いじめの政治学
~中井久夫 「アリアドネからの糸」より~
-最終更新日:2010年10月29日(金)-
昨日の読売新聞、そして本日の朝日新聞の1面コラムに痛ましい「いじめ」による自殺のエピソードが書かれました。これを書くこと自体遅きに失したと言われるでしょうが、筆者も中高時代にかなり陰湿ないじめを経験しています。自分なりに、どうすればいじめを脱却できるかということまで本気で書きたいと思います。最後までお付き合いいただけますと幸いです。
まず、自分の「いじめ」の経験から述べてみたいと思います。
私のケースは、10人ほどのグループ内で、次々にいじめの標的を変えるといった様相を示していました。グループ内の構成と権力関係は以下のようなものです。
①1人の「主犯格」
②数名の主犯格と同格の「同調者」
③数名の「いじめ標的」
④1名の「最もひどいいじめ被害者」
この上にどのようないじめが行われたかというと、①の「主犯格」がいじめの効果的な手法を思いつく天才です。そして②の数名の「同調者」が①を追随して優位的な構造を確たるものにします。そして、交互に「いじめ」の標的になってしまうグループ構成員が③です。そして④、最もひどいいじめを受けた被害者です。
筆者は③「いじめ標的」の中にいました。ここに属する生徒は、自分がいじめられたくないために、葛藤しながら「主犯格」と「同調者」に隷属することを強いられる構成員です。ちなみに、自分の「格」はグループの中で下から2番目でした。つまり、ほとんど自分もいじめられる対象だったということです。
本人のプライバシーもありますが、実名を公表しないこと、年月が経っているということで申し上げさせてもらうと、④の「最もひどいいじめ被害者」は当時の生徒会長でした。また①、②のグループの多くが生徒会に属していました。学業成績が優秀な生徒会のメンバーが多くいる学生グループで、主に生徒会長を標的にしたいじめが行われていたという訳です。①のいじめ主犯格は体格がもっとも小柄ながら頭の回転が異常に早く、他人が面白いと感じるいじめ方法をいくらでも思いつく人間でした。それによる自分がいじめられたくないという恐怖感でグループを支配していました。このような人間が、後に有名国立大学に合格している点からも、何かが間違っているとしか言いようがありません。
結論から申し上げさせていただくと、自分のいた学校は中高一貫校であり、中学時代の終わりごろに2年近く続いたいじめが終了しました。教師による大々的な介入が行われたのです。チクッたのは自分でした。かなり強烈な学生指導が行われました。そして、高校になった時に、すべての①、②のグループの学生が別々のクラスに振り分けられました。これが功を奏して、主犯格同志が結びつくことなく、彼らはそれぞれ見合ったグループに所属していくようになります。一方の主犯格①は、このいじめのうわさが広まり、あまりよい高校時代とは呼べない学生生活となったようです。彼は、このような指導を受けてもいじめの快感が忘れられず、別のいじめ標的をつくりだして他人を面白がらせるような「いじめのプロデューサー」の役割を演じ続けました。それが、彼をより孤独な状況に追い込むことになりました。周囲はドン引きだったわけです。
自分も、かなり幸運だったのが、これらのグループと縁を完全に断ち切って、別のグループでいい人間関係を作り直すことができたことです。ある私塾で勉強していたからですが、こちらの方ではるかにまともな人間関係が構築できました。また、自分がいじめを受けた悔しさを勉強に昇華させる機会を与えてくれ、結果として自分は京都大学に現役で受かることができました。この塾には感謝の言葉もありません。
一方、私をいじめていた②の「同調者」のなかで有力だった生徒が、自分を高校生活の間ずっと助けれくれました。しかし、自分は受験を機に彼を遠ざけ、大学生活の時に彼に「あの時のことは絶対許さないから」と電話で言ってしまいました。これが原因で彼とは断絶してしまいました。彼は本当に当時のことを私に対してすまないと思って助けてくれていたようで、これだけは今でも後悔しています。
また、最もひどい被害を受けた元生徒会長には、テニスに招待したり、「あのときは(自分もいじめる側に回って)すまなかった。」などと謝りました。しかし、心の傷が相当深かったのでしょう。他の生徒からもあまり受け入れられることも声をかけられることもなく、総じて孤独な高校時代でした。元気でやっているでしょうか。
