12人のカウンセラーが語る12の物語
-最終更新日:2010年10月30日(土)-
今回とりあげるのは、大学時代にお世話になった方の著書です。以前の記事で、大学時代に学生生活に困難が伴う学生の自助グループ活動をしたと申し上げました。そのときに、この自助グループの立ち上げにお世話になった方の著書です。
当時、家族の闇などを抱えていた自分にとってなければならない存在でした。この方や担当教授のバックアップがなければ卒業できていなかったと思います。今でも感謝を忘れることはできません。さらに、その後の進路で「セルフヘルプグループ」を主体とした自分のスタイルもここで確立されました。これが、社会人大学院で生きていくことになり、「寄り添って」の成田光江さんに出会うことになります。
自分の話を冒頭にして申し訳ありませんが、この著書は一目見て面白そうだなと感じられるかもしれません。終章の杉原氏の解説を読めばわかるのですが、この書籍は厳密にいえば「小説」です。事例を一般に出版することが難しいカウンセラーの世界において、新しい試みだというのです。そういえば、以前に取りあげた「17歳のカルテ」はスザンナ・ケイセンの事実をもとにしたフィクションですが、1975年に公開されアカデミー賞主要部門を総なめにしたフォアマン監督の「カッコーの巣の上で」はフィクションでした。このように、心理学・精神医学の領域に属するものはさまざまな芸術媒体で表現されています。
杉原氏は、この著書がカウンセラーという仕事の認知のために欠かせないアートワークの一つであると主張しています。これは、上記のようにカウンセリングの事例がなかなか原文のまま公開できない状況におけるカウンセラーの葛藤に起因していると述べています。たとえ難しい状況にあるクライアントのきつい言葉を耐えながら聞くことはできても、社会のなかでカウンセリングが果たす役割を正しく認知されない苦痛はそれを上回るというのです。ともすれば神聖視されがちなカウンセラーが外部に表現を吐き出すことができないというのはさすがに辛いことでしょう。それを小説という「芸術」に昇華させてしまえという訳です。
これを自分は社会福祉学の領域で経験することになります。自分も、アルコール依存症のセルフヘルプグループを援助職という視点を含めて考察するとき、強い守秘義務と自己内の葛藤に苛まれます。そのはけ口を失ったとき、自分も燃え尽きと同様の体験をしたことがあります。これを学術的には「バーンアウト症候群」といいます。
具体的にいうと、広島で福祉学校教職員の仕事をしながら遠く離れた名古屋の大学院に足を運び、休日はアルコール依存症のセルフヘルプグループのミーティングに参加して話を聞く。そのような過酷な生活を、ある信念に支えられて1年間続けていました。しかし、それも長続きしません。疲弊して疲れが取れない、身動きができない毎日が自分を襲います。
これは、多くの対人援助職の方が経験することです。これだけとは限りませんが、主なものが「精神科医」「教師」「カウンセラー」「ソーシャルワーカー」などです。ある使命感に駆られながら人を助けるという仕事をするのはいいのですが、理不尽な感情のゆれ動きをともなう働き過ぎによって、うつ状態と似た独特の精神状態の落ち込みを経験するというものです。これは多くの人が数年経験することを次の著書は示しています。
話を戻して、芸術表現としてのカウンセラーの表現行為ですが、やはり現状のなかなか手助けのないカウンセラーには一つの活路といえるのではないでしょうか。筆者の知人に聞いたことがあるのですが、カウンセリングの世界には、「スーパーバイジング」という制度があります。あるカウンセラーがその上位のカウンセラーに相談する制度です。これによって、カウンセラーが抱えているクライアントの闇を少しでも解消して心の破綻を避けようというものです。しかし、それだけでは話を内部で回しているだけです。小説という表現に昇華させることは、良質の教科書を作成するということにも他なりません。この試みがカウンセラーの世界に「新しい風」となることを願っております。
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今回とりあげるのは、大学時代にお世話になった方の著書です。以前の記事で、大学時代に学生生活に困難が伴う学生の自助グループ活動をしたと申し上げました。そのときに、この自助グループの立ち上げにお世話になった方の著書です。
当時、家族の闇などを抱えていた自分にとってなければならない存在でした。この方や担当教授のバックアップがなければ卒業できていなかったと思います。今でも感謝を忘れることはできません。さらに、その後の進路で「セルフヘルプグループ」を主体とした自分のスタイルもここで確立されました。これが、社会人大学院で生きていくことになり、「寄り添って」の成田光江さんに出会うことになります。
自分の話を冒頭にして申し訳ありませんが、この著書は一目見て面白そうだなと感じられるかもしれません。終章の杉原氏の解説を読めばわかるのですが、この書籍は厳密にいえば「小説」です。事例を一般に出版することが難しいカウンセラーの世界において、新しい試みだというのです。そういえば、以前に取りあげた「17歳のカルテ」はスザンナ・ケイセンの事実をもとにしたフィクションですが、1975年に公開されアカデミー賞主要部門を総なめにしたフォアマン監督の「カッコーの巣の上で」はフィクションでした。このように、心理学・精神医学の領域に属するものはさまざまな芸術媒体で表現されています。
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杉原氏は、この著書がカウンセラーという仕事の認知のために欠かせないアートワークの一つであると主張しています。これは、上記のようにカウンセリングの事例がなかなか原文のまま公開できない状況におけるカウンセラーの葛藤に起因していると述べています。たとえ難しい状況にあるクライアントのきつい言葉を耐えながら聞くことはできても、社会のなかでカウンセリングが果たす役割を正しく認知されない苦痛はそれを上回るというのです。ともすれば神聖視されがちなカウンセラーが外部に表現を吐き出すことができないというのはさすがに辛いことでしょう。それを小説という「芸術」に昇華させてしまえという訳です。
これを自分は社会福祉学の領域で経験することになります。自分も、アルコール依存症のセルフヘルプグループを援助職という視点を含めて考察するとき、強い守秘義務と自己内の葛藤に苛まれます。そのはけ口を失ったとき、自分も燃え尽きと同様の体験をしたことがあります。これを学術的には「バーンアウト症候群」といいます。
具体的にいうと、広島で福祉学校教職員の仕事をしながら遠く離れた名古屋の大学院に足を運び、休日はアルコール依存症のセルフヘルプグループのミーティングに参加して話を聞く。そのような過酷な生活を、ある信念に支えられて1年間続けていました。しかし、それも長続きしません。疲弊して疲れが取れない、身動きができない毎日が自分を襲います。
これは、多くの対人援助職の方が経験することです。これだけとは限りませんが、主なものが「精神科医」「教師」「カウンセラー」「ソーシャルワーカー」などです。ある使命感に駆られながら人を助けるという仕事をするのはいいのですが、理不尽な感情のゆれ動きをともなう働き過ぎによって、うつ状態と似た独特の精神状態の落ち込みを経験するというものです。これは多くの人が数年経験することを次の著書は示しています。
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話を戻して、芸術表現としてのカウンセラーの表現行為ですが、やはり現状のなかなか手助けのないカウンセラーには一つの活路といえるのではないでしょうか。筆者の知人に聞いたことがあるのですが、カウンセリングの世界には、「スーパーバイジング」という制度があります。あるカウンセラーがその上位のカウンセラーに相談する制度です。これによって、カウンセラーが抱えているクライアントの闇を少しでも解消して心の破綻を避けようというものです。しかし、それだけでは話を内部で回しているだけです。小説という表現に昇華させることは、良質の教科書を作成するということにも他なりません。この試みがカウンセラーの世界に「新しい風」となることを願っております。
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