民主主義の高度化が先進主要国にもたらすもの
~民主主義の黄金時代をもう一度取り戻すためには~
-最終更新日:2010年10月11日(木)-
民主党が4月ごろに私の立候補を匂わせて以降、この問題の恐らくもっともきつい被害に巻き込まれてきました。さらにその上にブログ作業を強要されて、限界に達してきました。この3カ月で5回しか外出していません。もともとこの被害者でしたが、立候補の話がなければこんなにひどい被害はなかったでしょう。
ただし、読んでいただいた方にはお伝えします。すでに日本社会で政治レベルで公表寸前までいっています。被害者の皆様にはご希望の念を抱いていただけますと幸いです。(2010年10月23日土曜日)
(10月24日に下に追記をしました。ぜひご覧になってください。)
これまで、さまざまな視点から考察してきました。そこで得られた私の結論は、「民主主義を高度化することによって、社会の理不尽を解消し、より円滑に社会が推進される民主主義先進国」を目指す。それによって、社会の無駄な対立によるコストを低減させ、その余剰分で国が栄えることができるというものです。
もう少し簡単にご説明します。以前、民族紛争から考察したことがありました。この問題も、一種の民族間の対立です。では、その民族紛争が起きている国家はどうでしょうか。対立が対立を生み、暴力の連鎖によって国が破壊されます。場合によっては民主主義制度すら失われます。それによって受ける損失は、極めて高コストで取り返しがつきません。それどころか、民族同士の対立感情が長年固着し、解消できなくなります。
こうなってしまってはその国は終わりです。負のコストが積み重なっていくのを防ぐことはできません。従って、レベルの高い民主主義国家は、強い意志によってその対立を克服します。このブログでは、このような状態を乗り越えるメタメッセージをさまざまな場所に配置してきました。鋭い方はお分かりかと思いますが、さまざまな立場や考え方を、その形が失われることなく、対立しないようにブログの各所に配置してきました。考え方が違うものは、同一化できません。しかし、対立を防ぐようにうまく配置させてやれば、逆に社会を円滑に進めることができます。これは、以前申し上げた「対話」による関係によって慎重に維持されるものであり、これこそ真の共生社会です。この極めて危うい緊張によって維持される平和が、真の民主主義の平和です。腐敗しないためには不断の努力でしか維持できません。
なぜ、民主主義が衰退したか。これをもう一度ご説明します。端的にいうと、国際的なグローバル化の推進のためには、必ずしも民主主義である必要がなかったからです。北海道大学教授、山口二郎氏の対談・コラム集で、外岡秀俊氏はこのように述べています。
裏を返せば、彼が言おうとしているのは、いまのグローバル化した社会が必ずしも民主主義とセットにはならない、ということです。あるいはアメリカや日本であっても、必ずしも経済的豊かさ、国際経済化が、民主主義と結びつかない、そういうパラダイムの時代に私たちはいるんだ、というふうに言い換えてもいいと思うんですね。つまり、極端なことを言うと、独裁制あるいは専制社会とグローバル経済が一体化する国が出現してもおかしくない、という大変怖い指摘でもあると思うんです。(注1)p83~121抜粋
この指摘は、外岡さんが対話したスラヴォイ・ジジェク氏が述べたことです。冷戦後のパラダイムは、「民主主義の勝利」でした。それは政治的自由をうたう民主主義国家において、経済的自由に基づいた市場原理主義経済の勝利でもありました。しかし民主主義国家は、一転、資本主義が過熱してエスカレートした際、国際競争に勝ち抜くために今度は民主主義を度外視した社会体制をとるようになりました。その闇の一部がこのブログで提起している問題というわけです。一つの極端な考えが、そうでない考えを押しやる。あるいは、社会への見せしめとしてこのような力を使ってきた。最後にはそれが暴走して歯止めがきかなくなった。不要な対立を生み、利益が利益を生む過程で、さらなる生贄を求める。こうなると、「新自由主義」がその本来の理念としたものを超えて暴走したといわざるを得ないでしょう。この数年は世界的に民主主義国家にとって暗黒の時代だったのではないでしょうか。その清算がいま求められていると思うのです。
