セルフヘルプグループと宗教
~アルコール依存症を克服するために必要な宗教装置について~
-最終更新日:2010年9月12日(日)-
前回、セルフヘルプグループが重要な社会問題や病気などを乗り越えるために、弱い立場におかれた人にとって極めて重要な克服の手段となってきたこと述べました。今回は、そのなかでも、耽溺・嗜癖に関するセルフヘルプグループについて述べてみたいと思います。この系統のセルフヘルプグループは、薬物依存、アルコール依存症、ギャンブルなどです。最近では煙草もこれに該当するかもしれません。
社会で人間が豊かに生活するためには、多少の逸脱は社会的にも個人的にも許容されます。しかし、それで社会生活が破綻してしまっては元も子もありません。お酒でも、泥酔した人は翌日にはしらふに戻って仕事に行きます。休日にギャンブルをしても、通常の人は経済的に破綻しない程度にとどめます。薬物依存に至っては、それ自体が法律違反です。これらの耽溺・嗜癖は、場合によってはのめりこんでしまって、通常の社会生活に戻ることができない状態に至ります。この個人の嗜癖・耽溺は、没入してしまっても、元の社会生活に復帰できるということを前提として制度設計されています。社会には為政者が馴致できるガス抜きが必要だということです。集合的にこれを合法的に解消できる代表的なものがこのブログで取りあげているお祭りです。お祭りのドンチャン騒ぎのあとに日常生活に立ち戻ることを、フランスの社会学者E・デュルケムは「聖から俗への帰還」などと表現していたと思います。トーテミズムなどの原始社会のお祭りも、現代のお祭りも、社会に果たす機能は同じというわけです。普段は壁があっても、祭りが社会を統合させるときに、個人は自我の壁を溶解させる体験をします。美しい芸術作品などへの没我・没入と一緒です。
話が脇道にそれましたが、これらの問題には、当然医学の分野で治療の対象とされるものもあります。アルコール依存症や薬物依存症です。しかし、医学にとって非常に迷惑で厄介な分野です。基本的には個人の「選択」によって没落してしまったからです。医師は自分で病気になるような悪い養生をした個人は助けたがらないものです。アルコールを「個人の選択」として多飲した結果のこのような迷惑な問題でも、医学での適切な処置が功を奏する以上、「病気」とし精神医学に位置づけられています。(この問題は、個人的に、「アルコールを飲む」という選択が個人主義制度下で功利的な選択のもとに行われたとする風潮も、アルコール依存症の方を苦しめていると思います。お酒に飲まされたというほうが、問題の性質上正しいと思います。本人の生理学上、多飲しないと満足できない体質が形成されているからです。また下にも述べますが、自分ではどうしようもない性格的気質も要因になっているからです。少なくとも、回復のためにはそのような視点が必要です。これらの点では、心理学でカウンセリングを行う専門家のほうが、個人のこのような性格的気質について詳しく、適切な対処がなされると思います。ただし、薬物依存に関しては違法であるため、個人主義制度の下で、使用を禁じる個人の強い意志が必要です。これだけは間違ってはなりませんので。)
そもそも、これらの問題のセルフヘルプグループが誕生したのも、厄介者扱いされて社会的に見捨てられた人々が集まったからでした。アルコール依存症になった人など、社会は救う気になれないのです。
しかし、例えばアルコール依存症のセルフヘルプグループとしてA・A(アルコホリック・アノニマス)というものがあります。なぜ「アノニマス」かというと、お互いにニックネームで呼び合うからです。重い問題を抱えた人が実名で参加する必要がないように配慮されているからです。このA・Aはキリスト教の教義から派生したもので、治療に実質的な効果があるために、またたく間に浸透して、現在では全世界に数百万人のメンバーがいます。キリスト教の教会などの施設で開催されることもあります。一方で、日本はキリスト教が浸透していませんので、「断酒会」のほうがメンバーが多いです。こちらは、同じようなグループ形態が仏教の教義にそうように作り直されたものと受け取っていただいたら話が早いかと思います。
なぜ、これらのグループが宗教のノウハウを使用しているかが、今回の記事の一番注目所です。A・Aでのミーティングの流れを説明しますと、まず最初にA・Aの「12のステップ」をメンバー全員で唱和します。その後、「言いっぱなし・聞きっぱなし」によってお互いの苦労話を共有します。休憩時間に談話をはさんで、最後の人が話し終わったらミーティングの終わりです。「言いっぱなし・聞きっぱなし」では自分が言いたいことを言って、他の人は黙って話を聞くだけです。おおむね一人10分くらいですが、これが分け隔てなく最後の人まで続けられます。
ここで、「12のステップ」を掲載します。読むのが面倒な方は、最初の3つくらい読んで、最後まで飛ばしてください。
