被害者の会での吐露による被害感の軽減について
-最終更新日:2010年9月18日(土)-
被害者の心理的負担の軽減や生活再建には自助という方法がいいのではと述べましたが、ここではこのことについて述べてみたいと思います。
被害者の方は必ずこのような経験をされたのではないかと思います。それは他人への説得の難しさです。
これは、親しい間柄の人であっても、被害者が主観的にしか分からない説明しにくい被害であるため、信じてもらえないというものです。自分の経験だと、家族ですら分かってもらうのに1回1時間以上の会話を10回以上根気良くしなければなりませんでした。
このように、被害者が主観的に辛いと思っているのだけど、ほかの人に理解されにくい問題のケースは、被害者同士がその辛さを話し合うのが一番治療効果あります。例を挙げるなら、アルコール依存症者の会や難病患者の会、うつ病患者の会、などの自助グループです。
NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークさんは、札幌・東京・名古屋・大阪ですでに被害者の会を開いておられます。私がこのようなことを申し上げるのは差し出がましいことですが、このような問題の心理的な解消のためには以下の方法が効果あります。
被害内容が似た被害者の方数名でグループを作ります。順番に、10分の時間で好きなようにこの被害に関する心境を吐露します。その際、グループのほかの方は一切口出しをしてはいけません。話し終わったら次の人が話します。こうやってすべての方が好きなように話して、他の人は黙って聞くだけです。これは、声の大きい人と小さい人の格差を発生させないためです。また、話したくないときはパスもできます。この方法は、「言いっぱなし、聞きっぱなし」と呼ばれています。
これは、被害者同士の共感と吐露が公平に行われ、連帯感も生むといわれます。例えば、他の自助グループでは、このような「言いっぱなし、聞きっぱなし」の後に、休憩時間などに被害の乗り越え方などの生の情報を共有したりして、インフォーマルな交友関係を他の被害者と結ぶこともできます。また、このような自助グループは参加者が主体的に参加するものであり、このことも被害者がいきいきと社会で暮らすのに失った人間性を回復するといわれています。
被害者によっては、被害が極めて厳しい時期は、外出すること自体が困難になります。そういった状況ですら、このような被害者同士のつながりをあえて強く持つことは、被害者自身の心の安定と不測の事態に備えることにつながります。この被害はともすれば加害者によって分断されてしまい、被害者同士がつながることは難しいのは多くの方が経験されてきたことではないでしょうか。それを克服するような強いネットワークが形成されると、この問題に対して被害者は大きな力を得ることにつながります。
最後に、このような様々な問題のNPO法人などは、行政が対応できない領域を市民の力でカバーする営みです。NPO法ができてから急速に日本に広まって今ではかなりの数になっています。その反面、運営は経営的な面をはじめとして難しいといわれています。今後のニーズの高まりは必至といわれ、NPO法人がより運営しやすい制度づくりも必要になってくるのではないかと思います。
追記掲載 9月18日(土)
上の書籍は、日本のセルフヘルプグループ研究者の第一人者の岡知史氏による、セルフヘルプグループ(自助グループ)の分かりやすい入門書です。岡氏は、アメリカで難病の子どもの親の会に関する博士論文(下の書籍)を出版するなど、セルフヘルプグループに関する本格的な研究をされています。そちらは難しいですが、上記に紹介させていただいた本はどなたにでも分かりやすい内容と思いますので、被害者の方も、被害を受けたことがない方も、よろしければご覧になってください。
この二つの書籍をとりあげるか迷いましたが、この際書きます。大学在学中の指導教官である岡田敬司氏の主要著書の2冊です。
以前、「自律」という概念をこのブログで使用しました。あまり現実にはなじみのない言葉ですが、人間が人間らしく生きるには重要な意味をもちます。自律とは辞書で「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。」とあります。一方、その対義語は「他律」であり、同じく辞書によると「 自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること。」(Yahoo辞書 大辞泉)とあります。
これは、重要な教育学における命題です。子どもは自分で自分の規範を持ちませんし、後天的に社会によって望ましい人間形成が行われなければなりません。そのためには、教師の導きを受ける「他律」の状態から、自分が立てた規範によって行動する「自律」の状態へと育まれなければなりません。現実の世界はもっと複雑ですが、教育における人間形成の原理はこのようなものです。これに関する哲学的な研究を行われてきた方です。