このように一つの国家が二つの考えに分断されてしまうという現象。これは多くの先進主義国家で生じていることです。ベルリンの壁以前に東ドイツでシュタージという秘密警察問題が発生していたことを述べましたが、一転して昨年2009年9月のドイツ総選挙では、その社会主義体制を支えた党が躍進しました。これは「オスタルギー(東への郷愁)」という社会現象として世界で報道されました。また、日本を含め多くの国が政権交代や第三政党の躍進を経験しています。
ここで訂正しなければならないのは、そこからすでに世界はもう一歩動いているということです。どの国家も、現在の厳しい財政状況の中で、リベラル的な考えばかりしていられない。そのなかで保守勢力が巻き返しています。今度のアメリカの中間選挙もどうなるか分からない状態です。あまりに世界の揺れ動きが多く、不安定な状況が続いています。そのなかで、多くの先進主要国で相対する勢力の分断・対立が先鋭化しています。アメリカの「ティー・パーティ」という言葉を多くの人がニュースで聞いたはずです。
さらに、どの国も財政再建が難しい状況です。これはこの前のカナダG7で財政再建が主要な話題となったことから明らかです。日本が最も深刻です。このような状態の時に、国内で争っている余裕がありますか? 答えはどのような国もNOでしょう。どの国も悩みの種の国内の亀裂を解消したい。しかし、なかなかうまくいかない。これがうまくいけば、対立による国内のロスが解消されます。そして、関係を適正化することによって国内浮揚を行いたいはずです。
また、次の命題も、先進主要国が民主主義を健全化しなければならないという事態を突き付けています。今年のノーベル平和賞を受賞した劉暁波さんの受賞理由とされているものです。いま、世界は新たなパラダイムに突入しています。それは「民主主義とそうでないものの戦い」です。これは、当初の方に書いた、「グローバリズムによって国家が世界で金儲けをするには主義主張は何でもかまわなくなってしまった」という事態に由来しています。つまり、これから新興国が民主主義を度外視させてまで経済発展を国際的に求めていく可能性があるわけです。それを、民主主義先進国がどこまで人道主義によって防ぐことができるか。しばらくはこの緊張状態が続くでしょう。今回は中国の政治的圧力にスウェーデンが真っ向から立ち向かったということになります。昨年のオバマ大統領の受賞も、コーポラティズム的ヨーロッパ社会のアメリカへの社会適正化の突きつけでした。今、未曽有の「民主主義の衰退」という事態を先進主要国は乗り越えなければならないのです。
となると、日本の状況も待ったなしです。まずは国内で生じている対立をうまく「対話」によって乗り越えなければなりません。結果、対立によるコストの低減を行うことができれば、その余剰分で財政再建を果たす目途もたちます。場合によっては、高度化された民主主義の制度設計を後進国に輸出できるかもしれません。
ブログでとりあげるには長い理論の展開でしたが、「民主主義の高度化によって財政再建を果たすという理論」とはこのようなものです。まだ抽象的なものでしかありませんが、この意識を心がければ、日本の未来は明るいだろうというのが自分の持論です。
(注1)「民主政治の始まり 政権交代を起点に世界を視る」山口二郎編著 2010 七つ森書館
【2010年10月24日(日)追記】
・メディアの権能の復活について
この記事では、先進国がいかに民主主義を復活させ高度化させるかについての序論を展開してきました。ここでは、後に取りあげることになるテーマについて少し追記します。
近年では、インターネットの発達とともに既存メディアの権威性や力が低下しています。それとともに、メディアが民主主義を担保する機能が低下しているとよく言われる時代になりました。
昭和の時代は、メディアに民主主義のチェック機能がありました。庶民が今のインターネット時代ほど発言できる公的な領域がなかったために、一流のメディア人がプライドをかけて民主主義を守っていました。それがそのまま民主主義の黄金時代を作り上げていました。
インターネットが発達して情報革命が起きた今、筑紫哲也さんのいう「第四の権力」と呼ばれた旧来の権力構造には戻らないでしょう。しかし、それでもメディアは日本で最も一流の人が集まる就職先の一つです。特にテレビキャスターは報道の内容によっては慎重さが強く求められるプレッシャーの高い仕事です。