1.われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことが
どうにもならなくなったことを認めた。
2.われわれは自分より偉大な力が、
われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。
3.われわれの意志と命の方向を変え、自分で理解している神、
ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした。
4.探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った。
5.神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、
自分の誤りの正確な本質を認めた。
6.これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを神にゆだねる心の準備が、
完全にできた。
7.自分の短所を変えてください、と謙虚に神に求めた。
8.われわれが傷つけたすべての人の表をつくり、
そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
9.その人たち、または他の人々を傷つけない限り、
機会あるたびに直接埋め合わせをした。
10.自分の生き方の棚卸しを実行し続け、謝ったときは直ちに認めた。
11.自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、
神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
12.これら音ステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコホーリクに伝え、
また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
(スポンサーシップ Q&A AA日本ゼネラルサービスオフィス発行 1999年 日本語翻訳改訂版より)
これを見ていただいたらお分かりになっていただけるように、A・Aの根本的な部分が「ハイヤー・パワー」という神を中心とした宗教的な教義となっていることにお気づきいただけるかと思います。今回の記事の狙いは、たとえ宗教であっても、正しい使い方をしたら重い問題を乗り越える強い武器になるということです。ここでは、この宗教の教義がなぜアルコール依存症を乗り越えるきっかけとなるのか、また実質的に有効な乗り越えの手段となっているかについてご説明します。
アルコール依存症の方々の耽溺の状態は、生理学的に、飲まなければ気がすまない状態です。本人の意思に反して、体が要求するということです。しかし、毎日朝から晩まで飲む生活を続けて、アルコールを中断したら、中毒症状が出ます。幻覚・妄想などです。しかも、強い苦痛を感じます。麻薬をやめるのと同じです。したがって、精神医療の分野での対処となります。しかし、やめるには本人の強い意志が必要です。中断したときの中毒症状にしばらく耐えなければなりません。医療分野は、せいぜいそれを薬の力などで緩和する程度しかできません。
しかし、厄介なことにアルコール依存症の人は一回お酒をやめることができても、また同じアルコール依存に陥ってしまう可能性が高いです。アルコール依存症になってしまったときの飲酒量を飲まなければ満足できない体になってしまっているからです。例えば、アルコール依存症になったときに一日にお酒を一升瓶ぜんぶ飲んでいたら、一合や二合では満足できない体になっているということです。したがって、アルコール依存症を乗り越えるということは、アルコールを断たねばなりません。日本で生まれた「断酒会」というセルフヘルプグループの名前は、そういった意味から由来しています。
さて、先ほどの医学による対処ではどうにもならないことがあります。それは、本人の「性格」です。なぜ本人の「性格」がアルコール依存症に寄与するかについては、おおむね解明されています。極度に几帳面であるとか、完ぺき主義であるとか、他人に弱みを見せることができない性格です。これらに競争性が加わったら、アルコール依存に陥るリスクをいっそう深めます。これらの人は、自分の性格の一部分、それもよい所だけを見せて生きていきます。実際はそうしなくてもいいのですが、本人がそうしないと気がすみません。一方で、これらの状態は、人間が精神的な不調になることを促進させます。羽目をはずすことができない状態ならなおさらです。エリートサラリーマンで、休むまもなく働いていてはけ口のない人が、いきなりアルコールに耽溺して立ち戻れなくなるようなものだと考えていただければと思います。