さて、本題の書評に入ります。この中井久夫氏の「アリアドネからの糸」に収録されている「いじめの政治学」もかなりいじめ現象に深く斬りこんだ名著です。あまりに生々しい「いじめ行為」の分析がされています。
氏は、いじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」と三段階に分けて説明しています。
簡略に説明すると、まず、ターゲットは、グループ内で最も権威がある人間に巧妙かつ意図的に、お互い示し合わせて「孤立化」させられます。そして抵抗することができないように暴力を含めたあらゆる方法で「無力化」されます。これは初期に激化します。当初逆らえないようにしておけば、後は脅しだけで済むようになるわけです。そして「透明化」です。一度無力化されて逆らえないようになったら、それが当たり前の状態になります。この段階では、いじめがエスカレートしない日が「幸運な日だった」と感じてしまう息を殺した状態になってしまいます。
この「いじめの政治学」では、古今東西のあらゆる歴史における専制者の支配の事例などから考察が行われているところが凄いところです。
そもそも自由意志によって自発的に自由を完全に放棄することなどありえない。エーリッヒ・フロムのいう「自由からの逃走」の誘惑は隷属へのほんの入り口まで魅力的であるにすぎない。そこを過ぎれば「しまった、こんなはずではなかった」と後悔するがたいていは晩い。一部は加害者の手下になるが「こんなはずではなかった」と言いつづけるはずだ。(同著 p.14)
「いじめ」に安易に迎合してしまうことによって「主犯格」に自由をからめ取られてしまうパラドクスをこの文章は端的に表現しています。ヒトラーをドイツ社会が受け入れたとき、当初は甘美な言葉で魅力的だったでしょうが、その安易な迎合がホロコーストを生んだという訳です。
氏はまたこのように述べています。
外でのいじめられっこは時には内では暴君になる。しかし、最後の誇りとして家族の前では「いい子」でありつづけようとする場合も多い。最後の誇りが失われそうになった時に行われるのが自殺である。自殺による解放幻想はすでに「無力化」の段階からはぐくまれているが、自殺幻想は自殺を一時延期する効果もある。自分が自殺することによって加害者を告発するという幻想である。家族が初めてわかってくれ、級友や教師が「しまった」と思い「申しわけない」と言ってくれるという幻想もある。実際、自殺幻想が、極度に狭まった世界の唯一の「外」への通路ということがある。(同著 p.19)
これはいじめられっこの絶望的な心境をずばり言い当てています。告発する手段が未熟な子どもにとって、周囲が自殺をしたら気づいてくれるといった心境です。自分もいじめられていた当時、このような自殺念慮がありました。また、一番のスケープゴートであった生徒会長は、遠回しに舌を噛み切って血を流したという絶望のメッセージを私に伝えました。これと同じような心境の生徒が一体この国に何人いて、何人気づいてもらってないのでしょうか。本当に自殺をしてしまっては遅いのだという悲劇が、また新聞の一面を飾ることになりました。
最後に、自分の経験から、いじめられっこはどうすればいいかを真剣に書いてみたいと思います。いじめを受けている学生の方々も、自殺をするくらいならせめてこれだけのことをしてください。
①周囲にわめき散らす
筆者も経験していますが、長い間周囲は気づいてくれません。卒業とともに終わるとわかっていても、1年や2年という期間が永遠のように感じられます。ひとことで言えば、「いじめられっこ」は悪くないということです。グループの中ではいろいろな理由をつけて悪者にされて周囲に言えない環境を作り上げられます。ここはひとつ勇気をもって誰かに相談してください。自分の経験上、わかってくれる人は10人に1人もいません。誰彼かまわず相談してください。泣き寝入りするだけ損です。
②ネットの掲示板やブログで告発
今のいじめは筆者の学生時代よりさらに陰湿化しています。学校裏サイトなどが典型的なものです。インターネットを利用して一人の学生だけアクセスできないようにします。そして、そこでは次の日にどのようないじめをするかいじめっ子が裏取引しているようなケースもあります。残念ながら、世の中は自発的に気付いてくれるようにはなかなかできていません。筆者の時代にはなかった方法ですが、同じインターネットで訴えるという方法も効果的です。それで学校で問題になればしめたものです。自分も一回、インターネットの掲示板である学生さんがいじめを訴えており、それを他の人が相談に乗っているシチュエーションに出会いました。これからの時代はこのような手段も必要ではないかと思います。