また、人並み外れた正義感も求められます。ミャンマーの暴動を写真に収めながら凶弾に倒れた故長井健司さんが正義の塊のような存在であるように、メディアに属する人にはそのような正義感が求められます。筆者の知人のフジテレビに勤めたADは、30歳になる前に辞めて弁護士になる道を歩み始めました。このように、正義と現実のダブルバインドに葛藤するキャスターの方は多いのではないかと推察します。
ここ10年ほどは既存のメディアの逆境と呼べる時代でした。お金をもらってプロの仕事をしているメディアに、もっと権威性が復活してよいのではないかと思います。情報が氾濫する社会の中で、人は情報のよりどころとするものを失っています。それはすなわち規範の画一性の衰退であり、今の世の中の人が心の底から求めているものだと思います。
今は正義感を体現しながら報道される方も多くなってきました。芸能人の方々も含めてメディアに倫理性が戻りつあると感じる昨今です。筆者は最近テレビを見ることが多いですが、暖かい報道が多くなったなと痛感しています。メディアの方々には大変なお仕事ですが、民主主義を守る存在です。頑張って頂けますと幸いです。私もこのブログを通じて頑張っていきたいと思っています。
・アメリカの自由のルーツとは -マイケル・サンデル氏の著書より-
このブログで申し上げている民主主義には多様な形があります。アメリカでは自己決定を個人にゆだねる自由主義が称揚されがちなのはみなさんご存知だと思います。ところが、共同体的自己決定が行われる共和主義こそが、アメリカ的なリバタリアニズムのルーツであるとハーバード大学のマイケル・サンデル教授は指摘しています。空虚な自己の決定はともすればヴィトゲンシュタイン的な独我論に陥ってしまうように、共同体という他者が決定した方が倫理にかなうことの方が多いことを昭和の民主主義黄金時代は物語っています。
マイケル・サンデル氏の主張著書で、講義がNHK教育テレビでも放送された「これから『正義』の話をしよう」は個人的に生の講義を一度は受けてみたいと願っています。ハーバード大学の大講義室を見たときは驚きました。一度あのような講義室で講義を受けてみたいというのが勉強好きな人の夢だと思います。まだ読みかけですが、相対的に物事を考える哲学的な視点を素養するには最良の書物です。ぜひご覧になって頂ければ幸いです。
-最終更新日:2010年10月11日(木)-
民主党が4月ごろに私の立候補を匂わせて以降、この問題の恐らくもっともきつい被害に巻き込まれてきました。さらにその上にブログ作業を強要されて、限界に達してきました。この3カ月で5回しか外出していません。もともとこの被害者でしたが、立候補の話がなければこんなにひどい被害はなかったでしょう。
ただし、読んでいただいた方にはお伝えします。すでに日本社会で政治レベルで公表寸前までいっています。被害者の皆様にはご希望の念を抱いていただけますと幸いです。(2010年10月23日土曜日)
(10月24日に下に追記をしました。ぜひご覧になってください。)
これまで、さまざまな視点から考察してきました。そこで得られた私の結論は、「民主主義を高度化することによって、社会の理不尽を解消し、より円滑に社会が推進される民主主義先進国」を目指す。それによって、社会の無駄な対立によるコストを低減させ、その余剰分で国が栄えることができるというものです。
もう少し簡単にご説明します。以前、民族紛争から考察したことがありました。この問題も、一種の民族間の対立です。では、その民族紛争が起きている国家はどうでしょうか。対立が対立を生み、暴力の連鎖によって国が破壊されます。場合によっては民主主義制度すら失われます。それによって受ける損失は、極めて高コストで取り返しがつきません。それどころか、民族同士の対立感情が長年固着し、解消できなくなります。