ここで、1971年にすでにこの個人の心のメカニズムに対して非常に鋭い指摘をした学者がいます。前回のべたダブルバインド(二重拘束)説を打ち立てたグレゴリー・ベイトソンです。これは「精神の生態学」という本に掲載されています。このメカニズムについて、自分が理解していることを述べてみようと思います。(論文自体はかなり難解ですので、取り上げ方には慎重を期しますが、間違いがあったらごめんなさい。)
アルコール依存症の人は、上記のような通常の人より極端な性格的な傾向が強いとされます。これは本人の「プライド」によって支えられています。しかし、他人の承認を元にした相補的な人間関係を体験したいという欲動は常に心の中にあります。それを満足させるためにお酒を飲みます。お酒を飲んだら敵対する相手とでも楽しく会話ができるからです。彼らはしかし、その完ぺき主義的な性格によって、これをすら理性のコントロール下に置くことをを強く望むようになります。彼らの性格では、例えば出世のためにライバルに弱みを見せるわけにいかないからです。人間は、張り詰めた状態とリラックスした状態両方を繰り返すことによって生産活動が可能な主体です。これらのどちらが欠けても人間として破綻に至ります。お酒を飲んだ酩酊状態ですら、理性のコントロール下に置こうという努力。これが、破綻の始まりです。(この場合、アルコールへの耽溺という結果に至らなくても、極度のこ完ぺき主義を求める努力は人格的な破綻を招きます。うつ病など、さまざまな精神疾患に至りやすいのは誰が見てもお分かりいただけると思います。)
ベイトソンは、これをアルコール依存症者の「プライド」と表現しています。それが、次第にお酒にのめりこむ理由になることをロジックで説明しています。酩酊という生理学的に人間がコントロールしにくいものを理性でコントロールするという不可能に近い命題が、耽溺を爆発化させる要因になるというわけです。したがって、A・Aではこれを直すこと、もしくはメンバー同士で乗り越えることが主眼になります。しかし、性格ですので、本人の努力によって乗り越えることは困難です。むしろ、その努力がアルコール依存症を重篤化させることをここまで読まれた方で勘の鋭い方はお気づきになっていただけるかと思います。このようなときには、それを万人訳隔てなく変える仕組みが必要です。
これを端的にあらわしたのが、A・Aの「12のステップ」です。読んでいただいたらお分かりになっていただけるかと思いますが、「自分の性格的な欠陥が自分にはどうしようもないから神様直してくださいと懇願する」内容になっています。人の考え方を社会とそこに住む個人にとってよい方向に変える、「宗教的な装置」の機能を果たしています。これをグループで共有するのがA・Aというセルフヘルプグループの本質なのです。
最後に、日本は宗教に対する社会的な信頼が低いといわれています。これが、敬虔なイスラム教の国家やキリスト教の国家だと、宗教に対する社会的信頼性が驚くほど高いという社会調査が出ます。そのような中で日本は他の国に比べて新聞やテレビなどのメディアの信頼性が比較的に高いという社会調査の結果が出ています。メディアが日本より国民に支持されない国は多いのです。これはすなわち、この日本においてはメディアが民主主義を強く担保してきたということです。
それはさておき、実質的には宗教の仕組みが、アルコール依存という正常な社会生活に立ち戻れない個人を助けています。利益は度外視です。なぜなら、ミーティングに参加する度に、寄付を入れる布袋をミーティング中に手渡していきますが、いくら入れてもOKだからです。自分の知っている人は、500円くらい入れているだけです。その人は他の人がいくら入れているか知りません。このように伝統のある正常な宗教は、人の心を間違いなく豊かにする拠り所となります。歴史的にもそうです。迫害された民族は、すべからく教会やモスクなどの宗教的な拠点がまずもって受け入れました。
これがこの問題に対して最後の示唆になってほしいです。でなければ身が持ちません。加害行為によって社会生活が破綻寸前の状態でこれだけ書いていますので。また、記事の掲載やコメントに対するレスポンスが遅れるかもしれません。ご容赦いただけますと幸いです。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
筆者の学生時代の専攻の指導教官の一人。学生時代にスパルタで英語の書籍を一章丸々訳すという講義はきつかった。一方で好きな芸能人に会ってインタビューするという面白い講義も。筆者は山崎まさよしに会いたいと言ったが、当然会えるはずもなく沈没。それでもレポートを出したら合格した。この著書は社会学が本当に楽しく感じられる入門書である。
ダブルバインド(二重拘束)説の原典となっている著書。かなり難解であるため、私はアルコール依存の下りしか読んで理解していない。20世紀の知の巨人による名著。
-最終更新日:2010年9月12日(日)-