③学校はやめてもいい。命にかえられない
上にもありますように、いじめられっこの皆さんは、いじめられているうえにさらに「よい子」を演じようとします。自分のケースもそうでした。自分も「親から見捨てられる」と感じて親に相談できない状態が2年続きました。自殺してしまうくらいなら、学校に行かなくていいのです。命にはかえられません。このようなときでも学校が悪いということになりますから安心してください。筆者の場合は教師が適切に対処してくれましたが、そうではないケースが多いと思います。それでも、高校を中退して大検で京都大学に合格した人も知っています。学校に行かなければならないという思いつめをやめてみてください。
④いじめられている人間関係を依存を含めて断ち切る
「いじめ」は、いったん受け入れるとその状態が続いてしまいます。人間関係など一旦固定していしまってはパターン化するだけだからです。たとえいじめがひどい状態でなくても、そのような人間関係は断ち切ってください。そして、できるだけいい人間関係を作り直してください。別のグループに移ったりすることもいいことでしょう。余裕ができてきたら、自由に友達をえらんで学生生活を楽しんでください。
これだけ書いても、失われた命は戻ってくるわけではありません。個人的に「いじめ撲滅」などということは歴史的にありえないわけで、いじめが発生した時にどれだけ早く介入して深刻化の芽を摘み取るかが先生方の役割だと思っています。自分の場合は本当に母校に感謝しています。できるだけ多くのいじめを受けている学生が同様に対処されるようお願い申し上げます。また一人の子が成長するには1000人の力が必要だと言われています。1000人にちなんで、ショルティのマーラー交響曲第8番「1000人の交響曲」を掲載して末尾とさせていただきたいと思います。
-最終更新日:2010年10月29日(金)-
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昨日の読売新聞、そして本日の朝日新聞の1面コラムに痛ましい「いじめ」による自殺のエピソードが書かれました。これを書くこと自体遅きに失したと言われるでしょうが、筆者も中高時代にかなり陰湿ないじめを経験しています。自分なりに、どうすればいじめを脱却できるかということまで本気で書きたいと思います。最後までお付き合いいただけますと幸いです。
まず、自分の「いじめ」の経験から述べてみたいと思います。
私のケースは、10人ほどのグループ内で、次々にいじめの標的を変えるといった様相を示していました。グループ内の構成と権力関係は以下のようなものです。
①1人の「主犯格」
②数名の主犯格と同格の「同調者」
③数名の「いじめ標的」
④1名の「最もひどいいじめ被害者」
この上にどのようないじめが行われたかというと、①の「主犯格」がいじめの効果的な手法を思いつく天才です。そして②の数名の「同調者」が①を追随して優位的な構造を確たるものにします。そして、交互に「いじめ」の標的になってしまうグループ構成員が③です。そして④、最もひどいいじめを受けた被害者です。
筆者は③「いじめ標的」の中にいました。ここに属する生徒は、自分がいじめられたくないために、葛藤しながら「主犯格」と「同調者」に隷属することを強いられる構成員です。ちなみに、自分の「格」はグループの中で下から2番目でした。つまり、ほとんど自分もいじめられる対象だったということです。
本人のプライバシーもありますが、実名を公表しないこと、年月が経っているということで申し上げさせてもらうと、④の「最もひどいいじめ被害者」は当時の生徒会長でした。また①、②のグループの多くが生徒会に属していました。学業成績が優秀な生徒会のメンバーが多くいる学生グループで、主に生徒会長を標的にしたいじめが行われていたという訳です。①のいじめ主犯格は体格がもっとも小柄ながら頭の回転が異常に早く、他人が面白いと感じるいじめ方法をいくらでも思いつく人間でした。それによる自分がいじめられたくないという恐怖感でグループを支配していました。このような人間が、後に有名国立大学に合格している点からも、何かが間違っているとしか言いようがありません。