こうなってしまってはその国は終わりです。負のコストが積み重なっていくのを防ぐことはできません。従って、レベルの高い民主主義国家は、強い意志によってその対立を克服します。このブログでは、このような状態を乗り越えるメタメッセージをさまざまな場所に配置してきました。鋭い方はお分かりかと思いますが、さまざまな立場や考え方を、その形が失われることなく、対立しないようにブログの各所に配置してきました。考え方が違うものは、同一化できません。しかし、対立を防ぐようにうまく配置させてやれば、逆に社会を円滑に進めることができます。これは、以前申し上げた「対話」による関係によって慎重に維持されるものであり、これこそ真の共生社会です。この極めて危うい緊張によって維持される平和が、真の民主主義の平和です。腐敗しないためには不断の努力でしか維持できません。
なぜ、民主主義が衰退したか。これをもう一度ご説明します。端的にいうと、国際的なグローバル化の推進のためには、必ずしも民主主義である必要がなかったからです。北海道大学教授、山口二郎氏の対談・コラム集で、外岡秀俊氏はこのように述べています。
裏を返せば、彼が言おうとしているのは、いまのグローバル化した社会が必ずしも民主主義とセットにはならない、ということです。あるいはアメリカや日本であっても、必ずしも経済的豊かさ、国際経済化が、民主主義と結びつかない、そういうパラダイムの時代に私たちはいるんだ、というふうに言い換えてもいいと思うんですね。つまり、極端なことを言うと、独裁制あるいは専制社会とグローバル経済が一体化する国が出現してもおかしくない、という大変怖い指摘でもあると思うんです。(注1)p83~121抜粋
この指摘は、外岡さんが対話したスラヴォイ・ジジェク氏が述べたことです。冷戦後のパラダイムは、「民主主義の勝利」でした。それは政治的自由をうたう民主主義国家において、経済的自由に基づいた市場原理主義経済の勝利でもありました。しかし民主主義国家は、一転、資本主義が過熱してエスカレートした際、国際競争に勝ち抜くために今度は民主主義を度外視した社会体制をとるようになりました。その闇の一部がこのブログで提起している問題というわけです。一つの極端な考えが、そうでない考えを押しやる。あるいは、社会への見せしめとしてこのような力を使ってきた。最後にはそれが暴走して歯止めがきかなくなった。不要な対立を生み、利益が利益を生む過程で、さらなる生贄を求める。こうなると、「新自由主義」がその本来の理念としたものを超えて暴走したといわざるを得ないでしょう。この数年は世界的に民主主義国家にとって暗黒の時代だったのではないでしょうか。その清算がいま求められていると思うのです。
このように一つの国家が二つの考えに分断されてしまうという現象。これは多くの先進主義国家で生じていることです。ベルリンの壁以前に東ドイツでシュタージという秘密警察問題が発生していたことを述べましたが、一転して昨年2009年9月のドイツ総選挙では、その社会主義体制を支えた党が躍進しました。これは「オスタルギー(東への郷愁)」という社会現象として世界で報道されました。また、日本を含め多くの国が政権交代や第三政党の躍進を経験しています。
ここで訂正しなければならないのは、そこからすでに世界はもう一歩動いているということです。どの国家も、現在の厳しい財政状況の中で、リベラル的な考えばかりしていられない。そのなかで保守勢力が巻き返しています。今度のアメリカの中間選挙もどうなるか分からない状態です。あまりに世界の揺れ動きが多く、不安定な状況が続いています。そのなかで、多くの先進主要国で相対する勢力の分断・対立が先鋭化しています。アメリカの「ティー・パーティ」という言葉を多くの人がニュースで聞いたはずです。
さらに、どの国も財政再建が難しい状況です。これはこの前のカナダG7で財政再建が主要な話題となったことから明らかです。日本が最も深刻です。このような状態の時に、国内で争っている余裕がありますか? 答えはどのような国もNOでしょう。どの国も悩みの種の国内の亀裂を解消したい。しかし、なかなかうまくいかない。これがうまくいけば、対立による国内のロスが解消されます。そして、関係を適正化することによって国内浮揚を行いたいはずです。