前回、セルフヘルプグループが重要な社会問題や病気などを乗り越えるために、弱い立場におかれた人にとって極めて重要な克服の手段となってきたこと述べました。今回は、そのなかでも、耽溺・嗜癖に関するセルフヘルプグループについて述べてみたいと思います。この系統のセルフヘルプグループは、薬物依存、アルコール依存症、ギャンブルなどです。最近では煙草もこれに該当するかもしれません。
社会で人間が豊かに生活するためには、多少の逸脱は社会的にも個人的にも許容されます。しかし、それで社会生活が破綻してしまっては元も子もありません。お酒でも、泥酔した人は翌日にはしらふに戻って仕事に行きます。休日にギャンブルをしても、通常の人は経済的に破綻しない程度にとどめます。薬物依存に至っては、それ自体が法律違反です。これらの耽溺・嗜癖は、場合によってはのめりこんでしまって、通常の社会生活に戻ることができない状態に至ります。この個人の嗜癖・耽溺は、没入してしまっても、元の社会生活に復帰できるということを前提として制度設計されています。社会には為政者が馴致できるガス抜きが必要だということです。集合的にこれを合法的に解消できる代表的なものがこのブログで取りあげているお祭りです。お祭りのドンチャン騒ぎのあとに日常生活に立ち戻ることを、フランスの社会学者E・デュルケムは「聖から俗への帰還」などと表現していたと思います。トーテミズムなどの原始社会のお祭りも、現代のお祭りも、社会に果たす機能は同じというわけです。普段は壁があっても、祭りが社会を統合させるときに、個人は自我の壁を溶解させる体験をします。美しい芸術作品などへの没我・没入と一緒です。
話が脇道にそれましたが、これらの問題には、当然医学の分野で治療の対象とされるものもあります。アルコール依存症や薬物依存症です。しかし、医学にとって非常に迷惑で厄介な分野です。基本的には個人の「選択」によって没落してしまったからです。医師は自分で病気になるような悪い養生をした個人は助けたがらないものです。アルコールを「個人の選択」として多飲した結果のこのような迷惑な問題でも、医学での適切な処置が功を奏する以上、「病気」とし精神医学に位置づけられています。(この問題は、個人的に、「アルコールを飲む」という選択が個人主義制度下で功利的な選択のもとに行われたとする風潮も、アルコール依存症の方を苦しめていると思います。お酒に飲まされたというほうが、問題の性質上正しいと思います。本人の生理学上、多飲しないと満足できない体質が形成されているからです。また下にも述べますが、自分ではどうしようもない性格的気質も要因になっているからです。少なくとも、回復のためにはそのような視点が必要です。これらの点では、心理学でカウンセリングを行う専門家のほうが、個人のこのような性格的気質について詳しく、適切な対処がなされると思います。ただし、薬物依存に関しては違法であるため、個人主義制度の下で、使用を禁じる個人の強い意志が必要です。これだけは間違ってはなりませんので。)
そもそも、これらの問題のセルフヘルプグループが誕生したのも、厄介者扱いされて社会的に見捨てられた人々が集まったからでした。アルコール依存症になった人など、社会は救う気になれないのです。
しかし、例えばアルコール依存症のセルフヘルプグループとしてA・A(アルコホリック・アノニマス)というものがあります。なぜ「アノニマス」かというと、お互いにニックネームで呼び合うからです。重い問題を抱えた人が実名で参加する必要がないように配慮されているからです。このA・Aはキリスト教の教義から派生したもので、治療に実質的な効果があるために、またたく間に浸透して、現在では全世界に数百万人のメンバーがいます。キリスト教の教会などの施設で開催されることもあります。一方で、日本はキリスト教が浸透していませんので、「断酒会」のほうがメンバーが多いです。こちらは、同じようなグループ形態が仏教の教義にそうように作り直されたものと受け取っていただいたら話が早いかと思います。
なぜ、これらのグループが宗教のノウハウを使用しているかが、今回の記事の一番注目所です。A・Aでのミーティングの流れを説明しますと、まず最初にA・Aの「12のステップ」をメンバー全員で唱和します。その後、「言いっぱなし・聞きっぱなし」によってお互いの苦労話を共有します。休憩時間に談話をはさんで、最後の人が話し終わったらミーティングの終わりです。「言いっぱなし・聞きっぱなし」では自分が言いたいことを言って、他の人は黙って話を聞くだけです。おおむね一人10分くらいですが、これが分け隔てなく最後の人まで続けられます。
ここで、「12のステップ」を掲載します。読むのが面倒な方は、最初の3つくらい読んで、最後まで飛ばしてください。
1.われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことが
どうにもならなくなったことを認めた。
2.われわれは自分より偉大な力が、