結論から申し上げさせていただくと、自分のいた学校は中高一貫校であり、中学時代の終わりごろに2年近く続いたいじめが終了しました。教師による大々的な介入が行われたのです。チクッたのは自分でした。かなり強烈な学生指導が行われました。そして、高校になった時に、すべての①、②のグループの学生が別々のクラスに振り分けられました。これが功を奏して、主犯格同志が結びつくことなく、彼らはそれぞれ見合ったグループに所属していくようになります。一方の主犯格①は、このいじめのうわさが広まり、あまりよい高校時代とは呼べない学生生活となったようです。彼は、このような指導を受けてもいじめの快感が忘れられず、別のいじめ標的をつくりだして他人を面白がらせるような「いじめのプロデューサー」の役割を演じ続けました。それが、彼をより孤独な状況に追い込むことになりました。周囲はドン引きだったわけです。
自分も、かなり幸運だったのが、これらのグループと縁を完全に断ち切って、別のグループでいい人間関係を作り直すことができたことです。ある私塾で勉強していたからですが、こちらの方ではるかにまともな人間関係が構築できました。また、自分がいじめを受けた悔しさを勉強に昇華させる機会を与えてくれ、結果として自分は京都大学に現役で受かることができました。この塾には感謝の言葉もありません。
一方、私をいじめていた②の「同調者」のなかで有力だった生徒が、自分を高校生活の間ずっと助けれくれました。しかし、自分は受験を機に彼を遠ざけ、大学生活の時に彼に「あの時のことは絶対許さないから」と電話で言ってしまいました。これが原因で彼とは断絶してしまいました。彼は本当に当時のことを私に対してすまないと思って助けてくれていたようで、これだけは今でも後悔しています。
また、最もひどい被害を受けた元生徒会長には、テニスに招待したり、「あのときは(自分もいじめる側に回って)すまなかった。」などと謝りました。しかし、心の傷が相当深かったのでしょう。他の生徒からもあまり受け入れられることも声をかけられることもなく、総じて孤独な高校時代でした。元気でやっているでしょうか。
さて、本題の書評に入ります。この中井久夫氏の「アリアドネからの糸」に収録されている「いじめの政治学」もかなりいじめ現象に深く斬りこんだ名著です。あまりに生々しい「いじめ行為」の分析がされています。
氏は、いじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」と三段階に分けて説明しています。
簡略に説明すると、まず、ターゲットは、グループ内で最も権威がある人間に巧妙かつ意図的に、お互い示し合わせて「孤立化」させられます。そして抵抗することができないように暴力を含めたあらゆる方法で「無力化」されます。これは初期に激化します。当初逆らえないようにしておけば、後は脅しだけで済むようになるわけです。そして「透明化」です。一度無力化されて逆らえないようになったら、それが当たり前の状態になります。この段階では、いじめがエスカレートしない日が「幸運な日だった」と感じてしまう息を殺した状態になってしまいます。
この「いじめの政治学」では、古今東西のあらゆる歴史における専制者の支配の事例などから考察が行われているところが凄いところです。
そもそも自由意志によって自発的に自由を完全に放棄することなどありえない。エーリッヒ・フロムのいう「自由からの逃走」の誘惑は隷属へのほんの入り口まで魅力的であるにすぎない。そこを過ぎれば「しまった、こんなはずではなかった」と後悔するがたいていは晩い。一部は加害者の手下になるが「こんなはずではなかった」と言いつづけるはずだ。(同著 p.14)
「いじめ」に安易に迎合してしまうことによって「主犯格」に自由をからめ取られてしまうパラドクスをこの文章は端的に表現しています。ヒトラーをドイツ社会が受け入れたとき、当初は甘美な言葉で魅力的だったでしょうが、その安易な迎合がホロコーストを生んだという訳です。
氏はまたこのように述べています。