また、次の命題も、先進主要国が民主主義を健全化しなければならないという事態を突き付けています。今年のノーベル平和賞を受賞した劉暁波さんの受賞理由とされているものです。いま、世界は新たなパラダイムに突入しています。それは「民主主義とそうでないものの戦い」です。これは、当初の方に書いた、「グローバリズムによって国家が世界で金儲けをするには主義主張は何でもかまわなくなってしまった」という事態に由来しています。つまり、これから新興国が民主主義を度外視させてまで経済発展を国際的に求めていく可能性があるわけです。それを、民主主義先進国がどこまで人道主義によって防ぐことができるか。しばらくはこの緊張状態が続くでしょう。今回は中国の政治的圧力にスウェーデンが真っ向から立ち向かったということになります。昨年のオバマ大統領の受賞も、コーポラティズム的ヨーロッパ社会のアメリカへの社会適正化の突きつけでした。今、未曽有の「民主主義の衰退」という事態を先進主要国は乗り越えなければならないのです。
となると、日本の状況も待ったなしです。まずは国内で生じている対立をうまく「対話」によって乗り越えなければなりません。結果、対立によるコストの低減を行うことができれば、その余剰分で財政再建を果たす目途もたちます。場合によっては、高度化された民主主義の制度設計を後進国に輸出できるかもしれません。
ブログでとりあげるには長い理論の展開でしたが、「民主主義の高度化によって財政再建を果たすという理論」とはこのようなものです。まだ抽象的なものでしかありませんが、この意識を心がければ、日本の未来は明るいだろうというのが自分の持論です。
(注1)「民主政治の始まり 政権交代を起点に世界を視る」山口二郎編著 2010 七つ森書館
【2010年10月24日(日)追記】
・メディアの権能の復活について
この記事では、先進国がいかに民主主義を復活させ高度化させるかについての序論を展開してきました。ここでは、後に取りあげることになるテーマについて少し追記します。
近年では、インターネットの発達とともに既存メディアの権威性や力が低下しています。それとともに、メディアが民主主義を担保する機能が低下しているとよく言われる時代になりました。
昭和の時代は、メディアに民主主義のチェック機能がありました。庶民が今のインターネット時代ほど発言できる公的な領域がなかったために、一流のメディア人がプライドをかけて民主主義を守っていました。それがそのまま民主主義の黄金時代を作り上げていました。
インターネットが発達して情報革命が起きた今、筑紫哲也さんのいう「第四の権力」と呼ばれた旧来の権力構造には戻らないでしょう。しかし、それでもメディアは日本で最も一流の人が集まる就職先の一つです。特にテレビキャスターは報道の内容によっては慎重さが強く求められるプレッシャーの高い仕事です。
また、人並み外れた正義感も求められます。ミャンマーの暴動を写真に収めながら凶弾に倒れた故長井健司さんが正義の塊のような存在であるように、メディアに属する人にはそのような正義感が求められます。筆者の知人のフジテレビに勤めたADは、30歳になる前に辞めて弁護士になる道を歩み始めました。このように、正義と現実のダブルバインドに葛藤するキャスターの方は多いのではないかと推察します。
ここ10年ほどは既存のメディアの逆境と呼べる時代でした。お金をもらってプロの仕事をしているメディアに、もっと権威性が復活してよいのではないかと思います。情報が氾濫する社会の中で、人は情報のよりどころとするものを失っています。それはすなわち規範の画一性の衰退であり、今の世の中の人が心の底から求めているものだと思います。
今は正義感を体現しながら報道される方も多くなってきました。芸能人の方々も含めてメディアに倫理性が戻りつあると感じる昨今です。筆者は最近テレビを見ることが多いですが、暖かい報道が多くなったなと痛感しています。メディアの方々には大変なお仕事ですが、民主主義を守る存在です。頑張って頂けますと幸いです。私もこのブログを通じて頑張っていきたいと思っています。
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マイケル・サンデル氏の主張著書で、講義がNHK教育テレビでも放送された「これから『正義』の話をしよう」は個人的に生の講義を一度は受けてみたいと願っています。ハーバード大学の大講義室を見たときは驚きました。一度あのような講義室で講義を受けてみたいというのが勉強好きな人の夢だと思います。まだ読みかけですが、相対的に物事を考える哲学的な視点を素養するには最良の書物です。ぜひご覧になって頂ければ幸いです。
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