われわれを正気に戻してくれると信じるようになった。
3.われわれの意志と命の方向を変え、自分で理解している神、
ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした。
4.探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った。
5.神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、
自分の誤りの正確な本質を認めた。
6.これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを神にゆだねる心の準備が、
完全にできた。
7.自分の短所を変えてください、と謙虚に神に求めた。
8.われわれが傷つけたすべての人の表をつくり、
そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
9.その人たち、または他の人々を傷つけない限り、
機会あるたびに直接埋め合わせをした。
10.自分の生き方の棚卸しを実行し続け、謝ったときは直ちに認めた。
11.自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、
神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
12.これら音ステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコホーリクに伝え、
また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
(スポンサーシップ Q&A AA日本ゼネラルサービスオフィス発行 1999年 日本語翻訳改訂版より)
これを見ていただいたらお分かりになっていただけるように、A・Aの根本的な部分が「ハイヤー・パワー」という神を中心とした宗教的な教義となっていることにお気づきいただけるかと思います。今回の記事の狙いは、たとえ宗教であっても、正しい使い方をしたら重い問題を乗り越える強い武器になるということです。ここでは、この宗教の教義がなぜアルコール依存症を乗り越えるきっかけとなるのか、また実質的に有効な乗り越えの手段となっているかについてご説明します。
アルコール依存症の方々の耽溺の状態は、生理学的に、飲まなければ気がすまない状態です。本人の意思に反して、体が要求するということです。しかし、毎日朝から晩まで飲む生活を続けて、アルコールを中断したら、中毒症状が出ます。幻覚・妄想などです。しかも、強い苦痛を感じます。麻薬をやめるのと同じです。したがって、精神医療の分野での対処となります。しかし、やめるには本人の強い意志が必要です。中断したときの中毒症状にしばらく耐えなければなりません。医療分野は、せいぜいそれを薬の力などで緩和する程度しかできません。
しかし、厄介なことにアルコール依存症の人は一回お酒をやめることができても、また同じアルコール依存に陥ってしまう可能性が高いです。アルコール依存症になってしまったときの飲酒量を飲まなければ満足できない体になってしまっているからです。例えば、アルコール依存症になったときに一日にお酒を一升瓶ぜんぶ飲んでいたら、一合や二合では満足できない体になっているということです。したがって、アルコール依存症を乗り越えるということは、アルコールを断たねばなりません。日本で生まれた「断酒会」というセルフヘルプグループの名前は、そういった意味から由来しています。
さて、先ほどの医学による対処ではどうにもならないことがあります。それは、本人の「性格」です。なぜ本人の「性格」がアルコール依存症に寄与するかについては、おおむね解明されています。極度に几帳面であるとか、完ぺき主義であるとか、他人に弱みを見せることができない性格です。これらに競争性が加わったら、アルコール依存に陥るリスクをいっそう深めます。これらの人は、自分の性格の一部分、それもよい所だけを見せて生きていきます。実際はそうしなくてもいいのですが、本人がそうしないと気がすみません。一方で、これらの状態は、人間が精神的な不調になることを促進させます。羽目をはずすことができない状態ならなおさらです。エリートサラリーマンで、休むまもなく働いていてはけ口のない人が、いきなりアルコールに耽溺して立ち戻れなくなるようなものだと考えていただければと思います。
ここで、1971年にすでにこの個人の心のメカニズムに対して非常に鋭い指摘をした学者がいます。前回のべたダブルバインド(二重拘束)説を打ち立てたグレゴリー・ベイトソンです。これは「精神の生態学」という本に掲載されています。このメカニズムについて、自分が理解していることを述べてみようと思います。(論文自体はかなり難解ですので、取り上げ方には慎重を期しますが、間違いがあったらごめんなさい。)