外でのいじめられっこは時には内では暴君になる。しかし、最後の誇りとして家族の前では「いい子」でありつづけようとする場合も多い。最後の誇りが失われそうになった時に行われるのが自殺である。自殺による解放幻想はすでに「無力化」の段階からはぐくまれているが、自殺幻想は自殺を一時延期する効果もある。自分が自殺することによって加害者を告発するという幻想である。家族が初めてわかってくれ、級友や教師が「しまった」と思い「申しわけない」と言ってくれるという幻想もある。実際、自殺幻想が、極度に狭まった世界の唯一の「外」への通路ということがある。(同著 p.19)
これはいじめられっこの絶望的な心境をずばり言い当てています。告発する手段が未熟な子どもにとって、周囲が自殺をしたら気づいてくれるといった心境です。自分もいじめられていた当時、このような自殺念慮がありました。また、一番のスケープゴートであった生徒会長は、遠回しに舌を噛み切って血を流したという絶望のメッセージを私に伝えました。これと同じような心境の生徒が一体この国に何人いて、何人気づいてもらってないのでしょうか。本当に自殺をしてしまっては遅いのだという悲劇が、また新聞の一面を飾ることになりました。
最後に、自分の経験から、いじめられっこはどうすればいいかを真剣に書いてみたいと思います。いじめを受けている学生の方々も、自殺をするくらいならせめてこれだけのことをしてください。
①周囲にわめき散らす
筆者も経験していますが、長い間周囲は気づいてくれません。卒業とともに終わるとわかっていても、1年や2年という期間が永遠のように感じられます。ひとことで言えば、「いじめられっこ」は悪くないということです。グループの中ではいろいろな理由をつけて悪者にされて周囲に言えない環境を作り上げられます。ここはひとつ勇気をもって誰かに相談してください。自分の経験上、わかってくれる人は10人に1人もいません。誰彼かまわず相談してください。泣き寝入りするだけ損です。
②ネットの掲示板やブログで告発
今のいじめは筆者の学生時代よりさらに陰湿化しています。学校裏サイトなどが典型的なものです。インターネットを利用して一人の学生だけアクセスできないようにします。そして、そこでは次の日にどのようないじめをするかいじめっ子が裏取引しているようなケースもあります。残念ながら、世の中は自発的に気付いてくれるようにはなかなかできていません。筆者の時代にはなかった方法ですが、同じインターネットで訴えるという方法も効果的です。それで学校で問題になればしめたものです。自分も一回、インターネットの掲示板である学生さんがいじめを訴えており、それを他の人が相談に乗っているシチュエーションに出会いました。これからの時代はこのような手段も必要ではないかと思います。
③学校はやめてもいい。命にかえられない
上にもありますように、いじめられっこの皆さんは、いじめられているうえにさらに「よい子」を演じようとします。自分のケースもそうでした。自分も「親から見捨てられる」と感じて親に相談できない状態が2年続きました。自殺してしまうくらいなら、学校に行かなくていいのです。命にはかえられません。このようなときでも学校が悪いということになりますから安心してください。筆者の場合は教師が適切に対処してくれましたが、そうではないケースが多いと思います。それでも、高校を中退して大検で京都大学に合格した人も知っています。学校に行かなければならないという思いつめをやめてみてください。
④いじめられている人間関係を依存を含めて断ち切る
「いじめ」は、いったん受け入れるとその状態が続いてしまいます。人間関係など一旦固定していしまってはパターン化するだけだからです。たとえいじめがひどい状態でなくても、そのような人間関係は断ち切ってください。そして、できるだけいい人間関係を作り直してください。別のグループに移ったりすることもいいことでしょう。余裕ができてきたら、自由に友達をえらんで学生生活を楽しんでください。
これだけ書いても、失われた命は戻ってくるわけではありません。個人的に「いじめ撲滅」などということは歴史的にありえないわけで、いじめが発生した時にどれだけ早く介入して深刻化の芽を摘み取るかが先生方の役割だと思っています。自分の場合は本当に母校に感謝しています。できるだけ多くのいじめを受けている学生が同様に対処されるようお願い申し上げます。また一人の子が成長するには1000人の力が必要だと言われています。1000人にちなんで、ショルティのマーラー交響曲第8番「1000人の交響曲」を掲載して末尾とさせていただきたいと思います。
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