また、岡田敬司氏は、もっと普遍的な命題である、個人とはどのように自律的な主体たりえるか、という考察を広く人間形成の視点から考察されています。教育学に限らず、社会学、精神病理学、心理学などさまざまな観点からです。自分の理解しているところでは、完全に「自律」的な主体は存在せず、国家などの上位システムと、下にある横のつながりの支えによってかろうじて「自律」が可能になっているということです。社会が個人に要求する厳しい命題を、横のつながりによって人間性を維持するといった感じでしょうか。別に難しいものではなく、企業に勤めていたら、企業の外の旧友の絆やサークルの屈託のない輪が、社会で生き生きと暮らす人間性を担保するのと同じようなものです。しかし、企業の中だけで機械のように生産主体としてだけ働いていたら、それはもう「自律」的な主体ではなく、他人に動かされるままの「他律」的な主体ということになります。豊かな人間らしい生活とはかけ離れている状態です。だからといって、生産を放棄したら生活できないのと同様、人間はこの場合企業という上位システムを受け入れざるを得ません。このような一方の役割だけを負わされる厳しい状況に置かれた個人が、家庭内暴力やアルコール依存症などの社会的病理を生み出します。これは、個人的な弱さとは別の問題です。社会の脆さではないでしょうか。
この問題における被害者も同様です。加害者の恐ろしいテクノロジーによる加害行為によって、「自分の意思で行動する」ということが強く抑圧されてしまう状況におかれているからです。安易に岡田敬司先生の理論をこの問題に当てはめようということはできません。ただし、個人がさまざまなものと共軛的に生きていくには、このような考え方が必須です。特に、寛容な昭和時代に多くあった、上位システムの非人間性を中和する、個人との中間の遊びのような制度を社会に多く復活させてほしいというのが願いみたいなものでしょうか。過酷な状況におかれた被害者が人間的に回復するためには、同じような機能をもつセルフヘルプグループという場が必要であるという考え方は、その延長線上にあります。
最後に、岡田敬司先生や岡知史先生をはじめ、このブログで公的なお名前を使用させていただいた方、申し訳ありません。自分も大学卒業後は普通にサラリーマンとかで過ごしていくのかと思ったらこの被害を受けました。迷惑な話ですが、お考えを使わせていただき、申し訳ありません。
後は、このブログがどれだけこの問題に対して、浄化作用となってくれるか。ブログにお越しいただいている読者の皆様、深くお考えになっていただければ幸いです。
被害者の心理的負担の軽減や生活再建には自助という方法がいいのではと述べましたが、ここではこのことについて述べてみたいと思います。
被害者の方は必ずこのような経験をされたのではないかと思います。それは他人への説得の難しさです。
これは、親しい間柄の人であっても、被害者が主観的にしか分からない説明しにくい被害であるため、信じてもらえないというものです。自分の経験だと、家族ですら分かってもらうのに1回1時間以上の会話を10回以上根気良くしなければなりませんでした。
このように、被害者が主観的に辛いと思っているのだけど、ほかの人に理解されにくい問題のケースは、被害者同士がその辛さを話し合うのが一番治療効果あります。例を挙げるなら、アルコール依存症者の会や難病患者の会、うつ病患者の会、などの自助グループです。
NPO法人テクノロジー犯罪被害ネットワークさんは、札幌・東京・名古屋・大阪ですでに被害者の会を開いておられます。私がこのようなことを申し上げるのは差し出がましいことですが、このような問題の心理的な解消のためには以下の方法が効果あります。
被害内容が似た被害者の方数名でグループを作ります。順番に、10分の時間で好きなようにこの被害に関する心境を吐露します。その際、グループのほかの方は一切口出しをしてはいけません。話し終わったら次の人が話します。こうやってすべての方が好きなように話して、他の人は黙って聞くだけです。これは、声の大きい人と小さい人の格差を発生させないためです。また、話したくないときはパスもできます。この方法は、「言いっぱなし、聞きっぱなし」と呼ばれています。
これは、被害者同士の共感と吐露が公平に行われ、連帯感も生むといわれます。例えば、他の自助グループでは、このような「言いっぱなし、聞きっぱなし」の後に、休憩時間などに被害の乗り越え方などの生の情報を共有したりして、インフォーマルな交友関係を他の被害者と結ぶこともできます。また、このような自助グループは参加者が主体的に参加するものであり、このことも被害者がいきいきと社会で暮らすのに失った人間性を回復するといわれています。
被害者によっては、被害が極めて厳しい時期は、外出すること自体が困難になります。そういった状況ですら、このような被害者同士のつながりをあえて強く持つことは、被害者自身の心の安定と不測の事態に備えることにつながります。この被害はともすれば加害者によって分断されてしまい、被害者同士がつながることは難しいのは多くの方が経験されてきたことではないでしょうか。それを克服するような強いネットワークが形成されると、この問題に対して被害者は大きな力を得ることにつながります。
最後に、このような様々な問題のNPO法人などは、行政が対応できない領域を市民の力でカバーする営みです。NPO法ができてから急速に日本に広まって今ではかなりの数になっています。その反面、運営は経営的な面をはじめとして難しいといわれています。今後のニーズの高まりは必至といわれ、NPO法人がより運営しやすい制度づくりも必要になってくるのではないかと思います。