アルコール依存症の人は、上記のような通常の人より極端な性格的な傾向が強いとされます。これは本人の「プライド」によって支えられています。しかし、他人の承認を元にした相補的な人間関係を体験したいという欲動は常に心の中にあります。それを満足させるためにお酒を飲みます。お酒を飲んだら敵対する相手とでも楽しく会話ができるからです。彼らはしかし、その完ぺき主義的な性格によって、これをすら理性のコントロール下に置くことをを強く望むようになります。彼らの性格では、例えば出世のためにライバルに弱みを見せるわけにいかないからです。人間は、張り詰めた状態とリラックスした状態両方を繰り返すことによって生産活動が可能な主体です。これらのどちらが欠けても人間として破綻に至ります。お酒を飲んだ酩酊状態ですら、理性のコントロール下に置こうという努力。これが、破綻の始まりです。(この場合、アルコールへの耽溺という結果に至らなくても、極度のこ完ぺき主義を求める努力は人格的な破綻を招きます。うつ病など、さまざまな精神疾患に至りやすいのは誰が見てもお分かりいただけると思います。)
ベイトソンは、これをアルコール依存症者の「プライド」と表現しています。それが、次第にお酒にのめりこむ理由になることをロジックで説明しています。酩酊という生理学的に人間がコントロールしにくいものを理性でコントロールするという不可能に近い命題が、耽溺を爆発化させる要因になるというわけです。したがって、A・Aではこれを直すこと、もしくはメンバー同士で乗り越えることが主眼になります。しかし、性格ですので、本人の努力によって乗り越えることは困難です。むしろ、その努力がアルコール依存症を重篤化させることをここまで読まれた方で勘の鋭い方はお気づきになっていただけるかと思います。このようなときには、それを万人訳隔てなく変える仕組みが必要です。
これを端的にあらわしたのが、A・Aの「12のステップ」です。読んでいただいたらお分かりになっていただけるかと思いますが、「自分の性格的な欠陥が自分にはどうしようもないから神様直してくださいと懇願する」内容になっています。人の考え方を社会とそこに住む個人にとってよい方向に変える、「宗教的な装置」の機能を果たしています。これをグループで共有するのがA・Aというセルフヘルプグループの本質なのです。
最後に、日本は宗教に対する社会的な信頼が低いといわれています。これが、敬虔なイスラム教の国家やキリスト教の国家だと、宗教に対する社会的信頼性が驚くほど高いという社会調査が出ます。そのような中で日本は他の国に比べて新聞やテレビなどのメディアの信頼性が比較的に高いという社会調査の結果が出ています。メディアが日本より国民に支持されない国は多いのです。これはすなわち、この日本においてはメディアが民主主義を強く担保してきたということです。
それはさておき、実質的には宗教の仕組みが、アルコール依存という正常な社会生活に立ち戻れない個人を助けています。利益は度外視です。なぜなら、ミーティングに参加する度に、寄付を入れる布袋をミーティング中に手渡していきますが、いくら入れてもOKだからです。自分の知っている人は、500円くらい入れているだけです。その人は他の人がいくら入れているか知りません。このように伝統のある正常な宗教は、人の心を間違いなく豊かにする拠り所となります。歴史的にもそうです。迫害された民族は、すべからく教会やモスクなどの宗教的な拠点がまずもって受け入れました。
これがこの問題に対して最後の示唆になってほしいです。でなければ身が持ちません。加害行為によって社会生活が破綻寸前の状態でこれだけ書いていますので。また、記事の掲載やコメントに対するレスポンスが遅れるかもしれません。ご容赦いただけますと幸いです。
【この記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
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筆者の学生時代の専攻の指導教官の一人。学生時代にスパルタで英語の書籍を一章丸々訳すという講義はきつかった。一方で好きな芸能人に会ってインタビューするという面白い講義も。筆者は山崎まさよしに会いたいと言ったが、当然会えるはずもなく沈没。それでもレポートを出したら合格した。この著書は社会学が本当に楽しく感じられる入門書である。
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ダブルバインド(二重拘束)説の原典となっている著書。かなり難解であるため、私はアルコール依存の下りしか読んで理解していない。20世紀の知の巨人による名著。
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