まれていたことを示すものだと思います。
また、被害者の方が読まれたら分かると思いますが、「集団ストーカー」の被害者の状況と共通点が多くあることがお分かりいただけると思います。「集団ストーカー」の被害も、一種の人生のぶち壊しです。被害の過程で様々な可能性や希望を失い、解消されない葛藤のなかで生きざるを得なくなります。
なお、私の経験は述べないといいましたが、ここで一つだけ言いたいと思います。私もこの被害を受けているこの数年間、家から出る機会が極めて減少して、それこそ毎日浴びるほどお酒を飲んでいました。最初は心配した両親が何とか止めようとしましたが、それも次第になくなりました。
私はこの本をもとに、集団ストーカーの被害について父と話し合いました。父はこのように言いました。「たとえどのような世の中であっても、希望をもってたくましく生きるしかない。自分にはそれしか言ってあげられない。」状況が分かるにしたがって、家族は次第にわたしが引きこもったり、お酒におぼれることに対して寛容になっていきました。これが私の置かれた実態でした。
(この書籍には、「集団ストーカー」問題を乗り越えるのに、様々な共通点と示唆が得られます。時期があったら、他の様々な部分も取りあげたいと思います。)
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