追記掲載 9月18日(土)
![]() | セルフヘルプグループ―わかちあい・ひとりだち・ときはなち (1999/02) 岡 知史 商品詳細を見る |
![]() | Self-Help Groups for Parents of Children With Intractable Diseases: A Qualitative Study of Their Organisational Problems (2003/10) Tomofumi Oka 商品詳細を見る |
上の書籍は、日本のセルフヘルプグループ研究者の第一人者の岡知史氏による、セルフヘルプグループ(自助グループ)の分かりやすい入門書です。岡氏は、アメリカで難病の子どもの親の会に関する博士論文(下の書籍)を出版するなど、セルフヘルプグループに関する本格的な研究をされています。そちらは難しいですが、上記に紹介させていただいた本はどなたにでも分かりやすい内容と思いますので、被害者の方も、被害を受けたことがない方も、よろしければご覧になってください。
![]() | 「自律」の復権―教育的かかわりと自律を育む共同体 (2004/08) 岡田 敬司 商品詳細を見る |
![]() | 人間形成にとって共同体とは何か―自律を育む他律の条件 (2009/02) 岡田 敬司 商品詳細を見る |
この二つの書籍をとりあげるか迷いましたが、この際書きます。大学在学中の指導教官である岡田敬司氏の主要著書の2冊です。
以前、「自律」という概念をこのブログで使用しました。あまり現実にはなじみのない言葉ですが、人間が人間らしく生きるには重要な意味をもちます。自律とは辞書で「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。」とあります。一方、その対義語は「他律」であり、同じく辞書によると「 自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること。」(Yahoo辞書 大辞泉)とあります。
これは、重要な教育学における命題です。子どもは自分で自分の規範を持ちませんし、後天的に社会によって望ましい人間形成が行われなければなりません。そのためには、教師の導きを受ける「他律」の状態から、自分が立てた規範によって行動する「自律」の状態へと育まれなければなりません。現実の世界はもっと複雑ですが、教育における人間形成の原理はこのようなものです。これに関する哲学的な研究を行われてきた方です。
また、岡田敬司氏は、もっと普遍的な命題である、個人とはどのように自律的な主体たりえるか、という考察を広く人間形成の視点から考察されています。教育学に限らず、社会学、精神病理学、心理学などさまざまな観点からです。自分の理解しているところでは、完全に「自律」的な主体は存在せず、国家などの上位システムと、下にある横のつながりの支えによってかろうじて「自律」が可能になっているということです。社会が個人に要求する厳しい命題を、横のつながりによって人間性を維持するといった感じでしょうか。別に難しいものではなく、企業に勤めていたら、企業の外の旧友の絆やサークルの屈託のない輪が、社会で生き生きと暮らす人間性を担保するのと同じようなものです。しかし、企業の中だけで機械のように生産主体としてだけ働いていたら、それはもう「自律」的な主体ではなく、他人に動かされるままの「他律」的な主体ということになります。豊かな人間らしい生活とはかけ離れている状態です。だからといって、生産を放棄したら生活できないのと同様、人間はこの場合企業という上位システムを受け入れざるを得ません。このような一方の役割だけを負わされる厳しい状況に置かれた個人が、家庭内暴力やアルコール依存症などの社会的病理を生み出します。これは、個人的な弱さとは別の問題です。社会の脆さではないでしょうか。
この問題における被害者も同様です。加害者の恐ろしいテクノロジーによる加害行為によって、「自分の意思で行動する」ということが強く抑圧されてしまう状況におかれているからです。安易に岡田敬司先生の理論をこの問題に当てはめようということはできません。ただし、個人がさまざまなものと共軛的に生きていくには、このような考え方が必須です。特に、寛容な昭和時代に多くあった、上位システムの非人間性を中和する、個人との中間の遊びのような制度を社会に多く復活させてほしいというのが願いみたいなものでしょうか。過酷な状況におかれた被害者が人間的に回復するためには、同じような機能をもつセルフヘルプグループという場が必要であるという考え方は、その延長線上にあります。
最後に、岡田敬司先生や岡知史先生をはじめ、このブログで公的なお名前を使用させていただいた方、申し訳ありません。自分も大学卒業後は普通にサラリーマンとかで過ごしていくのかと思ったらこの被害を受けました。迷惑な話ですが、お考えを使わせていただき、申し訳ありません。
後は、このブログがどれだけこの問題に対して、浄化作用となってくれるか。ブログにお越しいただいている読者の皆様、深くお考えになっていただければ幸いです。
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