民主主義における自由とは何か
-最終更新日:2010年8月7日(土)-
民主主義社会でこのような被害が起きた。それを民主主義社会はどのように乗り越えなければならないかということを考える必要があります。それには、民主主義が内包する「自由」という考え方を確かめておく必要があります。ここでは、自由主義について考えてみたいと思います。
自由という概念が政治においてはじめて考えられたのが、17世紀、イギリスのジョン・ロックの思想といわれています。自由主義とは、当時の専制国家の権力を抑制して個人の権利を認めようという動きから始まった思想であり、例えば現在の日本であれば基本的人権の尊重などがこれにあたります。ジョン・ロックの思想は後の市民革命につながったといわれています。
その後、経済活動についても自由主義が持ち込まれました。18世紀のアダム・スミスです。これは産業革命のときの自由主義経済を支える考えを示したもので、現在に至るまで自由主義経済の考え方の基本となっています。
また、一方で国が経済にあまり介入しない自由主義経済に対して、大きく介入して経済を立て直すような場合を計画経済などと呼んでいます。歴史はこの繰り返しで、自由主義で経済がうまくいかないときは国家の経済介入のニーズが発生しますし、国家の計画性が失敗したときには経済の自由主義にニーズが発生します。
1929年の世界恐慌の後には、計画経済的な考え方(ケインズ主義)が主流になりました。また、計画経済的な政策によって財政危機に陥ったら、サッチャー政権やレーガン政権のように自由主義経済の考え方が主流となりました。考え方によっては、現在はこの二つの考え方の両方が必要な時代といえるかもしれません。
そして、最後にこの被害について述べるなら、世界的な競争がエスカレートしたという社会の流れ、そして何よりも恐ろしい技術がこの暴走に寄与してきたのではないでしょうか。そこには、特定の考え方は関係なかったのではないかと思います。
理論上ではどちらの傾向が強い民主主義社会でもこのような現象が生じる可能性を理論的に排除できません。ですから、考え方は関係ないという結論に達ました。
この問題と、その恐ろしいまでのマインドコントロールに打ち勝つには、民主主義を信じる強い精神が必要です。それをこのような方法によってコントロールすることは民主主義の理念に大きく反するものです。それによって、個人の人格や精神が破壊されてしまったり、人生が損なわれてしまってはなりません。この技術によってもたらされる被害は、個人と社会の自由を求める強い意志によって打破されなければなりません。
また、安易に社会や個人がこのような加害行為に迎合することも、再びこの被害を暴走させてしまうことになります。社会全体がこの問題に危機意識を持ち、再発と被害の深刻化を防ぐという意識を常に持つ必要があると思います。
この被害は、被害者の「自由」を大きく侵害するものであり、これを私は民主主義の衰退と表現しました。上記で考えた「自由」という権利を獲得して進化させるのに、人類がどれだけ苦労したかを改めて考えなければなりません。
再度申し上げますが、このように恐ろしい技術と加害行為を加速させる社会の流れが悪い。そこに考え方は関係ない。これを強調してブログを再開させていただきたいと思います。
【記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
民主主義社会でこのような被害が起きた。それを民主主義社会はどのように乗り越えなければならないかということを考える必要があります。それには、民主主義が内包する「自由」という考え方を確かめておく必要があります。ここでは、自由主義について考えてみたいと思います。
自由という概念が政治においてはじめて考えられたのが、17世紀、イギリスのジョン・ロックの思想といわれています。自由主義とは、当時の専制国家の権力を抑制して個人の権利を認めようという動きから始まった思想であり、例えば現在の日本であれば基本的人権の尊重などがこれにあたります。ジョン・ロックの思想は後の市民革命につながったといわれています。
その後、経済活動についても自由主義が持ち込まれました。18世紀のアダム・スミスです。これは産業革命のときの自由主義経済を支える考えを示したもので、現在に至るまで自由主義経済の考え方の基本となっています。
また、一方で国が経済にあまり介入しない自由主義経済に対して、大きく介入して経済を立て直すような場合を計画経済などと呼んでいます。歴史はこの繰り返しで、自由主義で経済がうまくいかないときは国家の経済介入のニーズが発生しますし、国家の計画性が失敗したときには経済の自由主義にニーズが発生します。
1929年の世界恐慌の後には、計画経済的な考え方(ケインズ主義)が主流になりました。また、計画経済的な政策によって財政危機に陥ったら、サッチャー政権やレーガン政権のように自由主義経済の考え方が主流となりました。考え方によっては、現在はこの二つの考え方の両方が必要な時代といえるかもしれません。
そして、最後にこの被害について述べるなら、世界的な競争がエスカレートしたという社会の流れ、そして何よりも恐ろしい技術がこの暴走に寄与してきたのではないでしょうか。そこには、特定の考え方は関係なかったのではないかと思います。
理論上ではどちらの傾向が強い民主主義社会でもこのような現象が生じる可能性を理論的に排除できません。ですから、考え方は関係ないという結論に達ました。
この問題と、その恐ろしいまでのマインドコントロールに打ち勝つには、民主主義を信じる強い精神が必要です。それをこのような方法によってコントロールすることは民主主義の理念に大きく反するものです。それによって、個人の人格や精神が破壊されてしまったり、人生が損なわれてしまってはなりません。この技術によってもたらされる被害は、個人と社会の自由を求める強い意志によって打破されなければなりません。
また、安易に社会や個人がこのような加害行為に迎合することも、再びこの被害を暴走させてしまうことになります。社会全体がこの問題に危機意識を持ち、再発と被害の深刻化を防ぐという意識を常に持つ必要があると思います。
この被害は、被害者の「自由」を大きく侵害するものであり、これを私は民主主義の衰退と表現しました。上記で考えた「自由」という権利を獲得して進化させるのに、人類がどれだけ苦労したかを改めて考えなければなりません。
再度申し上げますが、このように恐ろしい技術と加害行為を加速させる社会の流れが悪い。そこに考え方は関係ない。これを強調してブログを再開させていただきたいと思います。
【記事の参考図書を追記 2010年10月7日(木)】
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